アトリエ白美「渡辺肖像画工房」 渡辺晃吉
- 平成19年2月28日(水曜日)
(27日の続き)
【晴】
便所には電燈がなく、夜中に入ると中は真っ暗になってしまい、子供にとっては拷問部屋のようなものだったから、大抵は戸を半開きにして用を足しても大目に見てくれた。
私は便所に電燈を引いてくれと何度も親に頼んだが、どういう訳か父も母も聞いてくれなかった。
後で知ったのだが、母の実家の親戚の人が、便所の電燈の消し忘れが原因でボヤを出した事があるらしく、それが頭にあるので神経質になっていたらしい。
目の前の窓越しに外の闇を見ないように注意して用を足すと、私は大急ぎで便所を飛び出してフトンにもぐり込んだ。
いつもの事ながら、夜の便所に入るのは本当に怖くて、まるでお化け屋敷に入るのと同じようだなと思っていると、寒気で冷えた体が段々と温もって来た。
隣の茶の間では、相変わらず大人達が霊魂の話に花を咲かせている。
祖母や両親などの大人達は、大体が霊魂はあるといい、二人の兄と、兄の友達で隣に住んでいる柿沼のサーちゃんの三人は、そんなのは科学的じゃないといって反対の意見のようだった。
私だけでなく同じ組の友達の多くも科学的という言葉が大好きで、何でも科学的なのが良くて、そうでないものは駄目なものなのだと信じて疑わなかった。
だからサーちゃん達が大人達に「そんなの科学的じゃねえよ。そんなのは迷信だよ」と得意そうに話すのを聞くと(ウンそうだそうだ)と心の中で賛成した。
「でもね、昔からの言い伝えや考えを、何でも迷信って決めつけてしまうのは、何だか淋しい気がするね」と母が言うと、「オバさんさあ、もう戦争中じゃなくて戦後だよ。民主主義だよ。あんまり古い事言ってると笑われちゃうよ」とサーちゃんが反論した。
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- 平成19年2月27日(火曜日)
(26日の続き)
【晴】
「またロクでもない物を買い食いしたんだろう。駄菓子屋や露店で売っている食べ物は買っちゃいけないって、いつも言ってるだろうに。本当に仕様がないね」
母は私の顔を見もせずに、いつもと同じ小言を言っただけで、私を便所に連れて行ってくれる様子は全くなかった。
嘘をついてしまった手前もあり、そのまま床に戻る訳にも行かず、私は仕方なく便所に行った。
仏壇の上には、祖父と祖母そして戦死した叔父の肖像画が飾ってある。
昼間は別に何でもないのだが、夜中にその下を通る時には、なるべく絵と目を合わせないようにした。
こっちを見下ろしている三人の絵は、まるで生きているように思えて怖かったからだ。
どういう訳か怖いと思うと余計に怖くなって来て、しまいにはワーッと叫んで駆け出したくなるのだ。
私は「見るな見るな」と自分に言い聞かせながら仏壇の前を通り過ぎようとしたのに、ついチラッと目を向けてしまい、そのとたん祖母の絵と目が合ってしまった。
しかし祖母は死んでいる訳ではなく、今も茶の間で客達と一緒にいる。
(あ〃おばあちゃんの絵でよかった)
私は内心ホッとしながら、仏間の北のガラス戸を開けた。
仏間の北は四枚のガラス戸になっており、開けるとそこはもう外で、幅2m程の東西に細長い裏庭と露地が、低い板塀で仕切られている。
ガラス戸の幅いっぱいに丈50cm位の濡れ縁が庭に張り出していて、便所はガラス戸を開けて濡れ縁の東に接して作られているから、半分は外便所のようだった。
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- 平成19年2月26日(月曜日)
【晴】
床に入ってからもなかなか風が吹き止まず、ガタガタと鳴る雨戸の音や、ゴーという鳴りに耳を取られて、眠いのに寝付かれず、何度も寝返りを打っていた。
襖を隔てた茶の間には、まだ帰らない客達がいるのか、両親や兄達と何やら楽しそうに話している。
別に聞きたいとは思わないが、いつの間にか耳がそばだち、それが原因で目が冴えてしまい、結局は襖越しの話に神経が集中してしまうのだった。
話はどうやら、この世に霊魂というものが在るのか無いのかという事らしい。
霊魂と幽霊とは違うものだと、誰かが熱心に話しているのだけれど、薄暗い寝間で聞いている私にとっては、冷静にそんな区別を理解出来る訳もなく、怖くて仕方がないところに、こういう時に限って何でそうなるのか、小便がしたくて仕方がなくなって来た。
そうかといって便所に行くには、床から這い出して寝間の続きの仏間を通らなければならない。
私は便所に行く勇気がなかなか湧かないで、次第に強くなって来る尿意に、足をモジモジと動かしながら耐えていた。
もうこれ以上我慢出来ないところまで来ると、私は仕方なく起きだして襖を開けて「腹が痛いよ」と嘘をついた。
話が怖くて便所に行けないとは、とても言えるものではなかったからだ。
母は子供達の健康の事となると異常な位に神経質になるのを知っていたから、何とか便所まで一緒について来てくれないかと計算したのだ。
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- 平成19年2月25日(日曜日)
(24日の続き)
【晴】
「ただいま」
玄関のガラス戸を開けながら言うと、「おかえり」の返事と一緒に、母が台所の方から玄関の間に入って来た。
「みんなご苦労様、大変だったろう」
「ミーはどこにもいなかったよ」
「それがねえ、みんなが探しに出て行って直ぐに、ミーが帰って来たんで、捕まえて四畳の部屋に閉じ込めてあるよ。さっきゴハンと砂箱を奥の板の間に置いてきたから、あとは寝床を作ってやれば大丈夫だと思うよ」
私は皆で苦労した事が馬鹿みたいな気持ちになって「何だよ、そんならもっと早くにミーが捕まったって教えてくれればいいのに」と思わず文句を言った。
「ごめんよ。だけどお前達どこに行ったか分かんないし、誰かを使いに出したって、入れ違う位が関の山だからね」
母は涼しい顔で言いながら、コタツの上の布巾をめくった。
そこには大福餅が山盛りの大皿があって、母が私達のために用意してくれたと、直ぐに察しがついた。
「さあみんな、おコタに入って大福餅おあがんなさい」
母が言うまでもなく、私が上にあがるのを合図に、みんなワッとばかりにコタツに群がり、先を争うように皿に手を伸ばすと、あとは黙々と大福餅を食う事に集中した。
「そんなに慌てなくても沢山あるから、もっとゆっくり食べなさいよ。誰かタクアンを持って来て、甘いものだけじゃ口が飽きるだろうから」
母は何だか嬉しそうに笑いながら言った。
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- 平成19年2月24日(土曜日)
(23日の続き)
【晴、西の風】
青年団の集会所の小屋の前まで来ると、その上の弓引場の方から、手に持ったイモを食いながら糸井のオチボーが坂を下りて来た。
「オチボー俺んちのミーを見なかったか?」
「見ねえ、ミーだけじゃなく猫には会ってねえよ。ミーがどうかしたんかい」
「今フケてるんで、今の内に捕まえて家に縛っておかねえと、また子猫産んじまうからよ。親が見付けて来いって言うんだよ」
「産まれたってミーと一緒に飼えばよかんべに。可愛くって面白えのに」
「バカ、これ以上飼えねえから苦労してるんじゃねえか。もしも子猫が大人になってまた子供産んだら、あっという間に家中が猫だらけになっちまうじゃねえかよ」
「家中が猫だらけになったら面白えだんべな。俺ぁいっぺんでいいから猫だらけの家に住んでみてえな」
私達はオチボーを相手にしても仕方がないと思い、何も言わずその場を離れ、また露地に入ってミーを探しながら表通りに抜けた。
木戸門をくぐり、通りの向こうを見ると、ちょうどオッちゃん達も近藤の露地から出て来たところだった。
「オッちゃんどうだ、ミーはいたか?」
「ウウン、他の猫には何匹か行き会ったけど、ミーはいねえみたいだな」
「井戸端にもいなかった?」
「いなかったよ。工場の裏も薬師様の周りも見て来たけどいなかった」
「そうか、それじゃあもうやめて帰ろう。もうこれ以上探しても無理だよ」
私はみんなに声を掛けて母屋の方へ引き返して行った。
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- 平成19年2月23日(金曜日)
(22日の続き)
【曇】
大越染工と隣の金井織物の北裏は、表通りから逆川沿いの道まで「コトラ」の工場の敷地になっていて、用もない子供が入り込むのは相当難しかったから、この辺の仲間も私も、コトラの土地がどんな様子なのか、ほとんど知らなかった。
我が家のミーは勿論、近所の猫達がコトラの敷地に出入りしているのをよく見るので、中は多分かなり複雑なのだと思う。
コトラだけでなく、母屋の裏手の露地から福厳寺大門通りまでの一区画は、各戸への出入口の他は、どこからも入り込む道がないから、私達にとっては未知の土地だった。
もしもミーがそんな所に入り込んでいたら、もう見付けるのは無理だろう。
だから私達に出来るのは、この辺の露地をグルグルと歩き回りながら、運良くミーと出くわすか、この辺の猫達のたまり場を探し回るか位のものだった。
いつもなら大抵どこかでミーと顔を合わすのに、こんな時に限って、あいつの影もないのはどうしてだろう。
私達は表通りに出ると、左右に目を配りながら柳田鉄工所沿いに公園入口の方に進み、大宮煙草屋の角を曲がって公園通りに入った。
突き当たりの八雲神社の境内を探してみるかどうか、みんなで相談したが、あんな広い場所を探したって、どうしようもないだろうという事になり、また右に曲がって川沿いの道をノロノロと進んで行った。
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- 平成19年2月22日(木曜日)
(21日の続き)
【晴】
私は母が渡した煮干を皆に分配し、人数を2つに分けてミーを探す事にした。
私と橋本と家住が一組、オッちゃんと宮内がもうひとつの組となり、私の組は母屋を中心にした一帯を、オッちゃん達は工場を中心に探し、日が暮れたら母屋の前に集合する事にして分かれた。
私達はとりあえず家の前の道を逆川の方に進みながら、柳田鉄工所の土塀の屋根の上に神経を集中した。
そこはミーだけでなく、この辺の猫が利用する「猫道」のひとつなのだ。
川沿いの道に出ると右に折れ、堀越の店の角を直ぐに右に入って、引き返して行く。
この露地は金井織物と我が家の裏手を表通りに抜けるのだが、抜ける手前に大越染工の庭の前を通るので、何だか他人の土地に入り込んで行くようなので、土地勘のない人は、まず通り抜けない。
それだけに猫にとっては格好の散歩道になっている。
露地に沿った我が家の裏手の板塀の上でくつろいでいるミーの姿をよく見かけるのは、多分ここも「猫道」だったのだろうか。
塀はそのまま糸井の裏の塀と繋がっていて、そこからは糸井の家の屋根にも行けたし、塀の上を行けば、表通りに面した木戸門があり、そこから左は大越の塀、右は糸井染工のヒサシに通じていて、どこを通っても道に降りずに遠くまで行けたから、猫にとっては面白くてたまらないのか、よくノンビリと歩いて行く姿を見かけた。
ただ、この辺は屋ごみが複雑なので、多分本当の「猫道」は、人の目に触れない所の方が、ずっと長いのだと思う。
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- 平成19年2月21日(水曜日)
(20日の続き)
【晴】
ミーは我が家に来てから3回子供を産んだ。
多い時には一度に5匹も産んだけれど、大抵1〜2匹は死産だった。
死んだ子猫を埋葬するのは、なぜか私の役目になっていて、姉達や弟は決して手伝おうとはしなかった。
私は猫の亡骸を布で包み、それを棺代わりのボール箱に入れ、秘密の墓所に埋葬した。
その仕事は大抵私一人でこなしたが、たまたま道ですれ違った女の子達に問われるまま訳を話すと、女の子達は目を輝かせて後について来る事が多かった。
そんな時は、ささやかな葬列が出来て、一人で墓所に向かう時とは違う、妙に華やいだ楽しい気分になった。
女の子達は肩を落とし、悲しそうな顔をうつむいて葬列を作り、いつの間にか私は部外者となって、列の一番うしろをトボトボと進む事になる。
私はミーの子を3回埋葬していたので、ミーが4回目の子猫を産むと、また埋葬の役割が回って来るかもしれないと思い、ミーを捕まえて家に監禁するのは、面白半分でついて来た奴らとは違って、決して遊びだけではなかったのだ。
それでも一人で捕まえるよりは、仲間がいる方が心強いし、やっぱり少し楽しい気持ちにもなる。
「ホラッ煮干煮干、これ持っておいで。これでミーを誘ってごらん」
急いで外に飛び出した私の背を、大慌ての母の言葉が追って来た。
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- 平成19年2月20日(火曜日)
(19日の続き)
【曇】
下校前の掃除もそこそこに、私と仲間は走るように家に帰り、母屋の玄関の間で客の応対をしていた母に「ミーは捕まえた?」と聞くと、母は「捕まえるどころか姿も見せないよ。お前早く見付けておくれ。ぐずぐずしていると間に合わなくなるよ」と言った。
私は「分かったよ。友達が手伝ってくれるって一緒に来た」と応えながら、母に何か言われない内にと外に走り出た。
仲間の顔ぶれは小野寺のオッちゃん、宮内、家住、長谷川そして橋本の5人で、みんな家が近かったから、カバンは来る途中で家に投げ込んで来ている。
「みんな俺んちのミー知ってるよな」
「知ってるよ。体がちっこくてしみったれた三毛だんべ」
「しみったれてなんかいねえよ。ただ少し細えだけじゃねえかよ」
宮内のいつもの毒舌に、私は少しムッとして言い返すと、宮内は「その細えってのが、しみったれてるって事だんべがな」
言われてみると、確かにミーは小さくて痩せっぽちだったから、あまりカッコ良くはなかった。
その姿に似合わずミーはとても顔の良いところがあって、私が親のお使いで外出する時など、まるで犬のように後をついて来るのだけれど、「ダメ、家に帰んな」と叱ると、さも面白くなさそうな顔をして立ち止まり、遠ざかって行く私を、ジッと見守っている事がよくあった。
そんなミーを捕まえるのは、それほど簡単な仕事ではない。
私は「うちのミーは易々と騙されるほどバカじゃねえからな」と仲間に注意した。
「分かってるよ。あいつはよく俺んちに来てるもん、そんな事知ってるよ」
オッちゃんの家は工場の直ぐ裏だったから、ミーにとっては我が家の延長みたいなものだったのだろう。
ミーもオッちゃんには家の人と同じように甘えていた。
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- 平成19年2月19日(月曜日)
(18日の続き)
【晴】
それにしても先生が何でミーを捕まえる事を知っているのか、最初はさっぱり分からなかったが、直ぐに(ハハーン、俺達の話を聞いていた誰かが、先生に言いつけたんだな)と見当がついた。
先生は張本人が私だから、そいつの言う事に間違いはないと、最初から決め付けてしまったのだろうが、こっちにしては面白くない事この上ない。
しかし、ここで言い訳をすると、まず良い事はないと経験で知っているので、反論はしないで黙っている事にした。
一時限が終わり、職員室に帰る先生が、私の近くに来ると「給食が終わったら職員室に来い」と小声で言った。
私は本当の事を先生に話せると思い、勢いよく「ハイ」と返事をした。
昼休みになって給食が終わると、私は急いで職員室に行き、先生の席に近付いて行った。
職員室というのは、何度入っても気が引き締まる場所で、慣れるという事はないだろうと思う。
だから話もつい小声になってしまい、それが余計に緊張感を強めてしまう。
「先生来ました」
「ホイ来たか。お前また悪さを企んでいるだろう。今度は猫いじめだって。よくもまあ次から次へと悪さを思いつくもんだな。いいか、男は弱い者いじめなんかしちゃあ駄目だぞ。いいかげんにしないと、また母ちゃんに言うからな」
「先生、僕は猫いじめなんか考えてません。実は……」
私は本当の事を一生懸命先生に説明した。
「そうか、そうだったのか、ゴメン、今度の事は先生が悪かった。お前の言い分も聞かずに思い込んだ先生が悪い」
先生は自分の早とちりが恥ずかしいと、必死になって謝った。
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- 平成19年2月18日(日曜日)
(17日の続き)
【雨のち晴】
学校に着くと、正門の辺りに人だかりがしていた。
この場所は子供相手の道商いの人が、ゴザを広げて商売している事が多く、先生からは立ち寄らずに通り過ぎるようにと注意されていたが、やはり好奇心には勝てずに、大抵は黒山の人だかりになっていて、品物は飛ぶように売れた。
道商いといっても、全部が騙しという訳ではなく、中には近くの商店が出店の形で版画用の材料などを置いていたり、少し古くなった鉛筆やノートなどを割引して売っていたから、子供達にとっては、結構便利な事もあったのだ。
今日はどんな物を売っているのだろうと思いながら、人垣越しに覗くと、隣の柳原小学校前の「飛行堂」のオヤジが、学用品を並べて商売していた。
西小学校の前にも、昔から文具や菓子などを売っている店があったから、その店にとっては迷惑な話だなと思った。
教室に入ると、先に来ていた連中が集まっているストーブの所に行き、ミーを捕まえる話をすると、「俺も手伝う」「俺も」「俺も」と、その場に居た全員が言った。
宿題や自由研究をやろうと言っても絶対に参加しないのに、こういう事になると、みんな目を輝かせて身を乗り出して来るのだ。
あまり多勢を家に連れて行くと、また私が親にドヤされるに決まっているから、これ以上は知らせないようにしようという事にして、めいめいの席に戻った。
間もなく始業のベルが鳴り、受持ちの川島先生が教室に入って来たとたん、まだ出席も取らないのに「今日の授業後、何人かのふとどき者が、か弱い動物を虐めようとしているようだけれど、そんな事は絶対にしてはいけない。誰とは言わないが、お前達の考えている事なんかみんなお見通しなんだからな」と、私の方にチラチラと視線を飛ばしながら言った。
私は(えっ、何で知ってるんだよ。それに虐める訳じゃねえよ。親に頼まれてるんだよ)と心の中で叫んだ。
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- 平成19年2月17日(土曜日)
(16日の続き)
【晴】
この道は帰りに通るのが習慣になっているので、逆を辿ると何とも妙な気持ちになる。
それでも出掛けに鉛筆や消しゴムを買うには便利だったから、時々は通っていた。
この道筋には、学校に着くまで大島文具店の他に2軒の文具店があった。
その中の大島文具店のオジさんは、父の幼なじみだったが、代金は月末勘定になっていたので、必要な物を買っても、その都度お金を払う事はなかった。
私は学校前の文具店で買いたかったのだが、そんな事情もあり、大島文具店以外で買う機会はほとんどなかった。
大通りを横切り、学校正門前に突き当たる道を行くと、右側に柔道の道場があった。
その頃、大映の柔道映画が大流行していたので、私も柔道がやりたくて仕方がなかったが、昔一番上の兄が学生時代に柔道が原因で肋膜炎を患った事があり、母は子供達が柔道をやるのを極度に嫌っていた。
だから私がどんなに熱心に柔道を習わせてくれと頼んでも、父も母も決して許してはくれなかった。
私はなかなか諦められず、学校の帰り道には、よく道場に顔を出して、みんなの稽古を指をくわえながら見ていたが、道場の人や門弟の人達も、私が勝手にあがり込んで見学しているのを、別に咎めだてする事もなかったのが嬉しかった。
その道場の名は「造志館」といって、中の造りは映画に出てくる道場にそっくりで、板壁にずらっと並んだ木札を眺めていると、体の中から何か得体の知れない闘志が湧いて来るのを抑えられなかった。
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- 平成19年2月16日(金曜日)
(15日の続き)
【晴】
我が家のミーも、母屋と工場を行ったり来たりが日課なので、当然このたまり場の常連になっていた。
もしかしたら居るかなと思ったが、その朝はミーだけでなく一匹も姿が見えず、仕方がないので露地の奥にある小野寺のオッちゃんの家に寄る事にした。
「オッちゃーん」
家の前で声を掛けると、「おれっ、つい今しがた出て行ったよ。いつもはまだグズグズしているのに、今朝は一足違いだったね」とオバさんが言った。
オッちゃんの家は我が家の工場の南隣なので、私は工場を抜けて栄町の薬師堂の前に出るという、いつもとは違う道を通って学校に行く事にした。
工場に入ると、もう一仕事終えた職人達がギリ場のダルマストーブを囲んでお茶を飲んでいた。
「何だ今朝は裏から学校に行くのか」
板の間の火鉢の脇に座っていた父が声を掛けて来た。
私はそれに答えず「ミーがフケてるから捕まえて家の中に入れておくんだって」と言った。
父は「そうか分かった。また子が産まれると大変だからな」と応えると、ギリ場に降りて母屋の方に歩いて行った。
多分ミーを捕まえる相談を母とするのだろう。
私は自分がミーを捕まえたいので、学校から帰るまでミーに何とか逃げていてくれと念じながら道を急いだ。
薬師堂の前の露地は、栄町の稲荷様の四つ辻に出て、大島文具店の四つ角で少し広めの通りを横切り、初谷スポーツ店を左に見て大通りに抜ける。
私は大島文具店の角を右に折れて、前原八百屋の角を左に曲がる道を選んだ。
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- 平成19年2月15日(木曜日)
(14日の続き)
【晴】
台所で朝食をかき込んでいると、茶の間にいる母が「お前学校に行く前にミーを捕まえておいで」と声を掛けて来た。
「ウン、でもあんまり長い時間は無理だから、もしかしたら捕まえられないかもしれないよ」
「そしたら、学校から帰って来てからでいいよ」
私が学校に行っている間にミーが帰って来たら、その時家にいた者が捕まえる事にして、私はいつもより早目に家を出て、ミーの居そうな場所に行ってみた。
最初は隣の糸井さんの物置の屋根の上、次は家の前の道が表通りに出る所に建っている木戸門。
糸井さんの物置のトタン屋根は、朝のうちから陽が当たるので、ミーだけでなく近所の猫達がよく日向ぼっこをしていた。
木戸門は屋根の下が棚のようになっていて、雨の日などは猫が雨宿りしている事が多かった。
期待はしていなかったが、案の定そこにも姿がない。
私はそのまま学校に向かおうと思ったが、思い直して通りを渡り、人見医院の脇の門から、近藤さんの井戸端を覗いてみる事にした。
近藤さんの井戸は、大きくて頑丈な屋根の付いた立派な作りで、洗い場を中心に周りには色々な箱や物入れなどが置いてあったから、この辺の猫達が集会場にするのに好都合だったのだろうか、多い時には15匹以上が集まっている事もあった。
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- 平成19年2月14日(水曜日)
【曇時々雨】
窓の外の屋根の上を、近所の猫達が、ギャーギャーと鳴き喚きながら駆け回っている音で目が覚めた。
あっと思い大慌てて外を見ると、やっぱり我が家のメス猫が少し離れた所からオス達のケンカの様子を、まるで他人事のような顔で眺めている。
私は寝巻のまま階下に駆けおりると、茶の間にいた母にたった今この目で見た事を話した。
ミーは今までに何回か子猫を産んでいて、父も母も子猫の貰い手探しに苦労していたから、またミーが子を産むと困ってしまうのだ。
「いいかいミーがフケてきたら私に教えるんだよ。家に閉じ込めておかないと、また子が産まれてしまうからね」
私はミーが子猫を産んでくれた方が嬉しかったが、産まれたあとの事を考えると、親の気持ちも分からないではなかった。
「ウン分かった。そうなったら知らせる。でもミーをどうするの?」
「仕方がないから首に縄でもつけて外に出さないようにするか、オリにでも入れようかと思って」
「いつまで?」
「そりゃあミーのフケが止まるまでさ」
私はミーが首を縛られてションボリと部屋の片隅に座っている姿を想像して、何だかミーが可哀想になった。
母はそんな私を察してか「でも仕方がないんだよ。ミーだって度々子を産んでいたら大変だし、育てるんだって身を削らなければならないんだから、結局ミーのためにも、その方がいいんだよ」と、私を慰めるように言った。
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- 平成19年2月13日(火曜日)
【晴】
学芸会も終わり、校内行事も卒業式を残すばかりとなる頃になると、子供会による火の用心の夜の夜回りが、町内をねり歩くようになる。
吐息も凍る2月の夜寒の中を、先頭の提灯のあとに従って、押し競饅頭のように身を寄せ合いながら、広い通りだけでなく、狭い露地にも入り込んで、拍子木を鳴らしながら火の用心を呼び掛け歩くのだ。
夜回りは夕食後の行事だったが、まだ準備中の家もあり、そんな時には旨そうな料理や、カマドの煙突から吐き出される煙の匂いの中を進んで行く。
家の煙突から出るのはカマドの煙だけでなく、風呂釜から出るのも混じるので、どこを歩いていても、ほとんど煙の匂いがついて来た。
風の強い夜などは、薪から出る火の粉が煙の先から外に飛び出して来る事もあり、そんな時には年上の子供が「火の粉が出てまーす」と、その家に声を掛ける。
「ハアーイ、わざわざご苦労様」
家の人からの応答を確認して列に駆け戻り、これを繰り返しながら町内中を歩くのが、子供達には楽しかった。
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- 平成19年2月12日(月曜日)
(11日の続き)
【晴】
2つ年上の姉は私と全く対照的で、成績も行儀も申し分のない上に、物静かで美人と評判の人だったから、当然学芸会の参加演目も、それに相応しいものだった。
幸いな事に、私が5年に進級すると姉は中学生になったので、校内で行き合ったり、何かにつけて姉と比べられる事もなくなったが、それ以前には朝礼後の移動の時などに、たまたま姉と私が顔を合わせたりすると、組の連中、特に女子の多くは、姉と私を交互に見比べながら、私をまるで不思議な生き物を見るような目で見るのには閉口した。
小学5年当時の私の普段の服装といえば、冬以外は半ズボンに素足で、上は半袖の丸首の下着かランニング。
それでも履物だけは当時では、贅沢品のひとつだったバスケットシューズを常用していた。
それには訳があって、別に格好つけているのではなく、当時ではバスケットシューズが一番丈夫な靴だったからで、普通のズック靴などでは、3日ともたない位に使い勝手が激しかったのだ。
どんな成り行きだったのか、5年の頃の私は学用品を風呂敷に包んで通学していた。
親はそれがみっともないと新しいカバンやランドセルを与えようとしたが、私は頑として風呂敷を離さず、その習慣は卒業まで続いた。
姉はと言えば、いつも清潔でキチンとしていたから、家でならともかく、妙に薄汚い弟と校内で会うのは避けたかったのだと思う。
そうでなくても二人が姉弟だというのは皆知っているので、私が悪さをして叱られる度に「お前だけでなく姉ちゃんまで笑われるんだぞ」と、決まり文句が飛び出した。
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- 平成19年2月11日(日曜日)
(10日の続き)
【晴】
5組の生徒数は男女合わせて57名で、女子の方が人数は多かった。
どこの組も大体同じようだったから、一学年の生徒数は300人前後となり、全学年では約1,800人位になる。
学芸会の目玉となる演目に参加出来る人数なんて、どう多く見積もっても組の半数程度がせいぜいとなると、残りを参加させるには合唱くらいしかないだろう。
不思議な事に、それぞれの演目に参加する奴の顔ぶれが、転校や病気などの特別な事情は除いて、まず変わる事はなかった。
舞踊や楽器演奏のような特殊能力を必要とする演目なら、参加者が決まってしまうのは分かるのだが、学芸会一番人気の「劇」参加者が毎年決まっているのには、みんな少しおかしいなと感じていたけれど、注目される演目に選ばれるのには、一部の例外は別にして、まず成績が良い事、そして品行方正で先生に気に入られている事、親が学校に協力している事などの、いくつかの条件が必要なのだと、以前から言われていたので、(まあ仕方ねえよな)と、何となく納得していた。
楽器演奏と似ているが、プログラムには「合奏」という題名の演目があり、これはハーモニカを中心に、木琴、タンバリン、トライアングル、シンバル、カスタネット、太鼓などの打楽器で構成され、四年生以上の各学年単位で選抜された者が参加したから、組単位の「合唱」よりは少し格が上だった。
仲間の中には「合唱」だけでなく、この「合奏」にも参加する奴もいて、そういう奴は「合唱」組から白い目で見られる事が多く、いつも「いやみ」のひとつふたつ言われながら小さくなっていた。
楽器演奏はピアノ独奏と連弾、ヴァイオリン独奏、そしてお琴の合奏、変わったところでは鉄琴独奏というのがあったが、演奏者は同学年の友達で、その方面では全国レベルの演奏家だったらしい。
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- 平成19年2月10日(土曜日)
(9日の続き)
【曇】
“はあにゅうのやどおは、わあがあしゃあどおー、たあまあのよそおい、ううらあやまあじい、のおどおかなありぃや、はあるうのおそらー、はあなあはああるうじい、とおりいはとおもおー………”
感情も何もあったものじゃない。
ただ大声を張り上げて喚き散らすか、口をパクパク動かして歌う振りをしているだけの奴もいる。
通しで2〜3回歌うと、先生は呆れ顔で職員室に帰って行った。
「埴生の宿って何だんべな。俺ぁこの歌うたってても、何のことか意味が全然わかんねえよ」
沼が間延びした調子で、誰に聞くでもなく呟く。
「俺も知んねえ。それによ、玉の装いってのもよくわかんねえよな」と仁田山が応じた。
二人だけでなく、この場にいる大半の奴は、「埴生の宿」の歌詞の意味なんて、まるで知らずに歌っているのに気付くと、お互いに顔を見合わせて思わず大笑いしてしまった。
「バカだね。埴生の宿っていうのは貧しく粗末な家で、玉の装いは高価で贅沢な服って事だろうに。前に音楽の時間で先生が教えてくれたよ。あんた達は先生の話なんか聞かずにボヤッとしてるから、意味も解らずに歌う事になるんだよ」
宮崎さんが偉そうな顔をして言うと、他の女子達が一斉に「バカ、間抜け、アンポンタン」と口々に囃し立てて男子を罵った。
私は(そうか、この歌はただもんじゃねえと思っていたけど、深い意味があったんだな)と密かに感動した。
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- 平成19年2月9日(金曜日)
【晴】
小学校の教室には、書架とストーブとオルガンが必ず備えてあったので、合唱の練習は各々の教室で行う事になる。
遮音性など無いのと同じ木造校舎で、各組が一斉に練習を始めるものだから、生徒だけでなく指導する先生も、よほど集中してないと、あちこちから容赦なく飛び込んで来る、よその組の歌声に引っ張られて、とても練習どころではなくなってしまう。
思わず音を外してしまうなどは良い方で、中には自分達の曲を歌わずに、隣の組が練習している曲を歌い始めて、先生に大目玉を食らう奴もいた。
合唱コンクールならともかく、学芸会の合唱というのは、劇を中心とした主要な演目から漏れた、その他多勢の寄せ集めみたいなもので、ほとんどの奴が真剣に練習しようとは思っていない。
だからといって決して卑屈になっている訳でもなく、むしろ劇や舞踊や独唱に参加する奴らのように、毎日厳しく稽古をしなくて済むのを喜んでいた。
不思議な事に、学校を代表する合唱団の「なかよしクラブ」は、学芸会に決して参加しなかった。
私は先生にその疑問をぶつけてみた。すると、先生は「それはね、学芸会はなかよしクラブの発表の場じゃなくて、全校生徒の発表の場だからよ。いつも練習している子達と、その時に少ししか練習出来ない子達が同じ舞台で発表したら、差がありすぎて可哀想だろう」と言った。
私は先生の話は少しおかしいと思ったが、それを口にするとまた怒られるような気がして、黙ってその場を離れた。
本当は「なかよしクラブ」も特別出演する予定だったのだが、ある先生が西校に赴任して来てから、その先生の強い反対で出演を中止したのだとあとで知った。
その先生がなかよしクラブの指導担任と仲が悪くて、事ある毎に意地悪をしていたのだそうだが、なるほどあいつならやりそうだなと思った。
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- 平成19年2月8日(木曜日)
【晴】
私は新聞委員と文芸部員という役割もあって、物凄い悪筆にも関わらずよくガリを切った。
板の中心に、極々細目のヤスリのような金属板が組み込まれた「ガリ板」の上に、パラフィンを薄くひいた厚紙を置き、鉄筆で原稿を書いていくと、鉄筆とガリ板に挟まれた部分に、ガリの目と同じ大きめの穴があいて、見た目には文字が白い線となって浮かび上がって来る。
文字や線だけではなく、熟練者が先が球状やヘラ状になっている様々の鉄筆を使うと、面やボカシの入ったガリも切れるのだ。
私にはそんな技もなかったし字も下手くそだったから、正直ガリを切る仕事は大嫌いだった。
その点昭子さんの字は、私など比べものにならない位きれいで、おまけに文の才も群を抜いていた。
だからという訳でもないのだろうが、クラス新聞のガリ切りの仕事は、ほとんど昭子さんがやってくれたので、私はもっぱら編集の仕事を引き受ける事になっていた。
文芸部では定期的な文集の発行を中心に、各学年から広く原稿を募集して、年に2回校内文集を作る仕事も分担していたが、そのためか、ガリはほとんど顧問の先生が切っていたので、出来上がった文集は、表装もレイアウトも美しく立派なものだった。
私は新しい文集が出来る都度、巻末の編集担当者名の中にある自分の名前を、誇らしく眺めては悦に入った。
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- 平成19年2月7日(水曜日)
(6日の続き)
【晴】
5年生の入る本校舎の謄写版室は、職員室を除くと、一階の階段下と二階の図書室脇にあったが、部屋というより隙間のような所で、人が二人やっと入れる位の広さしかなかった。
中は謄写版インク独特の匂いが充満していて、冬は寒く夏は蒸し風呂の中にいるのと同じ位に、物凄い暑さだった。
謄写版印刷は一人でも出来るのだが、刷り手の脇に助手が立って、刷り手がインクの付いたローラーで一枚を刷り終わり、スクリーンを上げた瞬間に、素早く手を差し込んで印刷済用紙をめくり出してやると、刷り手は直ぐにスクリーンを降ろして次の印刷に取り掛かれるので、一人の時よりも二倍以上早く仕事が出来るのだ。
それでも助手が印刷済の用紙を素早くめくり出せなかったり、刷り手との息がピッタリと合わなければ、助手はかえって足手まといになってしまい、一人で作業した方がイラつかないだけマシという事になる。
どういう訳か知らないが人間何か取り柄があるもので、私には相手と息をピタリと合わせる才があったらしく、特に担任の川島先生の手伝いをする時には、先生だけではなく私も驚く位のスピードで印刷する事が出来た。
先生がスクリーンを上げ始めるのに合わせて手を差し込み、用紙の角辺りに軽く指を置いて、腕を横に払うように振ると、印刷済の用紙一枚だけが、謄写版の外にめくり出て来る。
刷り手は、用紙が外にめくり出されて行くタイミングに合わせてスクリーンを降ろし始めるので、用紙がめくり終わると同時に、次を印刷する動作に入る事が出来るのだ。
息がピタリと合ってリズミカルに仕事が進むと、100枚程度の印刷は造作もない。
一回の印刷枚数は、最低でも60枚前後はあるだろうか。
時には一回に500枚以上印刷する事もあり、そんな時には、仕事が終わったあと必ずご褒美が貰えたから、手伝いを苦痛と思った事はなかった。
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- 平成19年2月6日(火曜日)
(5日の続き)
【晴】
5組の女子の中でも、とりわけ昭子さんは気性も激しく、悪ガキ共なんかには負けてはいなかったし、成績も行儀も合わせて文句のつけようがなかったから、私達には一番苦手な相手なのだ。
その昭子さんに負けない気性の持ち主といえば、町内こそ違うが我が家の直ぐ近くに住んでいる前原富子さんと、一見物静かで優しそうだが、まるで姉のような風格で迫って来る内田政子さん、物静かという点では政子さんの上を行くが、芯の強さでは決して負けていない岩崎シズ子さんなどが居て、組の悪ガキ共に目を光らせていた。
中でも昭子さんとは同じ文芸部に所属していた事と、組の新聞委員という役を共にしていたという事情もあって、私には一番苦手な相手だった。
何しろ昭子さんを怒らせたら、空手チョップや横ビンタなどはマシな方で、一番困るのは我が家に押しかけて来て、親の前で堂々と私を責めるものだから、そのあと母から物凄い仕置を受ける事だった。
母は昭子さんを行儀の良い事も含めてよく知っていたから、彼女が押しかけて来ても決して私をかばう事はなかったし、おまけに八雲神社の桜木ヨリ子さんも、昭子さんと同じ手を使って私を追い詰めた。
多分昭子さんが入れ知恵したのだろう。
そんな訳だから、昭子さんが文句をつけに詰め寄って来ても、私や仲間の悪ガキ共は、決して逆らおうとはしなかった。
逆らったって、どうせ負けるのに決まっているからだ。
「分かってるよ、サボりゃしねえから心配すんなよ」
私は昭子さんを怒らせないように気を使いながら言うと、続けて「そうだ、謄写版室に用があったんだ」と独り言を呟きながら、そそくさとその場から逃げ出した。
なぜか私の謄写版印刷の助手としての腕前は、5組では無論の事、学年中でもトップクラスだったから、他の組の担任からもよく手伝いを頼まれたので、そんな言い訳も通用するのだ。
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- 平成19年2月5日(月曜日)
(4日の続き)
【晴】
「『合唱』に出る人、今日は練習があるから放課後残るんだよ」
給食が終わって職員室に帰る先生が、教室の入口から頭だけ出して言った。
「ウッヘー」
誰が言うでもなく、合唱組全員が声を合わせて思わず叫ぶ。
こんな時にも同じ立場であるはずの女子組は、男子のように決して騒がなかった。
「何がウッヘーだよ。どこの組だって皆練習するんだから文句言うんじゃないよ。渡辺、お前逃げ出すんじゃないぞ」
(あれっ、何で俺なんだよ。俺がいつ逃げ出したよ。あん時ゃ練習するって知らなかったから家に帰っただけじゃねえかよ)
私は腹の中で文句を並べたてたが、それを口にするとロクな事にはならないのを知っていたから、「ハイ」と素直に返事した。
先生が消えてから周りを見ると、もう悪ガキ共がニヤニヤしながら私の近くに集まって来て「オイ、逃げるんだったら付き合うぞ」とヒジでつつきながら言った。
「バカヤロ、今度サボったら絶対に殺されるぞ。あと何回でもねえんだから我慢しろ」
こいつらの口車にうっかり乗って逃げ出したら、私が張本人にされるのは間違いないから、私はき然としてはねつけた。
「チェッ、オメエはいつから良い子になったんだよ」
長谷川が人をバカにしたような視線を投げながら言った。
「んじゃあ、オメエ達勝手にサボれや。俺は嫌だぞ。どうせ俺の責任という事になっちまうんだから、冗談じゃねえや」
「分かった分かったよ、練習に残ればいいんだんべ。残るよ残るよ」
そんな様子を脇から眺めていた昭子さんが「みんないいかげんにしなさいよ」と、凄い剣幕で迫って来た。
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- 平成19年2月4日(日曜日)
【晴】
3学期になると、学校は学芸会の準備で忙しくなる。
小学校1年の時に「白雪姫」の狩人役に選ばれた事があったが、当日にひどい風邪を引いてしまい出演できなかったのが理由なのか、それ以降は学年単位の劇の出演者に選ばれる事はなく、もっぱらその他大勢が組単位で出演する「合唱」のメンバーで落ち着いた。
劇や舞踊、楽器演奏や独唱などに、選ばれた奴らは、毎日稽古で大変だったが、「合唱」組は担任が放課後に数回おざなりに指導するだけで曲目も皆が知っているものが中心だった。
「どうせ俺達はその他多勢だもんな」
仁田山が両手を頭のうしろに組んでイスに反り返りながら言うと、「全くだよな。でもよ、体は楽でいいよな」と誰かが応える。
もしも学芸会の演目に、コマ回しやタコ上げ、木登り、投げ縄やチャンバラがあれば、合唱組の大半は間違いなくスターになれる奴ばかりだったが、そんな奴に限って、学芸会のスターには決してなれないのだ。
合唱といっても、別にハモる訳ではなく、いわゆる斉唱(アカペラ)というやつで、中には半分ヤケくそのように大声を張り上げたり、妙なコブシを効かせたりするものだから、担任も呆れて指導放棄するのが常だった。
それでも私は合唱組の気楽さが好きで、選ばれた奴らを特別羨ましいとも思わなかった。
不思議なのは学芸会で目立つ役に選ばれる奴らが、みんな「いい子」ばかりかと思うと意外にそうでもなく、「何であの野郎が、あんないい軍の役やってるんだよ」と思う事もよくあった。
私にとって学芸会の役割選抜は、七不思議のひとつだった。
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- 平成19年2月3日(土曜日)
(2日の続き)
【晴】
5年生の教室は本校舎の2階で、昇降口は向かって左、方角では西側にあり、2年生の教室がある平屋の西校舎の昇降口と隣り合っている。
私はゲタ箱で上靴に履き替えると、教室に向かう前に西校舎の廊下を少し南に進んで、窓から外の地面の様子を見た。
校舎の土台から学校の周囲を囲んでいる生垣までの、2m程の、幅の黒々とした地面が、見事な霜柱に10cm以上も持ち上げられているのが見えた。
(やっぱりここはスゲエな。この場所が霜柱の本場だって知ってる奴は、そんなにいねえと思うけど、みんなはこれよりもスゲエのを見付けたのかな)
私はそんな事を思いながら教室に向かった。
「あっ来た来た、オイ渡辺オメエのはどの位だった。やっぱ今のところは清水のが一番高えみてえだぞ。公園裏のは17cmだってよ」
宮内がさも悔しそうに言うのを横目に見ながら、清水はあまりの嬉しさに今にも翔びあがりそうだった。
「17cmだと、チクショウスゲエな。俺のは15cmだ。いったいどこで見付けたんだよ。やっぱりこの勝負は清水が一番かよ」
私は素直に清水の勝を認めた。
「みんな何コソコソやってる?また悪い事を企んでるんだろう」
私達が固まっている脇を通りながら、内田さんが姉御のような口調で言った。
私が訳を話すと、内田さんはしばらく私達の顔を見ていたが、やがて「バカが」と呟くように吐き捨てると、侮蔑を背中いっぱいに表しながら自分の席の方へ去って行った。
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- 平成19年2月2日(金曜日)
(1日の続き)
【晴、西の風】
朝とはいえ、まだ6時の足元は夜中と同じで真っ暗だし、見上げると空には星が瞬いている。
冷気は闇と同じように地を包んで、まるで生き物のように体に食いついて来るようだった。
それでも東の空は、明らかに夜明けの兆の鈍い橙色に染まり始めて、人見医院の大きな2階屋根が、黒々としたシルエットとなって視界を覆っているのが見える。
いつもの朝の変わりばえのしない風景だが、なぜか私はこの風景が気に入っていた。
「そんな薄着で外をウロウロしていると風邪引くよ」
玄関のガラス戸を半分程開けた母が、大声で私を呼んだ。
私は「ウン、いま行く」と返事をすると、冷気から逃げるように駆け足で家に戻った。
「何やってたの」
母は物差しを持っている私を怪訝そうに見ながら言った。
「学校の宿題で霜柱の高さ測ってた」
霜柱の比べっこするなんて言えば、絶対に怒られると分かっているから、咄嗟に宿題だとウソをついた。
親というのは、なぜか自分の子が宿題をしている姿が好きらしい。
たちまち気を良くしている母を横目に、私は美味そうなミソ汁の匂いが漂って来る台所に行くと、いつものおさまりの席に着いて朝食を摂った。
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- 平成19年2月1日(木曜日)
【晴】
台所から聞こえてくる音に目を覚ますと、柱時計は午前6時少し前を指していた。
慌てて起き出して着替え大急ぎで顔を洗うと、私は懐中電燈を手にゲタをつっかけて庭を横切り、家の前の道沿いを東西に走っている柳田鉄工所の漆喰塀の下まで行った。
あったあった。およそ15cmはあろうと思われる霜柱が、塀の縁に沿って延々と立っている。
この塀は鉄工所の北にあるために、一日中陽が当たらず、まるでツンドラのように凍り付いているので、朝のうちに立った霜柱が、昼近くまで残っている事も珍しくなかった。
私は手に持った物差しで霜柱の丈を正確に測ると、その寸法を暗記して家に駆け戻った。
実は昨日の事、いつもの仲間と学校からの帰り路で、西校舎の裏に出来る霜柱より高いものは、まず足利にはないだろうという話になったのだ。
おおかたの奴は同じ意見だったが、一人清水だけは「そんな事ねえよ。公園裏の畑に行ってみな。あんなもんの2倍くれえあるスゲエのが生えてるから」と、口からツバを飛ばし目をむいて反論するのだった。
「ウソつけ。2倍もあったら30cm近え事になるじゃねえかよ。そんな霜柱なんか絶対にあるわけなかんべ」
宮内はタダでさえでかい目を大きく開いて、清水の頭をコヅきながら言った。
「ウソなんかじゃねえよ。オメは見た事もねえくせに何でウソっていうんだよ。そんなら今度みんなで行ってみんべえよ。そしたら本当かウソか分かるから」
清水は自分の話が信じてもらえなかったのが、よほど悔しかったのだろう。かなりムキになって言い張るのだった。
私は脇で話を聞きながら(そういえば家の前の柳田鉄工所の塀の下に出来る霜柱も、結構丈があるけれど、いったいどの位あるのかな)と考えていた。
「あのなあ、俺考えたんだけど、今度みんなの家の近くに出来る霜柱の高さを測ってみねえか。誰の家の近くが一番高いか、比べっこするってのはどうだ」
私は思わず皆に提案すると、「面白え、そうすんべえ。それでよ、誰のが一番高えか競争すんべえ」という事になり、明日の朝それぞれが見付けた霜柱の寸法を測って持ってくるという事になったのだ。
■アトリエ雑記は平成12年12月15日からスタートしました。
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