アトリエ白美「渡辺肖像画工房」 渡辺晃吉
- 平成17年8月31日(水曜日)
【晴】《30日の続き》
線路に沿って黙々と作業している人達は、誰もが全身汗まみれになっていて、見ている私達までが息苦しくなる程だった。
「これだけ探しても見付からねえんだから、衝突した時に粉々になっちまったか、川にでも落っこちて流されちまったんじゃねえかな」
「川は川で人が出ているって話だ。ガード下から渡良瀬に入る所までと、万一を考えて中橋あたりまで探しているって」
「もしかしてよ、犬かなんかが持っていったんじゃねえか。この辺は野良犬が多いからな」
そんな会話が耳に飛び込んで来る。
私は矢も盾もたまらずに「オジさん、轢かれたのはバタケン?」と尋ねると「あ〃そうだよ、あの野郎可哀想に首がどっかに行っちまってまだ見付かんねえんだってよ。もしかしたら見分けがつかねえ程ばらばらになっちまったかもしんねんで、頭の骨のかけらか脳ミソでも落っこってねえか、一生懸命探してるんだけんど、髪の毛一本見付かんねえところをみると、おそらく首だけちょん切れてどっか藪ん中に飛び込んだか、川に流されたか、野良犬に持っていかれたかだんべな。オメ達線路に近付いちゃ駄目だけど、その辺の畑ん中を手分けして探してこいや。うまくしたらバタケンの首を見付けられるかもしんねえぞ」
その言葉を聞いたとたん、私達はワーッと喚声をあげて畑の中に散って行った。
身の毛がよだつ程の恐さと、体中の血がカーッと熱くなるような歓喜が同時に押し寄せて来て、誰もが半分気を失った猟犬に変身してしまった。
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- 平成17年8月30日(火曜日)
【晴】《29日の続き》
向こうの奴らは、線路沿いの道を「日紡」の前まで出てからでないと、線路のこっち側には来られないから、私達の方が少し早目にガードの西側に着く事が出来る。
そこまで来れば、もう誰もいないと思っていたら、いるいる、ガードの上にも、その先の線路の上にも、ざっと50人近い人達が散らばって、何かをしきりに探しながら歩き回っている。
そんな様子に、私達だけでなく向こうの奴らも、すっかり戦意を失ってしまい、それよりは現場の方に関心が移って、いつの間にか2つの集団がひとつになってしまった。
そうなったのには大人達がいた事ばかりではなく、ガードの西は、もう本町の領域ではなく、旧市街地からは郊外となる今福地区だったので、お互いに反目し合う理由がなくなってしまうという訳もあった。
ここはもう本町地区の子供達にとっては異郷であり敵地だったのだ。
西に向かって線路の左側つまり南側は、ガードの端から今福の水源地前の踏切まで、「日紡」の広大な工場が続いていた。
反対の右側つまり北側は、東西に横たわる足利公園の丘陵の裾まで田と畑が広がっていて、人家は裾に沿うようにして集落を作っている。
西に目をやると、両毛線に架かる国道50号線の橋々が、見掛けの地平線を形作り、その後方には遠く赤城山が長い裾野を南にのばしていた。
直ぐ目の前のトマト畑には、気狂いじみた形の実が勢いよく実っていて、隣の豆畑の高い垣を背景に、赤と青の鮮やかな色彩がおどっている。
太陽は真上から照りつけ、うしろの崖の上から降り注ぐ蝉時雨が、やけに耳障りだった。
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- 平成17年8月29日(月曜日)
【晴】《28日の続き》
こちらの人数は現場で一緒になった連中を入れて20人位で、向こうは地の利の有利なところもあって約30人。
やり合うには少し不利だし、第一こんなに大人達がいたのでは、うっかりぶつかり合えば直ぐに止められてしまうだろう。
だから線路を境に睨み合う位がせいぜいで、それだけに一触即発の状態が長く続いて、いくら事故現場に集中していた大人達の中にも、その場にいる子供達の様子が何となくキナ臭いのに、薄々気付き始めてる人も出て来た。
「オメ達、線路向こうの奴らとドンパチやろうなんて思ってるんじゃねえだろうな。ダメだぞ、見てみろ、お巡りがいっぱい居るじゃねえか。やるなら別の所でやりな」
多分、逆川沿いに数軒ある染色工場の職人だと思うのだが、顔一面に不精ヒゲを生やし、職人刈りの頭にタオル鉢巻きを巻いたタバコ臭いオヤジが、ゴム前掛をした腰に手をやって大声で言った。
(あ〃バカ、そんなデケェ声出したら、ポリ公に聞こえちまうよ。そうなったら家に言い付けられて、また痛い目を見る事になる)
私達は大慌てで、現場から少し離れた遊園地まで退却したが、やはりオヤジの言った事を小耳にはさんだ警官の一人が、さも不審そうな目付きを私達の方へ投げて来ていた。
私達は乗りたくもないブランコやジャングルジムに乗って、何とかその場を取り繕ったが、この様子だと、線路向こうの奴らとの事は、場所を変えるか日をあらためるしかないと思った。
しかし遊んでいる振りをしながら、そっと向こうの様子をうかがっていると、奴らはこっちの様子を察知したのか、さり気ない視線を送りながら、少しずつ東へ移動して行った。
その意味は明らかに(場所を変えよう)という呼び掛けだった。
私達も少しずつ場所を移動して遊園地を出ると、「白石山房」の中に入った。
全員が事故現場の警官の目から隠れる所まで来たとたん、私達は脱兎の如く白石山房の中を駆け抜け、裏の石段を下ってドードーの脇を通り、ガードの西まで一気に移動した。
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- 平成17年8月28日(日曜日)
【晴】《27日の続き》
「今、警察が来て調べてるから、バタケンはまだ線路の上にいるんじゃねえか」
それを聞いたとたん、全員がワーッという喚声をあげながら、愛宕山の踏切に向かって走り出していた。
現場に着いてみると、もう沢山のヤジ馬が集まっていて、中には顔見知りも結構多かった。
皆それぞれに額を寄せ合って、眉間にシワを刻みながらヒソヒソ話をしていた。
そんな話を聞いていると、バタケンはどうやら下り列車にはねられて、公園裏のガードの手前あたりまで引きずられ、胴体はそこに、あとは踏切からガードまでの間に散らばっているらしい。
線路の上には警官や何人かの人達が、手にバケツと火バサミを持って、皆下を見ながら黙々と歩いていたり、現場に入り込んで来るヤジ馬を追い払ったりしていた。
線路の向こう側には、緑町2丁目の奴らが我が物顔でウロチョロしている。
私達はそれがどうにも気に入らなくて、いつの間にか線路ごしに睨み合っていた。
向こうが右に動けば、こっちも右に移動し、こっちが左に動けば、今度は向こうが左に移動してくる。
私達にしたら、この踏切は自分達の領分で、線路向こうの奴らなんぞに大きな顔をされたくはなかったのだ。
多分向こうの奴らも同じ事を考えているのだろうとは思ったが、公園は緑町1丁目にあるのだから、何も2丁目の奴らがしゃしゃり出て来る事はないのだというのが、こっちの言い分だ。
まして汽車っぴきという華々しい事件を、線路向こうの奴らなんかに持っていかれてたまるかと、私達は段々と興奮して来て、バタケンの死体見物は後回しになっていった。
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- 平成17年8月27日(土曜日)
【晴】
「バタケンが死んだってぞ。酔っぱらって汽車に轢かれたって」
泣いても笑っても夏休みも残り数日という時、例によっていつものたまり場に集まっていた私達の所に、オッちゃんが息を切らせて走って来た。
「何っ、どこどこ、どこで轢かれたん?」
やる事もなくボヤーッとしていた私達にとって、これは目から火花が飛び出る位に刺激的な知らせだった。
「愛宕山の切通しの踏切だって」
愛宕山は国鉄両毛線が通る前は、足利公園を形作っている丘陵地の南端だったが、今は線路と、それに平行する街道によって切り離されている。
切通しとはいっても、一番高い所で2m位のものだったから、見方によれば公園と地続きに思えなくもない。
公園から愛宕山前の街道に抜ける小さな踏切は、遮断機もなければ踏切らしい雰囲気もないので、地元の人なら注意して渡るけれど、そうでないと左右も見ないで通り過ぎてしまう位だった。
しかも公園から踏切に続く地形は、かなりの下り坂になっているだけでなく、線路の左手前の木犀に囲まれた共同便所と、坂の右側が、からたちの生垣のために、踏切の存在が何だかぼやけて見えてしまうのだった。
そのせいで、この附近ではよく事故が起こり、何人もの人間と、それ以上の犬や猫が犠牲になっていた。
私達と一緒に公園で遊んでいた柿沼の犬が、はしゃぎ過ぎて荷物列車に轢かれ、後足を一足切断したのも、この踏切だった。
あの頃はケガと弁当は自分持ちという時代だったから、事故は踏切のせいではなく、本人が悪いからだという理屈の方が勝っていたせいか、特に改善する様子もなく、長い間そのままだった。
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- 平成17年8月26日(金曜日)
【晴】《25日の続き》
間もなく玄関灯に明かりが点き、カーテンを引いたガラス戸の向こうに人の気配がすると、白いカーテンがザーッと開いて、長身の人見先生の姿が見えた。
「すみませんね先生、息子がドブに落ちたはずみに、石蓋の縁であばら骨を打ったらしく、もしかしたら骨折してやしないかと心配で、診てもらえますか」
休診後の患者など日常の事だったから、人見先生は大して驚きもしないで「そりゃあ大変だ。直ぐ中に入って下さい」と私達を診察室まで案内した。
いつも見慣れている場所だとはいっても、薬臭い独特の雰囲気が漂う診察室に入ると、緊張のあまりに何だか具合が良くなってしまうような気になるのは何でだろう。
私はビクビクしながら先生の言う通りに診察台に横になると、先生はそっとシャツを捲り上げて、助骨の一番下に手を置きながら「ここは痛いかい?」と質問した。
本当は触られただけでも痛かったのだが、うっかり痛いと言えば何をされるか分からないと思ったので「痛くない」と答えた。
先生はニヤッと笑うと「嘘いえ。痛いって顔に書いてあるよ」と言いながら、あちこちに手をやって軽く押してみたり、私の腕を持って動かしたりしていたが「大丈夫、骨は折れていないようだ。だけど打撲が相当にひどいから、今夜は風呂に入らずに湿布して静かに休むようにして下さい」と言った。
診察台に腰掛けている私の胸が、当てられた湿布を巻く包帯でグルグル巻きにされるのを見ていると、私は何だか自分が映画の主人公になったような気がして、少し得意になった。
明日の朝になったら、包帯に巻かれた胸を皆に見せて自慢してやるんだと思うと、ズキズキする痛みも案外平気になっていた。
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- 平成17年8月25日(木曜日)
【曇】《24日の続き》
闇の中を何とか工場の方の家まで辿り着き、土間に入ると直ぐに、私は思い切り大声で「ドブに落っこちて胸打ったあ。痛くて苦しいよ」と泣き喚いて訴えた。
こんな夜遅くにお使いに出した父への恨みもあっただけでなく、本当に痛くて苦しかったのだ。
私の泣き喚く様子で、父と母は大慌てで土間に出てくると、母は「それごらんなさい。だいたいこんな夜遅くに子供を使いに出す親なんていますか」と、強い口調で父を責めた。
私はその様子で、余計に悲しくなってしまい、今まで以上に大声で泣き喚いて、自分がいかに辛くて苦しい思いをしているかを、時々チラチラと父の顔を横目で見ながらアピールするのだった。
「大丈夫、大丈夫、本当に大ケガしてたら、そんな大声で泣き喚けるもんか」
父には私の考えなど、とっくにお見通しといった感じで、全く相手にされなかったが、母はもう完全に頭が真っ白になったのか、とりあえずズボンとパンツだけ着替えさせた私を、近所の人見医院へ強引に引っ張っていった。
母は閉まっている玄関の戸を叩きながら「こんばんは、こんばんは、いつもすみません、渡辺ですがお願いします」と声を掛けると、今度は私の方を振り返って「心配ないよ、もう大丈夫だから、先生にちゃんと診てもらうからね」と励ましてくれた。
私は事が少し大袈裟になって行くのが恐くなってしまい、(あっ、こんなことなら痛いのを我慢して騒ぐんじゃなかったなあ)と密かに思った。
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- 平成17年8月24日(水曜日)
【晴】《23日の続き》
いくら泣き叫んでも、道には人っ子一人通っていないし、私の声を聞いて家から出て来る人もいなかった。
私は暗闇の中で下半身をドブの中に突っ込んだまま、しばらくの間その場を動けずに、じっとうずくまっていたが、苦痛と恐怖が少しずつ納まって来るにつれて、強打した場所にソロソロと手を伸ばすと、とりあえず出血していない事は確かめる事が出来た。
もしかして骨折していたら大変だと思い、ゆっくりと体を動かしてみると、痛みはあるが何とか立ちあがれたので、私は細心の注意をしながらドブから這い出た。
気が付くと手に持っていたエサの袋がない。
私は痛さや苦しさよりも袋の方が心配で、また泣き出しそうになりながら、真っ暗な地面に顔を擦り付けるようにして探すと、あったあった、私が落ちたドブの穴から3mも離れた所まで、はずみで飛んで行ったのだろう。
幸運な事に中身は出ていなかったので、私はホッとして袋を拾うと、一刻も早く家に帰ろうと歩き出したが、足を踏み出す度に助骨の一番下がズキンズキンと痛んだ。
仕方がないので体をくの字に曲げると、私は痛む所を手でおさえながらゆっくりと歩を進めた。
少し歩いては休み、また少し歩いては休みながら歩いたのだが、痛みは益々激しくなって来て、とうとう呼吸するだけでも痛むようになって来てしまった。
私は痛さよりも、もしかしたら大変なケガをしてしまったのかもしれないという恐怖の方が強く、いつの間にか泣きながら歩いていた。
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- 平成17年8月23日(火曜日)
【晴】《22日の続き》
昭和20年代後半の時代では、子供にとって夜の9時近い時刻は真夜中に近く、何か特別の理由がない限り一人で出掛ける事はなかった。
大抵の店は夜中の10時位までは開いていたから、行きさえすればエサは買えるのだが、いくら大通りとはいえ長い夜道を通7丁目まで歩いて行くのは、結構大変な事だったのだ。
文字通り嫌々ながらの外出だったから足取りも進まず、私はズルズルとゲタを引きずりながら、まるでナメクジのように重い足を運んだ。
7丁目の角を左に曲がると、道の向こう側に並んだ店の明かりから、目当ての所が開いているのが分かった。
私は裸電球がぶら下がっている店の中に入り「エゴマ2合下さい」と、障子の向こうの人の気配に声を掛けた。
「ハイまいどどうもね」
いつものおばさんが障子を開けながら勢い良く答えると、手際良くエゴマを計って袋に入れてくれた。
「ハイ30円。こんなに遅いのに大変だね」と、空々しいおあいそを言いながら渡してくれた袋を手に取ると、金を払って外に出た。
エサを買った事で気が楽になった私は、来た時よりもダラダラと道を進んで、ちょうど本島の防火用水の前まで来た時、所々ふたを空けていたドブの石ぶたに足を取られ、前に倒れ込んだはずみで、そのままドブの中に落ちざま、石ぶたのヘリで思い切り助骨の一番下を強打してしまった。
息が止まる程の激痛と苦しさに、しばらくはその場を動けずにいたが、やがて私はあまりの痛さと怖さに、ウワーッと大声で泣き叫んでしまった。
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- 平成17年8月22日(月曜日)
【晴】
小学校5年生になったばかり頃に、川向こうの土手道にあった鳥屋で一匹10円のヒワを買った。
沢山いた中で毛の色が一番美しかったのが気に入って、なけなしの小遣いをはたいてしまったが、これが大当たりで見事なさえずりを一日中聞かせてくれたのだ。
勿論鳥の世話は買った私の役割で、毎日鳥カゴの掃除から水をエサを与える仕事を楽しんでいたが、夏休みも残り少なくなって来たある日の夜、床に入ってからエサやりを忘れていた事に気付いた。
急いでエサ入れの茶筒を見ると空っぽになっていた。
もう夜中の8時半を少し過ぎていたので、明日の朝早目に買いに行こうと思い床に戻ると、父が「鳥にエサをやったのか」と聞いて来た。
「やろうと思ったら一粒もなかった。明日早く買って来る」
そう私が答えると「今すぐ服を着替えて買って来い。鳥はエサがなくなると直ぐに死んでしまうぞ」と強い口調で言った。
私は少しムキになって「明日起きたら直ぐに行って来るからいいよ」と答えると、父は「何を言ってるんだ。自分の鳥だろうが。もしもお前が狭苦しいカゴの中に閉じ込められて飯も貰えなかったら、いったいどんな気持ちになるんだ。動物は口がきけないんだぞ。その分飼い主が面倒みないでどうするんだ。いいから起きて買って来い」
エサ屋は通7丁目の通りにあって、昼間はともかく、夜中に子供の足で買いに行くには、少し無理な距離だったが、父は泣きベソをかいてグズる私を何度も叱咤して、最後にはエリ元を掴んで引きずり出した。
母はそんな父に何度も「明日でいいでしょうに、もう遅いんだから」ととりなしてくれたが、父は私が出掛けるまで頑として譲らなかった。
私は泣き泣き着替え母から金を貰うと、深い夜の闇の中を、とぼとぼと歩いて行った。
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- 平成17年8月21日(日曜日)
【晴】《20日の続き》
私は普段弟と一緒に外で遊ぶ事はほとんどなかった。
決して弟が嫌いだった訳ではないのだが、私と仲間の外遊びは相当に荒っぽかったので、そんな中で弟がケガでもしたら大変だという気持ちが強かったのだ。
弟は私の動きにはついて来られず、今までにも何回かケガをしていたから、弟がそばにいると、いつも気になって仕方がなかった。
だから結局は一緒にいる事を避けてしまい、弟と私は家の中だけの交流か、たまたま学校の中で出合った時に一緒に遊ぶか位の日常だった。
ただし弟が誰かにいじめられた時などは、その相手が誰であろうが、必ず仇を取った。
近くの映画館の「新水園」に、子供向けの映画がかかった時などは、親の言い付けで一緒に出掛けたが、弟が一緒にいると絶えず気になってしまい、落ち着いて映画を観る事が出来ずに帰る事になった。
小学生の頃の弟の身長は、やっと私の肩ほどしかなくて、見かけも少しひ弱だったから、余計に心配だったのかもしれない。
祖母も私よりは弟の方が可愛かったようで、私に分からないように、そっと小遣いを与えているのを知っていたが、私はなぜかその事に腹を立てたり、くやしいと思った事はなく、むしろ得をした弟にホッとした気持ちを持ったものだった。
それでも夏休みに遊びに来た東京のイトコ達と過ごした時には、いつも弟を仲間に入れるのを忘れなかった。
不思議なのは、イトコ達と一緒ならば、弟がそばにいても、心配で気が散る事は全くなかったのだ。
それは多分、弟の身に何かおこっても、その責任は私だけでなく、イトコ達と分担出来ると思えたからなのかもしれない。
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- 平成17年8月20日(土曜日)
【晴】《19日の続き》
末っ子の弟は親は無論の事、兄や姉達の用でお使いに行く事など全くなかったのに反して、私は家に居る限り、父母や兄、そして祖父や姉達から、次から次と休む間もなく使いに出されるので、特に人使いの荒い兄達が居る時、なるべく家に近付かないようにしていた。
今になって思えば、長兄はともかく二人の兄達は精神的に極めて弱い人達だったのだろう。
だから人との関わりで少しでも面倒なところがあると、自分自身で現実に直面する勇気も自信もなく、弟の私に重荷を背負わせて逃げる事がクセになってしまったのだと思う。
下の兄との年齢差は8歳、その上とは10歳も離れているので、逆らえば力ずくで言う事を聞かせられるだけでなく、そんな場を母に見せて心配をかけたくない気持ちもあって、じっと我慢をして言う事に従った。
兄達は私が何をしていようが関係なく用を言い付け、少しでも嫌な素振りを見せると、たちまち感情的になるから、特に友達が来ている時などは、相手に迷惑をかけたくない一心で、そそくさと席を立って使いに走った。
そんな思いを毎日のようにしていた私は、おかげで大抵の事には物怖じしない性格を身に付けたようだ。
使いのほとんどは唯の買い物だったが、時には相手への言い掛かりとしか思えない程、酷い難題を押し付けられた事もあった。
私に買わせた物が、いざ手にしてみると気に入らないだけでなく、何かのはずみで傷付けてしまっているのに、交換ならともかく返品して金を貰って来いと言われた時には、さすがに子供でも正気を疑った。
あれは一種の虐待だったのかもしれないが、私はそんな経験をする度に、この人の中にうごめく邪悪性に、いつか自分自身が何らかの形で蝕ばまれなければいいのだがと密かに思った。
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- 平成17年8月19日(金曜日)
【晴】《18日の続き》
しん粉で作った仏様のダンゴは、何の味付けもしていなかったから、そのまま食べても味気ないものだったが、墓参のあとに食べると風邪をひかないという言い伝えがあって、大抵の人は一個だけ口に入れたものだった。
私は仏様のダンゴを口にする毎に、なぜ皆こんなまずいものを食べるのか不思議で仕方がなかったけれど、昔から伝わっているものには、きっと深い意味があるのだろうと思い、墓参の毎に口にしていた。
決して美味い食べ物ではないのに、重箱いっぱいになる位の量を作ったダンゴは、必ず半分以上が余ったので、翌日には余ったものをタレを付けて焼いて食べた。
タレといっても大抵は醤油の中に砂糖を入れただけのものだったが、これが意外に美味いのだ。
私は当日口にするダンゴよりも、翌日炭火で焼いたものの方が好きだった。
けれど二人の姉や直ぐ上の兄は、こんな物は昨日の残り物だと言って決して口にしようとはしなかった。
だから大抵このごちそうにあずかるのは、私と弟の二人位のもので、そんな日には至福の時間を二人で手に入れた。
私もかなりの食いしん坊だったけれど、弟は輪をかけた食いしん坊だった。
弟は末っ子の特典を全身に浴びて育った、文字通りの甘えん坊だったから、末から二番目という、居るか居ないか分からないような存在の私とは、まるで正反対の性格だった。
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- 平成17年8月18日(木曜日)
【晴】《17日の続き》
一同がお参りを済ませて、ぼちぼち引き上げようとしていた時、林立する墓標に身を隠しながら、じっと私達の方を見ている子供達が居るのに気付いた。
私は不審に思って母に告げると、母は「いいから見て見ぬ振りをしているんだよ」と言ったが、そんな母の物言いが妙に引っ掛かるので、私は無言で姉を見ると、姉は「あれはお供えのダンゴとお菓子を集めているんだから、黙っていればいいの」と教えてくれた。
お盆や彼岸になると、墓前にお供えした物を集めて歩く人達がいるとは聞いていたが、実際に出会ったのは初めてだった上に、それが自分達とあまり変わらない子供だったので、私は何だか気が咎めて、少し早足で列の前に出ると、そのまま本堂の前まで駆け下って行った。
一番上の姉らしい子は、多分下の姉と同じ位の年だろうか。
あとは私よりずっと年下の男の子が二人、見るからに粗末な身なりと薄汚れた顔に、その姉弟の家の貧しさが滲んでいるのが、子供の私にもよく分かった。
聞かなくても大体の察しはついたが、念の為に姉に問いただすと、姉は「ダンゴの方は醤油で煮てごはん代わりにして、お菓子は大事に取っておいて少しずつ食べるみたいだよ」と言った。
なぜ姉はそんな事を知っているのだろうかと不思議に思ったが、あの姉弟の姉が小学校時代の同級生だったそうで、中学に進む時に転校していったのだと言う。
その子供の事は小学校の頃から皆が知っていたが、誰も口にする者はいなかったし、その事で本人をいじめる奴など一人もいなかったそうだ。
おそらく本人達が進んでしているのではなく、親に言い付かっての事なのだと思う。
辛く悲しい用事だが、姉弟達は家の事情を察して、恥ずかしさを堪えて墓地を歩きまわるのだろうと考えると、私はその夜、なかなか寝付く事が出来なかった。
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- 平成17年8月17日(水曜日)
【晴】《16日の続き》
我が家の墓地の左側に立つ椎の木は、太さが優に1m余もあり、見上げると八方に枝が広がって、その下に深い影を作っている。
そのため墓地にはいつも落葉が降り積もっていたが、迎え盆の時にきれいに掃除してあったので、敷地内はそれほど散らかっていなかった。
それでも母は備え付けのホウキを使って、僅かな落葉を掃き集めている。
母はホウキを使いながら、口の中で何やらブツブツと唱えてるのが癖だった。
あの頃は、人が祈る姿を色々な所で見る事が出来た。
神社や寺以外にも辻々の堂や祠の前で、人はよく額突き祈っていた。
母もそんな人達の一人だったのだろう。
私は子供ながら、そんな母や祖母に自分には備わっていない峻厳さを感じて、つかの間近寄り難い気持ちになった。
掃除と水で墓所を清めると、母は姉達に手伝わせて数ヶ所に花と供物を供え、持参した線香の束に火を点けて皆に声を掛けた。
「お待たせしました。どうぞお参り下さい」
その声に、墓地の外で待っていた客達が、一人づつ墓標の前に運んで行く。
私は入口の脇に立って、母から渡された線香を数本づつ、墓参の客に手渡して行く。
反対側には下の姉がダンゴの入った重箱をかかげて、墓参を終えた客にすすめるのだった。
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- 平成17年8月16日(火曜日)
【晴】
送り盆の日の夕方になると、私は決まって祖母と母と一緒に寺に出掛けて行った。
私だけでなく、大抵は姉達や居合わせた客も来るから、時には10人近い集団になる事もある。
寺には花と果物やお菓子そしてダンゴ、ナスとキュウリで作った牛と馬などの盆ガラなど、結構荷物が多く、その上線香や火付け道具、寺に着いてからは水桶も加わるから、どうしても子供の手が必要なのだ。
家から寺までは、祖母の足に合わせても5分足らずの距離で、境内までの急な石段の下の脇に、盆ガラを置く場所が用意してあった。
もう沢山の人が祖霊を送るために寺を訪れたのだろうか、ナスやキュウリの牛馬や素焼きの器などが、堆く積まれていた。
母に言い付かって、本堂脇の井戸から備え付けのブリキの桶に水を汲んで、墓地の入口の六地蔵堂で皆に追い付き、通い慣れた参道を登って行く時、私はいつも言い知れない安らぎを感じるのだった。
いや、安らぎというより、ある種の華やぎを伴った心の寛ぎといった方が的を得ているのだろうか。
墓地全体が古樹の森の下にあるために、参道のほとんどは緑陰の下にあった。
そのせいだろうか、道にはよく蛇やガマが出ていて、あちこちで墓参の人が悲鳴を立てていた。
「墓地の生き物は決して虐めてはいけないよ」
そんな時、母は口癖のように同じ事を私達に言った。
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- 平成17年8月15日(月曜日)
【晴】《14日の続き》
私は母の言葉を聞くと直ぐに(そうか、もっと相手の事を考えなければ駄目なんだな)と、つくづく悟ったと同時に、何だか胸の辺りにつかえていた物が、すっと無くなったようなスッキリした気持ちになった。
気が晴れた私は、もう一度定方のオジさんの顔を見たいと思い、朝市に出掛けた。
「おお晃ちゃん、さっきお母さんが来てミキサーと電熱器買ってくれたよ。あとで届けるからジュースいっぱい作ってもらいな」
オジさんは私を見るなり、上機嫌で話し掛けて来た。
「ウン分かった。自分でも使えるようにするから、オジさん持って来た時に作り方教えて」
私はオジさんの機嫌が直ったのが嬉しくて、大した用もないのに、長い間オジさんの店の脇に立っていた。
朝市が終わり、外は段々と暑くなって来たので、私は家に戻って少し遅目の朝食を摂った。
食べながら台所を見まわすと、多分母が嫁いで来た頃から使っている物も沢山ある中で、石油コンロだけが変に目立って、そこだけが何となく違和感を醸しているのに気が付いた。
我が家の台所は、板の間や備え付けの戸棚、二つ並んだへっついなど、ほとんどが黒か黒茶色だった。
その中で石油コンロだけが、金属的で色も白だったから、何となくその場に合わなかったのだ。
この台所にミキサーが来ても、いったいどこに置けばいいのだろう。
私は箸を口に運ぶ事を止めずに、そんな事を考えていた。
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- 平成17年8月14日(日曜日)
【晴】《13日の続き》
「俺もういい、これいらない」
ジュースが半分残ったコップをオジさんに返そうとしたら、うしろから「よし俺が飲んでやるからコップくれ」と声が掛かったので、ビックリして振り返ると、胡麻塩頭で無精ヒゲの少し汚れた人が、右手を真っ直ぐに伸ばして人ごみを掻き分けながら近付いて来た。
私は手にしたコップを反射的に渡すと、その人は一気に中身を飲み干したあと、コップの中に指を突っ込んで、内側についていたジュースの残りまで舐めとってから「ウン旨かった」と言ってコップを返した直後に、まるで悪い事をしたかのようにコソコソとその場を去って行った。
定方のオジさんは私からコップを受け取りながら、誰の目にも分かるほど嫌な顔をして私を見たが、直ぐに笑顔に戻って「慣れない味だからビックリしちまったんだよな」と、その場の気まずい雰囲気を打ち消して、次のジュース作りを始めた。
私は何となく気が咎め、そこに居づらくなったので、スゴスゴと店の前から逃げ出した。
(オジさんに悪い事したな。あれじゃあ宣伝にならねえよな)
そのあと私は、他の店を冷やかして歩く気にもなれず、早目に家に帰った。
「おや早かったね。ミキサーで作ったジュースは旨かったかい」
工場の板の間で朝茶をふるまっていた母が、私の顔を見ると嬉しそうに言った。
きっと我が子が良い思いをして来たと信じて疑っていないのだ。
「あんまり旨くなかった。病気の時に飲むやつの方がずっと旨いよ。何だかドロドロしてて甘くねえし、半分しか飲めなかった」
私はその時の様子を、出来るだけ詳しく母に語って聞かせた。
じっと話を聞いていた母は、黙って立ち上がると外に出て行き、やがて間もなく戻って来ると「ミキサー注文して来たよ」と言った。
私は驚いて「どうして、ジュース作っても旨くねえよ」と尋ねると、母は「せっかくお前に初物を飲ませてやろうと、オジさんは一生懸命に作ったのに、お前はそうやって人の親切をドブに捨ててしまったんだよ。お前がオジさんの気持ちを分かってあげて、少し位まずくても、我慢して飲んでれば、もしかしたらミキサーが売れたかもしれないのに、さっきのお前の話じゃ誰も買ってくれないだろうから、お詫びにうちで買ったんだよ」と言った。
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- 平成17年8月13日(土曜日)
【晴】《12日の続き》
「ハイッ、これでもう出来上がり」
ミキサーの中のリンゴは、あっという間にジュースになってしまった。
オジさんはミキサーの本体から、大きな取っ手の付いた容器を外すと、脇に用意してあったコップを手にして、両方を顔の前あたりに持って来ると、店を囲んでいる人達によく見えるように、ゆっくりと左から右に動かしながら、中身のジュースをコップの中についで行った。
あたりには甘酸っぱい香が漂い、私達は思わずグッと生ツバを飲んでしまった。
「ハイ、晃ちゃん、どうぞ召し上がれ」
オジさんは芝居がかった口調で話し掛けながら、ジュースのコップを私の前に差し出した。
私は嬉しいのと恥ずかしいのとで顔が真っ赤になってしまったが、この幸運を逃したくない一心から、自分でも驚く程の早さでコップを受け取り、ニヤニヤと照れ笑いをしながらあたりに視線を走らせたあと、緊張でカラカラに乾いた口元にコップを当てて、最初の一口を飲んでみた。
天然ジュースは物凄く旨いものだと聞いていた私は、コップの中身を口にする寸前まで、今までに味わった事もない目のくらむような味を勝手に想像していた。
(うん?こりゃ何だ?酸っぱくって全然甘くねえじゃねえか)
今までにもビン入りのジュースは何度も飲んでいたし、それ以外のラムネやサイダー、そして時にはカルピスのような、口にすると思わず身震いがしてしまうような旨い飲み物だって飲んだ事がある。
ミキサーで作った生ジュースは、そんな物など比べ物にならない位旨いのだと信じて疑わなかった私には、今口にした飲物よりは、病気の時に母が作ってくれた摺りリンゴの絞り汁の方が、はるかに甘くて旨かった。
それでも子供心に、ここで飲むのを止めると、せっかく私を名指ししてジュースを作ってくれたオジさんに悪い気がして、我慢しながらコップの半分ほどを何とか飲み下したのだった。
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- 平成17年8月12日(金曜日)
【晴】《11日の続き》
広場に着くと、ちょうどラジオ体操が始まったところだった。
前奏の流れている内に人の群れの中に紛れると、近くに居た桜木のヨリ子ちゃんが、まるで咎めるように、私の頭から足の先までをジロジロと睨みつけ、小声で「朝市で油を売ってたんでしょう」と言った。
「違うよ、ちょっとだけ通っただけだよ」
「嘘っ、フラフラ遊んでたってトモ子ちゃんが言ってたもん」
「違うって、定方のオジさんに呼び止められたから、ちょっとだけ店の前に居ただけだよ」
それでもヨリ子ちゃんは疑わしそうに私を見ながら、さも意味ありそうな口調で「とにかくサボっちゃダメなんだからね」と言った。
(分かってるよバーローめ)
今年の夏休みのラジオ体操と私の事は、町内の子供で知らない奴はいなかったから、その事をチラつかされると弱いのだ。
体操が終わりカードにハンコを貰うと、私は全速力で朝市に駆け戻って来た。
息が切れる程の距離でもなかったが、定方電機の出店の前に着くと、あっという間に全身汗まみれになっていた。
「オッ帰って来たな。ちょうど良かった。これから旨いリンゴジュースを作るからよく見てるんだぞ」
定方のオジさんは私を見るなり、その場に居る人達に聞こえるような大声で語り掛けると、少し大袈裟な身振りで皮を剥いたリンゴを手に取ると、大きなコップのようなミキサーの中に一個また一個と入れて行った。
切ったリンゴがコップの口まで入ると、今度はヤカンの水を注ぎ、次にオジさんは芝居がかった手付きで、ミキサーのスイッチを入れた。
ガリガリガリ、ブーンという音と共に、透明なコップの中身は、あっという間に固体からドロッとした液体に変わっていった。
「ウオーッ」という歓声があがると、オジさんは“どんなもんだ”と言わんばかりに腰に手を当ててそっくり返るのだった。
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- 平成17年8月11日(木曜日)
【晴】《10日の続き》
待ちに待った朝市は快晴だった。
午前7時からのはずなのが、もう6時頃から人が集まり、あちこちで商売が始まっていて賑やかだ。
店は新道の両側に約30軒ほど並び、どの店も広さは戸板一枚位で天幕はなく、まるで闇市のようだと年寄り達が喜んでいる。
定方電機の店は、ちょうど高際の叔父さんの家の前にあって、私が行くと叔父さんと叔母さんが大忙しで準備をしているところだった。
「オッ晃ちゃん来たか。もうちょっと待ってな。今すぐミキサーが使えるようになるからな」
叔父さんは少しガラガラ声で私に声を掛けて来た。
「電気はどうするの?」
「高際さんから貰えるから大丈夫だよ」
見ると長いコードが地面を這って高際の玄関の方にのびていた。
叔母さんは戸板の脇でリンゴの皮を剥きながら、何だか楽しそうに鼻歌を歌っている。
もう陽は出ているが、まだ7時前なので涼しかった。
「叔父さんラジオ体操に行って来るから、それまでジュース作らないで待ってて」
「あ〃帰って来るまで待っててやるよ。色々仕度があるから、店開きは7時少し過ぎると思うよ」
本当はラジオ体操をサボリたかったのだが、あとで面倒な事になるので、どうしても行かなければならなかったので、そればかりが気がかりだったが、叔父さんの一言で安心して、私はラジオ体操会場の八雲神社に走った。
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- 平成17年8月10日(水曜日)
【晴】
栄町の茂山鉄工の前から東に真っ直ぐに通っている道は、薬師様の前まで来て堂前の広場となり、そこからは南北の露地が、南は両毛線、北はお稲荷さんの別れの辻まで続いていた。
薬師様の裏はN染工場が公園通りまで突きぬけていたが、工場が潰れると広い道路になって、栄町から緑町までが一本の道路で繋がった。
薬師様は少し北の角に移動し、南にぬける露地も線路まで道が広がり、「西駅」という無人駅が出来て、駅前は小さな公園をかねた広場に生まれ変わった。
新しい道には砂利が敷かれて、大人達はその道路を「疎開道路」とか「新街道」とか呼んでいたが、大抵は「新道」で意味が通じたようだった。
道が出来てしばらくすると、月に一度日曜日に「朝市」が開かれるようになった。
とはいっても、ほとんどは普段から見慣れている近所の店が、戸板を一枚ほどの出店を出すだけだったが、それでも何でもない街道が、その日だけは賑やかで楽しい場に生まれ変わるのは、子供達以上に大人が喜んでいたようだった。
最初の朝市が開かれた時だったが、定方電機のおじさんの店が、ミキサーという新しい電機製品を使って、りんごジュースを作ってみせるというのが大評判となり、まだ準備中だというのに、露店の前は多勢の人だかりが出来ていた。
何日か前に我が家に来たおじさんが、父や母にその事を一生懸命話していた時だったが、たまたま学校から帰って来た私を捕まえると、おじさんは「晃ちゃん、今度の日曜の朝市に、ミキサーという新しい機械でジュースを作るのを見せるからさ、晃ちゃんは早く来て、おじさんの店の一番前で待ってな。そしたら晃ちゃんに出来たてのジュースを飲ませてやるからな」と言った。
私は夢のような話に我を忘れて、思わず「ワーッ」と叫びながら「行く行く絶対に行く」と二つ返事で応えた。
それからの数日間は、日曜日が楽しみで夜もなかなか寝付かれず、来る日も来る日も、頭の中は本物のジュースの事でいっぱいになり、あれやこれやと想像しては、その日を今か今かと待っていた。
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- 平成17年8月9日(火曜日)
【晴】
お盆が近付いて来ると、普段疎遠になっている親戚や知人が、チラホラと訪ねて来るようになる。
大抵は遠方から来るので、何日かは泊まり込みになるから、家の中は何となく華やいで、大人ばかりでなく子供達も、気分が浮き浮きして楽しかった。
客がある食卓には、いつもとは違うご馳走が必ず並び、それだけでも嬉しいものなのに、久しぶりに会う人達が物珍しくて、毎日がお祭のような気分だった。
お客は大抵100円札の小遣いを気前良く子供達にふるまってくれるだけでなく、お土産も沢山持って来てくれたので、その楽しさは文字通り天にも昇る心地だった。
客の大半は子供達も一緒に連れて来たから、私達は年の近い従兄弟達と、日の暮れるのも忘れ真っ黒になって遊んだ。
汗とほこりまみれの体を、ワイワイと騒ぎながら風呂で洗い、大人より早目に食卓につくと、日の長い夏とはいえ、外はもうすっかり暗くなっている。
何かと騒がしい子供達は二階の奥の部屋に早目に追いやられ、部屋いっぱいに並んで敷かれた布団の上で、いつまでも寝ずに話を続けるのが面白くて、早く寝かされるのも苦にならない。
親戚の子が泊まりに来ている時には、一緒に連れ歩くのが義務だったから、近所の仲間にとっても、いつもとは少し違った顔があるのが珍しいので、誰もいじめたりする奴はいなかった。
そんな数日間が過ぎ、やがて客が去ると、また次の客がやって来て、新しいときめきの日が始まるのだ。
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- 平成17年8月8日(月曜日)
【曇】《7日の続き》
七夕が終わったあとの飾り竹は、8日の夜に渡良瀬の川原に持ち寄って、神主の祝詞のあと火をつけて燃やした。
緑町を中心に4町内ほどの飾りが、商店や個人の家から集まるのだから、その量は半端ではなく、炎の高さは文字通り天を焦がす勢いだった。
木と違って竹が燃える時には、パーンと大きな音で幹が破裂し、その毎にパッと火の粉が飛び散るので、私達は音に合わせて、ワーッと歓声を上げながら炎の周りを駆け回った。
「火を見て興奮するのは馬鹿の証拠だってよ」
年上の女子達が、騒ぎまくっている私達を、冷ややかに見ながら、芯から馬鹿にした口調で言った。
「馬鹿でけっこう利口じゃ困る」
私達も負けずに、手拍子を打ちながら女子達を囃し立て、お互いの間が次第に険悪になって来ると、大抵は女子の方から先に手を出すのだった。
当たっても大して痛くない位の石を拾うと、それを足にぶつけるのだが、それでも当たり所が悪いと物凄く痛かった。
年上とはいえ、女子に石をぶつけ返すのは、いくら腕白な私達にも、さすがに出来なかったから、代わりに砂利運びの馬が落とした糞を見付けては、それを投げつけて応戦した。
女子達は自分に当たる物の正体が分かると、絞め殺されるような悲鳴をあげながら逃げまくるのだが、昼間でも足元が悪いのに、いくら炎で明るいとはいっても、大小の砂利や玉石がゴロゴロしている川原を、転ばずに走れるはずがなく、ましてゲタばきの足では、まず例外なくスッ転んでしまうのだった。
転んだ所に追い打ちをかけるように、見事な馬糞を顔で受けた子などは、あまりの事に手放しで大泣きしている。
最初は厳かに始まった行事も、大抵はこんな調子で終わるのが常だったのだが、なぜか問題になる事はなかった。
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- 平成17年8月7日(日曜日)
【曇】
通4丁目から通2丁目の間には、七夕の飾りが通りの空を覆うばかりに並んで他とは比べ物にならない程、華やかで豪勢な通りになった。
飾り付けは8月に入ると直ぐに始まったから、子供だけでなく大人達もこぞって見物に出掛け、通りは連日人の波でごった返した。
大通りに面した町内の商店も、七夕の飾り付けはしていたのだが、その豪華さや規模は、まるで大人と子供ほどの違いだったけれど、それなりに七夕という夏を彩る祭の雰囲気を作っていて、学校の行き帰りなどには、充分に楽しませてもらえた。
その頃から七夕祭といえば仙台が有名で、季節になるとニュース映画や新聞雑誌などで紹介されていたので、さすがに足利が日本一とは思わなかったが、近隣の町と比べたら、おそらく一番といえたのではないだろうか。
私達は毎日のように飽きもしないで出掛けて行き、七夕飾りの下を行ったり来たりして時を過ごした。
夜になっても通りの店は閉店をせずにいたし、おまけに大抵は夜店が出ていたから、昼間とは全然違う様子を見学するために今度は家族と一緒に出掛けたりして、昼間目をつけていたオモチャやお菓子を買ってもらったりした事もあったが、ほとんどは手ぶらで帰る方が多かった。
それでも、まだ昼間の熱気が立ち昇ってくるアスファルトの上を、カラコロとゲタを鳴らしながら行き交う人達に混じって、トウモロコシやブッカキ飴、焼きイカや綿飴などの香りの中を、これといったあてもなく、ブラブラと歩いて行くのも、夏の夜の夢のような感じがして楽しかった。
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- 平成17年8月6日(土曜日)
【晴】
姉達と共通の物があるとすれば、それは読書だったろうか。
なぜか我が家には読書家が多く、私もいつの間にか本の虫になっていたが、隣の叔父叔母の影響も、かなりあったようだ。
私は直ぐ上の姉の読書する姿に啓発され、小学校4年の時に本の魅力のとりこになった。
以来、活字の魔力にとりつかれ、現在に至っても、その呪縛から解放されていない。
本読みにとって何が辛いかといえば、それは停電だった。
毎晩2時間位は停電になるので、その間はローソクかランプの灯に頼る以外になく、とても読書が出来る程の強い明かりは無理だったので、ただじっと電燈に灯が入るのを待つのが日課だった。
だからこそ、家族は会話するのが当たり前だったので、どこの家でも沈黙には縁がなかったようだ。
停電の時の来客ほど有難いものはなく、大人も子供も喜んで迎え、客も自分が歓迎されているのを知って、その場はパッと明るくなったものだった。
赤く小さな明かりの中で、それぞれの顔の影が揺らぎ、灯の届かぬ闇の中には、見慣れたはずの景色とは違う異界の佇まいが、じわじわとせまって来る。
私は闇の中の灯火が、たとえようもなく好きだった。
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- 平成17年8月5日(金曜日)
【晴】《4日の続き》
同じ蜂に刺されるのでも、その場所によって痛さに相当の違いがあり、指や顔は他に比べて、かなり痛かった。
山菜やキノコ、薬草などを時々届けてくれる父の知り合いの人は、「ここの家は皆蜂に刺されるのに慣れているから、マムシには随分と気を付けなせえよ。普通なら助かるけんど、蜂毒に慣れた人は危ねえよ」と、来る度に注意してくれた。
近くの公園にも、季節になると蛇の姿を見かける事はあったが、マムシには一度も出くわした事はなかったので、もっと深い山に入らない限り心配はないようだ。
それでも心配になるので「オジさん、蜂に刺されている人が、どうして蛇に噛まれると危ないの?」と質問したら「俺もよくは知んねえけんど、何でも蜂と蛇は毒の性質が逆なんで、片方の毒に慣れた奴が、逆の毒にやられると、普通の人間よりも、ずっと効き目が強くなるんだそうだ」と教えてくれた。
私は自分が他の人に比べたら、何倍も蜂に刺されていると思っているので、もしもマムシに噛まれたら、多分死んでしまうのかと真剣に考えてしまい、何だか恐くて一人では公園に行けなくなってしまった事もあった。
しかし、そんな恐怖も3日もてば良い方で、大抵は直ぐに忘れてしまい、相変わらず野良犬のように駆け回って服を汚して帰るので、いつも母の文句が絶えなかった。
「本当に何を着せても直ぐに汚してしまって、全く張り合いのない子だよ」
そう言われても、着ているものを汚さないでいられる生活なんて、病気かケガで寝込んでいるのならともかく、当時の私達にとっては、およそ考えなれない事だった。
そんな私を二人の姉は、別の生き物でも見るような目で見下ろしては「そばに来ないで」と叱るのだったが、かと言って別に仲が悪い訳でもなかったのだ。
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- 平成17年8月4日(木曜日)
【晴】《3日の続き》
家には祖母が来客の相手をしていて、母の姿は見えなかった。
我が家の玄関は、生前の祖父の仕事の関係で、むしろ細長い土間に近いつくりで、客は大抵上がり框に腰を掛けて、家の者と話をするのが普通だった。
時には一度に7〜8人もの客が重なる事もあったが、そんな時は先に来ていた客が上にあがり、上がり框の席をあとからの客に譲った。
祖母は私の喚き声など、どこ吹く風と聞き流しながら、火鉢の脇に置いてある小箱の引き出しから、銀色に光る毛抜きを取り出し、客との会話を続けながら、私を手招きした。
私は半べそをかきながら祖母に近寄り、促されるままに左手を差し出すと、祖母はすばやく毛抜きで毒針を引き抜き、別の引き出しから脱脂綿を出した。
私はこれまで何度も蜂に刺されていたから、祖母が何をしようとしているのか分かっていた。
祖母は脱脂綿を少しちぎり、それを丸めて指先に持つと、小箱の隣に置いてあるガラスビンに入った液体をしみ込ませた。
ビンの蓋を開けたとたん、まるで共同便所の裏に入り込んだ時のような、プーンと強い臭いがあたりに流れた。
そのビンの中身はアンモニアで、私達は蜂に刺される度にくさい臭いを嗅がされたが、こんな物が本当に効くのかどうか、私にはどうしても信じられなかった。
しかし、この辺の子供達には、もし山で蜂に刺されたら、小便をひっかけて毒を消せという知識が伝わっていて、実際にそうしているところを考えると、小便よりもずっと強いアンモニアが効くというのは、まんざら嘘でもないのかなと無理矢理自分を納得させるのだった。
祖母は刺されたあとをアンモニアのしみ込んだ脱脂綿で拭ったあと、それを傷口に当てて「ホラ、しばらく指でおさえてれば、直ぐに痛くなくなるよ」と言って、また客との対話に戻って行った。
「うーっ、臭っせえ」
私は思わずうめいてしまったが、祖母は全く動じる様子はなかった。
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- 平成17年8月3日(水曜日)
【晴】《2日の続き》
「それみろ俺の言った通りだったじゃねえか。これから悪軍をやっつけに行く船の船長が、「オッパーイ」なんて言う訳ねえだろうが」
オチボーは、さも悔しそうな顔で「おかしいなあ、俺には絶対オーッパアイって聞こえたんだけどなあ」と、未練たらしく言い訳をしていたが、内心では自分の聞き違いを認めているらしく、すっかりしょげ返ってしまった。
「いいか、もう外でオッパアイなんて、でけえ声で言いながら歩くんじゃねえぞ」
私は勝ち誇った気分でオチボーに説教すると、肩で風を切りながら、直ぐ近くの我が家へと帰った。
ところが、家の庭に足を踏み入れたとたん、左手の人差指のつけ根あたりに、まるで焼け火箸を押しつけられたような激痛が走り、私は思わず「ウワーッ」と大声を出してしまった。
慌てて痛むあたりを見てみると、やっぱり蜜バチの針が毒袋をつけたまま刺さっていた。
その頃我が家では蜜バチを四軍飼っていたので、私や家族は勿論、訪ねて来た人もよく刺されて大騒ぎした。
そのために、毛抜きとアンモニアが常備してあって、母は手際良く蜂の被害にあった人を手当てしたが、なぜか本人が刺されたのを見た事がなかった。
祖母などは、まるで死にそうな大騒ぎをしたものだったがもしかしたら母も刺されてはいたのだが、プライドにかけて痩せ我慢をしていたのかもしれない。
私はそんなつもりなど全くなかったから、「ワーッ、刺された、刺された、また刺された。痛え、痛えよ、死にそうに痛えよ」と、大声で喚きながら玄関に飛び込んで行った。
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- 平成17年8月2日(火曜日)
【曇一時雨】《1日の続き》
オチボーの家の前まで来ると、いたいた。道に面した縁側で、のんびりとトウモロコシを食っていた。
私は縁側に腰をおろすと「今映画観て来たぞ」と言った。
「なに、もう観て来たんかい。それで俺が話した所、物凄く格好良かったんべ」
私は鬼の首でも取った気分で「あのな、あれはオッパイじゃなくてオモカジイッパイだよ。トッパイもトリカジって言ってるんだよ。オメ何聞いてたんだ」と頭ごなしに言ってやった。
「嘘、オッパイって言ってたよ。コーちゃんこそオモ何とかなんて変な言い方に聞き間違えてるんだよ」
「そうじゃねえって。俺は映画観たあと、うちのオヤジにちゃんと聞いて確かめたんだから」
私は父から教えてもらった事を、オチボーに語って聞かせた。
オチボーはそれでも半信半疑だったのか、物も言わずに奥へ駆け込むと「ねえ父ちゃん、船を運転して曲がる時にオッパーイって言うよね」と、仕事中の父ちゃんに尋ねているのが聞こえて来た。
「何ぃオッパイだあ、バカヤロそんな事言う訳ねえだろうが。あれはオモカジってんだ。よく憶えておけ」
オチボーの父ちゃんがワハハッとおかしそうに笑いながら教えている声が、縁側にいる私の所にも届いて、私は(それみろ俺の言った通りだろうが)と、得意の絶頂になり、うつむいて戻って来たオチボーを、もうこれ以上は表しようがないという程、最大限のおちょくり顔で見てやった。
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- 平成17年8月1日(月曜日)
【晴】《31日の続き》
船長の号令を受けて、操舵手が大きな舵輪をくるくると回す様子は、オチボーの言う通り物凄く格好が良かった。
それだけに船長が「オッパーイ」なんて指令を出すはずがないのは分かりそうなものだと思うのだが、オチボーの奴、何でそんな聞き違いをしたのか、全く呆れて物も言えない。
「オモカジイッパイ」が「オッパイ」となるまでは分かるのだが、「トリカジイッパイ」を何で「トッパイ」と聞き違えるのかよく分からない。
とにかく、これで事の真相が明らかになったので、私は何だか奥歯に挟まったものが取れたようにスッキリとした気分で、そのあとの映画を楽しんで家に帰った。
帰ると直ぐに私は父の所に行き「ねえオモカジって何?」と尋ねると、父は「オモカジは船のへさきを右に回す事で、その反対がトリカジだ」と教えてくれた。
「何でオモカジっていうのかな?」
「俺もよくは知らないが、何でもスクリューの回転の関係で、船を右に回すには左に回すより力がいるんだそうだ。だから重舵っていうんじゃないか」
私は父の説明に目からうろこが落ちたような気がして、この事を一刻も早くオチボーに教えてやろうと、家を飛び出して行った。
■アトリエ雑記は平成12年12月15日からスタートしました。
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