アトリエ白美「渡辺肖像画工房」 渡辺晃吉
- 平成17年7月31日(日曜日)
【晴】《30日の続き》
銭形平次を観る時に、決まって思う事があった。
それは平次が悪者に投げつけた銭は、その後どうなってしまうのかというもので、映画を観た大抵の奴が、私と同じ疑問を持っていた。
投げたあとは探して拾うんだという奴もいれば、投げっぱなしで拾わないという奴もいて、その話になると、いつも大騒ぎの口論になってしまうのだった。
私の考えでは、あとで近所の子供達が拾って、自分の小遣いにするのではないかと思う。
そう言うと、拾った銭は交番に届けなければ駄目だから、江戸時代だって多分同じだろう。だから拾った奴は平次に返すんだという反論もあった。
子供達だけではなかなか結論が出ないので、大人に聞いてみようという事になり、ある時マー公が代表して父ちゃんに聞いてみると、まだ話が終わらない内に「下らねえ事聞くヒマがあったら、少しは家の事手伝え」と、大目玉とゲンコツを食らってオイオイ泣きながら逃げた。
結局この問題は結論の出ないまま現在に至っているが、実際はどうなのだろうかと、今でも時々考える事がある。
銭形平次が終わり、目的の海洋活劇が始まった。
私は例の「オッパイ」が、いつ出て来るか分からないので、便所に行きたいのもガマンして、じっと画面に見入っていた。
ところが、そろそろ終わり近くなっているというのに、なかなかその場面が出て来ない。
とうとうガマン出来なくなって便所に飛び込み、それでも耳だけは聞こえて来る音に集中していた。
慌てて席に戻った直後、Gメンを乗せた船が闇夜の海を敵のかくれがに向かって行く時、双眼鏡を目に当てた船長が操舵士に「オモオカアジ、イッパイ」と号令。それを受けた操舵士が「ヨーソロー」と返答した。
私は(あ〃、これだ)と思った。
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- 平成17年7月30日(土曜日)
【晴】
母屋から工場に行こうと外に出ると、糸井のオチボーが向こうからやって来た。
オチボーは両手で何かをくるくると回すような格好をしながら「オッパーイ、オッパーイ」と叫んでいる。
「オチボー、おめ何やってるんだ」
私が声を掛けると「昨日映画観て来たんだけど、船を動かす時にオッパーイオッパーイって言いながら舵回すんだよ。反対に動かす時はトッパーイって言うんだけど、それが物凄くカッコいいんだ。俺また観に行く」と、嬉しそうに言った。
「本当かよ。船を動かす時に何でオッパイって言うんだよ。意味がわかんねえじゃねえかよ」
「だって映画の中でそう言ってたんだから仕様がねえだんべ」
私はオチボーの言う事が何とも信じられず、この耳で確かめる事にした。
オチボーが行ったのは近くの「しんせん」に決まっているから、これから入っても充分明るい内に出て来られる。
「しんせん」の今週の上映映画は、わる軍の密輸ギャング団と、いい軍の麻薬Gメンとの戦いを描いた活劇で、横浜港が舞台だった。
あとは長谷川一夫の銭形平次と、雪女郎シリーズの三本立だから、例の「オッパーイ」という掛け声が出て来るのは、海洋活劇に違いないと見当をつけた。
館内に入ると、銭形平次の途中だったので、なるべく前の方の席に座ると、表の売店で買ったせんべいを食べながら画面を楽しんだ。
私は長谷川一夫の銭形平次が大好きだったが、一編毎に変わる八五郎役にも関心があった。
アチャコ、伴じゅん、堺しんじ、益田キートン。
いずれ劣らぬ名優が、他にはない個性で脇を固め、相手役の女優と共に画面に彩りを添えていた。
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- 平成17年7月29日(金曜日)
【曇時々雨】《28日の続き》
工作の材料には、紙や布、銅板や針金などもあったが、やはり木が一番多く使われた。
かと言って町内の材木屋に仕入れに行くような事は、余程の場合以外めったになく、大抵は家の周辺に転がっているもので充分まかなえた。
板切れや棒切れのない家は、まず無かったからだ。
カンナやノミなどの道具も、ほとんどの家に揃ってはいたが、その良し悪しには大きな差があって、サビだらけで刃もボロボロな状態では到底使えないから、手入れの行き届いた奴から借りる事になる。
何も人から借りなくても、自分のを手入れすればいいのだが、それが出来る位なら、サビや刃こぼれは作らないという訳なのだ。
貸す方はブツブツ文句を言いながらも、結局大事な道具を貸す事になり、そのあとで必ずケンカになった。
ろくに手入れも出来ない奴に使われた道具は、ほとんどどこかが傷付いてしまうからだ。
中には大きな刃こぼれを作られて、持ち主がワンワンと大きな声で泣き出してしまう事もあった。
そんなものを持ち帰れば、父ちゃんのでかいゲンコツを食らうのは間違いないからだ。
そんな時は、仲間の中で研ぎ一番上手い奴が、何とか体裁を整えてくれるのだ。
別に助け合っているつもりはなかったが、相互扶助の精神は自然に身に付いていて、それが普通の日常だった。
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- 平成17年7月28日(木曜日)
【晴】《27日の続き》
手先が器用という程でもないし、かといって成績が良い訳でもないくせに、気位だけは人一倍強い奴もいて、そういう奴は決して宿題の仲間には入って来ない。
人に教わる位なら、どんなに下手くそでも自分でやる方がましだという訳である。
そんな奴の一人にHがいたが、こいつは去年苦し紛れに、家にあった衣紋掛(ハンガー)を持ち出して、わざわざ小刀で表面を削り、いかにも手作りしたようにごまかしたまでは上出来だったが、ワニスの上から白いペンキを塗ったのが失敗で、ペンキを突き抜けて下のワニスが滲み出て来て、何だか汚らしい仕上げになってしまったのと、中心の引っ掛け金具の細工が、小学生では絶対に無理な造作だったので、たちまち先生にバレてしまった。
Hは物凄く怒られて廊下に立たされ、みんなの笑い者になった事があった。
実は私も、直ぐ上の姉が小学校5年の時に提出した自由研究を、先生が書いた批評の部分だけ破り取り、かなり上手にごまかして出した事があったが、たちまちバレてしまい、えらい目に合った。
幸いな事に、自分自身の自由研究も提出していたから、何とか許してもらえたものの、先生の目は決して節穴ではない事を、骨の髄まで思い知らされた。
Hや私に限らず、何とか楽してごまかそうとする奴らが少なくなかったから、先生の方だって気を入れて検査しているに違いない。
それでも中には、親が何もかも作ってくれた工作作品を、堂々と持って来る奴もいたが、それはなぜか文句を言われずに通過するのには、正直納得出来ない部分もあるにはあった。
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- 平成17年7月27日(水曜日)
【曇】
問題集などは別にして、自由研究や工作の宿題は出来るだけ7月中に済ませて、本番の8月は目いっぱい遊ぼうと思っているのは私だけではなかったので、時間を決めて集まると、各自の得意分野で協力し合った。
研究は苦手だけれど工作は得意という奴は、その逆の奴と手を組んで、お互いの力を交換するのだ。
得意という程ではないが、誰かに手伝ってもらえば、かなり良い物が出来るという奴には、一番ふさわしい助っ人がついて、助言をしてくれるので、トンカントンカンと道具を使う音、ノートや参考書を片手に、結構真剣な表情で資料を作る子供達の姿が、町内の所々で見られるようになる。
不思議な事に器用な奴は勉強が苦手という事が多かったから、こんな事にはお互いの十八番を提供して、その見返りに自分の苦手な分野の穴を埋めてもらうのだ。
勉強もそうだが、手先の器用不器用の差は、文字通り大人と子供以上に開いているから、教える奴は段々とイライラして来て「そうじゃねえよ、板は足でしっかり押さえてねえと、ノコギリ使う時に動いちまって切れねえよ」とか「なんべん言ったら分かるんだよ。釘を打つ時は指で持ったまま金ヅチを使うんだよ」などと語気が強くなって、最後には必ず何組かがケンカになるのだ。
そんな事は毎日だったから、自分達のそばで誰がケンカしていても、皆は知らんぷりで目の前の課題に没頭している。
何しろ町内のどこに行っても、大勢の子供がいた時代だから、ガキのケンカなど、自分のほ〃をかすめる風のようなものなのだ。
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- 平成17年7月26日(火曜日)
【晴】
7月も末に近付くと、お化け提灯用のスイカが、八百屋だけでなく駄菓子屋や、道端でも売られるようになる。
直径が15cmか、20cm位の大きさで、勿論食べる事は出来ないし、値段も10円程だったから、多分スイカ畑で選った物を売っているのだと思う。
お化け提灯の作り方は最初が難しくて、まずスイカのうしろに丸い穴を開けるために刃を入れるのだが、上から削ぎ落とすように切ると、大抵は切り口のどこからかにヒビが入り、もう使い物にならなくなってしまう。
ヒビの入らない穴の開け方は、刃物のとがった先をスイカの中心に向かって突き入れ、ゆっくりと円形に切り取って行くのが一番無難だった。
ちょうど頭の手術の時に、頭蓋骨を丸く切り取るのと同じ方法だ。
次はその穴からスプーンを使って中身をきれいに取り出し、今度は表面から目鼻口を、なるべく怖そうに切って行く。
最後にローソクを立てるクギを下から刺し込み、上の方に四ヶ所程小さな穴を開けてヒモを通して出来上がりだ。
暗くなるのを待って提灯に灯を入れると、明るい所では別にどうという事もないが、闇の中では釣り上がった目や大きく裂けた口が、中のローソクの光でチロチロと動くようで、結構怖いものだった。
首尾よくお化け提灯を作れた奴も、残念ながら失敗した奴も、特別に申し合わせた訳ではないが、同じような時刻に家の前や辻に集って来て、お互いの作品を品定めしながら、やがてさらなる暗闇を求めて、ゾロゾロと提灯行列を始める。
同じような考えの奴は、結構どこにでもいるのか、じっと見張るかせば、隣の町内の方にも鬼火のような光がチラチラと瞬いて、提灯から漂って来るスイカの匂いと共に、夏の夜の原風景が、子供達の記憶の底に刻み付けられて行く。
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- 平成17年7月25日(月曜日)
【曇時々雨】《24日の続き》
集めて来た鉱物標本のほとんどは、同じ種類のものが多かったり大き過ぎたりで役に立たず、結局使えたのは15個位のものだった。
寸法が1cmから3cm位の標本を入れるケースを作るのは、採集するよりずっと大変な仕事だったので、ついでにケースを図工作品として提出する事にして一石二鳥を狙ったが、これは認めてもらえなかった。
こうして一番大変な自由研究の宿題を早目にやっつけると、何だかとても気が楽になって、不器用な仲間の宿題を手伝ってやる余裕まで出て来たから、物作りの腕も段々上達して、こっちの方は文字通り一石二鳥となったようだ。
夏休みの友や教科別のガリ刷の宿題は、すぐ上の姉か近所の年上の仲間から教えてもらえるのであまり苦労もなく、本当に助かったが、正直なところ、これらは勉強というより、ただ答を記入して体裁をつけるだけの作業をしているだけだった。
とにかく物凄い量の宿題だったから、これは絶対に夏休みの間私達を遊ばせないための、大人達の陰謀なのかもしれないと真剣に考えたが、みんなも絶対にそうだと言った。
「きったねえよな大人ってのはよ」
私達は集まると必ず悪態をついて、無慈悲な大人達への鬱憤を晴らした。
「夏休みっていったってよ、ただ学校に行かねえだけで、ちっとも休みなんかじゃねえよな。学校はよお、俺達を休ませるのが勿体無くて仕様がねんだんべ。ケチンボだよな」
「それでも俺は夏休みがあった方がいいな。いくら大変だっていってもよ、学校に行かねえで済むだけでもいいよ」
こんな会話を飽きもせず毎日のように繰り返しながら、みんな結構夏休みを目いっぱい楽しんでいるのだ。
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- 平成17年7月24日(日曜日)
【晴】《23日の続き》
夏休みの宿題のひとつに朝顔の観察日誌というのがあり、他に自由研究がなければ、必ず提出しなければならなかった。
私は朝顔観察が大の苦手だったので、代わりに植物採集標本を作成して提出していたが、毎年同じでは飽きてしまうので、今年は昆虫採集標本を作ろうと、最初の3日間位は大張り切りで駆け回ったのだけれど、種類がなかなか集らず途中で投げてしまった。
代わりに考えたのが、毎日泳ぎに行く渡良瀬川の石を採集だった。
やってみると、これが物凄く面白いのだ。
夏の炎天下の川原は、文字通り殺人的なのだが、直ぐ前には満々とした水の流れがあるから、暑くなれば水に飛び込んで少し遊んでいるだけで、寒い位に体が冷えてしまう。
麦ワラ帽子さえ頭に乗せていれば、何時間でも川原にいられる。
だから植物や昆虫の採集よりもずっと手際よく、沢山の標本を集められるから、かえって楽な位だった。
普段何気なく通り過ぎて行く川原の足元を、じっくりと観察しながら、種類や色の違いを見分けて拾って行くと、今まで気付かなかった事が沢山分かって来て、もう夢中になってしまう。
川原は、まるで宝の山のような所で、特別に掘り返したりしなくても、目をこらして一個一個を見て行くと、青や緑、赤や白、そして透明な石が発見できるのだ。
渡良瀬川の上流には足尾銅山があり、そこから足利までの間にはダムがひとつもなかったから、鉱物標本を沢山採集する事が出来るのだと、たまたま通り掛かった人が教えてくれた。
私は毎日川原を歩き回って標本を集め、何日もたたない内に一人では持ち上がらない位の量になってしまった。
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- 平成17年7月23日(土曜日)
【晴】《22日の続き》
夏の夕飯は季節がら麺類が多く、秋から冬にかけての煮込みうどんに対して、俗にゆで上げという言わば、盛りうどんで、つゆは甘味のほとんどない醤油味か、たっぷりのすりゴマの中に、細切りのキュウリやシソを入れて作る、この辺では冷や汁と呼ばれるゴマ汁で食べた。
薬味は山盛りのゆでナスとみょうが、そして定番のしょうがなどが食卓に並び、夏の夜ならではの雰囲気が漂っていた。
私はどちらかといえば、甘ったるいゴマ汁よりも、少し味の濃い醤油味のつけ汁の方が好きで、手打ちメンのしこしことした歯ごたえがたまらず、まるで飢えた野良犬のように、思わず「ウーッ」と唸りながらむさぼり食うと、横から物も言わず母のゲンコが落ちて来て、我に帰る事がしばしばあった。
午前中の数時間を除けば、真夏の一日を飛び回っている子供は、空きっ腹を抱えた野生動物とたいして変わらない生き物になっているから、静かに夕飯を食う事そのものが、厳しい修行のようで辛かった。
流石の長い夏の陽も、夜の7時半を過ぎると闇に代わって、公園の広場からは、8月の盆踊りの稽古の音が、「早く来い早く来い」とみんなを呼んでいる。
本来の盆踊りは、8月の12日から15日の4日間なのだが、夏休みに入ると間もなく、八雲神社の夏祭りが終わると直ぐに、会場となる広場には高いヤグラが組まれて、毎晩のように踊りの稽古が行われていたから、実際は一ヶ月近く盆踊りをやっている事になる。
稽古がない夜には、のど自慢大会や演芸などが、小さいけれど常設の舞台で開催されていた。
夏の夜は毎晩がお祭みたいなものだったから、夕食後の僅かな時間を、私達は広場で過ごした。
やがて耳の近くの音でさえくぐもる程の睡魔が襲って来て、しばらくの間は必死でそいつと戦うのだが、結局勝つ事は出来ず、やっとの思いで家に帰ると、あとは死んだように眠ってしまい、何だかあっという間に次の日の朝を迎えるのだった。
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- 平成17年7月22日(金曜日)
【晴】《21日の続き》
ラジオ体操が終わって家に帰ると、直ぐに台所の食卓につき、慌しく朝食を摂って、午前10時まで宿題をしなければならない。
時計とにらめっこの長い時間が過ぎて、柱時計が午前10時の鐘を打つと同時に、さらしのフンドシと麦ワラ帽子を手に家を飛び出す。
手近な家から順に誘い合って、皆で渡良瀬川に泳ぎに行くのだ。
毎日10人前後の集団で川原に向かうのだが、同じような連中が、あっちの露地こっちの辻から出て来て、道は子供達で賑やかだった。
私達が水遊びをする所は、深さがヒザ位までの早瀬と、その下流の水深1mほどの静かな流れの辺りだったが、対岸の山辺地区の子供とは、なぜか一緒になる事はなかった。
昼までの約2時間程を水遊びで楽しむと、唇は冷たさで紫色に変色して、体はブルブルと震えが止まらない程だった。
服を着て帰りの道の最初は、真上から照りつける太陽が快い位だが、川原を出て少し歩いた辺りから、徐々に体が暑くなって、家に着く頃には汗まみれとなってしまう。
昼食を摂る前に風呂場で汗を流し、井戸で冷やしたウリかスイカを食べると、スーッと汗が引いてサラサラと気持ちがいい。
泳いだあとは物凄く腹が減るので、昼食はいつも大飯を食う事になり、時々度が過ぎて薬の世話になった。
昼食後1時間程昼寝をして体を休めると、午後は大抵植物採集か昆虫採集に出掛ける。
夕方5時頃に帰宅しても、外はまだ充分に明るかったから、一息入れたあとでブラッと表に出て、近所を流して歩いていると、決まって同じような仲間と出くわし、その時々で場所は違うが、我が家の工場の庭か薬師堂の前、大越や糸井の木戸門の辺りなどにたまって、何するというのでもなく時を過ごし、やがて夕闇がせまる頃になると、一人また一人と家に戻って行く。
夏休みの昼がこうして終わり、やがて夜の部の幕が開く。
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- 平成17年7月21日(木曜日)
【晴】《20日の続き》
朝の5時半頃になると、気の早い世話係のオジさんが、もうレコードを流して参加者に呼び掛け始める。
流す曲は大抵が「朝だ朝だよ朝日が昇る、空に真っ赤な陽が昇る…」というやつか、「朝はどこから来るかしら、あの山越えて野を越えて、光の国から来るかしら、いえいえそうではありません、それは希望の夜明けから、朝は来る来る朝が来るオハヨーオハヨー」か、たまには変にスローな「山には山の愁いあり、海には海の哀しみが…」という、あざみの唄などが流れたりする。
私は毎日その音に無理矢理起こされるのだが、目が覚めた瞬間は、自分がまだ悪夢の中にいるような気分にさせられる。
とうに起きて朝の茶を飲んでいる父や母が、私達の目覚めを察知すると、「さあ早くラジオ体操に行って来なさい」と、決まって口にするのには全くうんざりするのだ。
(うっせいや、言われなくったって行くよ)と言いたいところだが、そんな言葉を口にしようものなら、まるで天地がひっくり返るような大騒ぎになって、少なくとも3時間は家を出られずに、どこかの部屋に閉じ込められてしまう程の、厳しいお仕置が待っている。
だから素直に「ハイ分かった」と、しおらしく返事をして会場に出掛けて行く事になる。
出席カードを首にぶら下げてダラダラと家を出ると、決まって家の前の道を、オッちゃんとオブチンそしてマー公とオチボーが、同じようにダラダラと歩いて来るのに出くわすのだ。
オチボーなどは毎朝半分死んだような顔だったし、マー公なんかは寝ながら歩いているのかもしれなかった。
人見のボクはなぜか違う道を通って会場に行っているようで、同じ道筋なのに決して一緒になる事はなかった。
ラジオ体操は小学生だけとは決まっていないから、中には喜んで参加する物好きな大人も沢山いたので、広い会場はいつも人でいっぱいだった。
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- 平成17年7月20日(水曜日)
【晴】《19日の続き》
夏休みに入り、各町内は一斉に朝のラジオ体操を各々の場所で始めたのだが、今年に限って私が町内の会場ではなく、わざわざ学校まで出掛けて行くのが噂になって、あっという間に事の真相は町内中に広まってしまった。
私は行く道ですれ違う顔見知りのニヤニヤ笑いや、罪のない悪態を聞き流して、毎朝休まずに学校の校庭に通った。
一週間が過ぎた頃、その日の当番の石黒先生が「渡辺君、明日からは学校じゃなくて、町内の会場に行けばいいよ。よく頑張った。偉い偉い」と、先生独特の笑顔で言った。
私は夏休みいっぱい学校に来る覚悟でいたから、それを聞いた時には思わずバンザイをしてしまった。
あんなに嫌だった公園の広場が、まるで天国のように思えるのが不思議だったが、ラジオ体操が終わり家にとんで帰ると「あのね、明日から学校に来なくていいって。いつもの公園の広場に行ってハンコをもらえばいいって」と母に報告した。
最初に私は、母が多分この事を信じてくれないと思っていたが、意外にあっさりと「そうかい、そりゃよかったね。明日からもサボらずに行くんだよ」と言った。
「うん、分かった」
私はその時、嬉しさのあまり素直に返事をして食卓についたが、食事をしながら何かおかしいなと、奥歯に物が挟まっているような気持ちが段々強くなって来るのだった。
いつもの母なら、あんなにあっさりと「そうかい」なんて言うはずがなく、まず一番に「嘘いいなさい。ごまかそうとしたってダメだよ」と、すげなく無視するはずなのだ。
(ハハァン、これは最初から仕組まれてたな)
私は何となく事情がのみ込めたような気がして、一人で納得したのだが、何だか騙された気がして面白くなかった。
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- 平成17年7月19日(火曜日)
【晴】《18日の続き》
Mは自分のしょんべん漏らしの事がもうバレてしまっているのを知ると、頭から湯気を出して怒りまくったが、私にとんでもない仕置きが掛かったのを知って気が済んだようだった。
それに寝しょんべんなんて大抵の奴が経験している事だから、あんまり人の事を言えた義理ではないのだ。
その良い例が、私の斜め前に座っているSさんなんて、小一の時のおゆうぎの練習中に、手を取り合っていた私の目の前で「ハハハッハハハッ」とまるで笑うように泣きながら、立ちしょんべんを漏らした事があるくせに、今ではそんな事あったかしらというようにすました顔をしているのだ。
だからMだって、あんまり気にする事なんかないし、第一私だって去年の夏に家の便所に落っこちて、ふるちんでクソまみれの足を引きずりながら、逆川の洗い場まで父に追いたてられ、大勢の見ている前でゴシゴシと洗われたのを、知らない奴なんかいないだろう。
クラス全員とはいわないが、少なくとも悪ガキ共には例外なく、とても恥ずかしい経験のひとつやふたつはあるもんだ。
Mの気落ちは3日と続かず、あっという間にもとのMに戻って、いつもと変わらない日が戻って来たのが何より嬉しかった。
あとは後日Mとけんかをする時、おもむろに「何だよ偉そうに、保健室のベッドでしょんべんを漏らしやがったくせに」と、奴をやっつけるネタに使えばいい。
その代わり向こうも「ざけんな、便所に落っこちてクソだらけになるよりもずっとマシだ」とやり返してくるに違いない。
その時には「クソはこやしになるけど、しょんべんなんか汚ねえだけで何の役にも立たねえじゃねえか」と言ってやるつもりだ。
私にはやり込められたMが、悔し泣きして飛び掛かって来る姿が目に見えるようで、思わず「クスッ」と笑ってしまった途端、頭の直ぐ上から大音声で「渡辺、お前はさっきから何ニヤニヤしてるんだ」と、川島先生の大目玉が落ちて来た。
私は今度こそ先生に殺されると思った。
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- 平成17年7月18日(月曜日)
【晴】《17日の続き》
母は先生から私のお仕置の事を聞くと、なぜかとても喜んで、その話を伝えに来た川島先生に、何度も頭を下げてお礼をしていた。
二人共私を見ながら、とても愉快そうに話をしているのが、何ともしゃくにさわったが、ここでダダをこねると後が恐いから、黙って言う事を聞いているしかなかった。
私は夏休みになって毎日学校まで行くのかと思うと、あんなに嫌だった公園の広場のラジオ体操が、まるで天国のように思えて来た。
そんな私の心を見抜いた先生は「何もそんなにガッカリしなくてもいいじゃないか。校庭に来てごらん、同じ組の仲間が大勢来てるから毎日会えるよ。仁田山も内田さんも来るし、館野さんや今泉さん、岩崎さんも来るから淋しくなんかないよ」
(なんだよ女ばっかしじゃねえか。男は仁田山だけかよ)
私には先生のそんな慰めの言葉なんか何の役にも立たなかったが、一応ニコッと笑ってごまかす事にした。
その夜、私は隣の京子ちゃんと風呂に入りながら、今までの事を洗いざらい話してグチまくった。
すると京子ちゃんは「晃ちゃんなんかまだいいよ。夏休みのラジオ体操は山小(山辺小学校)まで毎日行くんだよ。それに比べたら西小なんか直ぐ近くじゃないか」と言った。
ひとつ年上の京子ちゃんは、川向こうの山辺から緑町に引っ越して来たあとも、西校に転校しないで、遠い山辺小学校に通っているので、そういう事になってしまうらしい。
私はその話を聞いて、何だか少し気持ちが明るくなって来た。
ここから山辺小学校までは、多分西校までの道程の4倍はあるだろう。
その道程を毎日通う京子ちゃんは、本当に偉いなと思った。
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- 平成17年7月17日(日曜日)
【晴】《16日の続き》
ところが、その考えが甘かった。
ちょうどその時、図書室に用事のあった大貫のお姉さんが通り掛かり、私が立たされているのを見てしまったのだ。
大貫さんの家は私の工場の裏だったから、その気になれば直ぐに親の耳に入ってしまう。
案の定その日帰宅すると、母がてぐすね引いて私を待っていて、お灸をしない代わりに、事の次第を全部白状させられた。
勿論、白状する前に九頭竜様の御札を飲まされているので、本当の事を話すしかなかった。
これを飲んで嘘をつくと、そいつは血ヘドを吐いて死んでしまうのだと、小さい頃から言い聞かされていたからなのだ。
おまけに母の巧みな誘導尋問に引っ掛かって、ラジオ体操の事まで白状させられてしまったので、翌日その事を母から聞いた先生は、この時とばかりに私を地獄の底に落とすような刑を科したのだ。
私は夏休みいっぱい、町内ではなく学校の校庭まで出掛けてラジオ体操をしなくてはならなくなった。
勿論当番先生の監視付きだし、九頭竜様の御札を飲んで誓わされたから、正当な理由がない限り、絶対にサボる事は許されない。
もしもサボれば、私は血ヘドを吐いて死んでしまうからだ。
私はまだ来ていない夏休みを呪い、Mの寝しょんべんを呪い、ラジオ体操を呪った。
しかし考えてみると、九頭竜様というものが、いったいどんなものなのかよく分からない。
私の中には何か形のないモヤッとした、まるで煙のようなものがあるだけで、それがとても恐いものだという事だけは、骨のずいまでしみ込んではいるのだが、具体的な形としてイメージしようとしても、全くその姿が見えて来ないで、それが余計に恐ろしさを生んでいるのだった。
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- 平成17年7月16日(土曜日)
【晴】《15日の続き》
6時限目に戻って来た先生は、教室の中の気配が一変しているのに気付くと、直ぐに事情を察知して気色ばんでしまった。
「喋ったのは誰?」
言葉少なく問い詰める先生の強い視線を避けながら、何人かが私の方をチラチラと盗み見る。
これでは真相を暴露したのは私だと、声に出して言っているのと同じだったから、先生はツカツカと私の前に来ると、物も言わず襟首をつかまえて教壇の前まで引っ張って行き「お前だろう、喋ったのは」と、まるでささやくように言った。
私はそれがかえって恐ろしくなって、直ぐに「ハイ」と白状してしまった。
「お前はどうしてそうなんだろうね。M君が可哀想だと思わないのか。誰だって何もオネショしたくってした訳じゃないだろうに。それをみんなして笑い者にして。お前もみんなもオネショした事あるだろう。なのにどうしてM君の気持ちを理解してやろうとしないんだろうね。本当に悪い奴だお前は」
先生はそう言うと私に梅干をくれた。
梅干というのは両耳の辺りを、拳に握った人差指の第二関節の出っ張りで、ゴリゴリと痛めつけるお仕置で、これが物凄く痛いのだ。
私はあまりの痛さに「イテテ、イテテ」と叫びながら何とか逃げようとするのだが、そうすると余計に痛くなるので、じっと耐えるしかなかった。
「先生がいいと言うまで廊下に立ってなさい」
私は梅干を貰う位なら廊下に立っている方がどれほど良いか分からないので、先生の気が変わらない内にと急いで廊下に出て教室を背に立った。
廊下に立つお仕置は一種のさらし刑だから、廊下に背を向けて立つ事は許されないのだ。
しかし考え方によっては、これほど楽なお仕置もない。
別にどこも痛くないし、立っている間は授業を受けずに済むし、第一こっちが立たされている事なんかを気にする奴なんか、大して居る訳でもないし、せいぜい少しからかいながら通り過ぎて行くだけだ。
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- 平成17年7月15日(金曜日)
【晴】《14日の続き》
先生は右手を顔の前で大きく振りながら「ちがうちがう、あれは水を飲む時に水道の水をかけちゃったから、大事をとって着替えさせたんだよ」と、苦しい言い訳をした。
一同は何となく疑わしいのか、少しの間変な雰囲気が教室に流れたので、先生は奥の手を出して来た。
「人が苦しい思いをしているのに、何だよその態度は。みんなだって具合の悪い時は辛いだろうに。M君だって大変なんだからね。そんな興味本位で騒ぐんじゃありません」と、恐い顔で両腕を腰に当て、大音声で皆を押さえ込んだ。
そうなるともう誰も黙って言いなりになるしか方法がない。
しかしクラスの大半は、何となく様子が変だなと薄々感じてはいるが、実際には何があったのか分からない上に、私と馬場だけは本当の事を知っているのを承知しているから、どうにも面白くないのだ。
だから5時限目の授業がバタバタと終わり、先生が職員室に引き上げると直ぐに、みんなは私と馬場の所にドッと集まって来ると、有無を言わさずに白状しろとせまって来た。
馬場は腕を組み口をへの字に曲げて皆の追究を頑としてはねつけている。
私は本当の事を喋りたくて仕方がなかったので、それほどきつく責められていた訳でもないのに、「勘弁してくれ言うよ言うよ」と、さも強要されたからという下手な芝居をして、事の真相を全部喋りまくってしまった。
教室は蜂の巣をつついたような騒ぎとなってしまい、笑い転げてイスから落ちる奴や、あまりの可笑しさに前の廊下を走りながら大笑いしている奴までいる。
女子は近くの奴と抱き合って笑いまくるし、もう収拾のつかない状態になってしまった。
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- 平成17年7月14日(木曜日)
【曇】《13日の続き》
昇降口には、Mと馬場が下駄箱に身を隠すようにして私を待っていた。
先生は多分森尻先生とベッドの後始末をしているのか、少し待ったが姿を見せなかった。
各教室の授業の音が、遠く近くこだまのように昇降口に流れて来るのを聞いていると、何となく後ろめたい気持ちになるのははぜだろう。
私達3人は思わず身をすくませるようにして外に出るとMに言った。
「早く家にけえれ。先生が今日行くって言ってたから、母ちゃんには本当の事言うんだぞ。嘘ついたって直ぐにバレちまうんだからな」
「分かってるよ。だけど母ちゃん怒るだんべな。オラおっかなくって仕様がねえよ。誰か一緒に来てくんねえかな」
「バカヤロー、そんな事したら今度はこっちがどやされらあ」
Mを送り出して急いで教室に戻り、机に座って窓から校庭に目を向けると、あのバカ校庭を真っ直ぐ横切って正門の方に歩いて行く。
ズボンの代わりに浴衣を着ているので、その姿は何とも変だった上に、ふるちんが気になるのか、妙にモジモジとした歩き方だった。
おまけに汚れた物を前に抱えているから、背中が丸くなって落ち込んでいるのが見え見えだった。
「あれえMじゃねえか。あいつズボンの代わりに何はいてるんだ。なんでけえっちゃうんだ」
Mがトボトボと帰る姿を目ざとく見付けた奴らの一人が、すっとんきょうな声をあげると、今まで気付かなかった連中までも一斉に外を見て、ワッと好奇のどよめきが生まれた。
「みんな騒ぐんじゃないよ。先生が今その事を説明しようと思ってたんだから、静かにして先生の話を聞きなさい」
川島先生は大慌てで皆を制すると、Mは急に具合が悪くなったので、大事をとって家に帰したというような説明をした。
「先生Mはどこが悪くなったんですか?」
どこかのおせっかいが、よせばいいのに余計な質問をする。
「少しお腹が悪くなってね…」
「ははあん、あいつクソもらしたな。だからあんな変なかっこうしてるんだ」
誰かが納得したようなセリフを吐いて腕組みをする。
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- 平成17年7月13日(水曜日)
【晴】《12日の続き》
「あいにく着替えがこれしかないから、家に帰るまでガマンしてね」
森尻先生は子供用の浴衣を一枚、ついたて越しに渡してくれたので、私達は「M今着ているもので、しょんべんに濡れているやつは全部脱げ」と言った。
するとMは「下は全部濡れてるけんど、上はランニングだけでシャツは大丈夫みてえ」と、少し落ち着いた声で答えた。
「そうか、んじゃあ下とランニング脱いで浴衣着ろ。その上からシャツ着てな」
「パンツはねえんかよ。それじゃあ着物の下がふるちんになっちまうよ」
「バカヤロー、本当のふるちんのままで家に帰らなくて済むだけ有難てえと思え。オメエの家まで学校から直ぐじゃねえか。それくれえガマンしろ」
また泣き出しそうになるMをなだめたりしながら、どうにか着替えを済ませ「先生終わりました」と、ついたての向こうに声を掛けた。
「ご苦労様だったね。だけどね、この事は話をしないで黙ってるんだよ。じゃなければM君が可哀想だからね」
川島先生は私達に注意すると、森尻先生の用意してくれた新聞紙に、Mの下着やズボンを包んで、それをMに渡しながら「サアこれ持って今日は家に帰っていいから。これに懲りて二度とこんな事しちゃあ駄目だよ。クラスのみんなには適当に説明しておくから心配しなくていいから。先生も帰りにM君の家に寄るって、お母さんに伝えるんだよ」と、念を入れてMを諭し、そのあと「渡辺君Mのカバンを教室から昇降口に持って来ておくれ。それから馬場君、昇降口までMと一緒に行ってやって」と言った。
教室に急ぐ私の背に、先生は「余計な事しゃべるんじゃないよ」と、分かり切った事を投げて来た。
私は返事もせずに(へん、そんな事くらい分かってらあ)と心の中で毒づきながら、走るように教室に急いだ。
好奇心をむき出しに私をとりまく奴らを押しのけて、私は口をへの字に閉じたままMのカバンを手に持つと、2人の待つ昇降口へと向かったが、心はなぜか妙に浮き浮きしていて、我ながら可笑しかった。
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- 平成17年7月12日(火曜日)
【曇】《11日の続き》
あまりの事に森尻先生はどうしていいか分からず、とにかく担任に知らせなくてはと、大慌てて5組の教室にとんで来た。
5組ではMがいなくなって大騒ぎの最中だったので、担任は森尻先生の話を聞くと直ぐに、私と馬場を呼んで一緒に来るようにと指示を出すと、残りは静かに自習しているようにと言い置いて、まだ訳も分からない私達を連れて保健室に急いだ。
森尻先生の案内で安静室に駆け込んでみると、Mは森尻先生が最初に見た時と同じ姿で、ベッドの上で上半身を起こしていたが、泣き声はすすり泣きに変わり、握り締めた両の拳の甲で、あとからあとから流れて来る涙を、ひっきりなしに拭っていた。
だからMの額は、まるで泥のお面を被っているようだった。
「Mいったいここで何してるんだ。何で断りもなしにベッドに寝てるんだ」
担任の川島先生は泣いているMを叱り飛ばしたが、それが引き金となって、Mはまた火のついたように泣き喚き出した。
川島先生は泣いているMの頭をコツンと一発やってから「いいからもう泣くんじゃないよ。男のくせにだらしがないね」と、更に叱り飛ばした。
Mは必死になって泣き声を殺していたが、やがて落ち着いて来たのか、泣き方も少しシャックリあげる程度にまで納まって来たのを見て、先生は「とにかく着替えなきゃだめだよ。Mどうする?先生に手伝って欲しいかい?それとも渡辺君達の方がいいかい?」と尋ねると、Mは「渡辺と馬場がいい」と蚊の泣くような声で答えた。
私は(やだなあ、Mのバカヤロー昼間から寝小便なんかしやがって。そんな汚ねえ手伝いなんかしたくねえな)と内心思ったが、馬場に目配せすると、Mをベッドからおろして、ついたてのうしろに連れて行った。
Mは自分の小便で濡れたズボンが気持ち悪いのか、ガニ股でヨタヨタと私達に支えられて歩いた。
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- 平成17年7月11日(月曜日)
【晴】《10日の続き》
私は以前に一度だけ授業中に熱が出てしまった事があったが、その時先生に引率されて保健室に行き、2台あるベッドの内、先に寝ていた女子の隣に寝かされた事があった。
ベッドは想像以上に柔らかく暖かくて、飲まされた薬の効果もあってか、熱のある事も忘れてしまう程気持ちが良かったので、家の者が迎えに来るまで、ぐっすりと寝込んでしまった。
しかし、そのあとがいけなかった。我が家の自分の布団とは、比べ物にならないベッドという代物について、私が仲間に話さない訳がなく、少し大げさなところもあったかもしれないが、言葉の限りを尽くして説明したのが、その後のベッド寝小便事件のきっかけとなってしまったのだ。
私の話を聞いていたM(本人の名誉を尊重するため、実名をふせます)は、自分もベッドに寝てみたいと矢も楯もたまらなくなって、ある日の昼休みに一人でこっそりと保健室に忍び込み、ベッドの中にもぐってみると、なるほど話に聞いた通り、自分のせんべい布団とは比べ物にならない寝心地に、すっかりいい気分になって、ぐっすりと寝込んでしまった。
保健室には森尻先生がいつもいるのだが、ベッドのある安静室は、まるで病院の診察室のような部屋の隣にあって、いつもはドアが閉まっているのと、保健室の中を通らなくても、廊下からも出入り出来るので、先生はMがベッドにもぐり込んだ事に全く気付かなかったらしい。
昼休みが終わり5時限目になって、教室ではMがいなくなった事に気が付いて大騒ぎになっていた。
ちょうどその時、森尻先生は誰もいないはずの安静室から、「ワーッ」という泣き声が聞こえて来たのに驚き急いで入ってみると、Mがベッドの上で上半身を起こして大泣きしているのが目に飛び込んで来た。
先生はとにかく「M君そこで何してるの?どこか具合が悪いの?」と問いただすと、Mは「しょんべんが出ちゃったあ。しょんべんが出ちゃったあ」と、更に大声で泣き喚くばかりだった。
Mの訴えに先生は上掛けをめくってみると、シーツはMの漏らした大しょんべんのしみが広々と広がっていた。
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- 平成17年7月10日(日曜日)
【曇時々雨】《9日の続き》
翌日いつもの仲間達と顔を合わせて登校する道すがら、お互いに何か名案が浮かんだかどうかという話になったが、どれも五十歩百歩で使えそうになかった。
7丁目の床屋の四ッ角に来ると、左手からクラスで一番女好きのHが、馬鹿面をぶら下げてガニ股でやって来たので、「Hよオメエ夏休みのラジオ体操出るんか」と家住が聞いた。
「当たりめだんべ、オラまだ夏休みのラジオ体操休んだ事なんか一日だってねえよ」
Hは口を曲げ目をむいて私達に答えたので、もうそれ以上話をするのは止めた。
何しろHは人前でいいかっこしいをするのが大好きで、そこに女子の姿があろうものなら、端で見ていても嫌になる程の意識過剰な振舞いに及ぶのが常の事だったから、朝のラジオ体操はどうでも、会場に皆が集まって来る以上、そんな機会を見逃すはずがないのを気付かなかった私達がバカだったのだ。
「あいつの助平は病気みてえなもんだよな」
ジュン公がしみじみと呟くように言ったのを聞くと、みんな一斉にうなずいてジュン公の意見に同意した。
朝礼のあと日課のラジオ体操が始まったが、最近はなぜか第一より第二が多く、いくら朝とはいえ陽はギラギラと容赦なく照りつけるので、樹影に陣取っている先生達はともかく、私達は全員汗まみれになってしまう。
そして、これも毎度の事だったが途中で何人かの生徒が日射病や貧血でぶっ倒れ、担任や男の先生に体と足を持たれて、保健室に運ばれて行った。
私は一度も倒れた事がなかったが、何日か前に脇に立っていた4組の茂木が、「気持ちわりい」と言いながら白目をむいて私の方に倒れ込んで来た時には、あまり急な事でびっくりしてしまい、茂木を抱き止めたまま私も一緒に倒れてしまった。
駆け付けて来た先生達は私も運ぼうとしたので、私は大慌てて逃げ出したのだが、思えばあの時一緒に運んでもらって、1時限目の授業をさぼれば良かったとあとで気付いて、とても悔しい思いをした。
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- 平成17年7月9日(土曜日)
【晴】《8日の続き》
学校からの帰り道で、いつもの仲間達と栄町のお稲荷さんの日影に陣取って、ラジオ体操の事で何か良い方法はないか話し合ったが、これといった決め手になる考えはなかなか生まれなかった。
その上どんな方法を使っても、結局朝の6時半前には家を出なければならないし、それならラジオ体操に参加したのと変らないので、ハンコをごまかしても大した意味がないのに気付いた。
「今年はラジオ体操やらないんだって」と言っても、あの音楽は物凄くはっきりと我が家まで聞こえて来るからダメ。
「ラジオ体操は4年生までで、5〜6年生は出なくていい」というのも、嘘が見え見えで通用するはずがない。
その内に腹は減るしノドは渇くし、とにかく今日は家に帰ろうという事になって、みんなトボトボと歩き出した。
「だいたいよお、バカのひとつおぼえみてえに、何で夏休みになるとラジオ体操なんかやるんだんべな。俺さあ毎日朝礼のあとにラジオ体操やっても、別に体が丈夫になったとは思えねえし、この間なんか、あんまり暑いんで気持ち悪くなったぜ」
ひとつ年下のジュン公が、真にせまった様子で言ったのを受けて、「本当だよな。俺なんか運動が嫌えだんべ。だからかえって体に良くねえよな気がするんだ」と、オチボーがしみじみと話した。
私は運動好きで活発な方だったから、ラジオ体操が嫌いな訳ではなく、夏休みまでやる事はないじゃないかと、ただそれだけなのだが、本音をいえば朝寝坊がしたかったのだ。
そのくせ親が強制する昼寝は大嫌いで、目覚めたあと決まって頭が痛くなったのだ。
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- 平成17年7月8日(金曜日)
【晴】
7月に入り夏休みも近付いて来た頃、5時限目に町内別子供会の集会が開かれ、会長の露崎のお姉さんから、休み中のラジオ体操と町内旅行について話し合うようにとの指示があった。
私はラジオ体操は嫌だけど、町内旅行は行きたいと真っ先に意見を言うと、何人かの女子から「ラジオ体操は止めないでやって下さい」と反対意見が出て、多数決の結果今年も実行する事になった。
会場は例年通り公園広場、時間もいつも通り午前6時30分と決まった。
私は心の底からゲンナリしてしまって(ああ、今年もまた朝早くから引っ張り出されるのかよ)と、天に向かって叫びたかった。
決まってしまったものは仕方がないけれど、私は絶対に行くもんかと、密かに決心した。
ラジオ体操は毎日朝礼のあとに必ずやっていたから、何も休みになってまで、わざわざする事はないだろうと思っていたのだが、どうやら他の人は、そうは思っていないようだ。
いったい何が面白くて、貴重な夏休みの時間の一部を、ラジオ体操で潰さなければならないのか、私にはよく分からなかったが、親はなぜか喜んでいるようだった。
問題はラジオ体操参加カードの証印を、どうしたらごまかして親を騙すかなのだが、多分みんなと相談すれば、何か良い知恵が浮かぶだろうと、余分な心配はしない事にした。
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- 平成17年7月7日(木曜日)
【晴】《6日の続き》
足利での興行も数日で終わりという頃になると、猫女のオバさんの病状もだいぶ良くなって来て、もう床に就いている事はほとんどなかった。
そんな折に、私は以前から聞いてみたい事をオバさんに質問してみた。
「オバさんはこのサーカスに入る前に、違う所で働いてなかった?」
「よく知ってるね。前はずっと小さい一座で独り芸をやっていたんだけど、もしかしてその時に私を観たの?」
「オバさんかどうか分からないけど、ずっと前に大日様のお祭の時、同じのをやっていた小屋に入った事あるよ」
「あ〃、それはきっと私だよ。前に一度だけ足利に来たから、その時に観たんだね」
私は(やっぱりそうだったのか)と、心のどこかに引っ掛かっていた物が取れたような、スッキリした気分になった。
公園の広場は、間もなく色々な催し物が次々と控えているので、サーカスもそろそろ他の土地に移動しなければならない。
来年になれば、また足利にやって来るだろうが、ここに戻って来る事は多分ないだろう。
やはりここの広場では何かと手狭で、やりにくい事が多いらしい。
私はなぜか、小人のオバさんや猫女のオバさんとは、ここで別れたらもう二度と会えないだろうと思った。
それから3日後に、サーカスのテントは公園の広場から消えて、私は知り合った団員の人達と別れの言葉を交わす事もなかった。
昨日まで広場を埋めていたテントや人の重さが失くなったあとの、からっぽの空間の中に身を置いた私は、意味もなく涙を流しながら、長い間その場に佇んでいた。
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- 平成17年7月6日(水曜日)
【晴】《5日の続き》
結局私はサーカス団の準団員のような扱いを受けながら、みんなの使い走りや小動物の世話などの手伝いをして、毎日のようにテント通いを続けていた。
サーカスの人達にしてみたら、何も私などが居なくても不自由はなかったのだろうが、淡々とした日常に少しだけ生まれた変化を楽しんでいたのだと、大人になってからは理解する事が出来た。
それにしても今とは大違いで、何事についても大様だったし懐が広かったからこそ、見ず知らずの子供を自由に出入りさせても、とりたてて問題になるような事もなく、仲間からは羨ましがられたり妬まれたりはしたが、親に告げ口する奴は意外な事に居なかったようだ。
私はいっぱしのサーカス団員気取りで、時々は裏方の仕事をこなしながら、何気なく観客席から姿が見えるような振る舞いをして、知り合いや仲間をびっくりさせるのが楽しくて仕方がなかった。
思えばあんなにサーカスが恐かった数年前が嘘のようだった。
いくら手伝いをしても別に給金が貰える訳ではなかったが、その代わり団員と一緒に食事をしたり、個人的なお使いを引き受けた時などには、お菓子や小銭の駄賃にありつく事もあった。
しかし何といっても、花形の馬や猿に触ったり出来たので、私は大満足の毎日を過ごしていた。
小人と猫女のオバさんは、私を特に可愛がってくれたので私にもいつの間にか強い愛着が生まれて、二人の手伝いは他の人以上に熱心につとめた。
そんな時に、猫女のオバさんが病気になった。
もともと体が丈夫ではなく、今までにも死ぬような大病を何度か患ったのだと聞いた。
私は心配でたまらず、学校が終わると真っ直ぐに猫女のオバさんが寝ている所に駆け付け、一生懸命に看病したが、いつの間にかそれが私の仕事になっていた。
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- 平成17年7月5日(火曜日)
【晴】《4日の続き》
結局私は仲間と公園に直行する事が出来ず、しぶしぶ音楽室に行って二時間たっぷり練習させられた。
練習がやっと終わると全速力で家に帰り、カバンを放り投げて公園に向かった。
僅かな道のりを行く間にも、昨日とは全く違う本番ならではの音と気配が、ひしひしと伝わって来る。
私は身も心も完全に浮かれ切って、息をするのももどかしい程の興奮状態でテントの裏口に駆け込んで行った。
「あの、小人のオバさんいますか。渡辺ですけど」
「あ〃いるよ、ちょっと待ってな。今呼んで来てやるから」
ドキドキしながら入口の外で待っていると、舞台衣装のオバさんがやって来て「よく来たね、サア中にお入り。今特別席に連れて行ってやるからね」と言いながら、私の手を取って薄暗いテントの中に引き入れた。
オバさんが連れて行った場所は、観客席から見るとちょうど向い側になる舞台への出入口近くだった。
私はコーラスのコンクールで、舞台裏に控えている時と少し似た雰囲気が物凄く気に入ってしまい、出を待つ団員の表情や、演技を終えて戻って来る団員のホッとしたような顔を、いつまでも飽きずに眺めていた。
「ぼうずサーカスは面白れえか。そんならぼうずもサーカスの団員になるか。オジさんがしっかり仕込んでやるぞ」
さっき空中ブランコをやっていたオジさんが、ニコニコ笑いながら声を掛けて来た時には、本気でそうしようかと考えたが、そんな事を母が聞いたら、おそらく死んでしまうかもしれないと思って、「そうしたいけど、多分親がダメって言うと思うから…」と残念そうに答えた。
「ハハハッ、そうだろうな。まあ気にするなよ。その代わりしっかり手伝いをするんだぞ」
私は何か手伝いが出来るのかと大喜びで「ハイ何か手伝わせて下さい」と大声で言った。
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- 平成17年7月4日(月曜日)
【晴】《3日の続き》
先生は益々怒りまくってしまい、おかげで一時限目の授業時間が大幅に短縮されるという、悪ガキ共にとっては棚ボタの朝となった。
勉強するために学校へ行くはずなのだが、担当の先生が病欠で自習になったり、今度のように授業時間が少なくなったりすると、何だか得をしたような気分になるのはなぜだろう。
しかし、そんな子供達ばかり居る訳ではなく、サーカスに熱中する連中を冷笑している奴らなんか、もしかしたら私達とは逆に損をしたと思っているのかもしれない。
そう考えると、私にはあいつらが何か別の生物のように思えて来るのだった。
とにもかくにも、サーカスは今日が初日というのが原因で、その日の授業のほとんどは、皆うわの空になってしまい、先生はのべつ怒りっぱなしだったが、最後には諦めたのか、何も言わずに職員室に戻ってしまった。
私は今日の合唱の練習を当然サボるつもりで、掃除が終わると直ぐに駆け戻るつもりでいたが、その直前に何と同じクラスでピアノ伴奏担当の内田政子さんが「渡辺君今日の練習サボらないで、必ず音楽室に行かなければダメッて、川島先生が言ってたから、絶対に逃げないで。そんな事すると私まで叱られるんだから」と、厳しい目線で言うのだった。
私は(やられた)と思ったが、まさか内田さんを裏切ってサボる事も出来ないので、仕方なく「うん分かった」と力なく答えた。
「何もそんなにがっかりしなくったって、サーカスは始まったばかりでしょう。これからいっぱい観に行けるでしょうに」と、まるで姉のような口振りで私をなじるのだった。
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- 平成17年7月3日(日曜日)
【晴】《2日の続き》
その日の学校は、朝からサーカスの話題でもちきりだった。
男子だけでなく女子までも、気の合った仲間の輪が、あちこちに出来ていた。
頭を寄せ合ってのひそひそ話は、全てサーカスの事なのは誰の目にも明らかだったが、それとは正反対に、男子は大声で手を振り回しながら、半分気が狂ったように、興奮している奴もいる位で、気持ちの表し方が全然違うのが面白かった。
何にでも例外はあるもので、そんな私達を小馬鹿にしたような視線で見上げながら、決して仲間に加わらない奴らも何人かいた。
かといってそいつらと私達の仲が悪いという訳でもなく、普段は気心の知れた仲間の一人である事に変りはなかったが、なぜか今度のような事になると、そいつらだけ浮き上がってしまうのだ。
先生から見ればそいつらは良い子で、何かといえば大騒ぎする私達は悪い子となるのは分かっているから、中にはそいつらを先生のご機嫌取りと蔑む者もいた。
案の定その日の朝礼での話は、サーカスに注意するようにという内容だったし、教室に戻って直ぐに、担任から同じ意味の説教が長々と続いた。
その時に先生が例の奴らを引き合いに出して、皆も見習うようにと予想通りの展開になると、「ケッ」とか「ブー」とか、言葉にならない悪態が教室のそこここからわきあがると、これもいつもの事だったが、先生は真っ赤になって怒りまくっていた。
そんな様子を、さも得意そうに眺めている例の奴らの横顔を盗み見ながら、私も「ケッ」と思わずやってしまった。
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- 平成17年7月2日(土曜日)
【晴】《1日の続き》
カステラの箱から一切れ取り出して底の紙を剥がすと、やっぱり一番濃い所がくっついていた。
それを丹念に剥がすのが、カステラを食べる時の最初の楽しみなのだ。
剥がし終わった紙までしゃぶっていると、母が忌々しそうな顔で「そんな紙なんかをしゃぶってるんじゃないよ。全くいじましいんだから」と妙な節をつけて叱ったのがおかしくて、思わず「ワハハッ」と笑ってしまった。
私に言わせれば、カステラの底がへばり付いている紙を、何もしないで捨ててしまう方がよっぽどおかしい。
あそこは結構味が濃くて美味いのだ。
上品か下品かという計りで計ると、あまり上品とは言えないのは当然だと思うが、カステラは品を考えないで食べたいもののひとつだった。
そうはいっても、麺類以外の食べ物を音を発てて食べる事だけは、なぜか身震いする程嫌だった。
カステラを食べ終えると、母のお使いで近所の薬局まで出掛けたが、そろそろ夕闇がせまる通りには、明日から始まるサーカスの様子を見物に行く人達の列が、公園に向かって流れて行く。
その中には顔見知りもかなり居たので、「オース」「オース」と声を掛け合いながらの道中となった。
私は昼間サーカスであった事を話したくてうずうずしていたが、言えば絶対に良い結果にはならないと思ったので、ぐっと我慢して口を閉ざしていた。
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- 平成17年7月1日(金曜日)
【晴】《30日の続き》
家に戻ってみると、幸いな事にサーカスの件は、今のところ母の耳にまでには伝わっていないようだった。
それでもジンタの音はここまで届いているので、母は私が公園の広場に行っていたと百も承知しているから、黙って上にあげる訳がなく、私の顔を見るなり「サーカス小屋に行ってたんだろう。だめだよ知らない人と気軽に話なんかしてたら。あんな場所をウロウロしてるとロクな事はないんだから」と、予想通りの説教が始まった。
私は「ウン」と生返事を返しながら台所に行き、夕飯までの繋ぎに、食べられるものなら手当り次第に口に入れていると、「仏壇にカステラがあがってるから、ひとつ食べていいよ」と母が声を掛けてくれた。
(へえーカステラなんて珍しいな。誰かお客が来たのかな)
私は空きっ腹に渡りに舟とばかりに仏壇に走ると、あったあった、カステラの大きな箱がデンと供えてあった。
「ねえ誰かお客が来た?」
「館林のおカネちゃんが子供を連れて挨拶に来たのさ。今度は泊まらずに帰るって」
おカネさんは母の姪で、渡辺家の本家の娘だが、以前にボヤを出してしまったのが原因で、しばらく我が家におあずけの身になっていたのだそうだ。
その間母が責任を持って行儀見習いと家事全般を教えて、一人前の女性に育てたのだと聞いた。
おカネさんは私が物心つく頃には、もう家に戻っていたから、私の知っているおカネさんは、ねえやのおカネさんではなく、親戚のおカネさんだった。
■アトリエ雑記は平成12年12月15日からスタートしました。
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