アトリエ白美「渡辺肖像画工房」 渡辺晃吉
- 平成17年3月31日(木曜日)
【晴】
父の使いで「足利織物会館」の中にある、染色業共同組合に、長靴とゴム手袋を買いに出掛けた。
織物会館は木造洋館作りの建物で、足利市役所と同じような作りだったが、まるでヨーロッパの街角のような雰囲気が、私にはとても魅力があった。
入口を入り、広い木の階段を3階までのぼると、急に狭くなった廊下のつきあたりまで進み、大きなこげ茶色の木のドアを開ける。
中は思ったよりも広くて、入って直ぐ前のカウンターの上や、壁に沿って並んでいる棚に、荷物や書類などが所狭しと積まれ、やはりこげ茶色の机が、ひとかたまりに並んだ部屋のあちこちにも、様々の品物があふれていた。
「渡辺染工ですが、お世話になります。父の言い付けで長靴とゴム手袋を貰いに来ました」
私はカウンターの直ぐ近くにいたおじさんに、父が教えてくれた通りの挨拶をした。
「ああ、ご苦労様だね。話は電話で聞いてたから、もう荷造りしておいたよ。ホラ、これだから落とさないように持って行くんだよ」
おじさんはニコニコ笑いながら、カウンターの上に乗っていた一抱えほどの茶色の紙に包まれた荷物を渡してくれた。
「どうもありがとうございました」
礼を言って外に出ようとする私を、「渡辺君、いまお茶いれるから、こっちに入って来な。ちょうど最中もあるし、一休みしてから帰るといいよ。さあ、こっちに来な」
お茶はどうでもよかったが、最中と聞いては、このまま帰る訳にはいかなかったので、私は言われた通り、カウンターの脇から事務所に入り、客用のイスに座った。
間もなく制服を着たお姉さんが、「ボクはお茶より、こっちの方がいいよね」と、サイダーと皿に2つ乗った最中を持って来てくれた。
「何だ2つだけかよ。あとひとつ持って来てあげな。残ったらポケットに入れて持って帰ればいいから」
私の向かい側に座ったおじさんは、タバコを吸いながらお姉さんに声を掛けると、「アラごめんなさいね。今直ぐ持って来ますから」と、小走りで部屋の隅に行くと、最中を手にして戻って来た。
皿の上にひとつ乗せただけでなく、そっと私のポケットにもひとつ入れてくれた。
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- 平成17年3月30日(水曜日)
【晴】
外から戻ってみると、上がり框の火鉢の上に、フナの甘露煮のナベが、コトコトと甘い香りを立てながら、静かに煮詰まっていた。
昨夜火鉢の火を落とすまで、今日と同じように火の上にあったナベが、今朝からまた煮込まれていたのだろう。
中を見ると、フナは濃い飴色になって、ナベの底に行儀よく並んでいた。
正直に言うと、私は甘露煮があまり好きではなかった。
食卓に出れば箸をつけるのだが、甘露煮の味は私には甘すぎた。
むしろ私には、メザシや頬刺しの方が口に合っていて、特に飯のおかずには、甘いものよりは塩味が好きだった。
甘露煮は主に祖母の役割だったのか、独特の香りが家中に漂い始めると、祖母は四六時中、火鉢の傍に座っていた。
「オッ、甘露煮ですか、豪勢なもんですね」
どういう訳か、来る人は全て、火鉢の上の甘露煮を讃え祝福し、この前甘露煮を食べてから、もう長い間口にしていないと、しみじみ話すのだった。
少し前まで、火鉢の火は炭が多かったが、私が小学校四〜五年頃になると、炭は魚やモチなどを焼く時に使われ、火鉢やコタツには、もっぱら練炭が使われた。
何よりも練炭の方が、はるかに手間のかからない火鉢だったからだ。
しかし練炭には、炭の燃える時のような上品な匂いはなく、生起きの時など、かなり強い匂いがして、もしも家の作りが、今のように密閉性の高いものだったら、きっと中毒してしまうかもしれなかった。
私達は練炭の穴の上に、銀杏の実を置いて焼き、深い緑色の果肉の味を楽しんだり、そのままでも食べられる乾燥イモを軽くあぶって食べた。
甘さが増して美味しいばかりでなく、とても柔らかくなって食べやすかったのだ。
時にはスルメや干ダラも焼いたが、祖母は匂いがこもると言って嫌がった。
そのくせ「風邪薬の代わりだよ」と、玄関脇の壁に吊るしてあるニンニクを、よく焼いていたが、匂いといえば、これに勝るものはないだろう。
私の三月は桃の節句で始まり、桜の花便りと甘露煮で終わる。
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- 平成17年3月29日(火曜日)
【晴時々曇】
まだ花の咲く気配はないけれど、足利公園にはボンボリがくまなく飾られて、茶店は例年通りの場所に建ち、今年も例年通りに、桜まつりの仕度が滞りなく済んだ。
公園前の広場に出来た舞台からは、気の早い大人が流しているのか、美空ひばりや渡辺ハマ子の歌が、ひっきりなしに聞えて来て、間もなく始まる花見の宴への想いを、それぞれの立場でふくらませる。
「春高楼の花の宴、めぐる盃影さして…」
隣のいとこの光子ちゃんが、澄んだソプラノで歌う「荒城の月」が、公園から届く、くぐもったレコードの歌に重なって、それを風呂場で聞きながら、私は不思議な物哀しさに包まれて行った。
めったに起きない事なのだが、何かの間が合ってしまい、ふと気付くと、広い家の中に私一人だけが居て、家人は全てどこかに消えてしまっている時がある。
あの時に感じる物哀しさと、少し似ているのだが、やはり少し違うようだ。
春の宵には、時々そんな想いに包まれてしまう瞬間がある。
そんな時私は、首を大きく振ったり、何か別の心楽しい事を強く考えたりして、メランコリックな気持ちを打ち消すのだった。
春から夏にかけて、人気の途絶えた母屋のラジオが、ワーンという音と共に、野球中継放送を流しているのを聞くのが、私は大嫌いだった。
あの音ほど、物憂い午後の気だるさを思わせる音はない。
誰もいない家の中で、聞く人もなく流される野球放送を聞いていると、私は妙に心細く不安な気分になるのだった。
そんな時私は一人公園にのぼって、まつりの準備が整った中をそぞろ歩きながら、やがて来る華やかな喧騒に想いをはせて、自らに活を入れるのだった。
あの時代、癒しの場は至る所にあった。
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- 平成17年3月28日(月曜日)
【雨】
我が家と国鉄両毛線の線路とは、直線距離で離れてはいたのだが、昼間はともかく夜になると、通過する列車の汽笛の音がよく聞えた。
終列車が通り過ぎると、今度は荷車を引く機関車が、深夜の闇の中を、ゆっくりと通り過ぎて行く。
両毛線は、緑町の足利公園下から足利駅までの区間が、ほとんど市街地であったために、事故も踏切の数も多く、機関車は頻繁に汽笛を鳴らしながら走らねばならなかったようだ。
私はその音を、毎夜子守唄代りに聞きながら床に就いていたが、特に雨の降る夜は、ひさしを打つ雨音に、ポーッと長く尾を引く汽笛が重なって、それを耳にする私の心を静かに和ませてくれた。
母屋とは違い、通りの反対側にある工場に隣接する、居住部分のトタン張りの屋根は、雨の夜になると独特の音を発てて、家の中をザーという耳に快い音で満たしてくれた。
まだ工場で父母と寝起きしていた頃は、雨の降る夜に床に就くのが、とても楽しみだった。
天井を通して伝わって来る雨音には、人の心を静める力があるのを、あの頃の子供はよく知っていた。
並べて敷いた布団に入り、直ぐ隣の座敷で、語り合う親と客達の話し声に重なり、遠く尾を引きながら聞えて来る物哀しい汽笛、そして雨降る夜には、そこにひさしを打つ雨音が加わって、私達は静かに深けて行く夜を、全身で感じながら、眠りの世界へと入って行くのだった。
テレビもパソコンも携帯もなかったけれど、世界は澄んだ音と、鮮やかな色彩と、優しい映像が満ち溢れていた。
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- 平成17年3月27日(日曜日)
【雨】
小学校5年の春頃から変声期が始まり、合唱団のパートが、ボーイソプラノからテナーに変更になると、発声が嘘のように楽になった。
この時期は声にとって大切な時なので、大声を出したり怒鳴ったりしないようにと、音楽の野沢先生から厳しく注意されたのだが、小学生に大声を出すなと言っても、それは犬に吠えるなと言うのと同じ位、とても難しい事であった。
しかし同じ事を、担任の先生や親からも再三注意されると、大きな声を出すのが、まるで悪い事でもあるかのように思えてくるから不思議だ。
結局しばらくの間、私は出来る限り、大声を出して声帯に負担をかけないように、気を付けなければならなかった。
「ヤーイ、ヤーイ、声変り。ヤーイ、ヤーイ、声変り」
いつもの悪ガキ仲間が、そんな私に牙をむかない訳がなく、事ある毎に悪態をついて来た。
私だっておとなしくからかわれているはずもなく、そいつらを追い駆け廻すのだが、何しろ無言で走り廻るのだから、全然迫力がないのだ。
そんな事がしばらく続いている間に、今度はそいつらが次々と声変りをしはじめて、変声期はうつるという噂が広がった。
おまけに声変りをした奴は、その前後から乳首がはれて来て、そこが衣服に触れるとかなり痛かったので、私達は何か悪い病気にかかったのかもしれないと思い始めるのだった。
そんな私達の心配を察知したのか、ある日体育の時間が急に教室内に変更となり、保健の森尻先生から、成長期に起きる体の変化についての授業があった。
森尻先生は、男子の変声期や乳首のはれ痛みが、決して病気などではなく、成長期には誰でもそうなるのだと教えてくれたので、皆ホッと安心したのだった。
ただ、声変りの最中に大声を出したりして声帯を痛めると、大人になってから変な声になるので、出来るだけ無理をしないようにと、野沢先生と同じように注意されたから、その日以降、何だか気味が悪くなるほど、悪ガキ共が静かになってしまった。
そのくせケンカも言い合いもいつもの通りで、ただ小さい声でコソコソとやり合うので、何となく間が抜けてしまいその内に立ち消えになってしまうのだった。
喜んでいるのは担任の川島先生で、近頃教室の中が静かで誠によろしいと大満足だった。
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- 平成17年3月26日(土曜日)
【晴】
合唱が終わると、今度は男性の独唱のような旋律が始まり、また合唱があとを引き継いで行った。
「ねえ、せっかく来たんだから、ぜひ中に入って見ませんか。決して堅苦しい場所じゃないから大丈夫ですよ。私がずっとついていてあげますから」
私も中に入りたくてたまらなかったが、生まれて初めて体験したおどろきにすくんでしまい、どうしても中に足を踏み入れる事が出来なかった。
「大丈夫です、ここで聴かせていただきますから、どうぞ中に入って下さい。ありがとうございます」
私は自分があまりに場違いな所にいるような気がして、女の人が熱心にすすめてくれるのを、かたくなに固辞した。
「そうですか、それじゃぁそこのイスに座って、ここから私達と一緒にミサにあずかって下さいね。今夜は聖土曜日、明日は御復活(イースター)だから、どうぞ明日も来て下さいな」
女の人は、そう私に語り掛けると、心配そうに振り返りながら聖堂の中に消えて行った。
そうか、私がずっと探していた音楽は、グレゴリオ聖歌というのか。
私は見出した事の喜びだけでなく、こんな美しく厳かな聖歌を育て守っているカトリック教会という存在に、畏怖の念を持たざるを得なかった。
春の夜の闇の中に身を置き、流れ来る旋律に包まれていると、小学生の時に観た映画の中で、隠れキリシタンの黒装束の一団が、どこか秘密のアジトの中の聖堂で捧げていた聖歌が、鮮やかによみがえって来た。
思えばあの時、人が祈る姿の美しさを、私は初めて知ったのかもしれない。
復活祭が近付くと、私は小学校5年の時の、あの出会いを思い出す。
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- 平成17年3月25日(金曜日)
【晴】
その歌は今まで聞いた事もない、不思議な静けさと美しさを持っていた。
題名と筋書きはよく憶えていないが、中村扇雀が扮する、般若の面を被った黒装束集団の首領を先頭に、秘密の聖堂に集合して祈っている場面に流れていたのだが、幕府に抵抗する隠れキリシタンと、それを倒そうとする側との戦いを骨組みにした映画だった。
聖堂の中で祭壇を前に、まるで捧げ物のように歌われていたから、これは聖歌なのだという事と、終わりに十字を切ったのでキリスト教、それもカトリックだというのは分かった。
それにしても何て美しい歌なのだろうか。
無伴奏で男声斉唱(ユニゾン)の旋律は、まるで香煙がたゆたうように流れ、耳ばかりでなく全身を包み込み、体内にしみ入って来るかのようであった。
祈りが昂じると、それは歌になると聞いたが、この聖歌は正に祈りそのものであった。
より高く聖いものへの深い讃美と崇敬が形を持つと、きっとこんな歌になるのだろう。
私は生まれて初めての出会いに、ただおどろき感動するばかりであった。
映画のあと、私は耳にした音楽が何と呼ぶものなのか知りたくて、必死に探し求めたが、残念な事に誰も答を知らなかった。
そして、ようやく知る事が出来るまでに、それから3年の年月を必要としたのだが、中学2年の春の夜、友人宅からの帰路に、足利カトリック教会の前を通り過ぎようとした時、入口から石段をのぼった所にある木造の聖堂から、それは流れて来た。
私は思わず自転車を止めると、恐る恐る古い石段をのぼり、灯火のもれる聖堂の前に立ち尽くし、じっと聞き入るのだった。
「こんばんは、よろしかったらおみどうの中に入りませんか」
背後から囁くような声で、女の人が語り掛けて来た。
「すみません、あの歌は何という歌なのでしょうか」
「あ〃、あれはね、グレゴリオ聖歌というんですよ。いつも歌う訳ではないのですけれど、大切な祝日の時には歌ミサといってラテン語の聖歌を歌うんですよ」
私は、今まで探し求めていた答に出会った事の嬉しさもあったが、物静かで親切な女の人の、穏やかな人柄にふれた事が、それ以上に嬉しかった。
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- 平成17年3月24日(木曜日)
【晴】
西宮の谷には学校が三校あって、一番手前に西小学校、その上に県立足利工業高校、そして一番奥が一中で、その上は一番奥の弁天様以外には、ほとんど人家がなくなり、次第に幅が狭くなる、緩い段々畑があるばかりだった。
段々畑の上の方に小さな梅林があって、咲き始めてから一ヶ月近くが経ち、ちらほらと花が散り始める頃になると、夕霞が横に棚引く、所謂逆転層がよく見られるようになる。
夕方に遊び疲れて何気なく目をやると、自分の背の高さほどの所に、平らな水面のような霞が、どこまでも棚引いているのが見えた時、その静謐な美しさに、しばし呆然としてしまうのだった。
春の盛りにはまだ少し早い今頃こそ、春はその色と香りの兆しを、様々の形で見せてくれるようだ。
西宮から通う友達の家を訪ね、一中の裏によく遊びに行ったが、この地は蛇の多い所としても有名で、学校のすぐ裏にあった用水池や、弁天様の池に行ってみると、水際に沢山の蛇を見付ける事がよくあった。
3月の末には、まだ蛇の姿を見る事はあまりないが、山菜摘みなどで地面近くを見入っていると、近くでガサガサと草ずれの音を発てながら逃げて行く生き物の気配がする事がよくあるから、実際には活発に活動しているのかもしれない。
日一日と陽がのびて行き、それにつれて朝が早く来るようになる。
目覚めは快く、体は起きぬけでもよく動く。
春は人間だけでなく、あらゆる生き物にとって、生命の躍動する季節なのを、全身が教えてくれる。
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- 平成17年3月23日(水曜日)
【曇のち雨】
緑町の公園通り沿いのドブさらいは、定期的に行う町内大掃除の時に合わせて実施された。
ジョリンと呼ばれる道具を使って、底にたまったドブ泥を掻き出して脇に積んで行くのだが、子供はなかなかやらせてもらえず、もっぱら大人の仕事だった。
脇に積まれた真っ黒なドブ泥の表面には、突然空気にさらされてビックリしているのか、無数の赤虫が身をよじっているのが見える。
赤虫は金魚のエサになるので、普段でも細かい網を使って取っている奴もいたから、私達にはお馴染みの生き物だった。
ドブ泥の中には、時々とんでもない代物が入っていて、まるで宝探しのような面白さがあった。
昔の硬貨や指輪、時には小判が出て来た事もあったそうだ。
いつ頃のものかは分からないが、大粒のきれいなビー玉やベーゴマなども、数は少ないが必ず見付かった。
変わった物では、犬や猫のしゃれこうべとか、大人のこぶし程ある水晶玉(もしかしたらガラス玉)、明らかに本物としか思えない、サビついてボロボロになった拳銃、短刀やジャックナイフ、刀のつば、金のノベ板や仏像など、およそ考えられないような物も出て来たから、大人達がドブさらいを子供にやらせないのも、もしかしたらその辺に訳があったかもしれない。
春になると、その年最初のドブさらいが、各町内で一斉に始まり、積まれた泥のドブ臭い臭いが町内に漂うのだが、それも春の風物詩のひとつであった。
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- 平成17年3月22日(火曜日)
【曇のち雨】
春休みのいいところは、冬休みより長いのに宿題がほとんど出ない事だった。
いつも不思議に思ったのは、休みの前になると先生が必ず「いいかお前達、休みだからってダラダラしてたんじゃダメなんだぞ。朝はきちんと早起きして、夜は早く寝て、少なくても午前中は家で勉強しなきゃダメだぞ。それから悪い遊びや変な所に行ったりするんじゃないぞ」と、まるで休みが悪い事のように、長々とお説教する事だった。
春休みや夏休みがいけない事なら、やらなきゃいいのにとも思うが、もしも本当になくなってしまったら、物凄く損をする気がするので、文句を言われても、やっぱり休みはないと困る。
それでも、先生に限らず大人達というのは、子供が休むのは悪い事で、朝から寝るまで勉強と手伝いをする事が善い事と思っているらしい。
そんなの自分達だって出来ないくせして、子供には強要するのだから、全くたまったものではない。
だから「よく学びよく遊べ」なんて反論をしようものなら、「理屈を言うんじゃない」と頭ごなしに怒鳴られ、そのあと直ぐにゲンコが落っこちて来るのだ。
「子供はよく学びよく学べでいいんだ」などと、とんでもない事を言って私達を恐怖させる人もいれば、「イヤ、子供にとっては真っ黒になって遊び廻るのも、大切な学びの内だよ」と、とても甘美な意見を言う人もいたが、先生や親には、そんな事を言ってくれる人は、間違ってもいなかった。
それでも、訳の分からない説教を黙って聞くのが、明日から長い休みに入る、終業式の通過儀礼だと思って我慢した。
「いいか、遊び過ぎて宿題と勉強を忘れるんじゃないぞ」と、しつこく語りかけてくる先生の声を肩越しに聞きながら、「ハーイ」と返事をしても、心の中では「フン、朝から晩まで勉強なんかしてたら、頭がパンクして死んじまわあ、バーロめ」と悪態をついた。
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- 平成17年3月21日(月曜日)
【晴】
彼岸の間には、香華の客だけではなく、色々な人達が門口に立つ。
かといって全てが門付けの人ではなく、中には浄財を集めるため、ご詠歌を歌いながら町内を廻って奉仕する人達だったり、長い巡礼の功徳を近所に配りたいと、遍路姿で家々を読経して廻ったりする人達もいた。
まだ戦争の傷跡が生々しく残っている時代だったから、祈りのほとんどは戦没者への鎮魂であり、遺族への慰めのためだったと思う。
祖母は亡き子を思い、父は亡き弟を偲び、故人を知る客との間で交される話は、いつまでも尽きる事はない。
祖父は逝った後にも、いまだに多くの人の尊敬を受け、まるで今も生きている人であるかのように語られるのも面白い。
我が家の仏壇の上には、祖父音次郎と叔父亀六、そして祖母の肖像画がかけられていたが、なぜ生きている祖母の肖像画までが、逝った人達に並んで飾られているのか、とても不思議でならなかった。
私はその疑問をたびたび家の者にぶつけたが、返ってくるのはいつも同じ答で、はじめの内は意味が分からずにいた。
お中日の次の日、人の出入りが少し切れた時をみて、私は同じ質問を祖母にした。
「おばあちゃん、まだ死んでないのに、どうしておじいちゃん達と一緒に、あそこに飾ってあるの?」
「生きている内に用意しておくと長生きするんだってよ。それに生きてこの世にあるのも彼岸に行くのも同じ事で、ただ住所が少し変わるだけのようなものでね。だから、まだ生きているのに、おじいさんや亀六達と並んでかけられていても、少しもおかしくなんかないんだよ」
まだ子供の私には、そんな深い哲理を理解する事など出来るはずもなかったが、今、目の前にいるこの人にとっては、生者も死者も、ただ様子を変えただけの同じ存在として、いつも身近にあるものだという事だけは何となく理解する事が出来た。
三枚の肖像画は、現在仏間を離れ、新しく加わった父母と下の兄のそれと共に、私のアトリエに安置されている。
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- 平成17年3月20日(日曜日)
【晴】
彼岸の客の中で、小学生の私が一番待ち望んでいたのは、親戚の人ではなく、今は一年の大半を旅に暮らしている職人さんで、針ヶ谷さんという人の来訪であった。
針ヶ谷さんは一時期我が家に寄宿して仕事をしていた事があり、その後旅に出ていても、春と秋の彼岸、夏の盆、そして正月には大抵訪ねて来て、2〜3日泊って行き、気が向けば一ヶ月ほど父の仕事を手伝って、またどこか旅に出て行った。
針ヶ谷さんは字が書けなかったが、仕事に必要な染料の名前や数字は、文字の形で判断する事が出来たので、輸入物のドイツ染料なども、難なく調合した。
針ヶ谷さんが私達に聞かせてくれる話は、まるで映画か小説のような、驚きと感動に満ちており、夕食後のひととき、ボソボソと語り出すのを、子供達ばかりではなく、大人達も楽しみにしていた。
話には少しの誇張も脚色もない事は、滲み出る誠実さでよく分かったし、針ヶ谷さんの人柄がそれを許さなかった。
旅に生きるのは、とても淋しく辛く苦しい事だと、針ヶ谷さんはしみじみと話したが、かといって一ヶ所に定住する事は、全く考えていないのだそうだ。
針ヶ谷さんは親も兄弟もいなくて、親しく行き来する親類もいなかったから、我が家が数少ない心の拠所なのだと、いつも言っていた。
だったらどこにも行かずに、ずっと家に居ればいいのにと言った事があったが、針ヶ谷さんはフッと笑って「オカミさんやオヤジさんの気持ちを思うと、そうもいくめえよ」と、呟くように答えた。
私には大人の難しい事は分からなかったけれど、針ヶ谷さんの心の優しさだけは、何となく理解出来た。
針ヶ谷さんは私が中学に入る頃になると、なぜかプッツリと姿を見せなくなり、やがて人の噂にものぼらなくなった。
彼岸になると、私はなぜか針ヶ谷さんの事を思い出す。
「願わくば桜の下にて春死なん、この望月のいざよいのころ」
酒に酔い興が乗ると、針ヶ谷さんはいつもこの歌を静かに口ずさんでいた。
中学に入り、それが西行法師の歌だと知った時、針ヶ谷さんのような渡り職人達を「西行」と呼んでいた意味が、何となく分かった気がした。
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- 平成17年3月19日(土曜日)
【晴】
彼岸が近付くと、我が家では恒例のボタモチ作りが、はしり口の3日前あたりから始まる。
小豆とモチ米が外の井戸端で洗われ、普段煮炊きに使われている釜の、二倍位大きな釜が用意されて、台所はいつもと違う雰囲気になる。
一昼夜ほど水につけられた小豆とモチ米は、そのために用意された釜で調理される。
モチ米はうるちを混ぜて炊き、小豆はコトコトと長い時間煮られ、その両方が醸す良い匂いが家中に広がって、誰もが季節の移ろいを肌で感じるのだった。
我が家が作るボタモチは、全部で200個位はあったろうか。
彼岸に入ると次々に訪れる客に振舞うには、それでも足りない位で、時には本当に足らなくなって、仕方なく近くの店に出来合いを買いに行って、間に合わせた年もあったのだそうだ。
出来上がったボタモチは沢山の重箱に詰められ、残りはこね鉢に重ねて盛られ、台所の隅にフキンを被せて置いてあり、食べたい者はそこから勝手に取って食べるのだった。
あの頃のボタモチは、子供ばかりではなく、大人にとってもごちそうだったが、さすがに3日も食べ続けると、もう見るのも厭になってしまう。
一日目はゴハン代りに食べるほどで、二日目になるとボタモチだけでは口がもたれ、おすましや漬物を口にしながら何とか食べ、三日目になると誰も手をつけなくなる。
しかし、ボタモチが三日目まで残るという事が、まずめったにはなかったので、それから一週間も経つと、あの大盤振舞が、まるで夢のような気がして、次の秋彼岸が待ち遠しかった。
彼岸は客を迎える行事でもあり、だから普段口に出来ない、ボタモチ以外のごちそうにもありつける時だった。
お刺身、うなぎ、桃やパイナップルの缶詰、煮物焼き物、カステラ、栗まん、大福、金ツバ、金玉などのお菓子
彼岸に渡った祖先を想う日は、また沢山のごちそうを大人だけでなく、何より子供に届けてくれる、嬉しい慣わしだった。
彼岸が去り梅が散ると、公園山にはボンボリが下がり、宵風は日毎に暖みを増して、春は盛りとなる。
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- 平成17年3月18日(金曜日)
【晴】
「あのね、夕飯のオカズにセリが食べたいっておばあちゃんが言ってるから、お前すまないけど、ひとっ走り採って来ておくれ」
セリなら公園裏の畑に行けば、足の踏み場もないほど生えているので、私は母の言いつけに「分かったよ」と返事をすると、ザマを背負って家を出た。
公園裏に出て、山裾を流れる逆川を渡ると、畑のあちこちにセリが群生していて、いくら採っても採り切れるものではなかった。
場所によっては、畑一面にセリが密生していて土が見えない程で、丈も40cm近く、しっかりした茎の下半分は真っ白で、子供でも草を刈るように採れたから、あまり面白くはなかったけれど、セリのおひたしは香りも良かったが、少しエグ味のある味は、私の好物のひとつだったのでとにかくザマ一杯にして帰ろうと一生懸命採った。
いくら見渡す限り群生しているといっても、子供の手でザマを一杯にするのは、結構時間がかかったが、何とか満足できる量になったので、ずっしりと重くなったザマを背負い家に戻った。
「ただいま、採って来たよ」
私は家に入ると奥に声を掛けてザマをおろした。
出て来た母は「アレマッ、採るに事を欠いて、まさかガショーキに採って来たね。馬に食わせる訳じゃないんだから、少し加減して採ってくればいいのに」と、あまりの量に呆れてしまったようだった。
私は誉めてくれると思っていたのに、文句をつけられた気がして、思わず「だって、おばあちゃんが食べた残りは俺が全部食うんだもん」と、つい意地を張ってしまった。
「全部食べられる訳がないだろうに仕様がないね。柿沼と町田に少し持って行ってあげな」
私にしたら一生懸命採ったセリを、むざむざ隣に分けてしまうなんて、とても嫌だったが、逆らうとポカンとくるから、しぶしぶだったが、母に持たされたザルを抱えて両隣に届けに行った。
「アラー、セリは私の大好物だよ、どうもありがとね」
柿沼のおばさんは、小躍りしながら喜んでくれたので、私はすっかりいい気持ちになって、「また採って来てあげるよ」と思わず言ってしまった。
町田のおばさんはセリが嫌いだったが、おじさんが大好きだったので、「お前が採って来たんかい、大変だったね」と言いながら、返すザルの上に商売物のおせんべを大きな袋いっぱいにして乗せてくれた。
母におせんべを届けると、辺りはもう暗くなっていた。
私は今夜のごはんに出されるセリを思って、生唾を飲み込んだ。
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- 平成17年3月17日(木曜日)
【晴】
その日の国語の時間は、古事記のイザナギイザナミの話だったが、日本にこんな面白い話があったのかと、先生の語るのを夢中で聞いた。
驚いたのは、その物語が、ギリシャ神話のオルフェウスとユリイデスにそっくりな事だった。
先生にその関連性を質問すると、よく分からないが多分あるのかもしれないと言う。
遠い昔、日本を遠く離れたギリシャに生まれた物語と、日本の古代から語り継がれた物語が、いつどこで、どのような形で接点を持ったのか、どっちが先でどっちが後なのか、思いは尽きなかった。
ちょうどその頃に、「日本誕生」という題名の映画が上映され、4年生以上の全員が、何組かに分かれて映画館に出掛けた。
私は期待に胸をふくらませていたが、いざ上映となると、何だかあまり面白くなかった。
想像していた神話の世界に比べて、目の前の映像はまるで貧弱だったし、正直オープンセットなども安っぽくて、とてもガッカリした。
今思えば、その頃の日本は貧しい国だったから、実際はあれで上出来だったのだろうけれど、子供の私には、自分の抱いていたイメージが壊されてしまった気がして、観るんじゃなかったと思った。
それに反して、少し前に大映が製作した「大仏開眼」は、あんなでかいものを、昔の人はどうやって作ったのだろうかという疑問に、よく分からないけれど何となく答えてくれただけでなく、白黒の映像がかえって効果的で、それが私の想像力を、より豊かにしてくれた。
主演は長谷川一夫で、大河内伝次郎、岡ジョウジ、京マチ子などが脇を固めて、子供の私にさえ、製作者の意気込みが感じられる程の作品だった。
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- 平成17年3月16日(水曜日)
【曇】《15日の続き》
オチボーと別れ家に戻ると、私は母に平野さんの店に寄ってヤキソバを食べた事を告げた。
「学校帰りに買い食いをするんじゃないよ」と、一応文句は言ったが、あまり本気でないのは雰囲気で感じるので、「ウン分かった」と気の入ってない生返事をしながら二階へ上った。
二階の東は幅一間の掃き出しになって、ガラス戸が二枚入っている。
丈夫な木の棚が取り付けてあるので下に落ちる事はないが、万一落ちても、そこは台所の広い屋根の上だから、戸ぎわ立って外を眺めても、あまり高さを感じないで済む。
私は棚の横木に腰掛けて、ぼんやりと外を眺めているのが好きで、北は織姫山から、東は緑町と栄町の家並みが見渡せ、直ぐ下には糸井の裏庭、その左には大越染工の工場と物干場がよく見えた。
二階は西側以外全て開口部があったから、風通しも良く明るかったし、どこからの眺めも、広々として開放感があった。
東の掃き出しから外を眺めていると、さっき別れたばかりのオチボーが、裏庭に出て何かやっていた。
「オチボー何やってるん?」と声を掛けると、「物置に炭取りに来たん」と答えながら、片手に何か持ってモグモグ食っていた。
「何食ってるんだ?」
私は少し前にヤキソバを食ったのに、また何か食っているのが不思議で、思わず聞いてしまった。
「軍用(乾燥イモ)食ってるん」
オチボーはモソモソと食べながらそう答えると、炭を入れたザルを抱えて家に中に戻って行った。
「渡辺くーん」
外の庭の方から桜木さんの声がするので下におりると、「明日の時間割教えて」と、これもいつもの事なので、「一時間目が国語で、あと…」と、いつものように教えてやった。
「ありがと」と礼を言って帰って行く桜木さんを見ながら、(あいつ何でいつも時間割を忘れるんだろう)と不思議に思った。
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- 平成17年3月15日(火曜日)
【晴】《14日の続き》
おばさん自家製のラードとスープを使ったヤキソバの味は天下一品だった。
「ハイお待ちどう」と、焼きたてをお皿に盛り分けて出してくれるのももどかしく、オチボーも私も夢中でほおばると、「そんなに慌てなくても、ヤキソバは逃げて行かないから、ゆっくり食べな」と、笑いながら言った。
ヤキソバ屋は他にも何軒かあったし、屋台も入れたら、おそらく10店以上はあるはずだが、平野のおばさんのヤキソバの味は、群を抜いて一番美味かったと思う。
「ああ、うんめえ。ああ、うんめえ」
オチボーはヤキソバをほおばりながら、しきりに賞賛の言葉を呟いている。
おばさんはそれを聞くと、さも嬉しそうに笑いながら「そうかい、そんなに美味いかい。よかったよかった」と満足そうだった。
学校帰りに買い食いはするなと、きつく言われてはいるが、平野さんの店は例外で、親もあまり叱らなかったのは、おばさんと父母の付き合いが長いからなのだろう。
平野さんの生活が決して楽ではないのを知っていたから、出来るだけ売り上げに協力したいという気持ちがあったのだ。
「よそでお金を使うくらいなら、なるべく平野さんの所で使うんだよ」と、母は口癖のように言っていた。
「ごちそうさまでした」
私とオチボーはおばさんにお礼を言って金を払うと、お皿を洗い場に持って行って桶に入れると、「ありがとね、またおいで」と語り掛けるおばさんの声を背にして外に出た。
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- 平成17年3月14日(月曜日)
【晴】《13日の続き》
昇降口で待っていたオチボーと一緒に校門を出ると、いつもは右に出て2つ目の角を左に曲がり、綿屋とイシヤの四ッ角を渡って緑町に入るのだが、栄町のお稲荷さん前の平野さんの店に行くには校門から真っ直ぐの道を大通りに出ると、そこをまた真っ直ぐに渡って、斉藤洋服店と前原八百屋の角を曲がり、大島文房具の角を左に折れるのだが、歩きながらオチボーにおごるのが段々惜しくなって来たので、「オチボーよ、ヤキソバもいいけどさ、綿屋の酒まんじゅうの方が美味かねえか。ヤキソバは一杯だけだけど、酒まんじゅうなら4つおごるよ」と言った。
オチボーは「やだっ、酒まんじゅうなんかいらねえ。ヤキソバがいい」と言ってきかない。
酒まんじゅうなら4個10円で買えたが、ヤキソバは一杯10円で、ポテト入りだと15円もしたから、私一人で食うならともかく、オチボーにも食わせるのは、何となくもったいない気がして来たのだ。
オチボーはそんな私の心変わりを敏感に嗅ぎつけて、私の腕を取って離さずに、「ヤキソバ、ヤキソバ、酒まんじゅうはいらねえ」と、繰り返し叫んでいるので、うるさくって仕方がなかった。
「わあかったよ、ヤキソバおごってやるから黙ってろよ。うるせえな全く」
オチボーはそれを聞くと、嬉しそうに笑って私の腕を離し、「先に行ってるから」と言うなり、目の前に見えて来た平野さんの店に向かって走って行った。
店に入ると、平野のおばさんは、東の上がり框に腰をおろして一息入れていた。
平野さんの家は東北の角地にあったので、東と北の道に面してガラス戸があり、そこを開くと東と北に上がり框のある広い座敷になっていて、ちょうど角の所がヤキソバを焼く場所、北の上がり框に面して、沢山の駄菓子とオモチャが置いてあり、座敷にはもんじゃきの台が置いてあった。
タバコをふかしていたおばさんは私を見ると、「おかえり、ヤキソバかい」と声を掛けながら煙台の前に立った。
おばさんは昔とても有名な芸者さんだったのだと、母に聞いた事があった。
「ウン、こいつにも同じやつね」
「ハイヨ、少しおまけしてやるからね」と、おばさんは機嫌良くヘラを使い始めた。
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- 平成17年3月13日(日曜日)
【晴】《12日の続き》
朝飯を食い終わり、弁当を掴んで表に飛び出ると、外にはオチボーの他に益子も待っていてくれた。
益子と私の家は直ぐ近くだったが、通学の道順が少し違っていたので、一緒になるとしても大抵は鈴木写真屋の角なので「益子珍しいな、今日はこっちから行くのか?」と声を掛けると、「何言ってるんだよ。昨日の夕方に、明日の朝寄ってくれれば、グローブ貸すって言ったじゃねえかよ」
私はその事をすっかり忘れていたので、「あっそうだ、ちょっと待ってろ」と急いで家の中に引き返すと、机の上のグローブを持って戻った。
そのグローブは館林のイトコのお古を貰ったのだが、左利きの私には宝の持ち腐れだったのだ。
「これ俺には使えねえから、ずっと使ってていいよ」と益子に言うと、「ああっ、ずっりぃ。俺だって貸してもらいてえもん」と、オチボーが喚いた。
しかし、益子はオチボーと違って、群を抜いて野球がうまかったし、将来は足工の野球部に入るつもりでいる位だったから、オチボーには因果を含めて諦めさせた。
益子は私から受け取ったグローブを左手にはめると、いつまでもニヤニヤ笑いを止めなかった。
それに反して、オチボーは校門をくぐるまで、とうとうふてくされたままだったので私は少しオチボーが可哀想になってしまった。
とはいえ、そうたびたびグローブが貰える訳もなく、うっかりその場しのぎの約束も出来なかったので、何となく気まずい雰囲気のままオチボーと別れなければならなかったのが、教室に入っても何だか気になって仕方がなかった。
オチボーは私より一年下だったから、校門に入るとなかなか顔を合わす事もなかったが、帰りには平野さんの店で、ヤキソバでもおごろうと思い、わざわざオチボーの教室に行き、その事を告げた。
オチボーはその途端、さっきの態度がウソのように、「ヤッタね、ヤッタね」と小躍りして喜んでいた。
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- 平成17年3月12日(土曜日)
【晴】
今朝なぜか家の人達が忙しくて、弁当の用意が出来なかったと言うので、私は仕方なく大急ぎで表の「魚英」まで走って行った。
魚屋と八百屋は朝の6時には店を開いていたから、私が魚英に飛び込んだ時には、店はもう一段落していて、顔見知りの人達が奥の上がり框に腰掛けて一服していた。
「オッ、晃ちゃん何が欲しいんだ」
仲良しのお兄ちゃんが声を掛けて来たので、「弁当のオカズなんだけど、あまり時間がないから、直ぐに出来るのがいいな」と言った。
「じゃあタラコがいかんべ。これなら軽く焼けばいいからよ」
私もタラコは好物だったので「うん、それでいいよ」と答え、手早く包んでくれたタラコを持って家に駆け戻った。
弁当を作ってもらっている内に急いで朝飯を掻っ込んでいると、「コーちゃん」とオチボーが迎えに来てしまった。
「直ぐ食っちまうから、少し待っててな」
私は大声でオチボーに答えて、「ねえ、弁当早くしてよ」と催促した。
その頃、母はもうほとんど台所には立てず、代りにお手伝いの人が私達の身の回りの面倒をみてくれていたが、父も母も年長の者に対する私達の態度には、事の他厳しくて、ほんの僅かでも礼に反した言動をとると、手酷く仕置きされたものだったから、思わず口にしてしまった生意気な言葉に、(ヤバイ、ぶっとばされる)と首をすくめた。
幸い誰も気付かなかったのでホッとした。
母はコーネンキという病気のようで病気でないという、訳の分からない体調のために、大事をとって家事を他人に任せたのだそうだ。
私は母の打つウドンと、だしの効いたおつゆが食べられなくなったのが、物凄く残念だった。
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- 平成17年3月11日(金曜日)
【晴】
食べ物の好き嫌いは一種の罪悪と教えられてもいたし、現実にほとんど好き嫌いはなかったが、口には入れるけれど好きではない物も、正直に言えば結構あった。
「おなめ」というミソのような食べ物、どじょうのミソ汁、こんにゃくの豆腐あえ、甘いたくあん、大豆入りごはん、うずらの甘く煮たのも嫌いだった。
「しもつかれ」という、訳の分からない食べ物もあったが、私は決してハシをつけなかったと思う。
それから本物のバターもあまり好きではなく、むしろマーガリンの方が口に合っていたのは、多分私だけではなかったろう。
奈良漬も子供には美味いものではなく、むしろミソ漬の方が好きだった。
塩味のきついミソ漬はお茶漬のおかずには最適だったし、少し古くなったタクアンを細く切って水にひたし、塩抜きをしたものに唐辛子と醤油をかけたものも、温かい飯にもお茶漬にも良く合った。
食べ物ではないが、大根風呂は大嫌いだった。
体には良いのだというが、何しろ臭くて入っていられない。
菖蒲湯やゆず湯は、とても良い香りがしたから、入っていても何となく体に良さそうな気がしたけれど、大根風呂だけは気持ちが悪くなってしまうばかりでなく、その後の食事の時にも、臭いが鼻についてどうにもならなかった。
そんな大根も、ミソ汁の一番好きな具だったし、おろして良し、煮て良しなのが不思議だった。
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- 平成17年3月10日(木曜日)
【晴】
昭和20年3月10日の東京大空襲の夜、数えで3歳の私は、頭に防空頭巾を被せられ、片手にほ乳ビンを持ち、もう片方の手を下の兄に取られて、公園の弓引場の崖沿いに作られた我が家の防空壕に向かっていた。
既に空襲警報が出ていたので、父を除いた家の者のほとんどは、防空壕に避難を終わっていて、最後に残った母も、火の元を確認してから逃げて来る事になっていると、兄が教えてくれた。
逆川に出て青年団小屋脇の石橋を渡り、弓引場への坂をのぼって、緑町集会場になっている大きな二階建の家の前にさしかかると、坂道を踏み外した祖母が、坂の下の小さな畑の中でもがいていた。
下の兄は急いで畑におりて祖母を助けると、私の手を再び取って、転がり込むように防空壕の中に飛び込んだ。
先に入っていた姉達が、当時としては珍しかった電燈を付けていたので、中は思ったよりも明るく暖かかった。
間もなく母もかけつけて来て、私はホッと一息ついたあとに、母は手にした茶筒からいり豆を出して皆に配ってくれた。
何の味もついていない豆だったが、私にはほっぺたが痛くなるほど美味かった。
少し落ち付いた頃に、父が入って来て、「皆無事か?」と尋ねると、「お祖母ちゃんが坂から下の畑に落っこちたよ」と、下の兄が言った。
「なあに大した事はないよ。少し腰を打っただけだから」と、祖母は空元気を見せていたが、実際は相当に痛そうだった。
一時間位経ったろうか、父は私を外に連れ出すと、弓引場の右手に見える浅間山の方向を指差して言った。
「ほら、あっちが東京だ。浅間山の上の空が真っ赤だろう。東京が燃えているんだ」と教えてくれるのを、私は夢を見ているかのような心地で聞いていた。
眼前の黒々とした家並みの上の空は、信じられないほどの鮮やかな真紅に染まっていた。
私はその光景を、60年経った今も、まるで昨日の事のように覚えている。
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- 平成17年3月9日(水曜日)
【晴】
四組の中は言うに及ばず、全学年の中でバク転バク宙の出来る奴は、仁田山を入れて5人といなかった。
校庭にマットを敷いての体操の時間の花形は、そんな訳で華やかにバク転とバク宙を演技する仁田山に決っていたけれど、それに加えて正車輪送車輪もこなしてしまう実力の前には、誰も文句が言えなかった。
私も何とかバク転をこなそうと、仁田山の熱心な授業を受けたが、どうしても物にする事が出来なかった。
その代り、地上転回と空中転回は、それほど練習しなくても、仁田山の指導によって、割合簡単に収得する事が出来た。
私が体操で唯一仁田山を越えられたのは、飛び箱だったろうか。
当時私の身長は学年の中でも高い方だったから、他のスポーツ、特に陸上競技では、常に上位の成績を保っていたが、球技、特に野球には、全く適性がなかったように思う。
その頃には映画の影響もあって、空前の柔道ブームだった。
親はなぜか、私がいくら頼んでも、近くの道場に入門する事を許してくれず、仕方なく「夢の屋」で買って来た柔道の手引書を片手に、仲間と稽古をしては家の人に叱られた。
今では思いもよらない事だが、私が小学生の頃には、柔道は善玉で柔術は悪玉扱いだったのだ。
柔道は新しくて柔術は古いもの、柔道は柔術を改良して生まれたから、柔術より強い武道なのだと、どういう訳か疑いもせずに信じていた。
映画の中では、最後に必ず柔道が柔術を負かして、正義は必ず勝つんだという事になっていたから、柔術を良く思うガキなんか、一人もいなかった。
一生懸命稽古をしたので、自己流ながら柔道では学年の中で弱い方ではなかったから、仁田山から体操の技を教えてもらう代りに、講堂にマットを敷いて、少しあやしい柔道を仁田山や何人かの仲間に教えた。
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- 平成17年3月8日(火曜日)
【晴】
その日の石黒先生の話は、海野重三の「四次元漂流」だった。
たまたま私も「夢乃屋」の貸本で読んだばかりだったから、思わず「知ってる知ってる」と叫んでしまった。
「ホー、渡辺お前読んだ事あるのか」と、先生は嬉しそうに言うと、「空想科学小説を決して馬鹿にしてはいけないぞ。先生の中にはそういった物を嫌う人もいるが、人間にとって想像力というものは、他の何よりも大切な力かもしれないんだぞ」と、一人一人に問いかけるように話してくれた。
我が家では父も母も、私が教科書以外の書物を読む事を、まるで悪い事をしているかのように嫌ったから、石黒先生と我が家の親との違いに、正直驚いてしまった。
その頃、四次元とか超空間とかいう物について、言葉さえ知らないのが普通だったから、超高速航法(ワープ航法)や、時間旅行などという事柄は、全く話題にさえならなかった。
そんな話をうっかりすれば、直ぐに変わり者扱いされただけではなく、大抵は大ボラ吹きの烙印を押されてしまうのがオチだったのだ。
しかし先生自らが、大ボラと言われる話を聞かせてくれた事から、私が同じような話題を口にしても、あまり悪く言われなくなったのはありがたかった。
あの頃は、子供でさえ現実的な発想が正常な人間の条件だと思っていた感があった。
ただ、それだけに大人も子供も、皆素直で真面目な人が多かったと思う。
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- 平成17年3月7日(月曜日)
【晴】
担任の川島先生が、産休でしばらく学校に来なくなるために、代って石黒先生が私達のクラスをみる事になった。
石黒先生は男だったから、男子にとっては何かと心強かっただけでなく、授業の合間に話してくれる、勉強以外の話が面白くて、学校に行くのが少し楽しみだった。
理科の授業の時だったが、先生は私達に宇宙についての様々な質問をした。
「もしもだよ、どこまでも飛んで行けるロケットがあるとして、そのロケットに乗ってね、地球を離れてどんどん行くと、いったいどうなると思う?いつかは行き止まりになって壁にぶつかってしまうんだろうか。それとも、どこまで行っても壁がなくて、宇宙は無限に広がっているんだろうか。みんな、どう思う?」と言った感じである。
全く目新しい考えに、特に男子は目を輝かせて先生の話に耳を傾けたが、それに反して質問への答は、意外に想像力のないものが多く、先生を少し失望させたようだった。
「いいかい、もしもみんなの内の誰かが、地球を飛び立ってどこまでも進んで行くと、真っ直ぐに進んでいるのに、やがて元の場所に戻ってしまうんだそうだ。つまり誰にとっても、今自分が立っている場所が宇宙の中心になるのだというぞ。そして宇宙には壁はないけれど、まるでドッチボールの中みたいに、空間的に閉じているから、今いる所を出発してドンドン飛んで行くと、やがて元の場所に辿り着くんだな。だからみんなよく聞けよ。お前達一人一人が宇宙的に見れば、その中心に立っているという事だぞ。何と素晴らしいじゃないか。みんな全員が、宇宙の主人なんだからな。みんなは今自分がここにいる事が、ただの偶然だと思っているかもしれないが、そんな事はないぞ。100億年以上前に宇宙が生まれ、そのあと太陽系が生まれ、その惑星のひとつの地球に、物凄い幸運によってお前達一人一人が人間として日本に生まれ、今こうして、この教室にいるっていう事は、正しく奇跡なんだぞ。だからいいか、みんなお互いに物凄く貴い存在なんだから、決して傷付け合ったり、まして殺し合ったりしてはいけないんだぞ。お前達一人一人の中に神様がいるんだぞ」
私達は何か得体の知れない光に打たれたような気持ちで、先生の話に聞き入った。
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- 平成17年3月6日(日曜日)
【晴】
母屋の前の道を、いつもの納豆売りの人が、名調子の呼び声で通りかかると、お金を掴んで表に飛び出して行くのが、普段の私の仕事だったが、足をケガしてから長い間、それが出来なくなってしまった。
納豆売りのおじさんは、こっちが呼び止めなくても家の前の道に止まって、誰かが出て来るのを待っていてくれたので、買い損ねる事はなかったし、私の足のケガを知ると、しばらくの間は玄関前まで来てくれるようになった。
大家族の我が家では、毎朝10個は納豆を買ったから、おじさんにとっても、結構上客の方だったかもしれない。
その頃の納豆の値段は1個10円で、粒も大きく量もかなりあった。
みそ汁に納豆、漬物、海苔、玉子、だいたいそんなところが朝食のメニューだったが、ひとつひとつの味は、今のそれよりも相当濃厚で美味かったと思う。
我が家のみそ汁は赤みそが中心で、ふんだんに使った煮干のダシが、具の香りと混じり合って鼻をくすぐる。
煮炊きは当然マキを使ったへっついだったが、もうひとつ都市ガスが入っていたのが、女の人達の台所仕事には大変便利だったようだ。
それでも庭には井戸があって、洗濯は主にそこでやっていた。
庭は結構広かったから、かなりのスペースを畑として使っていて、ナスやきゅうり、トマト、サヤエンドウ、カボチャ、ホウレンソウ、カキ菜などが食卓に乗った。
しかし、家庭菜園だけの収穫では、大所帯の胃袋を満たす事は出来なかったようで、引き売りや近所の店から買う方が、ずっと多かったと思う。
あの頃の食卓には、鮮やかな色があった。
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- 平成17年3月5日(土曜日)
【晴】
3月の声を聞くようになると、近所から顔見知りの姿が何人か見えなくなる。
中学を卒業すると間もなく足利を離れて、主に東京方面に就職するためだった。
あの頃は就職とは呼ばずに、まだ奉公に出るという言い方の方が多かったようだ。
地元にも沢山の勤め先があったから、家を出ずに社会人になる者もいたが、多くは東京を中心とした大都市に、夢をふくらませて旅立って行った。
大企業の工場に入る者、理容店や工務店の見習いになる者、問屋のでっちになる者など、選んだ道は様々だったが、早い奴では一週間も経たない内に逃げ戻って来たり、半年後に体を壊して帰された者なども出て来て、時々道端で懐かしい顔に再会する事もあった。
私が小学生の頃、日本はまだ敗戦の影が国全体に満ちていたが、反面、未来への夢もまた、全ての人達の中に熱く燃えていた時代でもあった。
年上の仲間の半数以上は、社会人として巣立って行き、残りは進学して、やはり私達の目先から消えて行った。
相手が高校生になると、もう共通の生活の場はほとんどなくなり、やがて道ですれ違っても軽く会釈する程度のふれあいとなり、その内には文字通り他人行儀になってしまう。
その代り、町内の公式行事の時や夏休みなどには、昔と変わらない親しい関係が戻って来るのだから不思議だ。
ついこの間まで一緒に飛び廻っていた仲間でも、社会に出ると直ぐに、髪型や服装が変わって、驚く程大人っぽくなってしまう。
中にはたばこを吸い始める奴も出て来て、私達を驚かせた。
今頃になると、直ぐ近くの年上の仲間が、多分父親のおさがりなのだろうが、昨日とはまるで違った服装で、旅立ちの挨拶に寄った日の事を思い出す。
その人は今、東京で寿司店を立派に経営しており、既に三代目がカウンターに立っていると聞く。
春は何かが新しく生まれるために、神様が作って下さったのかもしれない。
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- 平成17年3月4日(金曜日)
【晴】《2日の続き》
3日ほどの自宅療養の後に、私は家から校門までの間を、自転車の荷掛けに乗せられて登下校した。
あまり動かないようにと注意されてはいたが、学校にいるとそういう訳にはゆかず、痛さに顔をしかめながら過ごす事になった。
母は松葉杖を使うようにと言ったが、私はそれだけは絶対に嫌だと、泣いて断った。
そんなもの使って学校の中を動き廻ろうものなら、みんなに何を言われるか分かったものではないからだ。
その代り大抵の時には誰かが肩を貸してくれたので、移動にはそれほど不自由はなかった。
先生の小言は3日ほど続いたが、その後はあまり怒らなくなったので正直ホッとした。
家に帰ると前後して、片柳の若先生がラビットに乗ってやって来て、私の足の治療をした。
先生の前にケガした方の足を出すと、先生は汚れた包帯を解いて、まず最初はシッカロールをつけた手で、丁寧に患部をマッサージするのだが、初めはそれが結構痛かった。
何日かする内に、かえって気持ちが良くなって来たので先生に話すと、段々良くなっているからなのだと説明してくれた。
マッサージが終わると、先生はカバンの中から塗り薬を出してガーゼに塗り、油紙と一緒に痛い所にあてて包帯をした。
半月ほどすると、足を出していれば風呂に入ってもいいと許しが出た。
それまでは洗い場で体を洗うだけだったから、たとえ片足を出したままとはいえ、風呂に入れるのはありがたかった。
一ヶ月ほどすると、今度は往診が通院に変わり、私は学校から帰ると、渡良瀬橋を渡って毎日片柳接骨院まで通った。
毎日が一日おきになり、そして3日おき、一週間に一回と、段々間があいて、もう通わなくてもいいと言われた時には、あと何日かで夏休みという季節になっていた。
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- 平成17年3月3日(木曜日)
【晴】
3月3日の朝礼のあとに、「雛祭」を歌うのが毎年恒例の行事だったが、その前に決って教頭先生からの注意があった。
「エヘン、エヘン、あーみんな、これから雛祭を歌う訳だが、いいか、これだけは言っておくけどな、歌の文句は最後まできちんと歌う事。決して変な替え歌を歌ったりしないようにな」
大体こんな調子なのだが、誰も聞こうとはしないし、先生も絶対に守らないだろうと知っていたから、言い方にも何となくしまりがないのだ。
教頭が壇を下りて、音楽の野沢先生が代って上って来て、もう一人の先生がオルガンの前に座ると、もうどこからかクスクスと忍び笑いが聞えて来て、野沢先生は、まだ歌が始まっていないのに、もう口をへの字に曲げて不機嫌な顔をしていた。
前奏のあと野沢先生の指揮のもと、全校生徒約2,000人の大合唱が始まった。
明りをつけましょボンボリに、お花をあげましょ桃の花、五人ばやしに笛太鼓、今日は楽しいへのまつり、
そして全員の大爆笑
それでも野沢先生と数人の先生方は、苦虫を噛み潰したような顔をしてニコリともしない。
結局、その年の雛祭の歌も、例年通り屁の祭になった。
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- 平成17年3月2日(水曜日)
【晴】《1日の続き》
片柳先生は私の足を診察すると「ああ、これは大変だな、内くるぶしにヒビが入ってるよ。ここは蟻にも這わせるなっていう位の大切な所だから、まずは2〜3日安静にしていて下さい。明日から当分は往診しますから」と言った。
母は「先生、このケガがもとでビッコになるなんて事はないでしょうね」と、心配そうに尋ねると、先生は、「大丈夫、ただヒビっていうのは治るまでに案外時間がかかるもんでね。まあ、気長に治療しましょう」と、その日は別の医者にレントゲンを撮りに行き、湿布薬をもらって帰宅した。
私は添え木をあてられ、真っ白な包帯でグルグル巻きに巻かれた足を、惨めな思いで見つめながら帰宅した。
次の日から3日ほど学校を休んで床に就いたが、ケガの他はどこも悪くないので、死ぬほど退屈だった。
2日目の午後に、担任の川島先生がやって来た。
「この大バカ者が、いつもいつもお父さんやお母さんに心配をかけて、本当に親不孝者なんだから」
枕元に来るなり、先生は早速大目玉だった。
母はそんな先生をニコニコしながら眺めていたが、「本当に先生、もっと叱って下さい。とにかく私の言う事なんか、少しも聞こうとしないんですから。何だったらコツンとやって下さって結構です」と、とんでもない事を言っている。
それからしばらくの間、私は先生と母のお説教の嵐にさらされ、(あ〃、早く先生帰ってくれないかな)と、内心祈り続けるのだった。
夕方近くなると、母は先生に「鳥常」のうな丼をとり、ケガをしている私にも「親子丼」をとってくれた。
私はこんな美味いものが食えるのなら、たまにはケガをしてもいいかなと思った。
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- 平成17年3月1日(火曜日)
【晴】
公園の弓引場の西北の角には、敷地の真ん中に立つ大ケヤキの落葉が吹きだまって、ぶ厚いじゅうたんのようになっている。
弓引場自体が、斜面を削って作られていたから、北を通る緩い坂道からは、落差が3mほどの崖になっていた。
大ケヤキの枝は弓引場全体を被っている上に、東から北に巻いている道の上にも、右手の森からのびる椎やかえでの枝がかかっていて、全体に緑の屋根がかかっているような場所だった。
落葉の吹きだまりに向かって、約3mの崖を飛び降りるのは、かなりの勇気を必要としたが、思い切って一回やってみると、その面白さのとりこになった。
冬から早春にかけて、私達はその遊びをよくしたが、ある日の事、何回目かの飛び降りの時に、ほんの少しの油断から、着地点が手前になってしまい、落葉の積もりが薄くて、しかもや〃斜面になっている所に足をついてしまった。
目から星が飛び出し、息が止まるほどの激痛にのたうっている内に、ちょうど太田市から遊びに来ていた甥を除いた全員が、とばっちりを恐れて逃げ去ってしまった。
私は甥に家からザンマタ(洗濯の時に竿をかける道具)を持って来るように頼んだ。
家に駆け戻って行く甥が、ザンマタを引きずって来るまでの間、私は落葉の中に身を沈めて、じっと痛みに耐えていた。
甥が持って来てくれたザンマタを杖代わりに、そばで心配そうに私を見ている甥にも助けられながら、普段なら家まで数分の距離を30分近くかけて家に戻ると、家人のいないのを幸いに風呂場まで這って行き、桶に水を汲んで足首を冷やした。
左の足首は見ても分かる程に腫れて来て、ズキンズキンと痛みが止まらない。
叱られるのが嫌だったので、何とかごまかしてしまおうと思ったが、どうにも隠し切れないと思ったので、帰宅した母に恐る恐るケガした事を話した。
てっきり大目玉を食らうと思っていたのに、母は意外にも私を叱らず、直ぐに隣のおじさんに頼んで、私を自転車に乗せると、自分も一緒に、浅間下の片柳骨つぎまで連れて行った。
私は自分のケガが、思ったより重いのを、次第に増して来る痛みで知らされた。
■アトリエ雑記は平成12年12月15日からスタートしました。
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