アトリエ白美「渡辺肖像画工房」 渡辺晃吉
- 平成17年2月28日(月曜日)
【晴】《27日の続き》
「ボク、こんなものでも面白いかい」
おじさんは、愉快そうに笑いながら声を掛けて来た。
「ウン」
板橋と私は同時に返事をすると、またおじさんの手先に視線を戻した。
「ハハハッ、そうかいそうかい、そんなに面白いんなら、いつでも見においで。そうだ、学校下ったらおじさんの弟子になるか。いいぞ職人は。昔から手に職っていって、いったん身につけさえすれば、もう食いっぱぐれがないからな」
私はおじさんの話を聞きながら、(似たような話、どこかで聞いたな)と思った。
緑町界隈には沢山の職人さんがいたし、仕事の種類も相当に多かったから、きっと耳に慣れたセリフだったのだろう。
マキ引きと両刃は、結構早目に目立てが終わったが、銅付きにはそれまでの倍以上の時間がかかった。
ヤットコで刃並びを揃えたり、今度は逆に金床の上で刃を叩いたり、ヤスリの使い方も、それまでとは全く違って、ゆっくりと少しづつ、とても丁寧だった。
やっと納得がいったのか、おじさんは「ヨシッ」と大きくうなずくと、何かの油を湿した布で、ノコギリを一本一本丁寧に拭い、「危ないから包んであげるよ」と、新聞紙で包んで渡してくれた。
「勘定はつけといて下さいって」
「ハイヨッ、まいどどうもね。気をつけて帰るんだよ」
おじさんの声に送られて、板橋と私は店を出ると、表通りを横切って露地に入り、福田の辻に出て左に折れ、三井屋の脇から公園通りに出て帰宅した。
「板橋、家に帰るの遅くなって怒られないか?」
「大丈夫だよ。帰りに渡辺の家に寄ったって言えば平気」
「そうか、んじゃあ公園抜けて行こう。途中まで送るから」
「ウン」
父にノコギリを渡すと、私は板橋を送るために公園に入って行った。
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- 平成17年2月27日(日曜日)
【晴】《26日の続き》
板橋は嬉しそうに「ウン」と返事をした。
目立て屋のおじさんの店は、7丁目の切通しの手前を「三宝院の方へ入って行く道沿いにあり、少し行くと母が行き付けの周藤という髪結いの店もあった。
間口二間ほどのガラス戸を開けて中に入ると、幅半間ほどの三和土をはさんだ八畳ほどの板の間の仕事場で、おじさんが仕事をしていた。
「すみません、目立てをお願いします」
私は持って来たノコギリを上がり框に置くと、おじさんに声を掛けた。
「ハイハイ、渡辺さんだね、まいどどうも。今すぐやるから、そこに座って少しの間待っててね」
おじさんは愛想良く答えて上がり框近くに出て来ると、「いま茶をいれるからね」と、子供の私達にお茶をいれてくれた上に、木のくりぬき器に盛られたお煎餅を出してくれた。
おじさんはお茶をいれる時に、茶筒からほんの少しの茶葉を急須に足し入れた。
私は家とは違うお茶のいれ方が珍しくて、その記憶が妙にのちのちまで残った。
お茶をいれ終わったおじさんは、私が持って来たノコギリを手にすると、直ぐに仕事を始めた。
最初に手にしたのはマキ引きノコだったが、おじさんはノコを二枚の板で挟んで固定すると、刃を上にして両足の平でおさえ、ヤットコの先を使って刃並びを整えながら、小さな目立てヤスリを器用に使って、みるみる内に目立てして行くのだった。
私と板橋は、お煎餅を食うのも忘れて、おじさんの見事な手先の動きに魅入っていた。
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- 平成17年2月26日(土曜日)
【晴】
学校から帰ると、父が何本かのノコギリを用意して私を待っていた。
「このノコギリの目立てを頼んで来てくれ。多分その場でやってくれるから、出来るまで待って、待ち帰って来い」
ノコギリの目立てをしてくれる人の家には、今までに何度か行っているので、私は喜んで使いに出た。
大きなマキ引きノコが一本と両刃が一本、それに銅付きが一本だった。
ノコギリを抱えて表通りに出ると、学校帰りの板橋とバッタリ会った。
「どこに行くん?」
「ノコギリの目立て屋だよ」
「ウァー、俺も一緒に行っていい?」
私は連れが出来るのが嬉しくて、「ウン、一緒に行こう」と直ぐに返事をした。
「僕はまだノコギリの目立てをする所を見た事ないんだ」
板橋は自分の事を僕と呼ぶ、少数派の一人だった。
「けっこう面白れえぞ」
ノコギリの目立てに限らず、私は手仕事の現場を見るのが、なぜか大好きだったので、そんな折には時の経つのも忘れて見学した。
「あんな硬い物を、どうやって研くのかな?」
板橋にとっては、細かい刃がズラッと並んだノコギリを、砥石も使わずに仕立てるのが、物凄く不思議なのだと言う。
「目立てヤスリとヤットコでやるんだよ」
私は少し得意そうに板橋に教えてやった。
簡単な目立ては、父や職人達が、素人仕事でやっているのをよく見ていたので、私にも真似事くらいは出来たから、言葉で説明できなくはなかったが、「向こうに着いたら、おじさんが目立てする所を見られるぞ」と、板橋に言った。
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- 平成17年2月25日(金曜日)
【晴】
学校の行き帰りに道沿いの家を覗くと、ガラス戸越しに雛飾りが目に入って来た。
(あ〃、もうお雛様なんだな)と、子供ながら季節の変り目を肌で感じ、何となく心がウキウキした。
我が家にも以前は古いお雛様があったのだそうだが、私が産まれるずっと前に長女を水の事故で、続いて次女を病気で亡くした親が、そのお雛様を知り合いに譲ってしまったので、私は自分の家の雛壇飾りを見た事がなかった。
二人の姉も、その事に別段不満がある様子もなく、当日に桜餅とあられが食卓に乗るだけの、ささやかな雛祭が我が家の習慣だったようだ。
私の住む緑町は、とても古い町だったから、昔からの習わしや行事が、生活の中にしっかりと根付いており、早い家では2月の20日過ぎには、もうお雛様を飾っていたと思う。
毎年、近所の仲間の家のどこかにおよばれに行ったが、正直に言うと、女の子の祭に招待されても、あまり楽しくはなかった。
第一によそ行きの服を着て行かねばならないのも、あまり面白くなかったし、遊びのほとんどが家の中だったから、それも気に入らない理由のひとつだった。
ただひとつ良かったのは、普段はあまりありつけない、珍しいお菓子や飲み物にありつける事と、帰りには沢山のお土産が貰えた事だった。
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- 平成17年2月24日(木曜日)
【晴】《23日の続き》
少し寒くなって来たので、私も平野のおばさんの店に入った。
おばさんは母の友達だったので、いつも何を頼んでも、他の奴より少し量を多くしてくれるのが嬉しかった。
「おばさんヤキソバ」
「ハイヨ、さっきから晃ちゃんが境内にいるのが見えていたけど、わざわざあんな所で、ヤキソバなんか買わなきゃいいのにと思ってたんだよ。祭の店は高いし美味くないし、第一汚いよ」
おばさんは私の顔を見るなり言った。
「大丈夫買わないよ。来る時に母さんが、どうせ何かを買うのなら、平野さんちで買いなさいって言ってたから、そのつもりでいたんだよ」
「そうかいそうかい、お母さんそう言ってたかい。やっぱりあんたのお母さんは偉いよ」
私には何がそんなに偉いのかよく分からなかったが、余計な事を言うとロクな目には会わないのを知っていたから、黙っておばさんのヘラをさばく手元を見ていた。
座敷には三台のもんじゃき台があったが、どれも塞がっていて、順番待ちをしているのか、何人かの見知った女の子達が、上がり框に腰を掛けて足をブラブラさせている。
「おばさんポテトも少し入れてね」と私が言うと、「分かってるよ大丈夫まかしておきな」と振り返った肩越しに答えた。
(あ〃、多分オマケしてくれるんだな)と思うと、私は何だかとても嬉しくなって、思わずニヤニヤしてしまった。
「晃ちゃん、何ニヤニヤしてるん、気持ち悪い」
そばにいた前原さんが、私の肩を突付いて毒づいた。
「うっせえな、人が何しようと勝手じゃねえかよ」
「あっそう、いいのよいいのよほっといて、あなたがニヤニヤ笑うのも、私がそれを恐がるのも、みんな私が悪いから」
前原さんは妙なセリフを吐くと、キャッキャッ笑い転げながら、仲間の所に戻って行った。
私は(あああ、明日また学校で皆に告げ口するんだろうな)と思って、おばさんの店に入ったのを、少し後悔した。
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- 平成17年2月23日(水曜日)
【晴】《22日の続き》
境内のいたる所に、幅が25cmで長さが1m位の、赤と白と緑の横じまの紙の旗が、しの竹の先につけられて立っている。
旗には正一位稲荷大明神という文字が刷られているのだが、誰に聞いても、それがどんな意味なのか知らなかった。
それでも鮮やかな色彩があちこちではためいているのは、とても華やかで楽しかった。
神社の南と西の道は、聞くところによると大変古い街道なのだそうだが、そんな気持ちで眺めてみると、何となく納得させられる雰囲気があった。
南の道を東に行くと、直ぐに少し広い本通りに出るが、そこに山岸屋という小さな菓子屋があり、その前を過ぎて本通りを突っ切ると、道はまた細い露地となり、そこから先はしばらくの間、どこに行くにも道は全て露地だった。
だから、その中に相当な広さの神社があるという事は、この稲荷神社の格式の高さを物語っているのだと、近くの年寄りが話していた。
境内の内外に出ている露店には、それぞれに固有の色と匂いがある。
濃い黄土色のぶっかき飴は、重曹の匂いがしたし、イカは誰にも分かる香ばしい香りを振りまいている。
ヤキソバは色と匂いの他に、熱い鉄板の上で焼かれる野菜や汁のたてる、気持ちのいい音も合わさって賑やかだ。
灰色はミソオデンの店の色で、それと対照的なのは、鮮やかな七色で作られたカンテンだ。
太いガラスの筒に入ったカンテンは、その場で食べなければならない。
大きな板状になっているのは、値段によって切り分けられ、ヒゲの皮の上に乗せられ、杉の薄板で作った、小さなヘラが添えられて渡される。
赤はイチゴで緑はメロン、橙はミカンで紫はブドウ、その他に黄色や青、そして透明もあった。
不思議なのは、どれを食べても、あまり味の違いがなくて、舌にほの甘く、大人には安っぽいだろうが、子供には魅惑的な香りが鼻を抜けて、キョトキョトとした感触と共に人気のあるお菓子だった。
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- 平成17年2月22日(火曜日)
【晴】
栄町の稲荷神社の初午祭の日、本殿脇の神楽殿では、昼間は神楽と演芸、夜はのど自慢が開かれ、沢山の露店も出て賑やかだった。
祭の日は大抵の所で仕事が早じまいになり、職人を抱えている家では、心ばかりの酒席が用意されて、あちこちでわき上がる哄笑が、祭の雰囲気を盛り立てていた。
学校から帰ると直ぐ母のもとに走りより、こんな日だけの特別な小遣いを貰って、外で待っている仲間と一緒に神社に向かった。
稲荷神社は、我が家の工場からは目と鼻の先だったが、道の途中には友達の家が多く、一軒一軒声を掛けて行くので、結構時間がかかる。
緑町の隣の栄町は、多く露地があるのが特長で、それがまた子供達にとっては魅力だった。
昔からの長屋も沢山あって、善良な人達が肩を寄せ合って暮しているのが、町内を通り抜けて行くだけでもよく分かった。
境内に入ると、神楽殿では小休止なのか、舞台には誰もおらず、本殿の石囲いの上に固定された拡声機から、古い流行歌が流れていた。
例え舞台で神楽が奉納されていても、特別に興味があって観る訳ではないが、遊んでいる目の端見えていたり、あの独特の笛太鼓の調子を、聞くとはなしに聞いていると、何だか祭の真ん中にどっぷりと浸っている気がして心が満たされた。
何も演じていない神楽殿の前の広場には、所々に佇む人の姿があるだけで、おおかたは露店を冷やかしたり、本殿前に集まって手を合わせたりしている。
辻の斜め向かいの平野のおばさんの店は、もんじゃきや焼きソバ、お菓子、ところ天などを目当ての子供達でいっぱいだった。
いつも遊びに来てオダをあげている堀越おばさんも、今日はせわしなく店を手伝っているのが、ガラス戸越しに見えて、私は何となくホッとした気分になっていた。
平野のおばさんは、子供のヤッさんと二人暮しで、おばさんの細腕一本の稼ぎが二人の生活の支えなのだ。
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- 平成17年2月21日(月曜日)
【晴】《20日の続き》
土手を下る前に人の気配がないか、じっと目を凝らして様子をうかがい、安全を確めて用水に近付いて行くと、深く切れ込んだ水路に沿った桜並木の根元から、下に続く斜面には、目で見ても分かる程に、フキノトウが地面から顔を出していた。
(しめた)と思い斜面にとり付き、夢中になって摘み始めると、ザマは見る見る内にフキノトウでいっぱいになっていった。
これだけあれば大丈夫と、そろそろ引き上げようとした矢先に、「オイ、オメエそこで何採ってるんだ」と、頭の上から声がした。
(ヤバイ)と思って上を見ると、斜面の上から顔が覗いて私を睨みつけていた。
年齢は私と同じ位だろうか、上に上がってみると、片手に山羊の手綱を握っている。
多分この辺の農家の子なのだろうが、余所者の私が無断で自分達のテリトリーに入り込んでいるのを、かなり怒っているのが、その顔にありありと出ていた。
私は覚悟を決めてザマを地面におろすと、「ゴメンな、家の親とおばあちゃんに言い付けられて、フキノトウを採りに出たんだけど、いつもの場所には、もうなくてな、あちこち探して、とうとうここまで来ちまったんだ。まずければこれ返すけど、手ぶらで帰ると親がガッカリするから、それが残念だよな」と素直に話してみた。
すると相手が意外にも「そうなんかよ、だったら好きなだけ採って行けばいいじゃねえか。どうせほとんどは花にしちまって、これ食べる奴なんてあんまりいねえからよ」と、笑いながら話してくれた。
「そうか、悪いな。それじゃ遠慮なく貰って行くけど、もしも親がもっと採って来いと言ったら、また採りに来ていいか。俺は渡辺だけど…」
「俺は斉藤ってんだ。あ〃いいよ。俺んちは、ほら、あそこの屋根の家だよ。今度来たら寄って声を掛ければ、俺も一緒に採ってやるよ。そうすれば渡辺もこの辺の奴らに気兼ねがねえだろう」と、用水の森の東の森の脇に見える家を指差しながら言った。
「ウン、その時は必ず寄るから頼むな」
「分かった、そこまで送るよ」
斉藤は緑橋のたもとまで、私を送って来てくれた。
「バーイ」、「バーイ」
橋を渡り終え家に着くまで、私の足取は羽根が生えたように軽かった。
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- 平成17年2月20日(日曜日)
【曇のち雨】
「そろそろフキノトウが出てるだろうから、明日学校から帰ったら、お前少し採って来ておくれ」
晩飯のあとに祖母が私に言ったのを聞くと、今度は母も「そうだ、もう遅い位じゃないかい。なるべく沢山頼むね」と、祖母のそれに重ねた。
(あ〃、もうそんな時期か)と、私は子供なりに季節の移ろいをしみじみと思ったが、そのあと直ぐに(あんなの少しも美味くねえのに、大人はなんでフキノトウなんか食べるんだろう)と考えてしまった。
それでも枯草の下を掻き分けて、若草色のローソクの火のような形の花芽を摘むのは、結構面白いものだった。
次の日の帰宅後に、母の用意してくれたザマを背負い、毎年出掛けて行く場所に行ってみると、先客がすっかり摘んだあとだった。
仕方がないので渡良瀬川の土手下にある、ちょっとした穴場まで行ってみたが、ここも誰かが摘み取った跡があって期待外れだった。
あと残された場所といえば、私の知る限りでは対岸の御厨用水の桜の下だったが、そこは完全に縄張りの外になってしまい、もし余所者が踏み込んでいるところを、地元の悪ガキ共に見付かったりしたら、まず無事に帰る事は出来ないだろう。
それでも、収穫なしで帰宅した時の、ガッカリした祖母と母の顔を想像すると、何とかザマに半分位は持ち帰りたいので、思い切って越境する事にした。
緑橋を向こう岸に渡ると、土手の上にのぼらずに河原に降り、土手下の薮の中に身を隠しながら目的地に向かった。
冬の河原は、丈高い雑草や芦、名前もよく分からない木が密生していて、子供一人を何の造作もなく隠してくれる。
その中を掻き分けながら、私は用水のある場所の近くまで進み、この辺と見当をつけた所で土手にあがると、少し離れてはいたが近くまで来ているのが、眼下の景色で確める事が出来た。
ここはもう群馬県なのだ。
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- 平成17年2月19日(土曜日)
【雨】《18日の続き》
得意の絶頂にいるYは、あまりの嬉しさに身の置き所がなくて、体をねじってみたり、近くの電信柱にしがみついたり、もう少しで気絶するのではないかと、心配になる位興奮している。
「Yちゃんそのスケーターちょっと乗っていい?」
頃合をみて誰かが頼む。
「ウン、みんなかわりばんこに乗っていいよ。三輪車も乗っていいよ」
Yは機嫌良く自分のオモチャを皆に貸して悦に入っている。
「あ〃ー、腹へったなぁ、何か食うものねえかなぁ」
悪知恵の働く奴が、見当違いの方に顔を向けながら、大きな声で独り言を言う。
それを耳にしたYが、家の中に駆け戻って行ったのを横目で見ながら、(うまくいったな)とお互い目で合図する。
いくらもたたない内に、Yが両手にいっぱいお菓子を抱えて家から走り出て来る。
近くをウロウロしていると、Yの家の人に見付かってしまうので、何人かがYを急いで家の人の視野から外れた方へ誘導し、「アレ、そんなにお菓子を持ち出すと、母ちゃんに怒られるぞ」などと、心にもないセリフを吐く。
「ウウン、大丈夫だよ。いっぱいあるから、これ位持ち出したって分かりゃしないから」
「そうか、んじゃあみんなデク(ごちそう)になるか」
悪巧みの親玉がYからお菓子を受け取ると、意外と平等に分けてくれるのだ。
この時だけは、Yにとって多勢の仲間と一緒に過ごせる、正に珠玉の時間なのだが、その結末は大抵の場合、おだてに乗ってお菓子を持ち出した罰に、外の炭小屋に閉じ込められて、今にも死にそうな声で泣き喚く事になる。
そんな時は、Yが可哀想なので、家の人の目を盗んで炭小屋の近くに忍び込み、板壁の隙間から「ウーウーウ」と変な唸り声でおどしたり、小屋の隅にへばりついているYの背中を、節穴から突っ込んだ棒の先で突付いたりして付き合ってやった。
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- 平成17年2月18日(金曜日)
【晴】
Yは自分の思い通りにならないと、ギャアギャア泣き喚きながら、両手を風車のように振り廻して暴れるので、町内の仲間からはほとんど相手にされなかった。
坊主頭が普通のガキ共の中で、数少ない坊ちゃん刈りの一人で、それだけでも仲間外れになる理由が充分の上に、わがままが通らないと逆上するような奴なんて、誰だって関わりたくなんかないけれど、そいつの家は金持ちだったから、私達には珍しいお菓子や食い物を代償に、ひととき御山の大将になりたがった。
そんな時はみんなでおだてるだけおだてておいて、食い物が無くなったとたん、「オメエはあっちに行ってろ」と追い払うのだ。
するとそいつは見る見るうちに泣き出して、いつものように両手をぐるぐると廻して飛びかかって来るのだ。
ギャアギャア喚く割には弱いYの頭をおさえて「アアラまたおこったの、ゴメンね」などと悪どくからかうものだから、Yはもう死にもの狂いで反撃してくるから面白い。
腕の力だけで振り廻しているこぶしなんかでぶたれても、犬の尻尾で引っ叩かれたもので、この辺のガキなら、小学校の一年生だって平気な位だ。
だからYは近所の誰よりも弱くて、絶対に上に立てなかったので、よくミソッかすをお菓子で釣って集めては、自分の家の庭あたりで威張っていた。
私達は遊びに飽きて退屈すると「オイ、Yの奴をかまいに行くべ」と声を掛け合っては、奴の所に出掛けて行った。
Yは大抵自分の家の前でブラブラしているので、そこに行けば直ぐに見付かるのだ。
私達が近付くと、近所ではY以外には持っていない三輪車やキックスケーターなどを、さも得意そうに見せびらかす。
「ウワーすっげえなぁ、こんなん持ってるの、この辺じゃYちゃん位のものだよな」とか「Yちゃんちは、この辺で一番金持ちだから、欲しいもの何でも買ってもらえていいよな」とか、適当なおべんちゃらを並べて、Yの自尊心を精一杯持ち上げる。
Yは誰が見ても分かる程に嬉しさを全身に発散させて、今にもひっくり返りそうになるのだ。
以下次回
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- 平成17年2月17日(木曜日)
【晴】
ピーという笛のような音は、ラオ屋の屋台に積んである、小さなボイラーの蒸気を引き込んだパイプの先から出ていて、かなり遠くからでも聞えるほどだったから、それを聞くと三度に一度位だったが祖母の使いで何本かの煙管を持って表通りに走った。
祖母も母も、普段はこよりを使って自分で掃除していたが、長い間には行き届かないところにヤニがたまり、本職の手が必要になるのだという。
ラオ屋のおじさんの屋台が止まるのは、通りから玄関まで、奥行一間半、幅四間ほどの引っ込みがあった人見医院の前が多かった。
おじさんは足を立てて屋台を水平に固定し、小さな丸イスを下の方から引っ張り出して座ると、もう何人か待っている客から煙管を受け取り、直ぐに仕事を始める。
仕事のほとんどはヤニ掃除だったが、中には吸い口や雁首を新しく挿げ替える仕事や、ガラス戸棚に整然と並んだ新しい煙管が売れる事もあった。
ボイラーで作られた蒸気は、煙管をきれいに掃除するのに無くてはならないものなのが、おじさんの手先を見ているとよく分かる。
蒸気で温められた煙管は、雁首と吸い口が簡単に外せ、三つに分かれた部分に蒸気を通すと、中から黒いヤニが水のようになって流れ出てくる。
細く裂いた布を管に通して中をきれいにしたあと、三つを一つに組み戻して仕事は終わる。
屋台の木部は清潔に拭き込んであるが、やはりヤニのせいか、全体が濃い飴色になって、銅のボイラーとよく調和している。
微かに煙草のヤニの匂いが漂い、時々せき込む笛の音も、近くにいると直ぐ耳に馴染んで少しもうるさくない。
いつも4〜5本の煙管を預るので、すっかり終わって家に戻るまでには、小一時間もかかるだろうか。
それでも祖母がくれる10円の駄賃は、たまにしか貰えない貴重な小遣いになった。
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- 平成17年2月16日(水曜日)
【雨】
三学期最後の行事である学芸会の準備は、各々の役割によって相当の差が出るのだが、学年毎の劇に出演する奴らの練習量に比べて、私達悪ガキ組が毎年割り振られる合唱というのは、本番直前に数回の声合わせだけだったので、その意味では楽だったが、私は合唱団にも所属していた事から、そっちにも出演する関係上、出番がひとつ多かった。
だいたい学芸会の合唱というのは、劇やダンス、合奏やバレー、舞踊、ピアノやヴァイオリンなどの演奏やその他の個人出演に該当しなかった、文字通りその他多勢をひとまとめにして出演させるとしか思えない程、差別観の強い演目だった気がする。
だから、学芸会の出演種目が発表される時、「今までに名前を呼ばれなかった者の出演種目は合唱だからな」と先生から言われた瞬間、既に合唱以外の出演が決った奴から、(ヘン)という馬鹿にしたような視線が、一斉にぶつけられるのには本当に参った。
結局のところ、良い子は演目に出られるし、悪い子は悪い演目にしか出られないという事なのだ。
そんな訳だから4年以上の学年の合唱は、ただ出て歌うというだけで、ロクな練習もしていないから、やたらに大きな声でがなり立てたり、地声で妙なこぶしを聞かせたりと、結構個性的で面白かった。
合唱は各クラス毎に一組作られるから、何の事はない、皆が関心を持っている劇などの合間を埋めるために、プログラムを埋めているようなものだった。
だから、その他多勢が出演する合唱など、生徒はおろか先生方だって聞いたふりをしているだけで、実際は次の演目に出演する連中の引率や指導に夢中で、ほとんど上の空だったのだ。
かと言って、合唱に出る連中が、その事を気にしていたかと思えば、そんなのは全く無かったのも不思議で、逆にあまり練習をしないで済む事を、むしろ喜んでいたと思う。
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- 平成17年2月15日(火曜日)
【晴】
2月も中旬近くになると、正月の餅が残っている家は、もうほとんどないのだが、我が家にはまだリンゴ箱に山盛りいっぱいはあったろうか。
餅の表面には、白や青、少し赤っぽい色などのカビがビッシリとついているので、私や姉達は、台所の床に敷いた新聞紙の上で、包丁を使ってカビを落とす仕事をよくやらされたものだった。
カビを落とした餅は、そのあと水に漬けて表面を洗ってから焼くのだが、やっぱり少しカビ臭いにおいがした。
だから最後には細かく割ったものを油で揚げて、塩をまぶしたあられにして食べたのだが、これが意外に美味かった。
「今日は残った餅をあられにしようかね」
母が女の人達を指図して作るあられの量は、大きなザマに二杯ほどあったので、皆が気ままに食べた上に、お客へのお茶菓子に出しても、なかなか無くならなかった。
私は学校から帰ると、片手にあられ、もう片方の手に煮干を持ち、それを交互に食べるのが好きで、結構小腹が満たされた。
しかし、どういう訳か私が煮干をかじっているのを見付かると「生のまま食べちゃ駄目、虫がわくよ」と、母に叱られた。
まさか煮干を食べて虫がわくとも思えなかったが、そんな事を言われるせいか、時々腹が痛くなって困ったものだった。
あんなに沢山あったあられが、そろそろ底をついて来る頃になると、いつの間にか足元には春の気配が漂いはじめ、間もなく雛祭の季節がやって来る。
毎日のように吹いていた赤城颪も、少しづつ勢いをなくし、気がつくと向きの変わった風が、ぬるみと香りを運んで来る時を迎えるのだ。
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- 平成17年2月14日(月曜日)
【晴】《13日の続き》
あたりが薄暗くなり、職人達も引き上げて、人っ子一人いない河原にポツンと残された私は、とうとう諦めて家に戻る道をトボトボと引き上げるしかなかった。
いったいチビ達はどこに行ってしまったのだろうか。
もしやと思い、フジの小屋の中や、チビ達がいつも遊んでいた倉庫の中を覗いて見たけれど、やはりどこにも姿がなかった。
子供がいなくなったのに、当の親のフジは全く平気な顔をして、私と目が合うと、のんびり尻尾を振っている。
それが少し面白くなかったので「フジよ、お前は自分の子がいなくなったというのに、悲しくねえんかよ。冷てえ親だ」と文句を言っても、フジは私の手をペロペロと舐めたり、小屋の壁にパタパタと尻尾を打ちつけているばかりだった。
別に鎖で繋いである訳ではないので、小屋に入っているのが飽きたフジは、ノロノロと小屋を出て母屋の方に歩いて行った。
フジが仔を産んだ時はいつもそうなのだが、最初は毎日がとても楽しみで、その内一匹一匹といなくなる毎に悲しくなって、最後にみんないなくなると、そのあとの一週間位は本当に気が抜けてしまい、チビ達がいない生活に慣れるのが大変だった。
そんな事を、もう5回以上は繰り返したのに、今度もまた淋しい日が少し続く。
最初のチビ達は、結構近所に貰われて行ったから、時々遊びに行けるのでいいのだけれど、あとの奴らは皆遠くに貰われて行く事になり、その先に会いに行く事は出来ない。
そしてフジも、館林の知り合いに貰われて行き、次にゴールという名のシェパードが来るまで、我が家には犬がいなかった。
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- 平成17年2月13日(日曜日)
【晴】
学校から帰り、いつものようにフジの小屋の前に行き、まだ三匹残っていた小犬達を引っ張り出そうとしたら、どこにも姿が見えないのに驚いて、私は慌てて庭で仕事をしている父のもとに走った。
「ネエ、チビ達はどこに行ったの?」
「あ〃、知らない人が来て連れて行った」
私はそれを聞いたとたん、なぜか(嘘だ)と思った。
これまでにフジは何度も仔を産んでおり、その度に貰い手を探すのに苦労していた父を知っていたから、今度の仔達の中で、なかなか行く先の決らない三匹を持て余して、多分河原あたりに捨ててしまったのかもしれない。
そう考えると、私は矢も楯もたまらずに河原に向かった。
我が家が染めた原毛を乾燥するために借りている場所まで行ってみると、職人達が数人働いていた。
「オオッ晃ちゃん手伝いに来たか」
「ちがうよ、チビ達を探しに来たんだよ。今日誰かチビ達をここに捨てに来なかった?」
「いいや知んねえな。どした、いねえのか?」
「ウン、もしかして捨てられたのかもしれないよ」
「まさか、おとっつぁんがチビ共を捨てるとは思えねえし。そうか、チビ達いなくなったか」
私はそれでもあたりの薮の中を夕方まで探し回った。
まだ名前をつけていなかったので名を呼ぶ訳にもゆかず、ただ「オーイ、オーイ」と叫びながら見渡す限りをうろつくばかりだった。
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- 平成17年2月12日(土曜日)
【晴】《11日の続き》
拝殿からの灯を受けて、我が家の一升枡は渡り廊下に長い影を作って、ポツンと淋しそうに置かれているのを見ると、突然ひとりぼっちにされた犬が、心細そうに飼い主を待っているようで、私は何だか一升枡が可哀想になってしまった。
「誰だよ、ひとんちの物をこんなところに置きっぱなしにして。大体おめえらは何やってもいい加減なんだよ」
私はしょんぼりしている仲間に、思わず小言を言ってしまった。
「悪かったよ、ごめんな」
皆が口を揃えて謝るのを聞いている内に、何だか気が抜けてしまい、「あ〜あ、もうけえるかな。俺はもうくたびれちまった」と言うと、他の連中も、「そうだな、俺も腹へって飯食いてえよ」とか、「俺ぁ寒くって仕様がねえよ。早く家へ帰るんべ」とか、結局全員揃って帰る事になった。
神社を出ると、目の前を鎧行列が通り掛っていた。
その当時は、まだ鎧の全てが古いままで修繕もしていなかったので、薄暗い外燈の下をガシャガシャと音を発てて行く姿は、まるで戦国の世の武者達の亡霊を見るようで、勇壮というよりも、むしろ怖い感じがして、まわりに人が沢山いたから大丈夫だったが、もし私一人だったら、到底この場に立ってはいられなかったろう。
列の前後からヴォーというホラ貝の音が響き、黒々とした流れは、いつ止むとなく続いていた。
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- 平成17年2月11日(金曜日)
【晴】《10日の続き》
5丁目の八雲神社を出ると、通りには鎧行列を見物する人達が、両側に人垣を作っていた。
「どうする?ここで観るか?」
ヤッさんが言うと、「イヤ、大日様に行くべえよ。行列が太鼓橋を渡るところは、まるで映画観てるみてえで面白えぜ」
宮内がそう言ったので、私達は最初の予定通り、人垣の外側を抜けて織姫神社の前に出ると、ヘビ屋通りを大日様に向かって歩いた。
「ウウさみいな。早く行くべえよ。大日様の境内で焚火してるから早くあるるべえよ」
田中がブルブル震えながら言うのを聞いて、みんなも急に寒さが身に染みて、「行くべ、急いで行くべ。寒くって寒くってもう死んじまいそうだ」と、半分叫ぶようにはやしたてながら、夜の道をばらばらと走って行った。
「あれっ、枡は誰が持ってるんだ?」
私は枡を手にしていない事を思い出し、皆に尋ねると、「知んね」、「俺も知んね」と無責任な答えが返って来た。
私はカンカンに怒って、「バカヤロ、誰でもいいから引っ返して枡取って来い。もし無くしてみろ、おめえら全部ぶちのめすぞ」と、皆を怒鳴り散らした。
結局全員が引き返して枡を探す事になり、とぼとぼと来た道を戻り、神社の拝殿まで来ると、誰が最後だったか分からないが、我が家の枡が渡り廊下の上に乗っていた。
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- 平成17年2月10日(木曜日)
【晴】《9日の続き》
節分の夜は、どこの辻を行っても、一升枡を持って豆まきをする人や、間もなく始まる鎧行列を見物するため、大通りに出る人達が沢山歩いていた。
足元から這い上がって来る恐ろしく冷たいものを、いつもと違う華やいだこの夜の気分を壊す事は出来ない。
着ぶくれに加えて首にぐるぐると巻いたマフラーで、皆の姿は豆タンクのようで面白い。
「オイ、鎧行列は何時からだ」
長谷川が宮内に聞いた。
「多分8時からだ。今頃は西校の校庭に集合してるんじゃねえか」
以前は緑町の八雲神社が起点だったが、最近は西校から出発するらしい。
私はここ数年鎧行列を見物していなかったので、今夜は久し振りに通りに出るか、鑁阿寺まで足をのばしてみようかと思った。
「豆まき終わったら、鑁阿寺まで行くか」と皆に声を掛けると、「ウン、行くべ、行くべ」という事になった。
5丁目の八雲神社は街の中にあるせいか、緑町の八雲神社に比べるとかなり狭い。
いつもなら、こんな時刻の境内は墨を流したように真っ暗だから、とても入って行く事など出来ないが、今夜は大勢の人達が出入りしていて賑やかなものだった。
皆は先を争って一升枡を持ち、「鬼は外福は内」を大声で叫びながら、やけくそのように豆まきをした。
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- 平成17年2月9日(水曜日)
【晴】《8日の続き》
本殿の前は、参道に沿って並んだかがり火や、左脇の神楽殿からの灯などで意外に明るく、うっかり大きな声を出すと顔が分かってしまうのが、何とも恥かしいのだ。
仕方がないので近くの大人が声を張り上げる時に、うまく合わせて「鬼は外」をやって誤魔化す。
本殿が終わると、境内の中に点在する小さな社の前に行って、また同じ事を繰り返すのだが、そこまでは明りが届かないので物凄く怖い。
だから決して一人では行かずに、誰か大人の人のあとをついて行き、その人に合わせてやっつける。
そんな社が四ヶ所位あるけれど、いったいどんな神様なのか全然分からなかった。
八雲神社が終わると、今度は栄町のお稲荷様に向かう。
途中薬師堂の前で、人通りのない間を狙って急いで豆をまき、近所の人に見とがめられない内に、その場を逃げ出す。
お稲荷さんは周りに人家も多く、東西南北の辻が、交叉しているので、八雲神社と違って少しも怖くなかった。
鳥居をくぐり本殿に進む低い石段の前に来ると、いつもの仲間の何人かが所在なさそうに座っていた。
私は内心(しめた)と思い、「豆まくか?」と一升枡を突き出すと、全員が「ウンやる、やる」と駆け寄って来た。
「んじゃあ順番にやらせてやっから並べ」と、みんなを一列に並ばせ、「一人一回だぞ。終わったら今度は5丁目の天皇様だ」
「ウヮー行くべ行くべ。オイッ一度にそんなにまくなよ。5丁目の分が無くなっちまうじゃねえかよ」
順番で豆をまいていた平野のヤッさんに、タカさんが口をとがらせて文句をつけた。
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- 平成17年2月8日(火曜日)
【曇のち雨】
節分の夜の豆まきは、その家の年男が行う事になっていて、どういう訳か我が家では、ここ数年は私の役目になっていた。
近所の仲間で豆をまける奴は、私の他に何人もいなかったので、「いいな、いいな俺もやりてえな」と、皆に羨ましがられたが、当の本人は、それほどには思っていないのだ。
陽が落ちて夕闇が濃くなって来ると、あちこちの家から「鬼は外福は内」の声が聞えて来て、嫌だなと思ってはいても段々と心が高ぶって来るから不思議だった。
「さあ、そろそろ始めるか」
父のその声を合図に、私は用意してある一升枡を抱えて最初は神棚のある部屋に行き、内に向かって「福は内」と叫びながら豆をまく。
戸の脇に控えている母が、私の動きに合わせてサッと戸を開けると、そこに向かって「鬼は外」と豆を外にまく。
次は玄関、そして台所や背戸、便所、二階と、家の開口部のほとんどで、この儀式を行うのだ。
「さあ、あとは一人で行っておいで」と母に促されて、私は深まった闇の中を、八雲神社に向かうのだった。
家の前に出ると、相変らず「鬼は外福は内」と、あちこちから聞えて来る。
足元も見えない夜の道を行き、途中の辻稲荷にも豆をまくのだが、ここはいつも小声でそっと「鬼は外」と呟いて、豆も2〜3粒を使うだけで済ませる。
川沿の道は神社に行く人達でいっぱいなので、そこまで来れば少しも怖くなかった。
正面の鳥居をくぐる前に一度豆をまくのだが、ここは大勢の人達と一緒だから恥かしくない。
でも、本殿の前に立つとなぜか気恥ずかしくてならなかった。
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- 平成17年2月7日(月曜日)
【晴】
薬好きの母のもとには、年に数回訪れる越後の毒消し売りのおばさんと、富山の薬屋さんの他に、特別な薬を持って来る人がいた。
その人は昼間来る事はめったになく、大抵は夜の闇にまぎれるようにやって来て、言葉少なに話をすると、何かうしろめたそうに帰って行った。
薬といっても、ほとんどは乾燥した植物の葉や根だったり、何か粉のようなものを練り固めたもの、そしてヘビやトカゲ、イモリや山椒魚、名前はよく分からない虫などを乾したもの、どう見ても石としか思えないものなど、まるで魔法使いのズダ袋をひっくり返したような物ばかりだった。
その人が包みを開けると、他の薬とは全く違う強い臭いが、家の中に広がって行くのだが、母はなぜかこの臭いが好きなのだと言った。
私の知る限り、母はいつもどこかが悪くて、市販の薬は無論の事、医者の薬もよく服用していた。
それでも満足出来なかったのか、あとで聞いたら生薬とか民間薬とかいうのだそうだが、時々家に来る得体の知れない人が届ける薬も、よく飲んでいたようだった。
困るのは、私達が病気になった時にも、母はその薬を作って無理矢理飲ませるのだ。
大抵の薬の味は、とんでもなく苦かったり臭いが強かったりと、子供には拷問に等しいものだったが、母はいつも「良薬は口に苦し。ガマンガマン」と、まずいと言えば言うほど、その効き目が大きいと思って、多いに満足そうな顔で答えるのだった。
飲まされる薬の中には、これなら注射される方がずっとましだと思える程、酷い味のものもあった。
そんな時、私はいつか家出してやると、密かに決意したものだった。
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- 平成17年2月6日(日曜日)
【晴】《5日の続き》
埋葬前の儀式が終わると、おじいちゃんの棺は親しい人達に担がれて本堂を出て、風花まじりの寒風の中を墓地に向かった。
大きくて広い墓地の片隅に掘られた長方形の穴は、思ったよりもずっと深いのに驚いた。
「コレッ、あんまりじろじろ中を覗くんじゃないよ」
私はまたおばさんに叱られ、すごすごと人垣の外に出ると、埋葬の様子がよく見えるように、一段上にある墓地に入り、そこの囲いの上に乗った。
おじいちゃんの棺は、あっけない程の早さで穴の中に納められ、あっという間に土がかぶせられていく。
埋葬の儀式は淡々と進行し、そして終わった。
帰路は追い風に乗って楽々と道を行き、道すがらの会話は、少し前に故人を埋葬して来たとは思えない程、明るく楽しそうだった。
みんな大きな方の荷を下ろしたような表情の中に、近しい人に先立たれた悲しさを隠しているようだった。
「ボク、小さいのにこの風の中を大変だったな」
見知らぬおじさんが私に声を掛けて来たが、役目を終えてホッとした気分を、そんな形で表したかったのが、私にもよく分かった。
私は何も言わず、ただ笑顔でおじさんに答えると、おばさんに握られ、汗ばんだ手を振り解いた。
「もう一人で歩けるよ」
私はおばさんにそう言うと、列の先頭に向かって走った。
行きはともかく、帰りだけは先頭に立って、おじいちゃんの行列を家まで先導したかったのだ。
「おばあちゃん行って来たよ。おじいちゃんは無事に行ったよ」
「そうかいそうかい、おじいさんも晃ちゃんに送ってもらって、本当に喜んでいると思うよ。ありがとうね」
私は大切な約束を果したような満足感を胸に、心づくしの膳の前に座った。
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- 平成17年2月5日(土曜日)
【晴】《4日の続き》
近付いてみると、山門は意外に小さく、僅か数段の石段で前の街道と繋がっていた。
私はもっと高く上らなければならないのかと思っていたので、内心ホッとしたのだった。
葬列は山門をくぐり、やがて先頭が本堂に着いたが、私はまだ山門の外にいた。
寒さで冷え切っていた私は、早く本堂に入りたかったから、なかなか進まない列がもどかしくて、おばさんの脇で地団駄を踏んでいた。
「コレッ、お弔いでお寺に入った時に地団駄を踏むと、亡者に集られるよ」
おばさんは小さな声で私をたしなめると、私の手を取って列から離れ、立ち並ぶ人達を追い抜いて本堂に急いだ。
「すみません、小さい子がいるので一足先に中に入ります」
おばさんは列の人達を追い抜く度に声を掛け、私を本堂の中に連れて行った。
本堂の中は、外に較べるとまるで春のように暖かかったが、特別に暖房がある訳ではなく、大きな火鉢が二つほど置いてあるだけだった。
おばさんは私を火鉢のひとつの前に連れて行き、「ここでしばらく暖まっておいで。風邪でもひいたら大変だからね」
私は「ウン」と返事をすると、真っ赤におきている炭火の上に手を翳して、ホッと一息ついた。
火鉢の周りには、炭が燃える時に出す、少しいがらっぽい臭いが漂って、そこだけ小さな春を作っていた。
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- 平成17年2月4日(金曜日)
【晴】《3日の続き》
寺に続く沢谷の右は、杉の巨木が道にのしかかるようにそそり立ち、左は狭い耕地になっていて、少し芽吹き始めた梅の林が、畑の奥から山裾まで続いていた。
西風は沢谷に入ってから激しさを増して、大人の影に隠れていないと、子供の私は前にも進めない程だった。
強風の巻き上げる砂塵が、容赦なく目潰しとなって目もあけていられない。
上州から野州にかけての冬は、どこに隠れても身を凍らせる赤城颪から逃げられないのだ。
そんな冬枯れの中を、葬列は野を分けるかのように、ほとんど真っ直ぐな坂道を、あえぎあえぎ進む。
私は列のうしろの方で、柿沼のおばさんに手を取られながら、身も心も冷気に打ちひしがれながら、のろのろとついて行った。
「がんばって、ほら、もうすぐに寺だからね」
おばさんは自分も辛かったのだろうが、私を優しく励ましてくれた。
しばらく行くと、前方の斜面の中腹に寺の山門が古木の間から、黒々とした屋根を覗かせているのが見えた。
あの門をくぐると、おじいちゃんは今までとは違う別世界の住人になってしまうのかと、私は何か得体の知れない恐怖を感じて、思わずおばさんにしがみついてしまった。
「あれ、どうしたんだろう。ここまで来て怖くなっちまったのかね。大丈夫、みんなが守ってくれるし、おじいちゃんだって、あんなに晃ちゃんを可愛がってくれたんだから、きっと守ってくれるから」
私の心を察したおばさんが、一生懸命に力づけてくれた。
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- 平成17年2月3日(木曜日)
【晴】《2日の続き》
私がなかなか列に戻らないのを心配してか、最後尾にいる柿沼のおばさんが立ち止り、小手を翳してこっちを見ているのが、道を急ぐ私の目に入った。
きっと母から私の事を頼まれているのだろう。
私はおばさんに心配かけまいと、道を外れて田を横切りながら、こっちを見ているおばさんに手を振った。
おばさんも手を振り返して答え、私が追いつくまで待つつもりなのか、じっとその場に留まっている。
「おばさあん、ごめんよ、もう少し待ってて。直ぐ追いつくから」
「大丈夫、慌てずにゆっくり来な。転んでケガでもすると大変だよ」
「わかった、ゆっくり行く」と答えた矢先に、私はもんどり打って枯れた用水路に落っこちてしまった。
幸いな事にどこもケガはなかったが、着ていた服は泥まみれになり、ようやく用水路から這い上がった私の所に駆け付けて来た。
おばさんが「あれまあ、だから言っただろうに。そんなに汚れちゃって、いったいお母さんに何て言えばいいんだろう、まったくもう」
おばさんは盛んに小言を言いながらも、私の服についた土を両手でパタパタと落としてくれた。
「さあ急ごう。まごまごしてると列が寺に着いちまうよ」
おばさんと私は小走りで道を急ぎ、ようやく葬列の最後尾に追いつく事が出来た。
もし追いつけなかったら、おじいちゃんに申し訳がないと思っていたので、私は心底ホッとして列について行った。
葬列はやがて左手の谷に続く道に入り、少し上りのだらだら坂を、のろのろと進んで行った。
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- 平成17年2月2日(水曜日)
【晴】《1日の続き》
「東坂」を越えて五十部に入った葬列は、坂の下で直ぐ右に折れ、山沿いを北に上って行く。
北関東の冬特有の冷たく澄んだ空気を通して、大岩毘沙門天を中腹に抱えた大岩山と、大岩の谷を囲む稜線が、寒々と眼前にあった。
人家は山裾に疎らにあるだけで、大岩の谷は冬枯れの野と田が、吹き荒ぶ赤城颪に震えていた。
あまりの寒さに尿意をもよおした私は、近くの人に断って列を離れ、道の脇で用を足している内に、葬列はみるみる遠ざかって行き、鼻のように突き出た里山の突端から、谷を横切る道に踏み入れて行った。
先頭に立つ何本ものノボリ旗がほとんど真横にはためき、百人近い人達は全て顔をうつむけ前のめりになって強い向い風に耐えている。
私は長い放尿が終わっても、しばらくの間葬列に目を奪われていた。
耳に入るのは吹き荒ぶ風と、何かが飛ばされて発てる音だけ。
黒茶色に冬枯れた山と野の中を、のろのろと進む黒い帯のような葬列には、子供にもはっとする程の美しさがあった。
あの列の中心に、おじいちゃんの眠る棺があるのだ。
私は棺の中のおじいちゃんが、列の前後の人達を指図して進ませているような気がした。
折からの陽に列の中の所々が金色に光るのは、きっと墓に供える供物の類に貼った金紙の反射だろう。
この様子だと葬列はかなり遠くまで行ってしまったらしい。
私は急いで田のあぜを選びながら、直線に近い道を走って列を目指した。
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- 平成17年2月1日(火曜日)
【晴時々曇】
近所のおじいさんが死んだ。
脊椎カリエスという病気で長く床に就いていたが、一昨日の朝、家族に見守られての最後だったという。
私は家の使いでいつも訪ねていたので、よくおじいちゃんの話し相手になって、病床の退屈凌ぎに手を貸した。
だから、おじいちゃんの死は、私にも辛い出来事だった。
おじいちゃんの家の菩提寺は、近くの福厳寺ではなく、7丁目の切通しを越えて今福に入り、更に五十部を抜けた大岩にあったから、葬列が家を出て墓地に着くまでには、多分一時間以上かかるだろう。
母は私が葬列について行くのを、道が遠いのを理由になかなか許さなかったが、何度も熱心に頼んだおかげで、決して独り歩きをしない事を条件に許してくれた。
たまたま葬儀の日は日曜日だったから、学校を休まなくて済むのも、母が許してくれた理由のひとつなのだ。
葬儀が終わり、じゃんぼんのドラの音に集まって来た子供達への念仏玉が済むと、何本もの高いノボリ旗を先頭にして、長い葬列は別れを惜しむかのように家の庭を三度まわると、逆川に沿った道を北に進んで本街道に出ると、そこを左に曲って7丁目交番前を抜け、切通しを渡って山沿いの道に入った。
折からの強い西風に、ノボリ旗はほとんど真横に棚引いて、葬列の人達のマントやコートをはためかせて止らなかった。
私は葬列の真ん中あたりを、大人達に囲まれて歩いていたが、吹きつける寒風に凍えた体から、小刻みの震えがやむ事なく生まれて、こんな日にお墓に入るおじいちゃんは寒くないだろうかと思った。
その頃はまだ埋葬のほとんどは土葬だったのだ。
■アトリエ雑記は平成12年12月15日からスタートしました。
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