アトリエ白美「渡辺肖像画工房」 渡辺晃吉
- 平成17年1月31日(月曜日)
【晴】
信じられない事だが、母屋の便所には電燈がついていなかった上に、その場所が北の濡縁の端で半分外に出ている形だったので、いくら部屋の明りをつけていても、夜は真っ暗な中で用を足さなければならない。
その怖さは、まるで冷たい手が体の中に入って来て、魂をグッと掴んで引き出して行くような気持ちだった。
母の手が空いている時には、半分開いた便所の戸の外に立って、私の用が終わるまでいてくれたが、いつもという訳にもいかず、大抵はブルブルおびえながら真っ暗な闇の中にうずくまり、じっと耐えていなければならなかった。
そんな時、目の前の闇の中には、人間にとって恐ろしい色々なものが、確かな手応えで息づいている気がしてならず、思わず大声で歌を歌ったり数を数えたりしてごまかした。
上の姉は私よりずっと臆病だったから、しょっちゅう私をつかまえては便所の脇に立たせたが、こっちには男の意地があったので、姉に見てもらう事は決してしなかった。
第一そんな事をすれば、姉は自分を棚に上げて、何かにつけて恩着せがましく言い立てるに違いないのだ。
便所だけでなく、外の物置にも明りがなかった。
そこには漬物の樽も積んであったから、私や姉達も親に言いつけられて夜の闇の中を、漬物を取りに行く事もあった。
物置は便所とは違う怖さがあって、お化けや幽霊の怖さではなく、人さらいや泥棒、それから浮浪者のような、どちらかといえば人間の怖さがつきまとっていたのだ。
その頃、時々ではあったが、物置や家の影などに、無断で野宿する人などがいたからだ。
それでも私は夜の便所よりも、物置に入る方がずっと良かった。
相手が人間なら何とか戦えるし、もしかしたら勝てるかもしれないからだ。
同じ闇でも、布団の中の闇は少しも怖くないのはなぜだろう。
その事を親に尋ねると、親は「布団の中は母親の腹の中と同じだからだ」と教えてくれた。
私は本当にそうだなと、心底思った。
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- 平成17年1月30日(日曜日)
【晴】
弟が風邪で熱を出して寝込んだので、母は看病にかかりきりでいた。
我が家ではいつもの事なのだが、子供が床に就くと、母はとても神経質になってしまうのだった。
ずっと以前に女の子を二人亡くしている事が原因らしい。(※16年3月29日30日参照)
そして、病気になると必ずやられるのは、まずピストルという大きなアンプルに入った薬を飲まされ、ノドを痛めていると、お医者さんが使うような銀色の針金の器具の先に脱脂綿を巻きつけ、そこにルゴールをつけてノドの奥をグリグリとやられる。
どんなに我慢しても、それをやられるとゲーッとやってしまい、時には本当に吐いてしまう事さえあった。
熱がある内は、リンゴをおろし金で摺ってガーゼで絞ったジュースが飲めたのが、苦しい中の楽しみだった。
物が食べられるようになると、まず病状によっては重湯かカタクリ、少し良くなって来るとおかゆが出て、もっと良くなると濃いおかゆになり、時には玉子雑炊や軟らかく煮たうどんも食べられた。
しかし、普通のご飯はなかなか食べさせてもらえず、寝込むという事は腹の減る事と同じ意味を持っていた。
どういう訳か大抵の場合、飴だけは口にする事が出来て、最初の内は口の淋しさを紛らわせられるのだが、その内に甘いものより塩味のするものを口に入れたくなって来る。
そんな時母は「絶対に食べちゃダメだよ」と注意して、タクアンを一切れしゃぶらせてくれた。
少し熱っぽい体には、タクアンの味は何にも増して美味なものだった。
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- 平成17年1月29日(土曜日)
【晴】《28日の続き》
三味線で弾き語る男の人の唄は、私にとって全く未知のものに触れているのと同じだったが、子供が踏み込んではならぬ、甘美で物哀しい大人の世界の事なのだという事は、何となく理解する事が出来た。
音を聞きつけて近所の人達が次々と庭に集まり、誰が音頭をとるでもなく半円の人垣が出来ると、三人は音と踊りに一区切入れて見物の人達に向き直り、深々と頭を下げたあとに、男の人が「ご近所の皆様ひとときお騒がせを致します。この度またご当地におじゃまさせて頂き、相変らずの拙い芸ですが、お退屈凌ぎにお目にかけますので、今年もまたよろしくお願い申し上げます」と、文字通り芸居がかった挨拶をした。
「久し振りだね清さん。相変らずいいノドしてるじゃないか」
「おかみさんも娘さんも益々芸達者になったね」
顔見知りの人達が次々に声を掛け、庭の一隅に小さな祭の花が咲いた。
「本場のジェルソミーナは一人だけど、このジェルソミーナは二人だな」
下の兄が腕組みをしながら呟いた。
私は直ぐに、今、兄の言ったジェルソミーナが、最近話題になっているイタリア映画「道」のヒロインの事だと気付いた。
その途端、目の前で踊っている二人の女の人の姿と、映画の中のジェルソミーナが重なって、私は自分でも驚く程大きな感動の渦に巻き込まれて行った。
私は、清さんが、あのザンパノのように、ジェルソミーナに辛く当たるような事のないように黙って祈りながら、静かで物哀しい踊りを見入っていた。
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- 平成17年1月28日(金曜日)
【晴】《27日の続き》
徳正寺のマユ玉市も終わり、正月気分を味わえる材料が、どこを捜しても見当らなくなって来た頃になると、三人組の旅芸人が、踏切脇の飯島旅館に寝泊りしながら、緑町から栄町、そして通5丁目辺りの元町を門付けして歩いた。
男の人の三味線に合わせて、若い女の人と少し年かさの女の人が歌い踊る姿は、色鮮やかな衣装と化粧と相俟って、そこだけが現実離れしているような気がした。
「ごめんください。またお庭先をお借りします。おかみさんお久し振りで、またお世話になります」
「あら、よく来ましたね。早いもので、あれからもう一年経ったんだね。皆さんもお変わりないようで何よりです」
「ハイおかげさまで家族一同何とか年を越しまして、またこうしてお伺いする事が出来ました」
「本当にね、達者が一番ですよ。体さえ丈夫なら、人間何をしたって食べていけますからね」
「全くで、こちとら体が丈夫なだけがとりえで、あとは何もありませんですからね」
「人間なんて座って半畳寝て一畳って言うじゃないですか。達者で働ければ、お天道様と米の飯はついて来ますって」
「私達も、それだけが頼りで、こうして皆様のお情けにすがって稼がせて頂いております。それじゃあおかみさん、ちょいとばかりお庭先をお騒がせ致しますんで」
「あ〃どうぞどうぞ、ご近所の人達も楽しみの事でしょうよ」
母はそう言うと、ギリ場のゲタを引っ掛けて庭先に出て行った。
門付けの人達は、工場の庭の片隅に立つと、一言二言打ち合わせたあとに、少しの間気息を整えた。
やがて三味線にバチが入り、短い前奏が終わると、膝を揃えてその場に控え、片手の指先を地面について礼の姿勢で静止していた女の人達が、ゆっくりと立ち上がって舞い始める。
男の人は三味線を弾きながら、これから拙い芸を披露するので、どうか見物して下さいといった意味の口上を、静かにそしてゆっくりと歌い、その声は次第に張りを増して、周囲へと流れ伝わって行った。
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- 平成17年1月27日(木曜日)
【晴】《26日の続き》
流しの獅子舞に似たものに、もっともらしい衣装と小道具を使った拝み屋の偽者が、突然大声で祈祷しながら家の中を踊りまくって金を要求する手口もあった。
手に持った拍子木や鐘のような鳴り物を力いっぱい叩きながら、まるで気が狂ったように訳の分からない祈りの文句を喚き散らし、踊りの形を借りて暴れ回られると、大抵の家では小銭を渡してしまうのも仕方がない。
驚いた子供がひきつけを起こした家もある位だから、その恐さは並ではないのだろう。
変わったのには、いきなり黙って入って来ると、「テメエ馬鹿野郎ふざけやがって、表へ出ろ」などと、前置きなしにケンカを売って来て、最終的に金を巻き上げるという手口だ。
金といっても、大抵は5円か10円程度の小銭だったから、門付けに施したつもりで、ほとんど訴える事はなかった。
むしろ被害が大きいのは押し売りの方で、普通に買えば10円か20円の品物を、10倍の100円とか200円以上で売りつけるのだ。
「おかみさんよ、大の男が時間を使って商品を広げさせられ、いりませんと言われて、ハイそうですかと荷物をまとめて引き上げられるかよ。この手間どうしてくれるんだ。エーッ」という感じで脅す。
頼みもしないのに勝手に荷物を広げ、あげくの果てには難癖をつけて凄まれると、女はおろか、気の弱い男だって買ってしまうかもしれない。
あの頃にも、今ほどではないが悪質な手口で金品を奪う人達がいたのだ。
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- 平成17年1月26日(水曜日)
【晴】《25日の続き》
「そりゃあオメエ、色々事情はあるだろうけんどよお、人を脅して金を取るなあ良くねえぞ。第一オメエ、そんな金で女房子供を養ったって、ロクな事ねえだろうによ」
「そうだそうだ。いまにバチが当るぞ」
皆てんでに流しの獅子舞に説教をしている内に、7丁目の交番のおまわりさんが、自転車をふっとばしてやって来た。
「ご苦労さんご苦労さん、あとはこっちでやるから皆引き上げてもらっていいよ」
おまわりさんの姿を見ると、流しの獅子舞は今にも泣き出しそうな顔でガックリとうなだれ、「あ〃、こちとらだって生きるか死ぬかの瀬戸際なんだよな。借金もあるしよ、ガキもいるしよ」などとこぼしながら頭を抱え込んでしまった。
「何を泣き言並べてるんだ。非力な女子供を脅してユスリタカリをして来たんだから、悪党らしく覚悟をしろ」
おまわりさんは物凄い剣幕で獅子舞を怒鳴りつけると、乗って来た自転車を押しながら交番に連れて行った。
「あの獅子舞が捕まったって。オオよかった、私ゃこの間あいつに乗り込まれてさ、10円渡したら馬鹿にするなって逆に怒鳴られて100円も持って行かれたんだから」
使いから帰った隣の叔母が、さもホッとしたという様子で、母屋に駆けつけて来た。
私は何だか、自分が大手柄を立てたような気分になって、その日は浮き浮きしていた。
翌朝になると、獅子舞逮捕の噂は、もう皆に伝わっていて、学校への道では、その話でもちきりだった。
私は昨日の現場の話を聞かせる楽しみで、胸をふくらませて学校に急いだ。
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- 平成17年1月25日(火曜日)
【晴】《24日の続き》
実は数日前から、緑町を中心に元町を荒らし回っている新手の押し売りがいるので、見掛けたり被害にあった人は警察に知らせるようにと通達が出ていたのだ。
獅子舞は物を売る訳ではないから、押し売りというのは少し変だが、いきなり家の中に入って来ると、「家内安全、商売繁盛、無病息災」と、言葉だけはいかにもだが、まるで怒鳴りつけるように大声で叫びながら暴れ回るのだ。
私は(ははぁん、これだな。例の押し売りは)とピンと来たので、「工場にいるから呼んで来ます」と答えると、ゲタをひっかけて隣の叔父の家に走り、何か盗まれないように見張りを頼むと、全速力で工場に向かった。
「大変だあ、押し売りの獅子舞が母屋に来たぁ。今、町田の叔父さんが見張ってる」
私は走りながら大声で急を知らせると、ちょうどその場にいた兄や職人さん達が、「何ぃ、とうとう来たか。野郎とっ捕まえて痛い目に会わしてやる」と、えらい勢いで母屋の方に走って行った。
母は受話器を取ると警察に連絡し、そのあと私と一緒に母屋に急いだ。
着いてみると、押し売りは職人達に取り囲まれていたが、それでも凄んで「テメエらふざけんなよ。俺がいったい何をしたってんだ。それをまるで夜盗みてえにあこぎな真似しやがって、ただじゃ置かねえぞ」
「何言ってやがる、このデレ助野郎が。オメだんべ、か弱い女しかいねえ家に土足で踏み込みやがって、デケエ声張り上げてユスリまがいの薄汚ねえ押し売りをやらかしてるのは」
「何言ってやんでえ、俺がいつ銭出せとか銭くれとか言ったよ。もし言ったってんだら軒並み聞いてみろ。ナメやがって」
「オメエみてえなゴロツキが、そんな汚ねえ獅子をぶん廻して、子供が泣き出すようなデケエ声で怒鳴り散らしてみろ。誰だって小銭の5円や10円出すじゃねえか。いい加減な屁理屈並べてんじゃねえ」
いくらその道のプロでも5人以上の屈強な男達に取り囲まれていては、張りに張っていた虚勢も少しづつ崩れていき、最後には「家には病気のカカアとガキが4人も、腹ぁ空かせて帰りを待ってんだよぉ。そりゃあ悪いとは思うけんど、こんな事しか稼ぎの道がねえんだよお。今度だけは何とか大目に見てくんねえかなあ」と、段々泣き落としになって来た。
この辺の人達は非道にはめっぽう強いが、こういうのにはめっぽう弱いのだ。
さっきまでの勢いが見る見る内にしぼんでいくのが、私にはよく分かった。
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- 平成17年1月24日(月曜日)
【晴】
学校から帰ると、母屋には誰もいなかった。
床の間の上のラジオから、尋ね人の番組が流れていたが、戦争が終わって何年も経っているのに、まだ沢山の人が国に帰れずにいたり、行方が知れずにいるのかと思うと、やはり戦争は絶対にしてはいけないんだと、改めて心に刻み込んだ。
床の間の横にある仏壇の上に、三枚の肖像画が飾ってあるが、その内の一枚の亀六叔父さんは、軍服姿だった。
この辺りには、我が家と同じような肖像画のかかっている家が軒並みで、そのほとんどが軍服姿だったから、その一軒一軒に戦争による犠牲者がいる事になる。
一番上の兄は、五体満足で帰還したが、結婚して二人目の子供が生まれて間もなく、工場のケガで右手を失った。
私が小学校三年生の夏であった。
その後兄一家は、太田市の分工場の方へ移って行ったために、我が家はその分家族が減って、私は慣れるまで少し淋しかった。
カバンを放り投げ、ボンヤリとラジオを聞いていると、表に人の気配がした。
声がないので誰か家の者が帰ったのかと、何の気なしに玄関に出てみると、そこに立っていたのは流しの獅子舞だった。
頭はあちこちの塗りが剥げ、身の唐草はシミと汚れで見る影もない。
崩れた身なりから発散する雰囲気の猛々しさは、目の前の人がただものではないのを教えていた。
その男は不遠慮な視線で家の中を見廻しながら、「誰か大人の人はいねえのかい」と、土間に入って来た。
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- 平成17年1月23日(日曜日)
【曇】《22日の続き》
「お前の事だ、まだ何かあるだろう。もう怒らないから言ってみろ」
これ以上ネタを明かすと、色々と不都合があると思い、「もうありません」と答えると、何人かの裏切者が即座に「エヘン、エヘン」と咳払いをして先生に訴えた。
「ホーレ見ろ、あいつらがウソだと言ってるじゃないか。あきらめて先生に話せ」
私は仕方がないので、洗いざらい白状した。
「あと御破算刑」
「何だそれは」
「あのソロバンの上に座らせて10数える刑」
私は黒板の脇に置いてある先生用の大ソロバンを指差して説明した。
「お前な、あんな上に座らされたら、痛くてどう仕様もないだろう」
「ウン、だから刑になる」
「他には」
「あまりきちょこら刑」
「あまりき…何だそりゃあ」
学校の東南の角の直ぐ外側に立っている、松崎の便所の煙突の先に口を入れて、あまりきちょこらと20回唱えるのだが、どんなに息の続く奴でも10回が限度なので、刑をかけられた奴は、松崎の便所の臭いを思い切り吸い込む事になる。
そこはなぜか土が盛ってあり、上に登ると学校の生垣越しにちょうど顔の高さに煙突の口が来るのだ。
刑は相手をうしろ手に押さえて動けないようにして、一人が頭を持って煙突の先に口が入るように押し付けるから、いくらもがいても逃げられる奴はいない。
この刑は極刑の部類に属し、余程の悪以外にはやられないはずなのだが、なぜか男子のほとんどは、この刑に泣いた経験があるのだ。
私は「あまりきちょこら刑」の内容を、怒らないという言葉を信じて先生に説明した。
先生はしばらくの間呆れたような顔で私を見ていたが、「このバカが」と突然言うなり、持っていた出席簿で思い切り頭をぶっ飛ばした。
私は何となくそれを察知していたから、紙一重の差で先生の攻撃を避ける事が出来た。
「逃げるかコラッ」
「だって怒らないって言ったから話したのに、ズッリィー」
「何がズルイだ。勘弁の限界を越えてる。戻って来い。ホラ戻って来い」
「ヤダー、ぶん殴るからヤダーッ」
「殴らないから戻って来い。本当にやらないから。コラッ、先生の言う事が聞けないのか」
結局私は捕まって、しぼりにしぼられてから解放された。
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- 平成17年1月22日(土曜日)
【晴】《21日の続き》
「むぐし刑」は、その後途切れる事なく、先生達にも見付からずに密かに続けられたが、ある時東京からの転校生を、歓迎の意も含めて「むぐし刑」にしたところ、そいつは苦しさのあまりひきつけを起こして大騒ぎになってしまった。
もちろん刑に加わった全員が、先生からこっぴどく叱られたが、その事件がきっかけとなり「むぐし刑」の実態が明るみになり、厳重な禁止令が出てしまった。
「本当にお前らは何を考え出すか、呆れて物も言えないよ。人間がくすぐられるとどんなに苦しいか、嫌という程分かってるだろうに、どうしてそういう事をするのか、いったい誰が最初に始めたんだ」
皆は黙っていたが、チラチラと私の方を見る様子から、先生は張本人が誰なのか直ぐに察知して、「渡辺、またお前か。お前なんだな。先生もおそらくそんな事だろうとは思っていたが、やっぱりお前だったか。こっちへ来い」
私は恐る恐る教壇の前まで出て行くと「あのなあ、お前の頭の中にはイタズラの事しか頭にないのか。むぐし刑なんて、どうしたら考えつくんだ。そんな物を考えつく位だから、他にも何か考えた刑があるんだろう。言ってみろ」と言った。
私はこうなった以上、正直に話した方がいいと思い、「いくつかあります」と答えた。
「ホー、どういう刑だ、言ってみろ」
「母ちゃん勘弁刑と、ゲーゲー刑、それからフルチン刑」
「何だその母ちゃん勘弁刑というのは」
「刑にかける奴を折り曲げて、無理矢理柔軟をさせる刑」
「何でそれが母ちゃん勘弁刑なんだ」
「小林の母ちゃんが、小林をしめる時に使うから」
「ゲーゲー刑は」
「学校の便所のマンホールの蓋開けて、その上に頭を突き出して息させる刑。物凄く臭えから大抵の奴はゲーゲーする」
「フルチン刑は」
「ズボンとパンツ剥ぎ取ってフルチンにして、そいつを置き去りにして逃げる刑」
先生は黙って私を見ていたが、ぐっと笑いを堪えているのが私にもみんなにも分かった。
そこで笑ってしまったら先生の立場がないと思ったのか、手に持った出席簿で私の頭をいきなり引っ叩いた。
しかし、それがかえって良いきっかけになってしまい、教室中が爆笑の渦でいっぱいになって、先生の威厳は丸潰れだった。
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- 平成17年1月21日(金曜日)
【晴】《20日の続き》
翌日いつものように登校すると、仁田山も岡島も先に来ていて、私の顔を見るなり「オース」と声を掛けて来た。
今までもそうだったが、前の日に大ゲンカしても翌日には大抵ケロッとしているから、今回もそんな調子だろうと思い、「オース」と気軽に声を返して忘れてしまった。
昼休みの給食が終わり、さて校庭に出てドッジボールでもするかと、仲間と連れ立って教室を出ようとした時、「渡辺と小野寺、あと家住と宮内、先生が講堂で呼んでるぞ」と、隣の組の荒木が迎えに来た。
(おかしいな、いったい何の用だろう)と、少し妙な感じもしたが、時々そんな事もあるので、小野寺達に声を掛けて講堂に向かった。
講堂に入ったとたん、私達は多勢の奴らに捕まり、床に敷いてあるマットの上に押さえ込まれてしまった。
一瞬の事で全く抵抗する事が出来なかったが、今考えてみれば、仁田山達の不自然な人懐こさを、変だと気が付かなければいけなかったのだ。
「ザマ見ろ、うまく捕まえた。ヤイッ、きのうはよくもむぐし刑にかけてくれたな。今度はこっちの番だ、覚悟しやがれ」
仁田山が岡島を連れて跳箱の影から走り出て来ると、身動きの出来ない私達に容赦のない「むぐし刑」をかけて来た。
私も他の三人も、「ワハハッワハハッ」と笑いながら、涙をボロボロ流して苦しみに苦しんだ。
体操部員の仁田山が、部員の仲間を助っ人に頼んで仕返しを計画したのだそうだが、昨日の今日やられるとは全然考えていなかったので、敵ながらあっぱれと感心しない訳にはいかなかった。
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- 平成17年1月20日(木曜日)
【晴】《19日の続き》
それぞれが物影に落ち着いて、ようやく乱れた息がおさまった頃、まさか私達が待ち伏せをしているとは夢にも思っていない岡島が、のんびりと目の前を通り過ぎて行く。
岡島の家は線路沿いに密集する、通称「カスバ」の家並みを平行に通る道から、愛宕山の低い切通しの手前を左に入った山沿にある。
岡島がポケッと間延びした顔で左に曲って私達に背を見せたところで、足音を忍ばせながら一斉にあとを追い、もう間もなく家の玄関に近付くという場所で、物も言わず担ぎ上げてひっさらった。
岡島は何が起ったのか直ぐには理解できず、びっくりし過ぎて声も出ない有様だったが、枕木の柵をくぐって線路をまたぐ頃になると、どうやら自分の立場が飲み込めたのか、機関車の汽笛も顔負けの悲鳴を上げながら、バタバタと大暴れして逃げようとした。
「岡島よ、いくら逃げようとしたってダメだからな。これから死ぬまでむぐしてやるから覚悟しろよな。ヒッヒッヒッ」
私は相手が思い切りビビるような言い方で岡島をいたぶった。
「馬鹿やめろ。そんな事したらクソもらしてやるからな。小便だってしてやるからな。あ〃やめろ、やめろ馬鹿」
何を言おうと構わずに、私達は岡島を白石山房の芝生の上におろすと、小野寺と家住と宮内が身動きの出来ないように押さえ込んだ。
人間は脇の下をむぐされると死ぬほどくすぐったい。
私はおもむろに岡島の脇の下に指をあて、「これから岡島のむぐし刑を始める」と厳かに宣言すると、岡島は「ヤアメロー頼む、むぐし刑だけはやめてくれえ。たあのむうー」と絶叫した。
「むぐし刑」の恐ろしさは誰もが身を持って知っているので、岡島の気持ちはよく分かったが、それだけに四人共処刑する快感の誘惑に勝てなかった。
岡島は私が軽く脇の下に手を出しただけで、「ウワッハッハ、ウワッハッハ」と身をよじって苦しんでいる。
くすぐる手を段々激しく動かすにつれて、岡島は「ギャッハッハ、ウエーン、ギャッハッハ、ウエーン」と、何が何だか分からない喚き声をあげながらのたうち回った。
岡島の体が弓形に反り返って白目をむき始めたので、私達は「むぐし刑」を終了したが、岡島はよほど悔しかったのか、「テメエ、いつか殺してやる。今度は俺がオメエをむぐすから覚えておけよ。チキショーバカヤロー」と、泣き喚いて悪態をつきながら、そこら中を転げ回っていた。
そんな岡島を置き去りにして、私達は意気揚々とその場を引き上げた。
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- 平成17年1月19日(水曜日)
【曇のち晴】《18日の続き》
(しまった)と思ったが、掃除のあと勝手に帰ってはいけない事になっていたから、先生の点検の時には必ず教室に戻るはずなので、その直後にとっつかまえようと手ぐすね引いて待っていた。
ところが先生が教室に入って来たというのに、岡島の姿がない。
すると「あ〃岡島は急に腹が痛くなったので、一足先に帰したからな」と先生が言った。
(やられた)と思ったが、明日になると気抜けしてしまい、いつも通りになってしまうのが分かっていたので、間に合うかどうか分からなかったが、全力で校庭を走り抜け、出来るだけ近道を選びながら岡島の家に先回りするために、本人とかち合わせしないように気を配りながら走りに走った。
背中に気配を感じたので振り向くと、小野寺と家住そして宮内が追い駆けて来ていた。
「晃ちゃん一緒に行く」
小野寺が息を切らせながら声を掛け、あとの二人も面白そうにうなずきながら走り寄って来る。
「頼む、あいつ今日中に処刑しねえとな」
私もゼイゼイと息を切らせ答えると、またスピードを上げて走り続け、少し遠回りを承知で茂山鉄工所脇の踏切を渡って両毛線を越えると、緑町2丁目の愛宕山下の岡島の家に向かった。
この調子なら多分岡島より先に着いている自信があるので、私達は中山床屋と川万の間の露地を抜けて、身を隠せる物影を選んで隠れ、岡島が来るのを待った。
そこは両毛線の枕木を使った棚の切れ目から中に入った空地で、うまい具合に木箱や丸太が積んであるので、身を隠すのに不自由はなかったのだ。
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- 平成17年1月18日(火曜日)
【晴】《17日の続き》
「誰だって間違えたり忘れたりする事があるだろう。先生だって人間なんだから物忘れする事だってあるんだ。そうやって人の弱みを責めるのは、一番いけないんだぞ」
(ウソだ。先生は忘れたんじゃなくて最初から知らねんだ)
私は内心そう思ったが黙っていると、先生は苦し紛れの言い訳を並べながら、何となくその場を納めてしまった。
「罰として先生がいいと言うまで廊下に立ってろ」
結局一番ワリを食ったのは私で、またもや教室前の廊下に水の入ったバケツを両手に持たされて立たせられた。
「アーラ渡辺君、あなたまた立たされてるの。いつもいつもご苦労さんね」
四組で一番ひょうきん者の橋本が、女の渡辺先生の物真似をしながら私の前を通り過ぎ、また引き返して来ると、「今度は何をやって立たされたの」と、私が動けないのをいい事に、やりたい放題だった。
橋本は家が近所だったから、大抵の悪さは一緒にやっていたので、からかわれても腹は立たなかったが、前を通る先生達が、みんな私の頭をコツンとやって行くのには閉口した。
岡島と仁田山はそんな私の姿を見て、あいつ馬鹿だなと思ったのだろう。
6時間目の授業が終わり、下校前の掃除が始まると、私は岡島の姿をいつも目の隅に入れて、あいつに逃げられないように注意していた。
岡島もそれを知っているから、決して私を自分のそばには近付けなかった。
二人の無言の戦いが30分程続き、私がふと目を離したスキに、岡島の姿はどこにもなかった。
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- 平成17年1月17日(月曜日)
【晴】《16日の続き》
これには先生も少し口篭もってしまい、それから「小学校ではそこまでの勉強はしなくていいの。今は弁が上がると水も上がるって知っていればいいの」と、凄く投げやりな感じで捨てゼリフを吐きながら、まだ授業が終わっていないのに、机の上を片付け始めた。
そんな様子を見ていると、私達は鬼の首でも取った気になり、「きぃたねんだきぃたねんだ、せーんせはきぃたねんだ、自分が分かんねから、コソコソ逃げるんだ」と、一斉にはやしたてたものだから、先生は完全に頭に来てしまった。
「渡辺こっちへ来い、早く教壇の前に来い」
真っ赤な顔で声を震わせながら、先生は大声で私を呼んだ。
(エーッ何で俺なんだよ。みんな同じじゃねえのかよ)
私は内心物凄く不満だったが、これ以上逆らうと何をされるか分かったものではないので、しぶしぶ前に出て行くと、いきなり「東京が見える刑」をかけられてしまった。
「東京が見える刑」は、頭を両手で掴まれて宙吊りにされる刑で、「むぐし刑」ほど苦しくはないが、見た目よりずっときつい。
私は痛さをこらえながら「俺だけじゃねえもん、みんな言ったもん、何で俺だけやられるんだか分かんねえ」と、手足をバタつかせながら必死で抗議した。
「ウルサイ、お前が一番騒いでた」
「ウッソだー、俺より橋本とか木村の方が先に騒いでたもん。家住なんか一番デケぇ声出してたもん」
私は自分だけお仕置を受けるのが悔しくて、ギャアギャア喚きながら抵抗したが、先生の馬鹿力にはどうしても勝てなかった。
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- 平成17年1月16日(日曜日)
【晴】《15日の続き》
なぜ二人が私を馬鹿だと言いふらしていたのかは、思い当たる事が多過ぎてよく分からないが、多分あの事だろうという見当はつくのだ。
それは二日前の理科の授業の時だったが、井戸の手押しポンプを動かすと、なぜ水が汲めるのかを説明しろという質問に、いくら考えても分からなくて答えられなかった。
けれど、結局は学年一の秀才をはじめ、質問した先生にだって説明する事が出来なかったのだ。
どうしても分からないから答を教えてくれとせがむ私達に、先生はあの手この手ではぐらかそうと四苦八苦していたが、ついに終鈴までごまかし切れず、「ポンプの弁が上がって行くだろう。ホーラこんな風に…」と手まねでやって見せながら、「それにつれて、ほーら水も上がって来るだろう」とやったものだから、これを見逃す良い子など一人だっている訳がなく、ほとんどの男子はイスから立ち上がって、「アー、アー、そんなんごまかしだ。先生分かんねえからごまかしてるんだ。きぃたねえー、先生のクセに分かんねえんだ」と、もう大騒ぎで先生を野次った。
もちろん私も人一倍大きな声で喚き散らしたのは言うまでもない。
「何がごまかしだよ。こうやって水はちゃんと上がって来るじゃないか。これのどこがごまかしだよ」
先生は何とか私達を納得させようと必死で手まねも加えて説明した。
私は透かさず「だって弁が上がると、どうして水も上がって来るのか、そこのところを知りたいんだもん」と食い下がると、みんな「そうだ、そうだ」と口を揃えて同調する。
先生は顔を真っ赤にして「それはぁ、そのような原理が働くからに決ってるじゃないか」と大声で怒鳴りつけて来た。
すると今度は、女子の一部までも立ち上がって、「先生、私達はその原理がどんなものなのかが知りたいんです」と来たもんだ。
- 平成17年1月15日(土曜日)
【雨】
「渡辺よ、岡島と仁田山がオメエの事を馬鹿だって言ってたぞ」
廊下ですれ違った時に木村が耳打ちして来たので、私は昼休みを待って二人を捕まえ、こっぴどく痛めつけようとてぐすね引いていたのだが、岡島の奴は早くも気配を察知したのか、いつの間にか雲隠れしてしまった。
仁田山はこっちの思いに全く気付いてないのか、いつものように弁当をぱくついていた。
あの頃の給食は一日おきだったから、弁当の日も一日おきにあったのだ。
弁当を食べ終わった仁田山が、何人かと校庭に出て行くあとについて昇降口に出たところを、「オイ仁田山、オメエ俺の事を馬鹿だと言ったんだそうだな」と問い詰めると、仁田山は物も言わずに裸足のまま外に飛び出して逃げた。
そんな事は予期していたので、私は直ぐに仁田山を捕まえると、ギャアギャア喚くのもかまわずに、最も重い「むぐし刑」に処した。
ワハハ、ワハハと笑いながら泣いている仁田山が、とうとう声も出なくなるほど参ったところで刑を終えると、「馬鹿野郎、いつかテメエ殺してやるからな」と泣き喚いて地べたを転げ回っているのを尻目に、今度は岡島の奴を見付けるため、便所の裏や奴が身を潜めていそうな場所を探したが、とうとう捕まえる前に昼休みが終わったので、しぶしぶ教室に帰ると間もなく、5時間目の授業のために入って来た先生のうしろから、岡島の奴が涼しい顔で入って来た。
(あの野郎今に見てろ)、私は奴の処刑を放課後まで延ばす事にして授業に集中した。
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- 平成17年1月14日(金曜日)
【晴】
学校前を流れる「逆さ川」に架かる石橋を渡り、正門をくぐって直ぐの左側に、我が校の二宮尊徳像が立っている。
石像の台座の前に座らされて、二宮尊徳についての説明を受けたのは、入学して間もなくの事だった。
以来、石像の前を通る時には、なぜか居ずまいを正してしまうのは私だけではなかった。
ある時、授業が終わって校門を抜ける直前に、一緒にいた仲間の中の長谷川が、「あのなー、二宮金次郎と同じように本を読みながら道を歩くのは、本当は悪いんだってよ。なぜって、もし前も見ねえで歩いてたんじゃ危なくって仕様がねえって、うちのあんちゃんが言ってた」
「バカヤロー、二宮金次郎の時代は、自転車も車もねえんだよ。だから本読みながら道歩いたって、誰にもぶつかりゃしねえんだよ」
家住が口からツバを飛ばしながら長谷川をどやしつけた。
「そんな事ねえさ。昔だって馬や荷車があったし、カゴだってあったじゃねえかよ。そんなら今と同じで、前も見ねえで道歩いてたらよ、やっぱし何かにぶつかるかもしんねえじゃねえか」
「二宮金次郎がいた所は物すげえ田舎で、人も馬もほとんどいねえ所なんだよ」
腕っ節の強い家住は、長谷川の首を抱えてグイグイとしめつけながら言った。
「痛え、痛え、首が痛えよ。苦しい、息が出来ねえよ」
のたうち回る長谷川を横目で見ながら、私や小野寺、そして宮内や沼、岡島も板橋も腕組みして考えてしまった。
長谷川の言った事は今まで思ってもいなかったし、そう言われれば確かにそんな気もする。
物事は見方によって、随分と違って来る事を、私はその時つくづく知った。
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- 平成17年1月13日(木曜日)
【晴】
三学期に入って「仲良しクラブ」の初練習のあとに、先生のおごりで新年会が開かれた。
会場が音楽室なのが気に入らなかったし、何とか口実を考えてサボろうとしたけれど、ストーブの上の大きなやかんから飲み放題のカルピスや、先生が家で用意した手作りのケーキにつられ、期待に胸をふくらませて参加した。
ところが、カルピスは味が薄くて酸っぱいし、ケーキは出来そこないのビスケットみたいで美味くない。
おまけに会の余興だからと、独唱と合唱で4曲も歌を歌わされて、もうがっくりして音楽室を出た。
ほとんど毎日、ゲップが出るほど歌の練習をさせられているのに、いったい何が面白くて、その上にまた歌を歌わなければならないのか、私には楽しそうに歌っている仲間の気が知れなかった。
そういえば相場昭子さんに、「コーラスと渡辺君の組み合わせって、全然合わないよ」と、鼻の先で笑いながら言われた事があったが、もしかしたら当っているのかもしれない。
私はその頃、先生のすすめで入部した文芸部の活動の方に強くひかれていたので、コーラスの練習には少し負担を感じていた。
しかし、今はどうか知らないが、私が小学生の頃は、そんな理由で練習をサボるどころか、コーラスをやめる事など出来るはずもないので、結局は両方を続ける以外になかった。
文芸部が中心になって作成した文集の中には、市のコンクールで賞に入ったものもあり、結構面白かったので続いたのだろう。
三学期には学芸会があるので、仲良しクラブの練習は当面そこに焦点を絞って、私の気持ちなど関係なく、日に日に厳しさを増していったが、そうなると不思議なもので、毎日の練習が段々と楽しくなって来て、当日が待ち遠しくなったものだった。
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- 平成17年1月12日(水曜日)
【晴】《11日の続き》
「お帰り、寒かったろう。早くお風呂に入りなさい」
母に促されて、私は風呂場に行こうと階段の下から台所に入ったが、台所から風呂場に続く廊下の壁に、二番目の兄がクレヨンで描いた幽霊の絵がある事を思い出し、急いでコタツの部屋にいる母の所に逃げ戻っていった。
その絵は兄が姉をおどかすために描いたもので、描き上がった絵の上を壁に似た色の布を被せ、ヒモを引くと捲くれ上がって絵が見えるように細工したものだ。
物凄く臆病な上の姉が風呂に入る時をねらって、兄がその仕掛けを動かすと、結果は予想をはるか上回って、姉は絶叫と共に失神してしまった。
最初は何が起ったのか分からずにオロオロしていた母達も、事情が飲み込めると兄をこっぴどく叱ったのは当り前だったが、直ぐに消すように厳命したにもかかわらず、クレヨンで描いた絵は、いくらやっても完全に消す事が出来ず、よく見るとボーッと壁に浮かび上がるので、かえって恐ろしかった。
いつもは見ないようにしてそこを通り過ぎるのだが、その夜はクン坊を怖がらせておきながら、その事を思い出した自分も、何だか背筋が寒くなるほど怖くなってしまったのだ。
いぶかる母に、「ねえ、福田のおじいちゃんとおばあちゃんの幽霊を見た事ある?」と聞くと、母は「私は見た事ないけど、茂夫は見たって言ってたよ。母屋から工場に帰る時に、あの柳の木の下に二人が立っていて、茂夫にニコッと笑いながら挨拶したんだって。きっと近所の人達にお世話になったから、その御礼に時々出て来るんじゃない」と、まるで出るのが当り前のように言った。
私はそれを聞くと、何だか今までの怖さがどこかに消えてしまい、元気の頃の二人を思い出して心が暖かくなった。
私は何も言わずに、一人で風呂場に向かった。
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- 平成17年1月11日(火曜日)
【晴】《10日の続き》
糸井の家は以前に福田という家だったが、商売の失敗で人手に渡り、福田のおじいちゃんとおばあちゃんは、屋敷裏の物置に住んでいた。
その内におばあちゃんのボケが始まり、おじいちゃんも脳卒中で倒れ、このままでは大変なので、私の父母や近所の人達が相談し、とりあえずおばあちゃんを病院に入れ、おじいちゃんは近所の人達で様子をみる事になったのだが、私が小学校2年生の2月に、コタツの火の不始末から火事を出して死んだ。
おばあちゃんも前後して死んだそうだが、どちらが先だったかよく憶えていない。
間もなく、月のない暗い夜に福田の家(その時には糸井の家になっていた)の前を通ると、家の前の柳の木の下に、おじいちゃんとおばあちゃんがボオッと立っているのを見たという人が何人か出て来て、しばらくは大変な騒ぎになったのを、この辺で知らない子供はいない。
クン坊にしたら、場所が場所だけに他人事ではないのだ。
我が家の前からクン坊達の家の前まで、ほんの数10歩なのだが、そこには真っ黒な闇が立ちはだかって、クン坊だけでなく、そこを抜けて表通りを渡って行かなければならないオブチンとマー公も足が止ってしまった。
「よせよ晃ちゃん、そんな事いいっこなしだよ。ヤベエよ、俺らもここ通れねえよ」
オブチンが嫌がるマー公の背中を押しながら屁っ放り腰になって私に文句を言った。
クン坊とオチ坊は、そんなオブチンを見て今までよりも怖くなってしまったらしく、「晃ちゃん、俺の家の前まで一緒に来てよ。頼むよ頼むよ」と私にしがみついて来るのだった。
私は目の前の真っ暗な闇の中に入って行くなど、たとえ百円貰っても絶対に嫌だったから、「ヤダよ、もう直ぐそばなんだから自分で行けよ」と激しく突っぱねた。
モタモタしていると気配を感じたのか、「誰だいそこにいるのは、クン坊かい、オチ坊かい」と、糸井の母ちゃんが出て来た。
クン坊はその声を聞くと、とたんに元気よく「うん、いま火の用心から帰って来たところ」と、さっきまでワーワー大泣きしていたのが嘘みたいな調子で答えた。
「寒いのにいつまでそんな所で立ち話してるんだい。早く家にお入り」
クン坊とオチ坊が飛ぶように家の方に走って行くのにつられて、オブチンとマー公も遅れまいと走り去って行った。
私も大慌てて家の中に駆け込んだ。
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- 平成17年1月10日(月曜日)
【晴】《9日の続き》
もう夜の9時を少し過ぎているので、皆早く家に帰らないと明日の朝が辛くなる。
あまり眠くはなかったが近所の奴らと声を掛け合って帰路についた。
家までは目と鼻の先だが、月のない冬の夜道の暗さは、まるで墨を流したようだったから、歩き方にも少しコツがいるのだ。
道の左は逆川が流れていて、しかも落下防止用の柵がある訳でもないので、右側の塀に沿って一列で進み、前の奴の背中に目を向けていれば、よほど足元が悪くない限り転ぶような事はない。
八雲神社前の短い石橋を渡って直ぐを左に折れ、糸井染工の板塀を右手で触れながら、塀が直角に曲るのに合わせて右に曲ると、角に小さなお稲荷さんの祠が、闇の中になお黒々と沈んでいるので、そこはなるべく見ないようにして歩く。
塀はやがて柳田鉄工所の漆喰塀に変わり、少し行くと左手は柿沼と我が家の庭で広く開けるので、闇に押し潰されそうな圧迫感から解放される。
まず最初に柿沼のサヤ子ちゃんが列から離れ、次に私と京子ちゃんが皆に別れの挨拶をして列から抜ける。
柿沼の家や我が家からも、外の闇にこうこうと明りが漏れているから、列から離れてもあまり怖くないのだ。
我が家を過ぎると直ぐにクン坊とオチ坊の家なのだが、そこから表通りに出るまでの二軒ある糸井の家の辺りは、家と塀の間が狭くて暗い。
その上大きな柳の木があるので、この露地で一番怖い所だった。
私は列から別れる時、一番臆病なクン坊に、「あのさー、ここから家の玄関に入るまで、絶対にうしろを見たり走ったりしたらダメだぞ。それからオメエの家の前の柳の木の根っこの所な、死んでも見るんじゃねえぞ。そんな事するとな、オメエの家にずっと前に住んでいた福田のおじいちゃん、火事で焼け死んだ福田のおじいちゃんと、病院で死んだ福田のおばあちゃんが出て来てな、手をこうやって振ってな、オイデ、オイデって呼ぶから、絶対について行っちゃダメだぞ」と、今にも死にそうな声で言ってやるのだ。
クン坊は私の話がまだ終わらない内から、ウワンウワン泣いて身をよじりながら「やめてくんなよ晃ちゃん、俺絶対に夢見るんだから。夢見て寝小便するんだから」と哀願するのだった。
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- 平成17年1月9日(日曜日)
【晴】《8日の続き》
「甘酒だって沢山飲むと酔っ払うんだからね」
夜廻りが終わって皆で甘酒にありつき、ふうふうしながら夢中で飲んでいる時、京子ちゃんや他の女子が知った風な事を言い始めた。
「んな事ねえよ。甘酒じゃ絶対に酔っ払わねえもん。酔っ払うのは甘酒が出来そこなってドブロクになった時だもん」
クン坊は時々大人のような事を知っているから不思議だった。
「それじゃあドブロクを飲んだ事があるんかい。飲んで酔っ払った事があるんかい」
京子ちゃんが口を尖らせムキになってクン坊に食って掛かると、「あるさ。子供は飲んじゃダメって母ちゃんが言ってたけど、盗んで飲んで人見先生に診てもらったもん」
「子供が酔っ払って医者に診てもらえば不良だもん」
「不良じゃねえよ。だって一回だけだもん。顔が真っ赤になって息が苦しくなって倒れただけだもん」
私は自分より年下のクン坊が、ぶっ倒れるほど酒を飲んだと聞くと、何だかクン坊が大人のように見えて奇妙な気持ちになった。
「ドブロクは作っちゃいけないんだからね。作ったのが分かると警察に連れて行かれるんだから」
京子ちゃんは口ゲンカに負けるのが悔しくて、最後には警察まで引っ張り出して来た。
「んな事ねえよ。この辺の家じゃみんなドブロク作ってるもん。それだって警察に捕まった人なんか誰もいねえもん」
クン坊も京子ちゃんに負けてはいない。
実際にクン坊の言った通り、我が家はもちろん、この辺の家では大抵ドブロクを作っていた。
本当は京子ちゃんの言い分を聞くまでもなく、法律違反なのは子供でも知っていたけれど、あまり罪の意識はなかったようだ。
いずれにしてもドブロクの事なんか、私達子供には全く関わりのない事だった。
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- 平成17年1月8日(土曜日)
【晴】
年末から休みになっていた火の用心の夜廻りが、今夜からまた久し振りに始まるので、私達は昼間から少し興奮気味だった。
寒い中を毎晩のように夜歩きしていると、時には嫌になってさぼりたくなったものだが、半月近く休んでいると、今度は逆に寒風にかじかむ手の感覚が、かえって懐かしくなるのだから不思議だ。
今夜は年が明けて最初の夜廻りだから、終わったあとに甘酒が出ることになっている。
それも酒かすを溶かしたのではなくて、本物の甘酒が飲み放題なのだ。
去年は三杯飲んで終わりにしたので、今年は四杯は絶対に飲んでやると、密かに決意しているが、八代の七杯には負けそうだ。
一杯でも多く甘酒を飲めるように、夕飯は控えめにしようと思っていたけれど、空腹には勝てずに目いっぱい食べてしまったのもいつもの事だった。
午後7時少し前、満腹感に後悔しながら家を出て集合場所に向かった。
家の前の道に出ると、オブチンとマー公そしてオチ坊がダルマのように着膨れして通り掛かったので、「行くん?」と声を掛けると、「うん」と同時に返事が返って来た。
足元も見えない闇の中を八雲神社まで歩いたが、途中で何人もの友達と一緒になった。
みんな久し振りの夜廻りを楽しみにしていたのだろう。
中には年末以来の奴もいたので、もうおめでとうと言うには少し照れ臭かったので、「オース」といつもの挨拶になってしまった。
本殿階段下の参道には、もう20人以上が集合していて、この分だと今夜は40人以上の列が出来そうだった。
「晃ちゃん遅いよ、私なんか30分も前から来てるよ」
うしろから京子ちゃんが声を掛けて来た。
私は内心(うへえ〜、今夜は京子ちゃんが一緒かよ)と思ったが、口には出さずに我慢した。
火の用心の行列は女子が入っても悪くはないのだが、私は出来れば男女別々の列にしてもらいたかった。
なぜかといえば女子の掛け声はキンキンして耳障りだったのだ。
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- 平成17年1月7日(金曜日)
【晴】
夕方に母の使いで、近くの堀江八百屋に七草粥の材料を取りに行くと、そこにいたほとんどの人達が同じ物を買っていた。
「晃ちゃんお母さんのお使いかい。えらいね」
大抵の人が顔見知りなので気楽に声を掛けて来る。
大家族の我が家の七草は、よその家のものがママゴトに見えるほど量が多いので、私は受け取る時に少し恥かしかった。
「ハイ、用意してあるよ。重いから落とさないようにしっかり持っていきな」
堀江のおじさんから七草の入ったザルを受け取ると、私は急いでその場を離れた。
「ザルはあとで取りに行くから、置いておけばいいよ」
おじさんの声を背中で聞いて、私は振り返りもせずに「ウン」と答え、ずっしりとしたザルを抱えて家に向かった。
「買って来たよ」
私は玄関から入らずに勝手口にザルを置いて、手伝いの人と忙しそうにしている母に言った。
「ハイありがとう、重かっただろう」
「そうでもなかった」
「今夜は七草粥だよ。これを食べると風邪を引かないからね」
去年も母は同じ事を言ったけれど、私はやっぱり風邪を引いた。
だから内心(ヘン、うそばっかり)と思った。
それに私は七草粥があまり好きではなかったのだ。
なぜかといえば、七草の次の朝は昨日の残りが、決って出て来るからだ。
出来たての七草粥は美味しいとは思うけれど、翌朝のやつは何だか間が抜けているような気がするし、何といっても飽きてしまう。
それでも、正月の七日に食べる七草粥は、(あ〃、まだ正月なんだな)と思えるところは嫌いではない。
「ねえ、おかゆの中に餅入れてよ」
「本当はお餅入れないで食べた方がいいんだけどね」
母は少し文句を言いながらも、餅を焼いて入れてくれた。
「入れる前にお醤油つけてよ」
「おかゆに入れるのに、なんでお醤油つけるの」
「その方がおかゆも美味くなるんだから、お醤油つけてよ」
「変なことする子だねぇ」
母が入れてくれた餅のお醤油が溶けて絡まったところの七草粥は、味が少し濃くなって美味しかった。
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- 平成17年1月6日(木曜日)
【曇】
元旦から毎日一度は餅を食べていても、決して飽きなかったので、母は弟と私に「お前達がいてくれるので本当に助かるよ。何しろまだ茶箱一杯残ってるんだから、一生懸命食べてちょうだい」と言って喜んでくれた。
私達以外の家族の者が餅を食べるのは三が日位のもので、あとは見向きもしなかった。
私と弟は、あんな美味いものをなんで食べないんだろうと不思議でならなかったが、その分沢山食べられるから、凄く得をしていたのだ。
大抵は焼いて醤油をつけるだけで食べたけれど、時には納豆をつけたり大根おろしをつけたりした。
意外と美味いのが弁当に持って行った餅で、少し多めにつけた醤油がよくしみて、冷たいけれど味が濃かった。
いつも同じでは可哀想だと、母が大きな鉄ナベいっぱいのおしるこを作って、その中に焼いた餅を入れてくれた。
つぶあんの田舎しるこだから物凄く美味かった。
凄い量を作るので、私達が食べたあとは工場のストーブの上に乗せて、上り框にお椀と箸と口直しの漬物を置いておくと、「おっ、しるこだな。一杯ごちそうになるか」とか、結構大人にも人気があって、皆よく食べた。
私は火鉢で餅を焼いてはナベの中に入れ、おしるこの番を引き受けて楽しんだ。
「へん、しるこだってよ。そんなもの食う奴の気がしんねえよ。しるこ食うくれえならおらあ飢え死にするよ」
大酒飲みの雨貝さんが、ストーブの上のナベをチラッと横目で睨むと、憎らしそうにそう言って釜場の方に入って行った。
「ハハハッ、あいつには甘いしるこなんて、まるで親の仇と同じようなもんだろうな」
父が面白そうに話すと、近くにいた職人さん達も愉快そうに笑った。
私はこんなに美味いものが嫌いな人が世の中にいるという事実が、どうしても信じられなかった。
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- 平成17年1月5日(水曜日)
【晴】
「あのさあ、松の内までは正月だよな。3日間で終わっちまう訳じゃねえよな」
工場の庭で遊んでいる時、三田の奴が急に言い出したので、「松の内が終わっても、まだ正月は終わってねえよ。今月いっぱいは正月だよ」と言うと、「そうだよな、正月が3日で終わっちまうなんて、もったいねえもんな。あ〃よかった。これで損した気がしなくなった」と、凄く嬉しそうに話した。
「本当の事を言うと俺もそう思ってたんさ。大晦日とか元旦はいいんだけど、段々正月が終わっていくようで、何だか淋しかったんだ」
そう言って小野寺も三田に同意すると、「俺も」「俺も」と結局全員が同じ気持ちだった事が分かったのだ。
「だけどよ、正月ってのは日本だけじゃなかんべ。アメリカとかイギリスとか外人の国にも正月はあるんかな。やっぱり初詣に行ったり雑煮食ったりするんかな」
仁田山の疑問は皆の疑問でもあったので、学校一の秀才で英語もペラペラの服部に聞いてみる事にした。
「あ〃、アメリカにも正月はあるよ。だけど日本みたいに仕事が休みになったり里帰りしたりなんかしないよ。家によっては普段より少しご馳走を食べてから、いつものように仕事に行くか、クリスマス休暇が残っている人は、旅行したり遊んだりしているよ」
「へえー、やっぱりあるんだ。だけど外国の正月って何だかつまんねえよな。だって外国には神社もねえし、お寺もねえんだろう。それじゃあ浄夜の鐘もねえし、初詣もねえじゃねえか。初日の出を見に暗い内から起きて山に登ったりもしねえんだろう。あ〃俺ぁ外人に生まれねえで本当によかった」
そう言いながら両手を頭のうしろに組んで喜ぶ家住を見ながら、(あ〃、こいつバカだな)と顔に書いて、服部は笑った。
私は物凄く頭が良くて、何でも知っている服部も大した者だとは思うけれど、少しぬけていても言う事が分かりやすい家住の方が、服部には悪いけれど数倍好きだった。
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- 平成17年1月4日(火曜日)
【晴】《3日の続き》
仲間内で一番バチさばきが上手と、自他共に認める大屋の奴が、よせばいいのに本格的な樽を教室に持ち込んで、先生に見付からないようにうまく隠してあると言うのだ。
あんなデカいものを、いったいどうやって持ち込めたのか不思議だったが、実は前の日の夕方に何人かの手伝いを使って教室に忍び込んだのだそうだ。
あの頃の学校は、夜になると宿直の先生が一人いるだけで、校内も校舎も鍵などかかってないから、入る気があれば自由に出入りが出来たのだ。
今では全く考えられない事だろうが、学校という場所は、人が己の我欲のために犯してはならない聖域のひとつだったのではないだろうか。
私達は大屋の勇気ある行動に、皆で最大限の賞賛を送った。
その日の昼休み、私達は満を持して腕も折れんとばかり樽を打ち鳴らし、喉も破れんとばかり唄い、教室の中はおろか、廊下をうめて舞い踊った。
これには他の組の連中もびっくり仰天して廊下に飛び出し、ぽかんと大口をあけて四組の方を見るだけであった。
その様子を肌で感じた私達は、四組が勝ったのを確信すると、興奮のあまり頭のどこかが切れてしまったのか、「ウオーッ」と叫びながら樽を打つ音に合わせて床を踏み鳴らし、廊下を踊りまくった。
「コラーッ、何やってるんだ。その樽どこから持って来た。お前らいい加減にしないか。この馬鹿共が」
顔を真っ赤にしながら階段を駆け上って来た石黒先生は、近くにいる奴の頭を手当たり次第に小突きながら教室に入って来ると、樽の前でバチを握っていた大屋の両耳掴んで、思い切り上に引っ張り上げた。
「大屋、この馬鹿が。やるに事をかいて樽を持ち込む奴がどこにいる」
その日私達は職員室に連れて行かれると、嫌というほど叱られて、もう二度と校内で「八木節」をやらない事を誓わされ、外が暗くなる頃に、やっと解放されて帰路についた。
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- 平成17年1月3日(月曜日)
【晴】
正月の行事で「八木節大会」があったあと、学校ではしばらくの間八木節ブームが続き、休み時間には教室毎に「チャンチャンチャンチャカチャン」と対抗意識丸出しの競演が繰り広げられた。
いくら郷土を代表する民謡とはいっても、中には嫌いな奴だっていたろうから、そういう連中には迷惑な事だったろう。
特に昼休みには校舎が揺れ動く程の大騒ぎだったから、女子のほとんどは、私達を気違い集団のような目で見ていた。
私達の四組には飛び抜けた名人という奴はいなかったが、チームワークだけは他の組に負けなかったので、太鼓の方は相当なものだった。
教室では太鼓の代りに机を手の平で叩いて調子をとったから、どこかの組が始まると、待ってましたとばかりに他の組が次々と参加して、本当に校舎全体がドンドコドンドコと反響するのだ。
「お前ら何やってるんだ。毎日毎日気が狂ったみたいにバカバカ机引っ叩いて八木節みたいな真似して。いい加減にしないとお前ら廊下に立たせるぞ」
石黒先生がこめかみに青筋を立てて飛んで来た。
もう何度も先生に怒鳴られているのだが、一向に言う事を聞かないので、いつか大変な目に会うかもしれないという予感はしていたが、今のところはまだその心配はないようであった。
ところが、ある日の出来事が事情を一変させ、それ以降私達は学校で「八木節」を出来なくなった。
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- 平成17年1月2日(日曜日)
【晴】
小学校4年生の元旦は、弟と共に雑煮を食べ過ぎて、登校する事が出来なかった。
みかんとお菓子は桜木のより子ちゃんが届けてくれたが、なぜ休んだと聞かれても、本当の事は言えないし、言えば皆の笑い者になるだけだったので、少し風邪気味だと嘘をついた。
「それじゃあ明日の新年会は出て来られないね」
より子ちゃんは意地悪そうな薄笑いを浮かべて、上目使いで私を見ながら言った。
「明日はもう大丈夫だよ。絶対行くから」と私は慌てて答え、内心しまったと舌打ちしたが、もう間に合わない。
「へえー、ずいぶん都合の良い風邪だね」
より子ちゃんは私の嘘をその場で見抜いていたのだ。
二日は緑町子供会の新年会で、餅入り茹であずきの大きな鍋が出され、食べ放題の大盤振舞だったから、よほどの事がない限り欠席など出来るはずがない。
その日朝飯は何も食わず、いつもの奴らと一緒に会場へ駆け付けると、町内の役員の人達や宮司の桜木先生の話が早く終わるように一心に祈りながら時を待った。
長ったらしい話が終わり、いよいよ新年会が始まると、皆は先を争って鍋のまわりに群がり、係のオバさんが渡してくれるお椀を受け取った。
最初の一杯は夢中で掻き込み、おかわりを貰いに鍋の前に並ぶ。
二杯目も最初と同じ位の速さで食べ、三杯目あたりからやっと人心地ついて、皆ゆっくりと箸を運んだ。
四杯目になると、さすがに食傷気味になり、全員惰性で口を動かすだけになる。
そして最後は、もう二度と茹であずきは食べないぞと心に誓いながら会場をあとにした。
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- 平成17年1月1日(土曜日)
【晴】
前の日の大晦日で少し遅くまで起きていたのに、元旦はいつもより早目に起きなければならなかった。
年始客がたて込む前に、子供は食事を済ませておかなければならないからだ。
普段は昼食を除き、大抵家族全員が揃って食事を摂るのだが、元旦はなかなかそういう訳にはいかず、皆めいめいに食卓につき、おせち料理と雑煮を味わったあと、私達は学校に登校した。
あの頃の元旦は登校日になっていて、全員が講堂で校長の年頭の挨拶を聞いた後に教室へ戻り、休み中の近況を確かめ合い、最後にみかん一個と紅白のお菓子を貰って帰宅した。
家に戻ると、私達は期待に胸をふくらませて、親や大人達からのお年玉を受け取り、勇んで近所の仲間がたまっている場所に急いだ。
お互いのお年玉を見せびらかし合うためだったが、時には信じられない金額を見せつけられて、シュンとした事もあった。
正月の遊びは歌に歌われた通り、コマ廻し、タコあげ、羽根つき、そしてカルタとりに福笑いが中心だった。
あの頃は大晦日の夜に、正月の晴れ着と下着靴下まで新調してもらい、次の朝起きぬけに着るのが楽しみで、子供ながら身も心も引き締まる気がした。
正月の晴れ着はその年の前半のよそ行きとなり、新しい服の感触を楽しめるのは三が日までだったと思う。
あとは普段着に着替えさせられ、何となく拍子抜けがしたものだった。
それでも正月は元旦に始まり、三が日、松の内、小正月、どんど焼き、鏡開きと、途切れながら一月いっぱい続いた。
■アトリエ雑記は平成12年12月15日からスタートしました。
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