アトリエ白美「渡辺肖像画工房」 渡辺晃吉
- 平成16年12月31日(金曜日)
【雪】
大晦日は朝から夜遅くまで、絶え間なく人が出入りしていた。
そのほとんどは年末の勘定取りの人達で、支払いの大半は盆の前と大晦日の年2回だったから、細かい所は近所の魚屋や八百屋など、大きい所は石炭屋や染料屋さんなどの原料屋さんだったと記憶している。
そば屋うなぎ屋などの食べ物は、その頃から毎日勘定になっていたのだろうか、支払い金額も大した事はなかった。
父や兄は朝早くから取引先への集金に出掛けて行き、午前中に1〜2回、午後に数回集金のお金を届けては、また出掛けて行くのだった。
集金先は市内だけでなく、佐野市や太田市、そして小泉町と、結構広範囲なのだ。
兄の運転するオート三輪の助手席に父が乗って遠出をするのに合わせて、集金を任せられた何人かの職人さんも、手分けして市内の集金先を走り廻っては帰って来る。
母は工場のギリ場に面した板の間に陣取って、次々に訪れる勘定取りの人への支払いを一手に引き受けていた。
はっきりと数えた訳ではないけれど、年2回の節季勘定と月勘定、そして年1回の漬物用の白菜や大根などの特別な買物の支払いなどを合わせると、おそらく50人以上の人達が入れ代り立ち代り出入りするのだから、それは賑やかなものだった。
ギリ場のダルマストーブで沸かす湯だけでは、来る人達に出すお茶が間に合わないので、工場の台所では休みなしに湯を沸かしていた。
酒はこもが置かれて飲みたい人は手酌で飲み、上り框に置かれた煮物や漬物に手を伸ばし、多い時には15〜16人の人達がギリ場にたまってワイワイガヤガヤとやっているのだ。
母屋は祖母が陣取って客の応待をしていたが、大抵は泊り掛けの親戚が何人かいるので、何とか手は足りていた。
そんな状態で大晦日の夜は深けて行き、やがて浄夜の鐘がいんいんと深夜の闇に広がって行くのだ。
テレビも携帯もゲームもない時代の話である。
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- 平成16年12月30日(木曜日)
【晴】
暮の大掃除は工場と母屋の両方を、二日掛けて片付けるのが毎年の事だったが、実際にはその数日前から、手の空いた者が少しづつ気が付いた所に手を入れておかなければ、とても二日間では終わらなかったのを憶えている。
工場の方は職人さん達が中心になって要領良く掃除していき、母屋は前の日に早朝から手伝いの人達も来て、まるでお祭りのような騒ぎだった。
特別に大きな家でもないのだが、あの頃の大掃除は、とにかく大変な大仕事だったのだ。
まず家中の畳を上げて天日に干し、ススを払ったあとの木部は、柱だけでなく天井も乾拭きするのだ。
障子は全部外して川に持って行き、しばらく水につけてから紙を剥すのだが、これは私達子供の役目だった。
紙を剥して、少しノリの残った所はタワシできれいに落とし、乾いた布で水気をぬぐったあと乾燥させ、新しい障子紙を張るのだ。
古いフスマを剥し、新しい柄のフスマ紙を張り替えるのを見ていると、まるで魔法のようだった。
そんな手間ひまを掛ける大掃除だから、本当に大変だった。
お昼は大抵がおにぎりかうどん、それも山盛りで出されたので何だか気分が浮き浮きして楽しかった。
大掃除に合わせて畳が張り替えられる事もあったが、私は新しい畳の匂いがあまり好きではなかったから、それがない年はホッとした。
古いながらもピカピカに磨かれた家の中には、新年を迎えるピンとした空気が張り詰めて、匂いまでが新鮮だった。
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- 平成16年12月29日(水曜日)
【雨のち雪】《28日の続き》
みんな何となく気抜けしたような感じで帰路についたが、歩きながら誰からともなく、「あのさあ、ここにいる奴らの家でさあ、戦争に全然関係のねえ家ってあるのかなあ」という話になった。
考えてみると我が家でも私の一番上の兄が、船舶工兵として戦いの日々を過ごし、最後には広島で、あの惨状を体験している。
そして勇三叔父さんは憲兵として満州で戦い、金四郎叔父さんはシベリアに抑留され、亀六叔父さんは台湾で戦病死した。
父も終戦直前に召集されたが、内地を一歩も出ずに帰って来た。
同居以外の親族まで辿ると、文字通り枚挙のいとまがない。
隣近所の大抵の家が我が家と似たり寄ったりだったし、二人以上の戦死者がいる家も珍しくなかった。
「うちは父ちゃんが戦争に行ったけど帰って来た。でも、父ちゃんの弟は特攻隊で死んだ」
「俺んちは父ちゃんが戦車隊だった」
「清水の彰子の父ちゃんは狙撃兵で何度も撃たれたらしいぞ」
結局、戦争に無関係の家は一軒もなかった。
私達は戦争とは無縁の世代のつもりでいたが、そんな話をしている内に、どうもそうではないような気がした。
「やっぱりよお、民主主義だよな。戦争より平和だよな。俺大人になった時に戦争に行きたくねえもんな」
「でもよお、俺達が大人になる頃には、またでかい戦争が起って、今度は俺達が戦争に行くかもしれねえって、この間家に来た人が、父ちゃん達とお茶飲みながら話してたけど」
「やだな、そうなったら。俺やだな、戦争なんかで死にたくねえよ」
「そおだよな、俺もやだな」
校庭を出るまでの間に、どうやら皆の意見がひとつに結まり、どうやら今回の討論の決着がついた。
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- 平成16年12月28日(火曜日)
【晴】《27日の続き》
山本と宮内の口論は周囲も巻き込んで、その後数日間続いたが、このままでは埒があかないので、最終的には先生に訳を話して、どちらが正しいのか結めてもらおうという事になり、私達は放課後職員室に行った。
担任の川島先生の机のまわりに立った私達は代る代る事情と説明をすると、川島先生だけでなく、周囲の先生達も集まって来て話を聞いてくれた。
私達が話し終わり、「先生どっちが正しいのか教えて下さい」と言うと、先生は「ウーンこりゃまたえらく難しい話を持ち込んで来たもんだね」と頭を抱えながらも、少し嬉しそうだった。
川島先生をはじめ、何人かの先生方が質問に答えてくれたが、その中には実際に戦争に行っていた先生も少なくなかった。
「確かに民主主義や自由主義は決して完璧ではないし、多くの問題点を持っているのも確かだろうな。しかし、これだけははっきりしている事がある。それは今の日本と世界の平和は、日本だけでも四百万人以上、世界中では数千万人という人の尊い犠牲の上に礎かれたものだから、この平和だけは、死んで行った人達のためにも、絶対に守っていかなければならないのだから、もう二度と戦争はしないという強い信念を守り育てる事が何より大切だという事だ。時代が変わって、世の中が少し狂い始めて来ているのも事実だろうが、戦後の良識ある国々は、大抵は自由平等を掲げた民主国家をめざしている以上、日本もそれにならって進む以外に道はないのだと思う。軍国主義や独裁主義に陥った事の深い反省と、戦後の新しい国作りへの堅い決意を、亡くなった多くの人達へ捧げる事が、生き残った人のつとめかもしれないな」
先生方の助言は、大体こんな内容だった。
「でもな、こういう問題を話し合う事は、とても大切な事なんだぞ。お前達はえらい。いつも悪さばかりしているだけじゃないって事が分かって、先生も嬉しいよ」
私達は思っていた以上に話が大きくなってしまい、何だかうしろめたい気持ちで職員室を出た。
今日は私(ウェブマスター:渡辺純也)の誕生日という事で、バースデーケーキを頂きました◎ フルーツタルトです。とても美味しかったです。どうもありがとう!! 誰が祝ってくれたんでしょうねぇ〜? |
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- 平成16年12月27日(月曜日)
【晴】《26日の続き》
事の起りは4時間目の授業の時に、「最近の日本は以前に較べて相当に乱れて来ている。犯罪も増えて来ているばかりではなく、普通の人達も昔のような礼儀を失っている人が多いのは残念だ」と先生が話したのを聞いて、山本が「それは民主主義のせいだ」と宮内に話したところから始まったのだそうだ。
山本も宮内も言っている事は全部大人の受け売りだし、だからこそ自分の意見を否定されると、よけいムキになってしまうのだろう。
近所に来る焼きそば屋のおじさんなんか、「日本はあの時無条件降伏なんかしなきゃ良かったんだ。アメ公の野郎が上陸して来たって、武器がなきゃあ、その辺の薪だっぽ持って頭叩き割るか、かまことねえからマサカリでどてっ腹かっつぁばいてやりゃいいんだ。一人がオメエ一人のアメ公をぶっ殺せば、あんな畜生奴らが何百万上陸して来たって、どうって事ありゃしなかったんだ。それがオメエ、こちとらが戦地で死ぬか生きるかって戦争をやっている時に、降伏なんかしちまいやがってよ。だから今の日本がこんなになっちまったんだ馬鹿畜生め」と、いつもこんな調子で私達に喋りまくっていた。
私達はそれが妙に面白くて、そのおじさんが来ると、皆おじさんに議論を吹っ掛けたものだった。
「日本も早く再軍備しなきゃ仕様がねえっていうのに、政府の馬鹿奴らいったい何考えてんだ全く」
「でもおじさん、戦争はもう二度としてはいけないって先生が言ってたよ」
「こっちがしたくなくったって向こうが仕掛けて来れば、戦わねえ訳にはいかねえだろうが。それとも黙ってやられっぱなしでいろっていうんかよ」
「そうならないように努力するのが、平和国家の務めなんだって学校で教わったけど、ちがうの?」
「べらぼうめ、そんな甘っちょろい事ほざいてるから見ろ、今の日本はなめられっぱなしじゃねえか」
という感じで、おじさんと子供達の会話が続くのだ。
昭和20年代は、まさに前時代と新しい時代が交叉する、混沌の時代だったのかもしれない。
旧軍服を普段着にしている人達が、まだ沢山いた時代の師走は今よりもずっと寒かったが、今よりもずっと師走らしかった。
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- 平成16年12月26日(日曜日)
【晴】
「ちがうもん、日本が戦争に負けて民主主義になったから駄目なんだって父ちゃんが言ったもん」
山本が口を尖らせて宮内に食って掛かっていた。
「そんな事ねえよ、日本は今は自由になったから、みんな思った事が言えるんじゃねえか。戦争中は自由なんてなかったんだぞ。それがなんで民主主義が悪いんだよ」
宮内も負けてはいない。
「自由自由って、何でも自由だからって良いもんじゃねえぞ。世の中にはきまりってもんがあるんだから、きまりも守らねえでみんなが好き勝手な事やってたんじゃ、何にもまとまらねえって父ちゃんが言ってたぞ」
「誰が好き勝手が自由だって言ったよ。それはただの自分勝手じゃねえか。おめえの父ちゃんは自由と自分勝手の区別もつかねえんかよ」
「ヘン、そんな事知ってるね。だけど何でもかんでもアメリカの真似してると、今に日本は駄目になるってみんな言ってるもん」
「みんなって誰だよ」
「近所の人達みんな言ってるし、うちのおばあちゃんだってそう言ってるもん」
「何だ、たったそれだけじゃねえか。おめえ、今いっぱいいるって言ったじゃねえかよ」
「うるせえ、テメ馬鹿。テメなんか死んじまえ」
山本は涙声になって宮内に食って掛かると、やがて顔が真っ赤になり、うわーっと泣き出した。
これが出ると次は手がつかない程暴れ回るので、この議論は中断して山本から逃げた。
「いったい何の話してたんだよ。宮内おめえ少し理屈っぽいから駄目なんだよ」
「そうじゃねえって、何も俺が先に言い出した訳じゃねえし、向こうが先に吹っ掛けて来たから、俺は思ってる事を正直に言っただけだよ」
12月は太平洋戦争が始まった月で、山本の父ちゃんにとっては特別の月なのを、私だけでなく皆知っていたのだ。
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- 平成16年12月25日(土曜日)
【晴】《24日の続き》
聞くとはなしにお姉さんの話を聞いていると、そばで兄の充夫がチャリを入れてふざけている。
話の様子では、電話の相手と一緒にどこかに出掛けるための打ち合わせなのか、何となく浮き立つ気持ちが、私にも伝わって来た。
「ハイまいど…」
外に止った自転車から、白い割烹着に白い帽子の柾木屋の人が、大きなおかもちを持って降りて来た。
「こっちじゃなく母屋の方にお願いしたいんだけど…」
母は出前の人に声を掛けながら土間に降りると、自分も手伝って母屋の方へ歩いて行った。
今日はお客もいないのに、なぜ柾木屋が出前に来たのか、私は不思議に思ったが、自分には関わりのない事だろうと決めつけて、ストーブに当りながらお姉さんの話に耳を寄せていた。
すると兄が私を突付いて目配せをする。
私は何の事か分からずにポカンとしていると、兄は再び私を突付き袖を引っ張って外に連れ出すのだった。
私はまだ事の次第が飲み込めずにいると、兄がそっと耳打ちした。
「今夜はクリスマスのごちそうだぞ」
それでも私にはまだ事情が飲み込めずにいたが、今度は直ぐ上の姉が母屋からやって来て、闇の中から手招きをしている。
(何だろうな今夜は)
私は少し薄気味悪くなったが、とにかく兄達と共に母屋に向かった。
着いてみると、玄関奥のコタツの上に、鳥のモモ焼きやお寿司、果物と見た事もない大きなケーキなどが、文字通り山のように並んでいた。
私はまるで映画の場面の中に入り込んでしまったかのような、信じられない気持ちでいっぱいになった。
「何、どしたの、今日は何の日?」
私は誰に言うとなく大声で叫ぶと、あまりの嬉しさに我が身の置き所を失ってしまった。
生まれて初めてのクリスマスの夜が、こうして始まった。
昭和26年、小学校3年生の冬の事だった。
私(ウェブマスター:渡辺純也)が市販のケーキをデコレーションしてみましたっ! おいしそうですかぁ? ちょっと見た目が汚い気がしますが、味は悪くないですよ!! |
たばこ貰っちゃいました!! JTの「新作たばこ全12銘柄 選んで、試せるキャンペーン」で貰ったたばこです。 左から静岡限定「キャスター・クールバニラメンソール・ボックス」 宮城限定「ゴールデンバット・ボックス」「ゴールデンバットメンソール・ボックス」 北海道限定「ホープ・スーパーライト」です。 愛知限定「ピース・アロマメンソール」も希望したのですが、先着もれしたらしく、貰えませんでした。 私(ウェブマスター:渡辺純也)の感想は、キャスターは少し軽過ぎる気がします。火のまわりも早く、すぐ一本を吸い終わってしまいました。ゴールデンバット・メンソールは、メンソール感が強く、かなりスースーします。ホープは短いですが、軽い割には吸い応えがあり、申し分ないです。 |
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- 平成16年12月24日(金曜日)
【晴】
午後から降り出した雪が夕方になると激しさを増して、まだ6時を少しまわったばかりだというのに、外はもう深夜のような静けさの中にあった。
早目に仕事を終えて僅かに残った職人達が、土間のダルマストーブの周りに立って寛いでいる。
NHKのラジオが、クリスマスイブの特別番組で、ベツレヘムの宿屋の家畜小屋を舞台に起った出来事を、厳かな音楽と共に放送していた時だった。
「こんばんは、すみませんが電話を貸して下さい」
母屋の隣の柿沼のお姉さんが、傘に積もった雪を落としながら、入口の外に立って声を掛けて来た。
「あら◯◯子ちゃん、早く中に入って暖まりなさい。電話ならいつでも使ってちょうだい」
母が入って来たお姉さんにお茶を入れながら答えると、「ハイ、すみませんおばさん。これ相変らずの物ですがどうぞ」と茶色の袋に入ったせんべいを差し出した。
私は内心しめたと思ったが、それを口に出したり、ましてや態度に出したりはしなかった。
そんな事をすれば、あとで必ず叱られるからだった。
柿沼の家は、おじさんとおばさんがせんべいを作っていて、それがとても美味しかったのだ。
「いつもありがとうね。でもあまり気を使わないようにね」
母はそう言ってせんべいを受け取ると、お姉さんにお茶とお菓子をすすめ、「電話いつでもどうぞ」と言ってその場を離れた。
お姉さんは手帳を手に電話台の前に立つと、箱の横についたハンドルをグルグルと2〜3回廻し、受話器を耳に当てた。
「もしもし、4523番願います…こちら2100番の乙です」
しばらくすると相手方に通じたのか、「もしもし◯◯さん、柿沼ですけど××さんお願いできますか。…すみませんお願いします」
きっと先方にも電話が無いのだろう。多分近所で電話のある家に呼び出しを頼んだのだ。
しばらくすると相手が着いたのか「もしもし××さん柿沼だけど…」と会話が始まった。
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- 平成16年12月23日(木曜日)
【晴】《22日の続き》
拝み屋のおばさんは、私の家族の具合が悪くなると、殺した蛇が祟っているとか、昔飼っていた犬の霊が悪さをしているとか、何でも祟りのせいにして憑き物落としの祈祷をするのだったが、私は子供ながら変だなと心の中では思っていた。
しかし、それを口にすると叱られるから親には黙っていた。
私の知っているだけでも、我が家にいた犬や猫が何匹か死んだけれど、皆とても可愛かったし、気立ても良かったから、私達を守ってくれても、決してとりついて悪さをするとは思えなかったし、第一そんな事でいちいち祟られてたら、サンマやマグロ、牛やブタ、ニワトリやイワシの霊に祟られた人で、町中がいっぱいになってしまうのではと真剣に考えた。
父は無論の事、母だって本当のところは心の底から信じていた訳でもないらしく、言わば近所付き合いのひとつとして受け入れていたようであった。
拝み屋のおばさんは、黒くてまん丸なドンチャン眼鏡をかけて、もんぺ姿に白い袖なし羽織を着ていた。
家は直ぐ近くだったので、私は学校帰りに時々おばさんの家の前から中を覗いて、大きな祭壇や沢山の供物など、およそ普通の家とは違う異様な雰囲気に、何となく薄気味悪い気持ちになったものだった。
ある時おばさんは自分がガンになった事を知ると、医者の治療を一切断り、怖れ気もなく自分の祈祷力で治してみせると公言して、昼夜を問わない祈祷三昧に入った。
しかし、おばさんは日に日に痩せ細って、水を口にしてさえ吐くようになってしまった。
おばさんを気遣った母は毎日のように見舞いに行ったが、おばさんは「カツ丼とうな丼が食べられたら、もう何にもいらない。ラーメンとかけそばが食べられたら直ぐ死んでもいい」と、口から出る言葉は食べ物の事だけだったそうだ。
おばさんの祈祷の力は、ガンには勝てなかったようだ。
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- 平成16年12月22日(水曜日)
【晴】
小林のおばさんは拝み屋という仕事で、元町を中心に沢山の家に出入りして、色々な悩みの相談相手になっていた。
我が家にも月に一度は必ず訪ねて来て、カスタネットのような道具と粒の大きな数珠を使って独特の音を出しながら、まるで何かが乗り移ったかのような奇妙な身振りと共に、外の道を通る人にも聞こえるほどの大声で祈った。
早い時で15分、遅くとも30分位でトランス状態に入り、やがて全身を痙攣させてバタッと倒れると、しばらくの間タタミの上をゴロゴロと転げ廻り、ふいに正座をして話し始める。
私はそんなおばさんを、少し薄気味悪いと思ってはいたが、なぜか来る度に、その一部始終を見ずにはいられなかった。
いつだったか私が悪い風邪をひいてなかなか治らない事があり、母はそれを心配しておばさんに拝んでもらった事があった。
おばさんは私の両手を合掌させると、いつものように拝み始め、やがて物凄い顔で母に向かってこう言った。
「この子には死んだ猫の霊が乗り移っている。多分この子が殺したか、殺されるのを黙って見ていたのだろう。早くお浄めしないと大病を患う事になるぞ」
私はそんな事があったろうかと必死になって考えたが、どうしても思い当たらない。
ただ学校の帰りに車に轢かれて死んだ猫のそばを通った事が、一ヶ月ばかり前にあったのを思い出し、それを母に告げると、おばさんは即座に「それだ。その猫がこの子にとりついたんだ」と言ったが、私は正直なところ変だなと思った。
なぜなら、その猫の近くを通ったのは私以外にも多勢いたし、中には面白そうに棒で突付いた奴さえいた。
とりつくのなら、そんな奴にとりつくのが先だろうと言いたいのだ。
第一私には自分の中に猫の霊がいるという実感がまるで無いし、もしも、そんな手応えがあるのならかえって面白いから、何も無理して追い出してもらいたくなんかなかった。
それよりも私は、一向に下がらない熱と体のだるさを、早く何とかしてもらいたい気持ちでいっぱいだった。
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- 平成16年12月21日(火曜日)
【晴】
前の晩の冷え込みがやけに厳しいと思ったら、朝起きてみると、外は30cmにもなるかという大雪で、まだ盛んに降り続いていた。
家の前の道を通る人達の声も、いつもとは違って浮き立っているだけではなく、余分な汚れを洗い流したかのように澄み切って聞こえるのが不思議だ。
家の軒先から直ぐに積もる雪の厚さは、外に歩き出すのが怖いほどの迫力だった。
こんなに朝早くから、もう誰か訪ねて来たのか、道から庭を通って玄関先まで足跡がついている。
向かいの柳田鉄工所の屋根が、真っ白に雪化粧して目の届く限り続いているのが美しい。
私は寒さも忘れて、じっと雪景色に見とれていた。
「何をしてるの、寒いから戸を閉めなさい」
いつの間に台所から出て来たのか、前掛けで手をふきながら、母が私に言った。
「ウン」と返事をして戸を閉めると、全身が冷え切っているのに気付いて、思わず身震いした。
今日は珍しく朝風呂があるらしく、玄関の土間奥の焚き口に火が入っている。
その前に座って、叔父の清ちゃんがゆったりと火の番をしていた。
薄暗い土間の床に、風呂釜の焚き口から漏れる火の光が赤々と映っている。
「ごはんの前にお風呂に入ってしまいなさいよ」
母の言いつけに、私は隣の京子ちゃんに声を掛けた。
「京子ちゃん、母さんがお風呂に入ってしまいなって」
「ハーイ、分かった今行くよ」
雪の日には、我が家はなぜか朝風呂が立つ。
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- 平成16年12月20日(月曜日)
【曇】
男勝りの京子ちゃんは、大抵の事を男と一緒にこなしたけれど、竹馬だけはあまり得意ではなかった。
竹馬遊びは何といっても冬が一番多かったのは、材料の竹を採るのが冬だったせいだろうか。
長さを揃えるために切り捨てた先の方は、子供でも買えるほど値段が安く、二本を並べて節の間隔が出来るだけ合っているのを選ぶのが、良い竹馬を作る一番大切な事だ。
足を乗せる台は、どこの家にも沢山あった薪の束の中から、なるべく太さの揃ったものを選び、一方の端を針金で縛り、もう一方で竹をはさみ、少し斜めになるような角度で、針金を十文字にかけて固定すると出来上がりである。
上手に乗りこなす自信のない奴は素足で、得意な奴は靴のまま乗った。
全く乗れないミソッカスは、足乗せを一番下までおろし、ペタンと地べたにくっつくようにした竹馬に乗って、気分だけを味わっていたが、その姿は何ともぶざまで情けなかったので、皆の笑い者になった。
何でも器用にこなす京子ちゃんの竹馬が、このペタンコ竹馬だったから、乗るのに塀の上からでないとダメなほど、高く乗れた私には、ペタペタと地面をずって行く京子ちゃんを上から見下ろしては、薄ら笑いを浮かべながら、何とも言えない優越感を味わった。
その態度が気に入らないと怒った京子ちゃんは、私の竹馬の足を思い切り蹴っ飛ばしたので、私はもんどりうって地面に転げ落ち、目から星が出るほど痛い目にあったからたまらない。
全速力で逃げる京子ちゃんを追い駆け、土足のまま家に駆け込んだのを、私も土足のまま飛び込んで追い詰めると、びっくりしている叔母に構わずに2つ3つぶっ飛ばし、ウワンウワン泣いたところで逃げ出した。
取っ組み合いのケンカをしても、どうせ明日はまた一緒に遊ぶのだから、叔母も母も、どっちが泣こうが喚こうが、一向に気にする事はなかった。
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- 平成16年12月19日(日曜日)
【晴】
「いちれつらんぱん(意味不明たぶんでたらめ)破裂して、にいちろおせんそお(日露戦争)始まった、さっさと逃げるはロシア人、死んでも戦う日本人、クロパトキンの首を取り、東郷元帥万々歳」
京子ちゃんとさや子ちゃんが、物凄く古い歌を歌いながら、器用にお手玉をやっている。
この歌に限らず年が一つ上だけなのに、京子ちゃんの知っているわらべ歌には、信じられないほど時代遅れのものが多かった。
多分日露戦争のわらべ歌も、本当は手まり歌なのを、お手玉に応用しているのだろう。
「セッセッセーのヨイヨイヨイ、オチャラカオチャラカオチャラカ、ホイ、オチャラカ勝った(負けた)よオチャラカ、ホイ」はオチャラカじゃんけんの時に歌うはやし歌で、オチャラカホイのホイの時にじゃんけんをして、負けた方はおじぎ、勝った方はバンザイをする。
あいこの時は、オチャラカあいこでオチャラカ、ホイでもう一度やった。
たったそれだけの遊びなのに、何度も何度も飽きずに繰り返し、いつの間にかあたりが夕闇に包まれていた事もあった。
集った人数を二つに分けて、お互いに相手の中から味方に引き入れたい相手を決めると、手を結んで向かい合い、「花いちもんめ、◯◯ちゃんが欲しい花いちもんめ」と言いながら前進する。
相手はそれを受けて「◯◯ちゃんが欲しい花いちもんめ」とはやしながら前進して来る。
お互いに相手から指名された者がじゃんけんをして、勝った方は「勝ってうれしい花いちもんめ」とはやすと、今度は負けた方が「負けてくやしい花いちもんめ」とはやし、仲間を相手方に引き渡す。
これを延々と繰り返して、時の経つのを忘れるほど夢中だった。
通りゃんせも、うしろの正面だあれも、京子ちゃんが仕切って皆が遊んだが、どういう訳か毎日必ず誰かが泣いて家に駆け戻って行った。
そんな時は遊びを一時中断してその子の家に行き、庭先から全員が「◯◯ちゃんあそぼ」と声を合わせて繰り返すのだ。
それでも相手が出て来ない時には、「◯◯ちゃんごめん」と大声で呼び続ける。
すると相手は、いかにも哀しいというポーズで外に出て来る。
うつむいて近付いて来た相手を、京子ちゃんを頭に何人かの女の子が相手の肩や背に手を廻して、さも親切そうに慰める。
こうして再び遊びが再開されるのだ。
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- 平成16年12月18日(土曜日)
【晴】《17日の続き》
前編の「花の巻」は何とか観ていられたのだが、後編の「雪の巻」に入って間もなく、どうしても起きていられずに、いつの間にか眠ってしまった。
山場に差し掛かる度に場内が騒然となるので、その時はハッと目を覚まして、少しの間画面に目を向ける。
そして直ぐにまぶたがくっついてしまい、結局終盤の討入りまでの時間を、ほとんど寝て過ごしてしまった。
しかし、いざ吉良の屋敷に討入るというあたりには、さすがに目が冴えてシャキッとして画面を凝視した。
場内は感嘆と賞賛のざわめきが続き、最後の「終」の文字が出るまで消えなかった。
幕が閉まり、場内の照明が明るくなると、ブーというブザーの音が客の背中を押すかのように鳴り渡る。
いつもの事だが、映画が終わって場内が明るくなる時の気分は、何か物淋しくて切ない。
「アアー、本当に良かった。サア帰りましょう」
母の声に皆ゾロゾロと席を立って外に出ると、ロビーは中より少し寒かった。
売店で勘定を済ませている母を待っている私達の脇を、今夜の観客が列をなして通り過ぎて行く。
板張りの床が、人達の踏足でドカドカと賑やかな音を発てる。
母がこちらに向かって来るのをみとめた私達も、列に乗って劇場の外に出ると、兄達や他の人達が入場券売場の前で待っていた。
父のそばに行って顔を見ると、明らかに涙の跡がある。
私は父の涙を見た事がないので、その時は何か見てはならないものを見てしまった気がして、急いで父のそばを離れた。
外は強い空っ風が吹いていて、体の芯まで凍えるほど寒かった。
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- 平成16年12月17日(金曜日)
【晴西の風】《16日の続き》
夜の部は6時半から、まず内外のニュースと次回の予告編の上映から始まった。
午後7時頃に本編がスタートすると、私の隣にいた母は、「サア始まるよ」と、誰にともなく言いながら居ずまいを正した。
場内に緊張と期待を込めた「フウー」というざわめきが湧いて、待ちに待った大「忠臣蔵」のオープニングである。
父も母も、そして兄達や他の人達も、画面を見ながらいちいち「ウーン」とか、「チキショーめ」とか、「テメエ引っ込め」とか、うるさくて仕方がない。
ヒロやんは怒るだけでなく、「オーン、オーン」と声を殺しながら泣いたり喚いたりで、私は恥かしくて仕方がなかった。
姉達はそんな私達とは遠く離れて、まるで関係のない人間のような振りをしている。
上映中ほとんど間なく、物売りの人が通路を行ったり来たりしながら、「おでんに焼きイカ、アンパンにキャラメル、オセンベはいかがですか」と声を掛ける。
どういう訳かタバコは売ってないので、切らした人は木戸に断って外に出て買って来る。
あの頃は禁煙ではなかったから、場内は多勢の人達がはき出す煙が充満し、それに映写機からスクリーンに投射される光線が当って、頭上は直線のオーロラのようだった。
「ネーネー、忠臣蔵ってどういう意味?」
少し飽きてきた私は、夢中で銀幕に見入っている母の袖を引っ張りながら尋ねた。
「うるさいね、静かにしてなさいよ、今一番良い場面なんだから」
母は私の質問など聞く耳を持たなかった。
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- 平成16年12月16日(木曜日)
【晴】《15日の続き》
今夜は仕事が終わるのに合わせて、手早く食べられるようにと、夕食はうどんだったから、多分映画が終わる頃には腹が減ってしまうだろうし、職人さん達は大抵大食いだったので、今夜の売店は我が家のメンバーだけでも忙しくなりそうだった。
おでんといっても、コンニャクやチクワなど串に刺して食べられるものがほとんどで、値段もかなり安かったから、映画を観ながら小腹を満たすにはちょうど良い食べ物なのだ。
クライマックスらしい音響が、合間に入る拍手の音と共に扉を通して外にもれて来る。
今はあまりないのだろうが、あの頃は映画の場面が、これぞという時には満場の拍手が沸いたり、「イヨッ待ってました」とか、「チキショー◯◯テメエなんか死んじまえ」とか、「◯◯テメエ汚ねえぞ」とか、物凄い勢いで画面に野次を飛ばしたりした。
「そうだそうだ」とか、「その通り、あいつが悪い」とか合の手も入って、結構賑やかな場内だった。
場内は多分討入りが大詰めに来ているのだろうか。
サウンド・トラックではない肉声が、「ワーワー」と途切れずに聞えて来る。
それでも私達だけでなく、次の上映を待っている客達は、誰一人として中に入ろうとはしない。
父や母、そして上の兄達は、今夜この場で知り合った人達と煙草をふかしながら、私には分からない忠臣蔵の難しい話を、時折冗談を交えて楽しそうに交している。
ハルさんとモトさんは売店の脇で将棋を指し始め、ヨッさんはそれを横で見物している。
唯一人ヒロやんだけは少しもじっとしていずに、下の階に下りたり、また二階に上がって来たりして目障りで仕方がない。
「ヒロちゃん、他の人達に迷惑だから少しじっとしていなさいよ」
兄嫁がたしなめても、ヒロやんは「ウン、ウン」と生返事ばかりで、ウロウロするのを一向にやめようとしなかった。
- 平成16年12月15日(水曜日)
【曇】《14日の続き》
時間を見計らって出掛けたのだが、劇場に着いてみると本編はまだ終わってなかった。
入口の左脇の切符売場で、母が入場券を買っている間に、私達は断って中に入り、ロビーのイスに座って中が一区切りするのを待っている内に、どこからともなく漂って来る焼きイカの匂いにつられ、ロビーの両脇についている階段の一方を上って行った。
末広劇場の売場は二ヶ所あって、一ヶ所は一階の正面に向かって左側の通路の奥、もう一ヶ所は二階のロビーだった。
イカを焼くのは一階の売場だけで、それを二階の売場と場内に持ち込んで売っている。
もし買うのなら一階の方が良いのだが、その売場からはスクリーンが見えてしまうので、後半の一番良いところをチラッとでも目にするなんて、絶対に嫌だったから、わざわざ二階の売場に行ったのだ。
姉二人と私そして弟の四人の分だけ買い、「あとで母がまとめて払います」と上の姉が言うと、「ハイ分かりました。まいど有難うございます」と顔見知りのおばさんが笑いながら御愛想で答えた。
私達がイカをほ〃ばっていると母が上がって来て、「今、下の売店にもお願いして来ましたけれど、家の者の注文はつけておいて下さい。帰り際にお払いしますから」とおばさんに言った。
おばさんは「ハイ、受け賜りました。いつもいつもすみません。今夜はごはんはお済みですか」と尋ねたので、母は「ハイ、それでも帰りに脇で夜食でもと思っているんですよ」と答えた。
「それじゃあおでんは具を足さなくってもよろしいでしょうか」
おばさんは我が家が多人数で来ているのを知っているのだろう。
「いいえ、どうせみんなお腹を空かせているでしょうから、お酒もおでんも好きなだけ出して下さいな」と答えた。
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- 平成16年12月14日(火曜日)
【晴】
末広劇場が連日超満員の盛況なのは、大長編映画「忠臣蔵」が上映されているからだった。
全編4時間余を「花の巻」と「雪の巻」の2編に分けて、当時第一線の俳優陣が総出演して巨編という事で、学校でもその話でもちきりだった。
既に観てきた奴らは、口から泡を飛ばしながら次々と名場面を語って聞かせ、まだ観てない奴らは、一日も早く映画館に行きたいと、そればかりを願っていた。
我が家でも父母をはじめ、兄や姉達までもが大騒ぎだったので、ある夜一家総出の映画見物となった。
早目の夕食のあと、私達は大挙して末広劇場に向かった。
父と母、三人の兄と兄嫁、そして姉二人と私と弟、そしてハルさんとヒロやん、モトさんにヨッさん、あとは町田の叔父叔母と那須の叔父の総勢17名だった。
ヒロやんは映画を観る前から物凄く興奮していて、映画館への道すがら両腕を捲り上げ、行き交う人を睨みつけて、まるで自分が討入りをするような剣幕だった。
「ヒロッ、今からそんなに力んでちゃあ、映画観る前にへたばっちまうぞ。何もおめえが討入る訳じゃねえんだからよ」
ハルさんが苦笑いしながらヒロやんに言った。
「分かってるんだけどよ、何だか武者震いがとまんねえんだよ」
ヒロやんは本当に頭がおかしくなってしまったらしく、ぐるぐる廻ってみたり、電信柱に抱きついてみたり、他の人達のように真っ直ぐに歩けないようだった。
長兄の嫁はそんなヒロやんがおかしいと、ずっと笑いっぱなしだった。
映画なんかめったに観た事もないし、ましてや「忠臣蔵」を観られる今日のヒロやんが、少し気が狂ったようになる気持ちが、私には何だかよく分かった。
ヒロやんの稼ぎは、ヒロやんのおふくろさんが直接受け取りに来てしまうから、ヒロやんが使える小遣いなんて、たばこ銭が目一杯なのだ。
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- 平成16年12月13日(月曜日)
【晴】
師走の餅つきは、家中総勢で一日がかりの大仕事だった。
父母や兄達、そして10人余の勤め人達が、朝早くから夜遅くまで搗きまくっても、全部を終わらすのは大変なくらい、大変な量の餅を搗くのだから、それはもう近所を巻き込んでの一大イベントになっていたのだ。
我が家の分は約一俵、そして勤めている職人達の分、隣近所の頼まれ分、合わせると五俵近い量になる。
釜場の大釜の上には六段重ねの角セイロが湯気を吹き、もち米のふける良い匂いが立ち込めて、皆の気分を弥が上にも浮き浮きとさせて、まるで祭のような賑わいだった。
冬休みに入っている子供達は、その日のほとんどを工場の中で過ごした。
セイロのもち米が臼の中に入れられる度に、「ホレッ」と一握りづつ順番に貰えるのが楽しみだったのだ。
搗きたての餅も美味しいが、蒸したてのもち米は甘くてあったかくて、とても美味いものなのだ。
20人近い子供達がたむろしていても、100臼以上搗くのだから、全員が腹一杯になってもまだ余るほどなので、何臼かおきに作られる餡ぴんと呼ばれる甘い餡ころ餅や、大根おろしをまぶしたからみ餅が食べられなくなっては大変とばかり、皆要領良く加減して食べた。
夜になっても釜場はシャツ一枚でも暖かく、半地下式の炊き口に降りると、そこは洞穴のような不思議な雰囲気で、子供達にとっては、めったに入る事の出来ない場所だった。
夜も深けて、いつもならとっくに床に入っている時間なのに、皆目を擦り、一分でも長く起きていようと必死だった。
それでも、絶えず耳に飛び込んで来る大人達の笑い声や楽しそうなさんざめきを聞いていると、いつの間にかコックリコックリと舟を漕いでいた。
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- 平成16年12月12日(日曜日)
【曇一時雨】《11日の続き》
田中のオバさんは、私が小学校一年生の時から仲の良かった田中仲司のおふくろさんで、おやじさんは高砂館の映写技師をしていた。
その頃は映画館関係者の家族の特典で、市内の映画館ならどこでも無料で入れたので、私は田中と一緒によく映画のただ観をした。
母は私が田中と付き合うのを快く思ってはいなかったのだが、それは田中が今でいう非行少年、その当時の不良少年だと思われていたからだった。
確かに田中は野生児ではあったかもしれないが、決して非行少年などではなく、朝は登校前に牛乳配達、下校後は毎日豆腐売りのアルバイトで家計を助けてさえいたのだ。
だから息抜きに金のかからない映画館通いをする位は当り前だったと思う。
田中にはお姉さんと妹が一人づついて、二人共とても優しい人だった。
私は時々下校途中に田中の家に寄って、お姉さんの用意してくれた弁当を田中が食い終わるのを待って、一緒に豆腐売りに付き合う事があった。
別に何をする訳でもないのだが、豆腐の入った大きな木箱を付けた自転車のあとを、ただ黙ってついて行くだけでも、田中には気晴らしになったようだ。
行く先々でおばさん達と如才なく会話をしながら商売をする田中は、学校では絶対に見る事のない、まるで大人のような姿だった。
ひとまわり約3時間ほどで、持って来た豆腐や油揚げなどは全て売り切れる。
聞けば売れ残る事はめったにないのだそうだ。
私は田中の自転車のあとを走りながら、(本当にこいつは偉いな)と、いつも心から思った。
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- 平成16年12月11日(土曜日)
【晴】
夕飯支度の煙が、大人の背丈より少し高い所でたゆたって、目の届く限り続いている中を、唐草の風呂敷に包んだお重を両手に提げて、うなぎの蒲焼やどじょうのくりから、鯉の洗いなどを売りながら、田中のオバさんがやって来た。
私はどじょうのくりからが大好きで、普段はめったに食べられないけれど、風邪をひいた時などは薬代わりに食べさせてもらえたので、毎日のようにこの辺を売り歩くオバさんとは顔見知りだった。
「オバさん今日は売れた?」
「あんまり売れないんだよ。お母さんにまた買ってもらえないかしらね」
「ウン、聞いてみるから一緒に来て」
私はしめたとばかりにオバさんを家まで案内して、「あのね、オバさん今日はあんまり売れないんで、家で買ってもらいたいんだって」と言った。
母はこんな時に決して嫌と言わないのを私は知っていたから、今夜は久し振りに好物のくりからにありつけると思っていたら、「まあ、ちょうど良いところに来てくれましたね、鯉の洗いを今あるだけ貰いましょうかね」と、私の思惑とは違った結果になってしまった。
「ハイ、いつも有難うございます。洗いは全部で5人前ですがそれでよろしいですか」
「少し足りないけれどいいですよ。田中さんも毎日大変ですね。お身体を壊さないようにお稼ぎなさいましね」
「有難うございます。おかげ様で体だけが身上でして」
オバさんはそう言うと、荷物をまとめて夕闇の中に消えていった。
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- 平成16年12月10日(金曜日)
【晴】
まだそれほど遅い時間でもなかったが、朝からの曇り日のために、もう夕方になってしまったような気分で遊んでいると、ひんやりと底冷えのする中から、少し薄汚れた姿の虚無僧が一人、まるで湧き出るように近付いて来て、我が家の門口に立つと、子供でも分かる見事な尺八の演奏を始めた。
毎年木枯しの季節の到来と共に、この辺にはよく托鉢の僧や虚無僧が浄財を求めて門口に立つのだ。
栄町の清水のおばあさんも、近所ではご詠歌おばあさんとして有名な人で、何人かの仲間と浄財を集めるために、露地を廻っているのを時々見掛けた。
勿論全て恵まれない人達に寄付するための仕事なのだが、虚無僧の中には偽者もいると母から聞いた。
私達には誰が本物で誰が偽者なのか区別はつかなかったが、どちらにしてもまるで映画の場面のようでカッコ良かった。
だから托鉢僧やご詠歌のあとをついて行く事はなかったが、虚無僧のあとにはよくついて行ったものだった。
年が明けてからなら分かるのだが、年末のカラッ風の中を、すり切れた獅子頭を抱えて門付けをしてまわる人の姿は、誰の目にも寒々しく映ったが、そんな人も時々は町内に入って来たのだ。
まるで怒鳴り散らすかのような大声で「家内安全無病息災商売繁盛」と喚きながら、獅子の口を壊れそうな勢いで開閉して、その家の人を恫喝する事で小銭をせしめる、形を変えた強請なのだが、誰も警察に知らせないで、黙って何がしかの小銭を渡して次に廻した。
優しさというより、そこまでして金を稼がなければならない人の哀しさを、多分知っていたのだと思う。
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- 平成16年12月9日(木曜日)
【晴】
“ツーツーレロレロツーレーロ、ツーレーロレツレロレシャン、ツレラレツレシャンシャンシャン、高崎観音ズロース取ればあ、なあらあ(奈良)の大仏かけて来るかけて来る”
ヒロやんが教えてくれたばかりの歌を、ギリ場のだるまストーブの前で歌っていると、母がいきなり頭をどやしつけた。
私はびっくりして逃げるのも忘れ、ただボーッと母を見ていた。
「本当にこの子は悪い子だ。そんな歌どこでおぼえたんだろう。私は恥かしくて外を歩けないよ全く」
「ちがうよ、ちがうよ、ヒロやんがこの歌は観音様と大仏様が出てくる、とても良い歌だから、しっかり憶えて学校やみんなの前で歌ってやれって言ったんだよ」
私はオイオイ泣きながら母に訴えた。
いきなりぶっとばされたのが悲しいというより、ほめてもらえると思っていたのが、逆に叱り飛ばされたのがショックだったのだ。
「ヒロッ、ヒロッ、ちょっとこっちにおいで」
母は大声で釜場の方に声を掛けたが、職人を呼び捨てにする時の母がどんな恐いか知っていたので、私は慌てて母の手が届かない所まで飛び退いた。
ヒロやんはゴム前掛けをつけたままギリ場に来ると、「何だんべ」とビクビクしながら言った。
「ヒロ、お前この子に変な歌を教えたね」
ヒロやんはしまったと首をすくめながら「教えてねえよ」とウソを言った。
「ウソ言いなさい、教えたとお前の顔に書いてあるよ。全く仕様がないんだから。いつまでもこんな悪さをしていると、おふくろさんに言いつけるよ」
ヒロやんは自分の母親が一番苦手で恐いのだ。
「すんません、もうしません」
ヒロやんがボソッと詫びを口にしたとたん、ギリ棒を使っていた何人かの職人さんが、ワッとばかりに大笑いしながら、そこら中を走り廻って騒ぎ出したので、私は自分がコケにされたのに気付いた。
それから何日間か、私はヒロやんと口を利かなかった。
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- 平成16年12月8日(水曜日)
【晴】《7日の続き》
「まあまあ御苦労様。さあ早く風呂に入ってさっぱりしてからご飯にしましょう」
お風呂といっても、釜場の脇に置いてある大きな水桶に、湯釜の湯を汲んで水で薄めた中に入るので、普通の湯船の三倍位の大きさがある。
コンクリートの床が直接洗い場になるから、一度に4〜5人は楽に入れるのだ。
その代り何の囲いもないので、周りからは丸見えだ。
風呂から出て食卓につく三人と一緒に、私も一丁前に箸を取ったが、ヨッさんとハルさんはご飯の前に酒を飲むので、飯はヒロやんと私の二人が先に食べる事になった。
「おいヒロよ、あんまりがっついて俺達の分までおかず食うなよ」
ヨッさんがヒロやんをからかうと、ヒロやんは物凄い勢いで飯を掻っ込みながら、「あいひょうふ(大丈夫)だよ、ふえんふ(全部)食いやひねえよ」と、ムキになって言った。
おかずは野菜とアジとイカの天ぷら、マグロと赤貝の刺身、菊の酢の物、沢庵、海苔の佃煮、そして大根のみそ汁だった。
私もヒロやんほどではないけれど、いつもなら絶対にお仕置になる程のがっつきようで飯を掻っ込んだ。
みそ汁も天ぷらも何もかも、信じられない美味さだった。
「そんなに急いで食べなくても、ご飯は逃げて行かないよ」
母は私を呆れたように眺めながら言った。
私は今日一日で、自分が凄く大人になったような気がした。
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- 平成16年12月7日(火曜日)
【曇時々晴】《6日の続き》
来る時にヒロやんが落ちた田んぼのそばを過ぎる頃になると、体はすっかり暖まって来たので、顔に当る外気の冷たさがかえって気持ち良かった。
真正面は相変らずヒロやんの大きな荷に邪魔されてよく見えないが、左右の闇は沢山の灯をちりばめて美しく広がっていた。
この辺は北の足尾山系を除いて東西と南に山はなく、昼間通ると見渡す限り田園が広がっている所だから、夜のこんな時間に街道を走る事など一度もなかっただけに、緑町などと比ではない夜気の厚さが身にしみ込んで来る。
私を気遣いながら先を急ぐ三人は、もうほとんど口を開かず、耳に入るのはシャーというチェーンの廻る音と、自転車の車輪が砂利を噛む音、そして三人の少し早い息遣いだけだった。
それらの音が段々とリズムを刻むようになると、私にはそのリズムがとても快いばかりでなく、私の足もそのリズムに合わせて、いつかペダルを踏んでいた。
「足利に入るぞ」
ヒロやんが弾んだ声で教えてくれたので、私は「ウン」と返事をして、遅れていない事を知らせた。
渡良瀬橋にさしかかる頃になると、三人共安心したのか急に喋り始め、時々冗談を言っては高笑いをしながら自転車を走らせるようになり、私もつられて気持ちがほぐれて行くのを感じた。
今泉の土手を下り、新水園の前を過ぎて川万の辻を右に曲り、踏切を渡って人見医院の角を右に入ると直ぐに、乾し場までこぼれている工場の明りが目に飛び込んで来た。
三人が横一列に並んで工場の入口に自転車を止めると、中からの逆光を浴びて大きな影法師になった。
仕事を終えて間もないのか、ほとんどの人達はまだ帰らずにギリ場(糸の束を丸太に通して止め、廻しながら樫のギリ棒で叩きのばしてホツレを取る作業をする所)で寛いでいた。
ギリ場に面した広い板の間の上り框には、多分私達のためのものか、食事の支度がしてあった。
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- 平成16年12月6日(月曜日)
【晴】《5日の続き》
私はそれを知った時、物凄く損をした気がした。
それまでココアはコーヒーの出来損ないのような飲み物だと思っていたから、それがあのチョコレートと同じ物だと分かっていれば、もっともっと大切に飲んだからだ。
それにしても、あの貴重なチョコレートを飲んでしまうなんて、人間というものは信じられないほど罰当たりな生き物かもしれないと、つくづく感じた。
荷を積み終わった三人が、私を迎えに事務所に入って来たので、お姉さんにお礼を言って外に出た。
空はすっかり夜になって、吸う息もハンドルを持つ手も冷たかった。
「さて行くべえか。今出れば8時には着くだんべ」
ヨッさんの声を合図に、私達は自転車にまたがり帰路についた。
小泉駅を過ぎて道を右にとり、足利に向かって北上して行く内に、私はある事に気が付いた。
小泉に向かって南下して来た時よりも地平の灯がずっと濃くて、とても華やかな気分にさせられるのだ。
夜の闇の中を走るのにも関わらず、来た時のような心細さがほとんどなく、暗闇への不安も感じない。
何よりも不思議なのは、来る時よりも道程が短く感じる事だった。
私は不思議に思って「ヒロやん、この道は来た時と同じ道?」と聞くと、「同じだよ」と教えてくれた。
今が何時頃なのかよく分からなかったが、その時の私には夜中を旅している恐さなど欠片もなかった。
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- 平成16年12月5日(日曜日)
【晴】《4日の続き》
米軍基地がある土地柄なのか、チョコレートを箱ごと置いてあるなんて、足利ではお菓子屋でもない限りあり得ない話だったから、両手でさえズッシリと重い箱を受け取った時には、まるで世界中の宝物を一人占めしたような気分になった。
いくら抑えようとしても勝手に笑ってしまう顔をおじさんに向けて、「ありがとうございます。みんなで分けます」と、やっとの事で礼を言うと、おじさんは「ヨーシいい子だ。父ちゃんと母ちゃんを大事にするんだぞ」とニコニコ顔で答え、席を離れて事務所を出ていった。
「ボクよかったね社長にチョコ貰えて。落とさないように自転車に縛ってあげるからね」
事務員のお姉さんはチョコレートの箱を茶紙に包むと、荷をおろして事務所脇に置いてある私の自転車まで私を連れて行くと、慣れた手つきで箱を荷台に括りつけてくれた。
「ハイッこれでよし。大丈夫だと思うけれどあんまり揺らさないように乗ってね。割れても味は同じだけど、割れてない方がいいもんね」
銀紙を剥す前に中身が割れていたチョコレートを貰った時、物凄く損をした気になった事のある私は、絶対に割るものかと堅く決意した。
「なんだもう積んじゃったのか。待ってろこれも一緒に持って行け」
おじさんがミカン箱を一箱ぶら下げてやって来ると、さっきお姉さんが縛ったチョコレートの箱を解いて、ミカン箱と合わせて縛り直した。
「よし、これを母ちゃんに持ってけ。チョコはお前のだけど、このミカンはお母ちゃんに渡すんだぞ」
私は「ハイ」と返事をしながら思わずミカン箱を撫でていた。
おじさんは私がミカンを貰ったのが嬉しくて箱を撫でていると勘違いをしたのか、「ワハハハッ」と笑いながら私の頭を撫でた。
本当の事を言うと、私はミカン箱とチョコレートの箱を一緒に積んだので、もしかしてチョコレートが割れてしまうのではないかと、それが心配だったのだ。
それにもうひとつ、帰りは空荷でいいと思っていたのに、結局また荷を運ばなくてはならなくなったのが残念だった。
「ボク、みんなが帰れるようになるまで中にいなさい」
お姉さんが私を迎えに来たので、荷をつけたままの自転車をそのままにしておくのが少し心配だったが、再び事務所に戻ると、さっき座っていたテーブルの上には、またココアが湯気を立てていた。
私は(この家は何てすごいんだろう)と驚きながら、「これいいんですか」とお姉さんに聞いた。
「どうぞ、ボクのために入れたんだから遠慮なく飲んでね」と、お姉さんはニコニコしながら返事をした。
私は喜び勇んで二杯目のココアにとびつくと、フウフウ息を吹きかけながら飲んだ。
飲みながら(ココアの味とチョコの味は似ているな)と思ったので、それをお姉さんに話すと、お姉さんはケタケタ笑いながら、「何だ知らなかったの。ココアもチョコも同じものよ」と教えてくれた。
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- 平成16年12月4日(土曜日)
【曇のち晴】《3日の続き》
辺りがどんなに暗くても、漂ってくる夕餉の煙の匂いで、まだそれほど遅い時間ではないのと、目には映らなくても人家のある事が分かって、さっきまでの不安な気持ちが薄らいでいった。
「ホラ、そろそろ小泉の町だ。よく頑張ったなあ、もう少しだぞ」
ヒロやんが嬉しそうな声で私に教えてくれたので、視線を前に凝らしてみた。
直ぐ目の前はヒロやんが運ぶ大きな荷で塞がって何も見えないが、斜め横を見ると少し先の空が明るくなっていて、黒々とした森の影の下には、今までとは段違いの灯火が瞬いていた。
私は安堵の余り思わず「ホーッ」と溜息をついてしまった。
間もなく道は砂利道から舗装道路になり、店や人家の並ぶ町中を少し行って、駅の前を過ぎてから最初の角を曲った所の、問屋さんのような店の横から中に入って自転車を止めた。
通りに面した事務所や中の仕事場にも、多勢の人達が忙しそうに働いていて、活気のある雰囲気を作っている。
その中にひたっていると、私はとても安心した気分になれた。
ヨッさん達三人が持ち帰る荷を自転車に積んでいる間、私は事務員のお姉さんに手を引かれて事務所の中に連れて行かれ、ココアとビスケットをごちそうしてもらった。
ココアの味は舌もほっぺたもとろけそうなほど美味かった。
「ボク何年生だ」
奥の一番大きな机に座っている男の人が、手に持った煙草を吸いもせずにとぼしながら言った。
「4年生です」
「そうか、もう家の手伝いが出来るのか。えらいえらい」
そう言ってほめてくれたのだが、私は何だか子供扱いされているような気がして、内心は少し面白くなかった。
「途中転ばなかったか」
「ハイ、大丈夫でした」
「そうか、それじゃおじさんがご褒美をやるから、こっちに来い」
私はご褒美という言葉につられておじさんの前に駆け寄って行くと、おじさんはさもおかしそうに笑って、机の引出しから茶色くて細長い箱を出すと、「ホラこれ持って帰れ、一人じゃなくてお兄ちゃんやお姉ちゃんにも分けてやるんだぞ」と言った。
私はその箱を見た瞬間、(アッ、チョコレートだ)と分かった。
しかも一枚ではなく箱ごとのチョコレートを貰えるなんて、まるで夢のような話だったから、私は何と言っていいかとっさには言葉が口に出来ず、半分気絶したとしか言いようのないショック状態に陥ってしまった。
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- 平成16年12月3日(金曜日)
【晴】《2日の続き》
自転車屋から少し走って部落を抜けると、私以外の三人は前照灯を点灯した。
発電機で点灯するとペダルが重くなるので、三人共ハンドルの下の金具についている箱型の懐中電燈を灯したのだが、私の自転車にはそんなものはついていないので、一番うしろを走っていれば点けなくても良いだろうという事になったのだ。
私は少し不満だったけれど、おとなしく言う通りに無灯火で走らせたところ、100mも走らない内に危なくて運転できず、自転車を降りると、「ヒロやん危なくて乗れないから電燈つけて走るよ」と声を掛け、急いで発電機を倒して自転車に飛び乗った。
ほんの数秒の事だったが、三人の自転車は闇の中にとけ込んでしまい、ユラユラと揺れる三本の光の帯だけが、何とか視野にとらえる事が出来た。
私は置いて行かれそうな気がして、足が物凄くだるくなって、頭から血の気が引いて行くほどの恐怖に、思わず「ヒロやーん」と大声で叫んでしまった。
ヒロやんは今度こそ転ばないように注意深く自転車を止めると、両足をふんばって荷を直立させた状態を保ちながら、「どしたケガしたか、ひっくりけったか」と心配そうに問いただした。
「ウウンそうじゃないけど、置いて行かれるかと思って…」と答え、そのあと何とも言えない恥かしさで顔がカーッと熱くなってしまった。
「何だおどかすない。大丈夫置いてなんか行きやしねえよ」
そして少し前で自転車を止めている二人に、「オオイ、何でもねえよ、大丈夫だから行ってくんな」と声を掛けると、「それじゃ少しゆっくり行ってやるから離れずについて来いよ」と言って、再び自転車のペダルを踏んだ。
私は自分が恐いというより、ヒロやんやヨッさんやハルさんに心配をかけたくない一心で、前を行くヒロやんの自転車のすぐうしろを、懸命について行った。
もう前照灯の当る所以外は、真っ暗闇になっていた。
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- 平成16年12月2日(木曜日)
【晴】《1日の続き》
ヒロやんの声に励まされて、私は一刻も早くヨッさんとハルさんのもとに行きたいと、ほとんど駆け足に近い速度で自転車を押した。
「そんなに急がなくったって二人は逃げやしねえよ」
ヒロやんは笑いながら私の背に声を掛けたが、その声は心なしか少しホッとした様子がこもっていた。
田んぼが突然終わり、街道の両脇は深くて高い屋敷林が、まるで森のように続いていて、意外に多い人家が、その森の根方に続いていた。
ヨッさんとハルさんは私達が追い付くと、100mほど先の火の見櫓を指差して、「あの火の見の辻の角にある自転車屋に話つけてあるから、そこまで一ふんばりしろ」と言った。
「ハイヨッ」
ヒロやんは威勢の良い返事をして、二人のそばに立ち止らずに先を急いだので、私もヒロやんの後について先に進んだ。
もう辺りは夜に近い闇の中にあった。
地上の暗さに比べて、まだ銀灰色の明るさが残っている空を背景にして、火の見櫓が黒々と立っている辻まで来ると、手前の角に自転車屋があり、その前にはヨッさんとハルさんの自転車が夜目にも分かる大きな白に荷を乗せて止っているのが見えた。
その店は軒が目立って低く、中古の自転車や修理道具が散ばっている土間は、街道から一段低くなっているような作りで、西と南に広い間口が開いていた。
「直ぐに張るから奥で茶でも…」という店の主人に促されて、私達は土間の奥の上り框に腰を掛けて、家の人の入れてくれたお茶を飲みながら、お茶請けに出された沢庵をほおばった。
先に来たヨッさんとハルさんに事情のあらましは聞いていたのか、小柄で温厚そうな店の主人は、ヒロやんの事を盛んに気の毒がっていたが、話しながらも手はめまぐるしく動いて、アッという間にパンク修理を済ませてしまった。
修理代100円の他にタバコ銭を加えて、しきりに辞退する主人のポケットに強引にねじ込むと、街道まで出て来て恐縮する主人の声に送られながら、私達は自転車に乗った。
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- 平成16年12月1日(水曜日)
【晴】《30日の続き》
西の空は夕焼けで真っ赤に染まり、大きな荷を担いで私の前を行くヒロやんと自転車の影が、左手の田んぼの上に長々と出来ていた。
腕のケガが痛むのか、ほとんど口を閉じてトボトボと歩くヒロやんが心配で、何か気のきいた一言をと思えば思うほど、私もまた口数が少なくなってしまい、何となく気まずい空気が二人の間にわだかまっていた。
影は田の面に合わせて、まるで踊るようにユラユラと形を変えながら、私達の横にピッタリと並んで附いて来る。
私は何だか心細くなってしまい、思わず涙が出そうになってしまったのだが、そんな気配を察したのか、ヒロやんは急に歌を歌いだした。
「ひとつ出たホイのヨサホイノホイッとくらあ…」
情緒も風情も品もないヒロやんの胴間声が、見渡す限り落日前の緋色に染まった世界の中に吸い込まれて行く。
「大丈夫、心配ねえって。こんな事俺ぁしょっちゅうだから、慣れてんのさ。もう少し行くと部落があるから、そこでパンク直してもらって先に行くべ」
ヒロやんは重い荷物のために後を振り返る事が出来ず、前を向いたまま大声で私を励ましてくれた。
「ウン、俺も平気だよ。ヒロやん痛くない?」
「こんな傷なんか蚊に刺されたようなもんだ。それより晃ちゃん足痛くねえか。押してる自転車重くねえか」
本当は足も痛いし自転車も嫌になるほど重いけれど、「痛くないよ。自転車も軽いよ」と言った。
そのせいかどうか、私は急に足の痛みも自転車の重みも軽くなったような気がして、思わず「ヒョーッ」と叫んでしまった。
やがて何とか視界が効くギリギリのあたりの薄闇に、人の気配が動いているのが分かると、ヒロやんは「オーッ、ヨッさんとハルさんがあそこで待ってるぞ」と言った。
ヒロやんの視力は3.0以上だと聞いた事があるが、その話はもしかしたら本当かもしれないと思った。
■アトリエ雑記は平成12年12月15日からスタートしました。
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