アトリエ白美「渡辺肖像画工房」 渡辺晃吉
- 平成16年11月30日(火曜日)
【晴】《29日の続き》
基地が近くにあるので車の通りが激しいのだろう。
轍の所の砂利が道路の端に押しやられて盛り上がった所に、ヒロやんは頭から突っ込むように横倒しになった。
「痛えっ、肘がまさか痛えよ。膝が挟まって動けねよ」
「このデレスケ野郎が。またひっくりげえりやがった。いったいどうしたってんだ」
「分かんねえよ、いきなりハンドル取られてよ。あっという間にひっくりげえっちまったんだよ」
ハルさんが前輪に指を当てて強く押すと、ペコンと潰れるのが私からもよく見えた。
「パンクだな。こんなになる前に気が付かなかったのかよ」
「さっきから少しハンドルが重てえとは思ったけんど、下が砂利だから仕方ねえと思ったんだよ」
「仕様がねえ、とにかくパンク直さねえ事にはどうする事も出来ねえ。どこか自転車屋のある所まで押して行くか」
ハルさんはそう言うと、ヨッさんと二人でヒロやんの自転車を立て直し、ヒロやんを助け出した。
ヒロやんは今度はどこかケガをしたらしく、痛そうに顔をしかめながら腕をさすっていた。
「どれ見せてみろ」
ハルさんがヒロやんの袖をまくって腕を出すと、手首から肘までスリ傷が出来て、そこから少し血がにじんでいた。
「痛え、まさかしみるよ」
ヒロやんがしきりに弱音を吐くと、ハルさんは「こんなの傷の内に入るかよ。絵に描いたようなカスリ傷じゃねえか」と冷たく突き放した。
「ひでえよ。自分が痛え思いをしてねえから、そんな冷てえ事が言えるんだよ。ああ、ハルさんがそんなに冷てえ人とは思わなかったよ」
「ああそうだよ。俺は冷てえ人間だよ。だからオメエをおぶってなんかやんねえからな」
ハルさんは笑いながらヒロやんをからかうと、ヒロやんはムキになってハルさんやヨッさんの人柄を責めた。
ハルさんはそんなヒロやんの言う事など眼中になくて、くどくどと文句を並べるヒロやんに、細引きを使って自転車の荷を背負わせた。
「先に行って自転車屋を見付けておくから、オメエは自転車を転がして後から来いよ」
ハルさんとヨッさんはそう言うと、自転車に乗って走り去って行った。
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- 平成16年11月29日(月曜日)
【晴】《28日の続き》
荷物をつけたままで、どうにか自転車を立ててヒロやんを助けたが、そのままで街道に戻すのは無理だと諦めて、細引きで荷台にガッシリと縛りつけてあるのを苦労して解き外し、荷はヨッさんとハルさんと私で、自転車はヒロやんが街道まで運びあげた。
「田んぼが乾いていたから荷を汚さずに済んだが、もし泥で汚してみろ、ここから足利まで引っけえしだぞ。このデレスケが」
ヨッさんはひとまず安心したのか、ホッとした顔でヒロやんに毒づいた。
「本当だ、ダメだぞヒロ。オメの足の骨一本くれえ折っぺしょれたって何の事もねえが、荷を汚したら面子丸潰れだぞ」とハルさん。
「大丈夫だよ。このくれえでケガしてるようじゃ、コーヤ(染屋)の職人はつとまらねえよ」
ヒロやんは少し意地を張ったような見栄を切って腕まくりした。
休む間もなく荷を自転車に積み直すと、私達は慎重に自転車を発進させ、まだ遠い届け先へと出発した。
大荷物を積んだ自転車は、乗り出す時と止まった時が一番倒れやすいのだ。
ヒロやんはさっきの失態がよほど気になったのか、その後はめっきりと言葉が少なくなり、代って前を走るヨッさんとハルさんが、気楽な世間話を笑いをはさみながら交し続けた。
一番うしろを夢中でついて行く私には、二人の会話の内容はよく分からなかったが、甘柿も確かに美味しいが、渋を抜いた樽柿はもっと美味いとか、一生に一度でいいから、バナナを死ぬほど食べてみたいとか、その気になればゆで卵を水も塩もなしで10個食えるとか食えないとか、そんな話のようであった。
私はゆで卵を10個も水なしで食べるなんて、とても無理だと心の中で思ったが、それを口にする余裕などなかった。
街道は南へ南へとどこまでも続き、陽は次第に傾いて、少しうしろに下がった金山の上の雲が、さっきよりもずっと濃い橙色に染まっていた。
「ねえヒロやん、小泉はまだ遠い?」
私は恐る恐る前を行くヒロやんに声を掛けた。
「さっき沖ノ郷を過ぎたからもう直ぐだ。あと30分位かな」
「30分は無理だんべ。俺達だけならそんなもんだが、今日は晃ちゃんがいるからな」
ヨッさんが前から皆に聞えるように大声で教えてくれた。
その時、私達の脇をカーキ色のジープが列を作って走り過ぎて行った。
「ヒャッホー」「ヘーイ」「タイヘンね」
軍服姿の若い兵達達が、私達に向かって奇声をあげる。
「ハロー、サンキューね」
ヒロやんが場慣れした調子で明るく答えると、兵隊達は手を振って走り去って行った。
私はビックリしてもう少しで転びそうになったが、いつもは少し馬鹿にしていたヒロやんが、アメリカ兵と話をしたのを見て、すっかり度肝を抜かれてしまった。
「ヒロやんアメリカ人と話が出来るの?」
「あたりめえよ、アメ公なんてどうって事ねえさ」
そう言ったとたん、ヒロやんはまた「アー」と叫びながら転倒した。
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- 平成16年11月28日(日曜日)
【晴】《27日の続き》
土手の上の砂利道は所々に大きな穴があったが、轍に逆らわずに走って行くと、意外に車輪を取られる事もなく前に進めた。
渡良瀬橋を渡り女浅間と男浅間の間の切通しを抜け、太田街道を少し行って、街道の左手を走る東武線の最初の踏切を左に折れると、八幡様の辻までは道の両脇に人家が続いているが、そこを過ぎると見渡す限りの田園地帯で、遥か南に地平線が横たわっていた。
右を見ると、太田の金山山塊の上にかかる陽が、間もなく夕暮になる時を知らせるかのように、黄色い光を放っている。
私は三人の自転車のうしろに必死で食いついてペダルを踏んだ。
自転車といっても、実際に目に入るのは白い布に包まれた大きな直方体が、右に左に揺れながら、荷の下に車輪をつけて走っている姿だけで、近くにいるとかえって人の気配が切れてしまい、荷物だけが生き物のように走っているような、奇妙な錯覚に襲われたりした。
「そろそろ例幣使街道に入るけど、道がくねくね曲ってるからハンドルとられるなよ」
ヒロやんが大声で注意する声に、「ウン分かった」と答えると、私はハンドルを握り直して前方に意識を集中した。
「足利を出て邑楽に入るぞ」
私に教えるためにヒロやんは少し体をうしろに向けたのか、声と同時にヒロやんの荷が大きく左に傾くと、「オー、オー、オー」と悲鳴を上げながら街道脇の草薮の中に突っ込んで行き、必死で立て直そうとする努力も空しく、そのまま横倒しになって下の田んぼに落ちて行った。
「ヒロやんが落っこちた」
私は前の二人に大声で告げると、何とか倒れずに自転車を止めてスタンドを掛け、薮を掻き分けて田んぼにおりて行った。
街道から田んぼまでは1mほどの落差があったが、幸いにも薮の下は急ではあったが勾配がついていたので、落下は思ったより強い衝撃にはならなかったようだった。
それでもヒロやんは荷の下敷きになって動けず、駆けつけた私に、「やっちゃったい」とテレ笑いしていた。
「どしたケガねえか、荷物は大丈夫か」
「全くドジ野郎なんだから、だからオメエはいつも生傷が絶えねえんだよ」
ヨッさんもハルさんも、そのあとバカだのデレスケと盛んにヒロやんを罵ったが、本当は心配で仕方がないのが痛いほど分かった。
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- 平成16年11月27日(土曜日)
【晴、西の風】
ヨッさんとハルさんとヒロやんが、さらしの大風呂敷に包んだ絹糸の十二束づつを荷掛けに積んで、これから小泉(現在の大泉町)まで配達に行くと聞くと、私は矢も盾もたまらずに一緒に行くとせがんだ。
井ゲタに六段重ねて包んだ絹糸の荷は、高さが150cm、一辺が60cmほどの大きさになる。
それを荷掛けの大きな運搬車と呼ばれる、えらく頑丈な自転車に積むと、走る姿はちょっとした見せ物だった。
小泉までは自転車で行きは2時間半、帰りは2時間というところだろうが、今出発すると帰りは夜の8時を過ぎてしまう。
絶対に駄目という母をなだめて、父は私も荷物を運ぶなら一緒に行っていいと言った。
私はハルさんから二束分けてもらうと、それを自分の自転車に何とか積んで、何度も注意する母の声を背に、三人のうしろについて家を出発した。
私の前を行くヒロやんの姿は、大きな荷に隠れて全く見えないが、「大丈夫かコーちゃん、もしもひっくりけえったら直ぐ大声出すんだぞ、さもねえと置いてけぼり食うからな」と、大声で励ましてくれ、間をみては「オイ、いるか」と気を配ってくれる。
緑橋を渡った方が近道だったが、それには土手を二度上らなければならないので、先頭のヨッさんは「無理してぶっくりけってもごはらだから、鉄橋を渡るべ」と、川万の四つ辻を左に折れて渡良瀬橋の方へ向かった。
私は内心(ああ良かった。土手の坂をのぼるの大変だものな)と、ホッと胸を撫で下ろした。
それでも、新水園の前を過ぎて今泉土手にさしかかると、道は緩い上り坂になって、三人は立ちコギで坂を上ったが、まだ家から目と鼻の先だというのに、もうこんなに苦しいなんて、先が思いやられて少し不安になった。
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- 平成16年11月26日(金曜日)
【晴】
木枯しが吹く頃になると、我が家では柚子湯をする日が多くなって、家の者だけでなく貰い風呂の人達も喜んだ。
柚子の木は大抵の古い家にあったから、あまり珍しいものでも高価なものでもなかったが、晩秋から初冬にかけての食卓には欠かせなかったし、砂糖漬けや蜂蜜漬けにして、風邪をひいた時など薬代わりに熱いお湯を注いで飲んだりした。
柚子湯は実を10個ほど布袋に入れて風呂に入れただけの単純なものだったが、風呂場いっぱいにいい香りが広がって、心まであったまる気がした。
あかぎれやしもやけの人は、柚子を薄切りにして壷に入れ、一日に何回か汁の中に手を入れてよく擦っていたが、本当に効いたのかどうかは分からない。
私はよく熟した柚子の種がいっぱいの中身を食べるのが好きだったが、祖母は柚子を食べる私を見ながら、「あ〃やだっ、見ているだけで口の中がすっぱくなるよ」と顔を背けるのだった。
工場裏の本島の屋敷には、この辺で一番大きな柚子の木が、季節になると枝いっぱいに実をつけ、その一部が石炭置場の上に張り出していたので、私はその実を有難くちょうだいしていた。
すると本島家の一人息子が目ざとく見付けて、「ドロボー、ユズドロボー」と、塀の向こうから大声で叫ぶのだった。
「ウルセーな、おめんちのおばさんが採っていいって言ってんだよ」
「ウソだあ、ウソだあ、ドロボー、ドロボー」
本島のオバさんが母に、「そっちに入っているのは、どうぞ採って使って下さい」と、本当に話していたのを聞いていたので、こっちも負けてはいられず、塀を挟んで口ゲンカしていると、いきなりうしろからポカッと頭をどやされたので、ビックリして振り向くと、父が鬼のような顔をして立っていた。
私はスゴスゴとその場を去ったが、その後本島の息子(ケンさん)とは無二の友となった。
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- 平成16年11月25日(木曜日)
【晴】
日曜日を利用して弓引場の物置を壊す仕事に、子供会が参加した。
弓引場は八雲神社の境内だったから、宮司の桜木先生の長男で、子供会のリーダーのひろきさんが、現場の采配をふるっての作業だった。
子供とはいえ、何10人の手にかかれば、半分朽ちかかった物置など物の数時間で解体する事が出来たのだが、私は作業中に金づちの柄を折ってしまった。
ひろきさんはそのまま返してくれればいいと言ってくれたが、私の脳裏には鬼より怖い桜木先生の顔がチラついて、とても柄が折れたままの金づちを渡す事が出来ず、無理矢理預って家に持ち帰った。
その夜は心配のあまり食欲もなく、床に就いてもなかなか寝つかれなかった。
翌朝少し早目に起きて家を出ると、途中で角丸のオジさんの所に寄った。
角丸のオジさんの家は建具屋で、表通りに間口2間ほどを開けて仕事場が見えていたので、私はよく店先に腰をかけて道草を食ったものだった。
「オッどした、こんな朝早くから」
「ウン、オジさんこの金づちの柄10円で直してくれるかな」
「どれ見せてみろ。学校の帰りに寄りな。直しておくから」
私はそれを聞くと芯からホッとして学校に急ぎ、授業が終わると角丸の店まで駆けて行った。
金づちの柄は見事に新しくすげ代って、何だかこのまま返すのが惜しい程の出来だった。
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- 平成16年11月24日(水曜日)
【晴】
食パンを三角に切って黒蜜に浸し、串に刺したのが、正門前のパン屋で5円で売っていた。
給食は一日おきだったから、二日に一度は弁当を持って来なければならないのだが、何かの事情で持って来られない時には、外でパンを買っても良い事になっていたので、私はそれを良い事に、弁当代わりのパンだと言って黒蜜パンを教室に持ち込み、羨ましがる仲間に見せびらかしながら食べていた。
「ああっ、ずりいぞ。そういうの教室に持ち込んじゃわりいんだぞ。お菓子を学校に持って来ちゃわりいんだぞ」
宮内が口をとがらせて抗議した。
「お菓子じゃねえもんパンだもん。パンは弁当にしていいんだもん」
「そんなのパンじゃねえもん。ミツのついたパンなんかパンじゃねえもん。そりゃお菓子だもん」
「んじゃあパンにジャムつけたらパンじゃなくなるんかよ。パンにアンコやクリーム入れるとパンじゃなくなるんかよ」
我ながら見事な反論だと思った。
「アンパンやジャムパンは串に刺さってねえもん。串に刺さったパンなんかねえもん」
相手もなかなか引き下がらなかった。
「んじゃあイモフライはお菓子かよ。ヤキイカはお菓子かよ」
「ダンゴはお菓子だんべ。ベッコ飴だってお菓子だんべ。みんな串に刺さってるだんべ」
「へえー、それじゃあウナギの蒲焼はお菓子かよ」
「ウナギの蒲焼はお菓子じゃねえもん」
「おめえさっき串に刺さってるもんは何でもお菓子だって言ったじゃねえか」
「全部お菓子だなんて言ってねえもん。お菓子が多いって言ったんだもん」
「うるせえなおめえ達、どっちだっていいじゃねえか。早くメシ食っちゃえよ。そろそろ先生が来るぞ」
仕方がないので宮内に一本やった。
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- 平成16年11月23日(火曜日)
【晴】《22日の続き》
書庫の北の壁いっぱいに置いてあるガラス戸棚の中には、何やら得体の知れないものが雑然としまってあった。
高さが1m近くある下皿天秤の隣には、本物か偽物か分からないドクロが、空ろな目を向いてこっちを見ている。
子供の腕で一抱え程もある水晶の山や、真っ黒な蒸気機関車の模型。
物凄い量の天保通宝や一文銭の束があるかと思えば、どう見ても内臓としか見えない物が入っている巨大な標本瓶の列。
天井に近い所には、沢山の図案見本と呉服のポスターが山と積まれていた。
でも私が一番興味を持ったのは、そこだけは板戸になっている一番下の戸棚の中だった。
最初はなかなか開けられずに苦労したが、ようやく人一人が入れる位に開ける事が出来た戸の中には、子供用の鉄兜やコルク鉄砲、そして細密な作りのサーベルのオモチャなどが入っていた。
誰がいつの頃この場所にしまったのか今では謎だったが、もしかしたら当事者は戦争で死んでしまって、この事を知っている人が誰もいなくなってしまったのかもしれない。
そう思うと、この場所は何か神聖な小塚のような気がして、私は自分が聖所を侵す者に思えて、その時以来書庫に入り込む事はなかった。
この場所は私が卒業するまで発見される事はなく、その後どうなったのか分からない。
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- 平成16年11月22日(月曜日)
【晴】《21日の続き》
子供のくせに妙に大人っぽい知識があるのは、年の離れた兄達に囲まれて育ったせいだと思う。
たとえ断片的ではあっても、大人の知識のおかげで世界が広く見えた事は確かだった。
だから、たとえこの秘密を気の合った仲間に教えて、一緒に書庫にもぐり込んだとしても、多分宝の持ち腐れになるだけだろうと直感していたので、私はかたくなに口を閉ざして語らなかった。
書庫には書籍だけでなく、沢山の写真も埃まみれで山と積まれていた。
写真の多くは厚い台紙に貼られていたが、細長いアルバムになっているものも相当あった。
そのどれもが写真も台紙もセピア色に変色していて、中にはよく分からない程に色ぬけしているものもあった。
おびただしい写真の大半は明治から大正にかけての記念写真が多く、校舎の落成記念や卒業記念、服装から判断して先生の従軍記念などもあった。
変わったところでは誰かの葬儀を写したもの、仮装大会や学芸会の場面を写したものもあり、見ていて飽きる事がなかった。
写真の一枚一枚に写っている子供達のほとんどは多分もうこの世の人ではないか、生きているとしても相当の年寄りになっているのかと思うと、何かとても神秘的な気分になった。
その時私の手にした写真は、古いもので70年、新しくても40年近い年数が経ったものだった。
今ではとても考えられないが、あの頃はまだ戦後の混乱が少し残っていたのだと思う。
でなければ、あんな不思議な空間が手付かずにあるはずがないのだ。
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- 平成16年11月21日(日曜日)
【晴】
本校舎の東端にある図書室に入ると、右手に少し引っ込んだ形で黒ずんだ作りのカウンターがあり、その奥の書庫の入口は、本の山とガラクタで塞がれていたので、誰も中には入れないと思っていたのだが、実際には壁いっぱいに建て付けられた書架の下の腰板の一部が、まるでカラクリ仕掛けのように外れる作りになっていて、そこをくぐると書庫の中に出入り出来るのだった。
その扉の発見は、まさしくケガの功名という奴で、イタズラの罰として図書整理の居残り仕事をさせられた時に、偶然に見付けたのだった。
その扉の事を知っているのは、多分私だけだったから、私は時々その扉から書庫の中に入って、南側の小さな窓から細々と入る陽の光だけの薄暗くて埃くさい空間の冒険を楽しんだ。
書庫は南北に細長い造りで、南半分は幅2間の長さ3間、北半分は幅1間の長さ2間位だった。
北半分が南より狭いのは、カウンター部分が占めているからだが、大部分の人達はカウンターの向こう側は教室だと思っていた。
外から見ると校舎の南側に小さな窓があるのは分かるのだが、その奥に部屋があるのを知っているのは多分私だけだったし、私はその秘密を他人に話すつもりは毛頭なかった。
書庫の中は文字通り宝の山だった。
多分戦時中に何かの事情で人の目から隠したとしか思えないような内容の本が山積みされていて、その中には美しくも妖しい挿絵がいっぱいのバートン版「アラビアンナイト」や、それに類した雰囲気の本が、あちこちに散乱していた。
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- 平成16年11月20日(土曜日)
【晴】
まだ日のある内に引き上げていった「おでん屋」の三田さんのあとに、いつになく「チビおでん」が屋台を引っ張って緑町に入って来た。
「チビおでん」は五十部から今福にかけてを流しているので、こっちの方にはめったに顔を見せない。
珍しい事もあるものだと思って、「おじさん、どうしたんだい?今度縄張りが変わったのかい?」と皆で尋ねると、「そうじゃねえけんどさ、ちょっと気が向いたんで来てみただけさ」と、何となく照れくさそうに答えた。
チビおでんの本業はおでん屋かと思えば、本当は染屋の職人だという人もいるし、大工だという人もいる。
実際はどうなのかよく分からなかったが、私達にとっては「チビおでん」はおでん屋が一番似合っていると思った。
「チビおでん」はもうひとつ「八木節」の名人という顔を持っていて、色々な祭に合わせて催される「八木節大会」では、いつも抜群の成績を出していた。
「おじさん今頃来たってダメだよ。俺達さっき三田さんから買って食っちまったよ。もう少し早く来れば良かったのに」と言うと、「それじゃあ向こうに悪いよ。お互い商売なんだからさ」と、答えるのだった。
三田さんはおでんの他にシュウマイも売っていて、服装も屋台も清潔だったが、「チビおでん」の屋台は長年の年季がしみ込んでいるために、全体に黒茶色だったから、何となく汚らしかった。
それでも少し濃い目の味は相当に美味しいので、子供だけでなく大人にも結構人気があったのだ。
私達とオダを上げている内におでんの匂いが届いたのか、チラホラと器を持ったお母さん達が晩飯のおかずにしようと、通りに出て来たのを見て、「かえろかえろ、カラスが鳴くから帰ろ」と口々にはやしながら、皆めいめいに家路についた。
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- 平成16年11月19日(金曜日)
【雨】
木枯しが吹き始めると、元町の何軒かの店で焼きいもを売り始める。
栄町の渡辺は輪切りのイモを大きな平たい鉄ナベを使って焼くのだが、ふりかかったゴマと塩がイモの甘さをひき立て、ポクポクとした舌触りと合わさって思わず唸ってしまう程の美味しさだった。
値段は10円で新聞紙の袋いっぱい、ちょうど5枚位の枚数だったから、夕飯前の小腹を2〜3人で静めるにはちょうど良い量だったと思う。
渡辺は夜の9時近くまで店を開けていたので、夜来の客のもてなしにと、よく使いに出された。
薬師堂の近くにある外燈の下を走り抜けて渡辺の店の中に飛び込むと、土間のかまどにはワラがたかれて、ナベの上の大きな蓋の隙間から、立ち上る甘くて暖かい湯気が、家中に漂っていた。
100円の焼きいもは、子供の両手にもあまる重さと、熱い位のぬくもりを伝えて、家までの道程を楽しませてくれた。
同じ焼きいもでも、つぼ焼きは少し値段が高く、近くでは7丁目か西宮まで行かなければならない上に、食べる時に皮をむくのがなかなか大変だったから、子供にはあまり人気がなかったが、大きなトックリのような焼きつぼと、コークスの赤々と燃える色が楽しくて、別に買う訳でもないのに、よく店のオバさんの話し相手になっていた。
ポケットに少し小遣いが残っている時には、帰り際に一本買ってカイロ代りに懐に入れて店を出たが、イモのぬくもりは意外に長持ちして、家に着いてもまだ暖かかった。
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- 平成16年11月18日(木曜日)
【曇】《17日の続き》
特大のもんじゃきは、腹の空いた大人ならともかく子供には大き過ぎるので、半分の量を越えると余し気味になり、あとは人にくれるのが嫌という理由で、無理に口に運んだ。
だから後半は大抵苦しい思いをしながらのもんじゃきとなった。
「もう食えねえんだろう。無理して食うと腹こわすから、その辺でやめといた方がいいぞ」
期待に目を輝かせながらおためごかしを言う奴らに囲まれると、つい弱気になって(残りはみんなにくれちゃおうかな)などと思ってしまうのだが、なぜかこれがくれられない。
食べてもどうせ美味しくないのに、どんぶりを両手で抱えて頑張ってしまうのだ。
それはケチというより負け惜しみなのかもしれない。
意気揚々とどんぶりにサジを入れた手前、「まいりました」とは言えないというところだろう。
そんな日の晩飯に限って、大皿に盛られた刺身が「魚英」から配達されたり、普段めったにありつけないすき焼きだったりするから本当に腹が立つ。
それでもうっかり箸をつけなかったりすると、とたんに買い食いがバレてしまうので、本当はゲーッと言いたいところなのをグッと我慢して、少しは食べなければならないのが辛かった。
どんなに美味しいものでも、腹がいっぱいの時には、ただの苦痛の元でしかないのはどうしてなのだろうか。
私はそれが不思議でならなかったので親に聞いてみたが、親は「そんな当り前の事を聞くんじゃない」と頭ごなしだった。
でも本当は親も答が分からないから、怒ったふりをしてごまかしたのだと思う。
あの頃は学校の先生だって、質問に答えられない時には、きまって質問した子供を叱り付ける人もいた位だから、親はそれ以上にごまかしをやったと私は思う。
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- 平成16年11月17日(水曜日)
【晴】《16日の続き》
一人ではなく幾人かと一緒に焼くために、もんじゃきにもコツのようなものがあって、多少の器用さが必要なのだ。
この辺では京子ちゃんが一番上手に焼く事が出来たから、いつも台を仕切るのは京子ちゃんだった。
私はそれが少し面白くなかったが、京子ちゃんと組むと何となく楽にもんじゃきが出来たので我慢した。
上の姉は一人でもんじゃきをするのが嫌なので、よく私をだしにしたが、やれ食べ方が汚いとか、やれ早くヘラを使いすぎるとか、四六時中文句を言って本当にうるさかった。
もんじゃき屋は鈴木の他にも何軒かあったのだが、一種の縄張りのようなものがあって、行きつけない所に行くと、そこを根城にしている奴らが無言の圧力をかけて来た。
普段はきまった金額のお小遣いしか貰えないが、たまにお客に来た親戚から思わぬ小遣いを貰った時など、「おばさん特大ね」と、めったに言えないセリフを聞えるように口にした。
「ナニーッ、おめえ特大頼むんか。いいなあ、いいなあ」
そんな時の気分は、まるで大名になったようだった。
特大はお椀ではなく、薄緑色のどんぶりが出て来るので、物凄く目立って気持ちが良かった。
同じ台の奴らだけでなく、他の台の奴らも、チラチラと私の方を盗み見ているのが、何となく気配で分かり、それが何とも自尊心を刺激して、思わず得意顔になってしまうのを、どうしてもおさえられなかった。
かと言って、そんな事は年に一回あれば良い方だったし、一杯50円の特大もんじゃきを食べ終わると、(あ〃、頼むんじゃなかったな)と、いつも後悔した。
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- 平成16年11月16日(火曜日)
【晴】
秋も深まって来ると、鈴木駄菓子屋の縁側には、もんじゃき(文字焼)の台が3台並んで、子供達は我先に駆けつけた。
お椀いっぱいの中に、もんじゃきの素地だけ入ったのが一杯5円で、量が少し増えて切りイカや干しエビが入ると10円、たまご入りは20円で、これはほとんど大人用だった。
もんじゃきの中に入れる具は持ち込み自由だったから、たまには家からたまごを持って行ける時もあった。
そんな時は他の奴らに取られないように、いつもより強く縄張りを出張して、隣の奴のもんじゃきが少しでも自分のにくっついたりしたら、物凄い勢いで抗議しただけでなく、罰として相手のもんじゃきを少しぶん取った。
女の子は刻みしょうがを入れて、もんじゃきを赤く染めるのを好み、男の子は海苔を入れて黒くしたのを好んで作った。
もんじゃきはお好み焼きと違うから、野菜が入る事はほとんどなかったけれど、今思えば、それは許されない贅沢だったのかもしれない。
もんじゃきの台は普通4人が一緒に使うので、行く時はなるべく仲間で一台占拠出来るように顔見知りを誘い合った。
台がいっぱいの時は縁側に腰掛けて自分達の番が来るのを待っていたが、先に焼いている奴らも大抵は知った連中だったから、あまり退屈する事はなかった。
備え付けの醤油とソースは無料だったから、欲張りはそれで分量を増やそうと、気ちがいのようにいっぱい入れるから、結局は食べられなくなって泣きながら家に帰った。
金子のタケは自分のハナを右の袖口でいつもなびっていたので、みんなタケの右側に座るのを嫌がった。
林のトシは小さじ一杯位の量でチマチマと焼く。
だから皆が焼き終わってもお椀に半分以上残っていて、それがトシには何とも嬉しかったのだが、大抵は無理矢理ぶんまけ(椀の中身を全部鉄板に流す事)をされて、いつもピーピー泣いていたが、泣きながらも結局は全部食った。
高際の和雄は一人っ子だったから、他の誰よりも豪華な具を家から持って来た。
たまごにキャベツ、貝のヒモに赤エビ、時には肉もあった。
しかし和雄がそれを楽しめる機会はほとんどなく、おおかたは焼く前に年上の奴らの脅しと騙しで取り上げられ、逆にこれちんべ(ほんの少し)を貰って食べるという始末だった。
「和雄おめえそんな物を食うと、また頭にできもんが出来るぞ。頭にできもんが出来ると、その度にバカになるんだぞ。こっちへよこせ、代りに俺が食ってやるから」と、こんな調子である。
和雄は何も入っていないもんじゃきを焼きながら、本当なら自分が入れたはずの具の入った他人のもんじゃきをさも恨めしそうに見ながら、その匂いに誘われて「ねえ少しでいいからちょうだい」と、必死に頼むのだった。
「仕様がねえな。毒だから少しだけだぞ」
「ウン少しでいい」
1cm四方程のもんじゃきを貰って、和雄は嬉しそうにそれを食った。
- 平成16年11月15日(月曜日)
【雨時々曇】
学校から帰ると、家の中が薬の臭いでいっぱいだった。
見ると火鉢に土瓶が掛かっていた。
母がいつもの実母散を煎じているのだ。
実母散は年に何回か越後からやってくる毒消し売りのおばさんが持って来て、桐箱の薬入れにいつも入っていた。
母だけでなく祖母もよく火鉢で薬を煎じていたが、煎じ薬というのは、どれも皆似たような臭いがした。
数少ない例外が、はしかの時に飲まされるキンカンの煎じ薬とか、風邪の時のゆずの煎じ液、それから何に効くのか分からない干したリンゴの皮の煎じ液だろうか。
医者でもらう薬は粉薬と水薬で、錠剤やカプセルはほとんど目にする事はなく、下半分がくもりガラスの、「薬局」という金文字が書かれた仕切りの向こうで、天井まで並んでいる大きな試薬ビンから、細長い金のサジで中の薬を天秤はかりに乗せては、ひとつひとつを独特の包み方で包んで行く先生の指先を見ていると、何だか病気が治ってしまうような頼もしさを感じた。
医者にもらった薬は、病人の枕元に置いた盆の上に、水差しと湯のみ茶碗と一緒に置かれ、その家を訪ねた人には誰の目にもそれと分かった。
あの頃は個室などというものは、ごく限られた人達の世界の話だったから、病人にとっては、かえって心強い環境だったかもしれない。
なぜなら、いつでも誰かが自分を見守っているのを実感する事が出来たから。
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- 平成16年11月14日(日曜日)
【曇】
学校からの帰り道に、7丁目のオモチャ屋の店先を冷やかしていると、いつものように店のオバさんとせがれが出て来て、意地悪そうな目付きで「オモチャに触るんじゃないよ」とか、「買わないんならサッサと行きな」とか、相変わらずの嫌がらせを始めた。
オモチャ屋というのは子供がお客さんなのに、この店の人達はなんでこんなに子供を嫌がるのだろうと、私は不思議でならなかった。
子供嫌いがオモチャ屋をやっていても仕方がないだろうにと思うし、第一子供にとっては迷惑な話だった。
それでも我が家のオモチャや、私が自分の小遣いで買ったものは、大抵その店のものなのだ。
親が一緒の時には、まるで別人のように態度が変わって、私は子供ながら、世の中には嫌な性格の人間もいるものだと、つくづく思った。
ある日、そのオモチャ屋の店先にあったゴム製のクモのオモチャと同じ品物を、大日様のお祭りの帰りに寄った高島屋で見付け、値段が件の店の半値以下だったので直ぐに買って持ち帰った。
別に人をおどかすつもりはなかったのだが、北側の縁側のガラス戸の表に、オモチャのクモの腹に付いている吸盤を舌で舐めてから、ギュッと押し付けて止めた。
そこはくもりガラスだったから、大人の手の平ほどの大きさのクモは、まるで本物が張り付いているようだった。
私は大満足で眺めていると、「ちょっとお使いに行って」と母が呼んだ。
直ぐに母の所に行き、言われたお使いをして家に戻ると、玄関先に人だかりがして騒がしい。
何だろうと思って家にあがると、母と隣の叔母が屁っ放り腰でホウキを構えている。
「どうしたの?」と聞くと、母と叔母は「あれっあれっ」とガラス戸を指差して叫んだ。
私は「なんだこれか」と言いながら、ガラス戸の表に回ってゴムのクモを外すと、それを母に見せた。
母も叔母も、最初は私が本物のクモを素手で掴んだと思ったらしく、および腰で手の中のクモを見ていたが、それがオモチャだと分かったとたん、持っていたホウキで物言わず私の頭を引っ叩いた。
「この子は本当に悪い子だ。どうしてこんな悪さばかりするんだろう。この悪ガキが」
叔母も一緒になってホウキを振り上げて追って来たので、私は言い訳をするヒマもなく、裸足で玄関から外に逃げ出した。
その間に2〜3回ぶっとばされたがよく覚えていない。
その夜、空腹に耐えかねてそっと家に戻ると、母は何事もなかったように私を迎えてくれた。
私は遅い晩飯を掻っ込みながら、今日の事は怒られる筋合いはないのになと思った。
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- 平成16年11月13日(土曜日)
【晴、午後西の風】《12日の続き》
ギンナンの実から種を外し、よく洗って天日で乾かしてから、大きな蓋付きの缶に入れて保存した。
私は時々缶の中から何粒かを取り出して、火鉢の練炭の穴の上に乗せて焼いた。
そのまま焼くとパチンと跳ね飛ぶから、その前に軽く噛んでカラを割っておく。
その時失敗すると口の中に生っぽいでんぷん味が広がって、思わずぺッとツバを吐き出したくなるが、そんな事をするとたちまち大目玉を食らうので、全部噛み終わるまで我慢しなければならない。
ギンナンの実は練炭の強い火で直ぐに焼けた。
指と歯を使ってカラを取ると、中から半透明の緑の美しい玉が出て来る。
口に入れると濃厚な味と香りがいっぱいに広がって、何だか幸せな気分になったものだ。
住み込みの人の中には、風邪をひいた時など玄関の土間に吊り下がっているニンニクの皮をむいて、練炭で焼いて食べたりしたが、私にはとても食べられなかった。
その代り、茶箪笥の引き出しにいつも入っていたスルメは、口が淋しい時などはよく焼いて食べた。
少し腹が空いていると、形が木の葉のような海苔餅や、こちこちになった鏡餅の欠片を焼いた。
そんなものが、茶箪笥の引き出しや戸袋の中には、ほとんど一年中しまってあったのだ。
正月の餅は2月の中旬くらいまで食べられるだけの量をついたし、彼岸や法事の墓参に持って行く団子は大抵余分に作ったから、醤油をつけて火鉢で焼き、みたらし団子にして食べた。
十五夜と十三夜の団子は、翌日まだ少し柔らかい内に薄く切って、醤油だけを付け焼きにしたものと、砂糖を入れて甘辛のタレを付けたものも作った。
それだけではなく、火鉢の上にはよく煮物の鍋が乗っていて、一日中コトコトと良い匂いを家中に流していた。
秋も深まると、そんな頃の情景が、豊かな色と香りと共に想い出される。
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- 平成16年11月12日(金曜日)
【雨のち曇】
祖母にギンナン採りを言い付かったので、学校の帰りに通5丁目の八雲神社まで足を伸ばしたら、銀杏の木の下は、黄金色の落葉とギンナンの実でいっぱいだった。
熟したギンナンの実はウンコのような匂いがするし、人によっては触るとかぶれてしまうから、木の枝を折って作った箸で、用意して来た袋に詰めるだけ詰めて家に持ち帰ると、「これじゃ足りないね。もう少し採って来ておくれ」と祖母が言った。
「えーっこんなにあるのに」と私は文句たらたらだったが、祖母は「実をはがして種だけにすると、3合にもならないよ」と、素っ気無く答えた。
私は仕方なくザルを片手に、今度はすぐ近くの八雲神社の境内に行ったが、あそこはどうも苦手な場所だった。
普通に遊びに行くのなら何という事もないのだが、春は梅、夏はビワ、秋は柿と、目を盗んではいただいているので、もしもギンナンを採っているところを見付かると、絶対に文句を言われると思うからだ。
私は正面の鳥居をくぐって境内には入らずに、青年団小屋の前の坂を上って神社の北裏を廻り、神楽殿裏の広場から入って直ぐの銀杏の木の下に直接出た。
あたり一面銀杏の実だらけで、ウンコの匂いが漂っていた。
私は本殿の方に注意しながら急いで実を拾い集め、もう箸で挟んでいられないので、ぐちゃっとする実を手で直に掴んではカゴの中に投げ入れていった。
両手でやっと持てる位集めると、私は来た道を引き返して家に戻ると、「お祖母ちゃん採って来たよ」とカゴを見せた。
「オヤッ、ずいぶん採れたね。これなら一升はあるよ」と、祖母は嬉しそうに言った。
その夜に、私の顔と両腕は、見事にふくれあがって、翌日は学校を休む事になった。
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- 平成16年11月11日(木曜日)
【晴】
秋の父兄会(PTA)と授業参観の知らせは、間違いなく握りつぶしたはずなのに、教室のうしろに並んでいる親達の中に母がいたのには肝を冷やした。
(おかしいな、今日が参観日なのを知っているはずがないのに)と内心思ったのだが、実は2つ年上の姉の授業参観の予定だったので、少し早目に来て私の教室も覗く事にしたのだそうだ。
まさか全学年の参観日とは思っていなかったらしく、私が学校からの文書を握りつぶしていた事がバレてしまった。
担任の川島先生は我が家にはよく来ていたから、母とは顔見知りだった。
先生は母を目ざとく見付けると、「オイ渡辺、今日はお母さんが来ているんだから、行儀良くしてるんだぞ」と私に言った。
教室中がワッと爆笑の渦になって、私は顔から火が出るほど恥かしくて仕方がなかった。
これではまるで私がいつも教室で暴れ回っているみたいではないか。
私は口をへの字に曲げて無言の抗議をしたが、先生はまるで意に介さずに授業を進めていった。
その日の授業は国語だったから、先生の質問に手を挙げて答える事は出来たけれど、私は一度も手を挙げずに頑張った。
それなのに先生は「渡辺、しろがねも、くがねもたまもなにせんにの次を言ってみろ」と名指しでぶつけて来た。
「まされるたから、こにしかめやも」と答えると、「意味を言ってみろ」とまた切り返して来た。
「この世のどんな貴重な宝物よりも、我が子以上の宝物はないという意味です」と答えると、「そうだ。今ここに来ておられるお父さんやお母さんは皆お前達のことをそう思っているんだぞ。それを忘れたらバチが当るからな」と、主に私の顔を中心に見ながらのたまわった。
私にはうしろの親達が満足そうにうなずいている様子が手に取るように伝って来て、(チェッ何で俺なんだよ。これじゃあまるで、俺が一番親不孝みたいじゃねえか)と、内心物凄く面白くなかったが、うっかりそんな態度を見せようものなら、そのあとどんな事になるか良く知っていたので、ぐっと我慢した。
昼休みに、ひょうきん者の橋本が、「あー渡辺君、まあしっかり親孝行をやりたまえ」と私の肩を叩きながら言ったので、私は思い切り橋本の頭をどやしつけたのだが、橋本もそれを予期していて、素早く逃げてしまった。
だから私は授業参観は大嫌いだった。
その夜、文書の握りつぶしがバレた私は、飯ぬきのお仕置だけでなく、真っ暗な押入れに入れられた。
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- 平成16年11月10日(水曜日)
【晴】
岡田の叔母さんが結核になったとたんに、叔父さんはトヨ子と弟達を連れて館林の実家に引き上げてしまい、緑町の家には叔母さんだけが残って寂しく療養生活を送っていた。
その家は工場のすぐ北隣にあったので、父も母も時間の許す限り叔母の面倒をみていたが、叔母にとっては何よりも子供達から引き離された事が悲しくて、母と顔を会わす度に、その事で涙を流していたという。
家は一日中雨戸が閉まったままで、時々手洗いに立つ気配がする位が、叔母の居る事を思い出させた。
トヨ子は私よりひとつ年下で、叔母さんに似て気立ての良い子だったが、母と引き離される時には、ただ黙って泣いていただけに、その悲しみの深さが私にも痛いほど伝わって来た。
それにしても岡田の叔父さんは、何て心の冷たい人なんだろうか。
いくら大変な病気とはいえ、まるで邪魔者を遠ざけるように愛情の欠片もない仕打ちに、私は子供ながら叔父さんが憎らしくてならなかった。
一家が館林に移って間もなく、その様子を見に行った母が「今一番欲しいものは?」とトヨ子に聞くと、トヨ子は「お母ちゃんに会いたい」と答えたのだそうだ。
その様子がとても悲しそうだったと、母は涙ながらに人に語り聞かせていた。
私は益々叔父さんが憎くて仕方がなかったが、トヨ子にも叔母さんにも何もしてあげられない事が哀しかった。
本当は叔母さんの所に行って、話し相手になったり「頑張って」と励ましたり、私にも出来る事を手伝ってやりたいのだが、母は私が叔母に近付くのを決して許さなかった。
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- 平成16年11月9日(火曜日)
【晴】《8日の続き》
そこは南に緩く下っている斜面が、今度は逆に上り気味になる、ちょうど鞍のような地形で、よく観察してみると鞍部の底を中心として広い範囲に埴輪の欠片が散乱しているらしく、中にはや〃原形をとどめている物もあるようであった。
私は足利公園の水道山北面の「入らずの森」に分け入った時の事を思い出していた。
あそこにも自然崩壊した古墳の遺物が、あたり一面に散乱していたが、ここはどうも人の手が加わっている気がしてならなかった。
南の斜面を越えて、コブの向こう側に降りていた板橋と岡島の合図に全員が駆け付けてみると、そこには半分崩れた防空壕らしいものがあった。
(あ〃、これだな)と、私達は埴輪が散乱している訳を直ぐに理解した。
多分、戦争中この場所に防空壕を作ろうとしたら、たまたま古墳の一部を掘り返してしまったのだろう。
そう言えば足利公園の金のトビ下の古墳や、その直ぐ隣の四阿脇の古墳の石室だって、戦争中は防空壕代りに使われていたらしいし、今でもルンペンの住まいになったりしている。
ここは石室(玄室)が見当らないから、足利公園よりずっと大きな古墳の一部を掘ったのだと思う。
だから玄室はまだ手付かずに埋まっているに違いない。
私達は夢中になってあちこちを探し回った。
しかし、専門の道具もなかったし、もしあったとしても、やたらに掘り返すような馬鹿な事が出来るはずもなく、結局は玄室を探し出すのは徒労に終わった。
それでも、比較的形の良い埴輪の欠片を全員が手に入れ、再来を誓って帰路についた。
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- 平成16年11月8日(月曜日)
【朝の内霧のち晴】《7日の続き》
翌日午前8時に薬師様前を出発し、緑橋を渡って土手を下り、助平屋の脇の街道を少し東に行ってから東武線を越えた。
左に浅間山の西斜面を見ながら小さな切通しを抜けると、そこはもう八幡様の裏山に続く低い丘の中腹だった。
松や雑木がうっそうと茂り、下生えが意外と少ない。
切通しを抜けた道は丘の中腹を真っ直ぐに南に下っていて、それを辿ると山辺小の西に出るはずである。
私達は切通しを抜けて直ぐに木立の中に踏み込んで行った。
丘は南に緩く下っていて、全体が広いコブになっている。
尾根あたりから左右の斜面を見ても、先は木の重なりでよく見えない。
何か見付けたら合図を送る事にして、陽もあまり差さない薄暗い地面に目を凝らしながら、それぞれが思い思いの方向に散ってからまだ10分と経たない内に、下の方から誰かが「ホーッ」と合図を送って来た。
全員が合図の聞えた方向に駆け付けると、宮内が足元を指差して興奮している。
「どうした何か見付けたか」
「これ埴輪じゃねえか」
宮内の足元を見ると、確かに土器の欠片のようなものが地面から覗いている。
手に取って泥を落としてみると、それは学校の資料室にある埴輪の欠片にそっくりだった。
「よし、この辺りをよく探そう」
皆はワッとばかりに地面を這いつくばって、落ち葉を掻き分けたり土を掘ったりしながら探してみると、あるある。
まるで埴輪の捨て場所ではないかと思える程、あたり一面に埴輪の欠片がちらばっていた。
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- 平成16年11月7日(日曜日)
【晴】《6日の続き》
下校前に明日行きたい奴らを確認するため教室に戻ると、馬場が「俺は行くのをやめる」と言い出した。
私は多分そうなるだろうと思っていたので、「分かった、おみやげ持って来るからな」と言うと、馬場は「いらねえよ」とバツが悪そうだった。
先生の手前、行く気にはなれなかったが、今度は私達に後ろめたい気持ちが起きてしまったのだろう。
それでも明日は、私と小野寺、宮内と橋本、山本と内藤、そして珍しく岡島と板橋が加わり、総勢8人という事になった。
京子ちゃんを知っている小野寺が、道案内に京子ちゃんも仲間にしようと言ったが、私は絶対に嫌だと強く反対した。
京子ちゃんの事だから、頼めば直ぐに引き受けてくれるだろうが、そんな事になったら、あとでケンカをした時に、有る事無い事を引き合いに出されて、私が不利になるおそれが充分にあるのを、これまでの経験で骨身に染みているからだった。
いつだったか、いとこのくに子と京子ちゃんと私の3人で遊んでいる時に、目の前を通った馬場の馬が馬糞をしたので、まだ湯気の立つ奴をくに子にぶつけて泣かせた事があった。
京子ちゃんはそれをネタに、何かと言うと馬糞の事を私の母にバラすと脅して来たものだった。
私はあのネタで半年近く京子ちゃんに頭が上がらなかったのだ。
だから今度も、首根っこをつかまえられるのは目に見えているから、それだけは絶対に避けなければならない。
初めは渋っていた小野寺も私の話を聞くとしぶしぶ承知してくれた。
とにかく、こういう事に女を入れるとロクな事にはならない。
まして京子ちゃんでは余計に話が面倒になってしまう。
私は家に帰ってからも、明日の事を京子ちゃんにさとられたくないので、なるべく顔を合わさないようにしていたが、その日の夕方いつものように二人で風呂に入っている時、「明日の休みは川原に石採りに行ってみない」と言われたのには、つい口ごもって危く明日出掛ける事がバレそうになった。
「明日は朝から合唱練習だよ」とデタラメを答えて何とかごまかしたが、感の鋭い京子ちゃんは何かを察知したのか、私をギョロリと横目で見ながら「フゥーン」と、さも意味ありそうな物言いをした時には、内心ヒヤヒヤだった。
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- 平成16年11月6日(土曜日)
【曇】
明日は旗日だったので、以前から考えていた八幡町の八幡神社の裏山にあると噂されている古墳探しに行こうと話がまとまった。
我が家の隣に住んでいるいとこの京子ちゃんは、私達とは違う山辺小学校に通学しているのだが、山辺小は八幡様の隣なので、裏山は格好の遊び場だったのだ。
男勝りの京子ちゃんが、裏山を駆け回らない訳がなく、男子顔負けで我が物顔の毎日だったのは容易に想像がついた。
その京子ちゃんによると、裏山には昔からいくつかの古墳が発掘されているのだが、多分まだ見付かっていないのもあるかもしれないと言うのだ。
その証拠には、少し道を外れた窪地や薮の中には、埴輪や土器の欠片、矢尻などが露出していて、探す気になれば色々見付ける事が出来るのだそうだ。
京子ちゃんの友達の中には、曲玉や直菅などを見付けた人もいるという事だった。
その話をクラスの奴らにした時に、「それは古墳だけじゃなくて、多分弥生時代の遺跡と重なっているかもしれねえな」と、インテリの馬場が言った。
私達は早速図書室に行くと、縄文から弥生時代、そして古墳時代の年表を調べ、足利の時に八幡山周辺の歴史について、調べられる限りを調べたあと、その結果を詰めたノートを持って担任の所に行き、私達がどうしても知りたい点を中心に質問した。
担任は何を勘違いしたのか、目を潤ませて私達を見ながら、「そうかそうか、良くここまで調べたね。先生はお前達がそうやって自主的に勉強してくれるのを見ると、嬉しくて涙が出るよ」と、声を震わせて言うので、これは古墳あばきの下調べだと正直に話す訳にもゆかず、皆で顔を見合わせながら黙っていた。
馬場はそんな先生の様子を見て、今にも本当の事をしゃべりそうな気配だった。
私はヤバいと思い、馬場のケツを思い切りつねると、さすがの馬場も私の意図に気付いて、黙って下を向いた。
先生にも分からない所は、郷土史に詳しい先生が力を貸してくれたから、私達の知りたい事は直ぐに分かった。
結局馬場の推理は正しかったようだ。
「皆、しっかり勉強しろよ」と上機嫌の先生の声を背に、私達は少し後ろめたい気持ちを抱きながら、職員室をあとにした。
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- 平成16年11月5日(金曜日)
【晴】
学校からの帰り路で、七五三の晴れ着を着た安代と、安代を連れた祖母と出会った。
私はとっさに物影に隠れようとしたが、安代が目ざとく私を見付け、「アッ晃ちゃん」と大きな声で呼び掛けて来た。
そのとたん一緒にいた奴らがニヤニヤ笑いながら、さも軽蔑したような目付きで私の顔を覗き込むと、「アラ晃ちゃん、アラ晃ちゃん」と、妙な金切声ではやし立てるのだった。
「何だよ、何か文句があるのかよ」
私は手当たり次第にそいつらの頭を小突いたが、奴らは益々私をはやし立てるので、とうとう栄町の稲荷様の境内で大立回りとなってしまった。
安代は2つ年下のいとこで、すぐ近くの栄町の叔父の長女だった。
別に嫌っている訳ではないのだが、普段はともかく、あんな格好の安代に声を掛けられたりしたところを仲間に見られたら、それこそ何を言われるか分かったものではないのだ。
私は家に帰ると母にその事を告げ、もう安代とは絶対に口をきいてやらないと宣言した。
しかし安代はとても素直で心の優しい子だったから、それからしばらくして叔母と一緒にお風呂を貰いに来た時、結局はいつもの通り普通に話をしてしまった。
人間はいつまでも腹を立てたままではいられないという事を、私はその時に知った。
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- 平成16年11月4日(木曜日)
【晴】
父の弟の信三叔父は、戦時中憲兵軍曹として中国にいたが、終戦前に日本に戻り、終戦と同時に那須の開拓地に入植した。
聞くところでは中国での行状の中に、期するものがあったらしい。
そこは電気もなく、米も陸稲が少し出来る位で本当に大変だったらしく、私が小学校4年の時に那須を引き払い、当時長兄が責任者となっていた太田市の分工場近くに転居した。
叔父夫婦はなかなか子供に恵まれず、私が生まれたら養子に行く約束をしていたらしいのだが、前後して叔母にも子供が出来た事が分かり、どうやら養子の話はお流れになったという事情もあってか、叔父は私を格別に可愛がってくれた。
その後叔父は私と同じ年のいとこを頭に、男2人女3人の子の子宝に恵まれたが、いずれも学年トップという成績の、とんでもなく優秀な兄弟姉妹となった。
信三叔父の弟の金四郎叔父は、終戦と同時にシベリアに抑留されたが、運良く早期に復員する事が出来て、帰国後しばらくの間父の仕事を手伝っていた。
叔父には私と同じ年の実と、年子の弟の進、そして乳飲み児の昭と三人の子供がいて、私が小学校に入学して直ぐに、出征する時の会社が戦後再建するのに合わせて、東京に戻って行った。
信三叔父も金四郎叔父も頭脳明晰な人だったが、父の一番下の妹の千代叔母のつれあいの町田の叔父が、私には一番聡明な人だったように思える。
町田の叔父は物静かで、万事に控え目な人だったから、賑やかな我が家では、あまり目立たない存在だった。
キャサリン台風で家を流失したあと、母屋脇の仮住まいで何年か過ごしたので、同じいとこの中でも、町田のいとこ達は私にとって一番親しく懐かしい人達だった。
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- 平成16年11月3日(水曜日)
【晴】《2日の続き》
侍達に腹一杯米の飯を食わせるために、自分達はヒエ飯で我慢するという話を、皆の脇で聞いていた父が、「一度だけ那須の弟の所に行った時にヒエを食ったが、とてもじゃないが食えたものじゃなかったな。そりゃあ飢え死にしそうな程に追い詰められれば、ヒエどころか雑草だって食うかもしれないけど」と言った。
「ヘェーおやじさんはヒエを食った事があるのかい?」
長兄が意外そうに尋ねると、「いつだったかノブの所に行った時に、こっちから頼んで食わしてもらったんだ。普通は米や麦に混ぜて食うんだそうだが、俺がノブに頼んでヒエだけを炊いてもらったんだが、さっきも言ったように一口食っただけで、あとは口に入れられなかったな」と言った。
「それじゃあ勝四郎が千恵に言った、とてもじゃないが食えんというセリフは本当なんだ」と下の兄が言うと、父は「あ〃間違いないな」と答えた。
「でも、私が居た戦地での食糧事情からみれば、ヒエがまずいの米が美味いのなんて、まるで贅沢を絵に書いたような話でね…」と、柳田さんが呟くように言った。
すると、シベリア帰りの山崎さんが腕組みして虚空を見つめながら、「そうだよな、収容所じゃ寒さだけではなく、結局は食う物がなくて死んで行った奴らが、どれだけいたか…」と、しみじみ語るのを聞くと、皆は黙ってうなずきながら、思い思いの感慨にふけっていった。
話が一区切りつくと、母は落花生を出して茶を入れ替え、「早くお風呂に入って」と私に声を掛けると、父のそばに腰を落ち着けた。
私は一人で風呂に入ると、さっき耳にした話を想い返しながら、大人達の心をひとつに繋いでしまう映画を作った黒澤明という人は、凄い人だなと心から思った。
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- 平成16年11月2日(火曜日)
【曇のち晴】《1日の続き》
緑町から簗田の土手までは、徒歩で女の足ならば三時間近くかかるから、朝も暗い内に家を出なければ戦には間に合わない。
しかも簗田で戦がありそうだという噂が、何で一般の人達に流れているのか不思議だ。
よく話を聞いてみると、幕軍(ほとんどは上野の山で官軍と戦った彰義隊の生き残り)は初め館林藩に身を寄せるつもりだったのだが、官軍側になびいていた館林にしてみれば迷惑な話で、何やかやと言いつくろって、結局は簗田の宿に泊ってもらう事にしたのだと聞いた。
そして裏では官軍にその事を通報したらしい。
館林から簗田の宿に移動する軍勢の様子は、それを目撃した人達によって、たちまち近郊近在に伝って行ったのは容易に想像できる。
その当時の交通手段はほとんど徒歩だったから、館林と足利を行き来する多勢の人達が目にした有様が、その頃の足利の中心だった緑町あたりにすぐさま伝えられたのは、理の当然だったのかもしれない。
だからこそ翌早朝の戦に間に合うように、支度が出来たのだろう。
幕軍の中で、いったいどれほどの人が無事会津に落ちのびて行ったのか、史実にうとい私には分からないが、傷付いた身で渡良瀬川を渡河し、例幣使街道を北上して行く敗残の姿を想像すると、何だかその人達が気の毒で仕方がなかった。
長兄の友人の柳田さんは、決戦前に菊千代が抜き身の刀を何本も土に刺して、「一本では五人と斬れん」と言った場面が一番印象的だったと話した。
柳田さんは、刀とはそういうものだと、まるで同じ経験をしたかのような口振りで話をした。
柳田さんは、夜陰に乗じて敵に奇襲を掛ける抜刀隊として、何度も死線を超えて来たのだと、あとになって知った。
小柄で優しくて静かな柳田さんからは、刀を抜いて敵陣に切り込んで行く姿など、とても想像する事が出来なかった。
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- 平成16年11月1日(月曜日)
【曇】
黒澤明の「七人の侍」が封切られると、大人達はこぞって映画館に押し寄せ、夜ともなれば皆その話でもちきりとなった。
我が家でも毎晩のように人が集っては、映画の中の場面から受けた感動を、少し興奮気味に熱っぽく語り合っていた。
私は時々玄関の土間隅にある風呂の焚き口の前に座って、火の番をしながら大人達の話を聞いていた。
一番上の兄が言うには、物語の始めの方にあった決闘の場面は、兄が曾祖母から聞いた実際の決闘場面とそっくりで、これこそがリアリズムだと、強い口調で語っていた。
私達の曾祖母は、幕末に官軍と幕軍の決闘を自分の目で見た事があって、その時の話をよくしてくれたのだそうだ。残念ながら曾祖母は私の生まれる前に亡くなってしまった。
曾祖母が見たのは、地元では「簗田戦争」と呼ばれているもので、上野山から退却して会津に向かう幕軍の生き残りと、追撃して来た官軍とが、簗田宿で激突したものだった。
曾祖母は銃弾が頭の上を飛び交う渡良瀬川の土手に身を伏せて、多勢の人達とその戦を見物したのだという。
お互いに睨み合ったまま一時間近く動かずに、相手を牽制しながら、やがて時が満ちると、双方が裂迫の気合声を発しながら一気に間合をつめると、ほとんど同時に刃を相手に打ち込むのだそうだ。
官軍の打ちおろした刃は、幕軍の頭から胃のあたりまで食い込み、幕軍の刃は官軍の右肩から入り、その体をほとんど両断していたという。
昔はそんな場面を、部外者が見物できたというところが、子供の私にも驚きだった。
■アトリエ雑記は平成12年12月15日からスタートしました。
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