アトリエ白美「渡辺肖像画工房」 渡辺晃吉
- 平成16年10月31日(日曜日)
【曇のち晴】《30日の続き》
フジの子が生まれて一週間経つと、足腰が少ししっかりして来たような気がするのだが、目はまだよく見えないのか、お母さんのお腹のあたりから離すと不安そうにみじろぎする。
まだあまり触らないようにと注意されてはいたが、触らずに我慢など出来ないので、私も縁の下にもぐってフジの横に寝ていると、フジも少しづつ慣れて来て、そっと手を伸ばして子犬に触っても、あまり心配しなくなって来た。
私の顔がフジの頭の近くにあるせいなのか、フジは私の顔をペロペロなめた。
私はくすぐったくてキャアキャア叫びながら、フジの頭を両手で離そうとしても、フジはムキになって私の顔をなめ回すのだった。
騒ぎを聞きつけた母に見付かり、縁の下から引きずり出されたあと、いやという程叱られた。
玄関の部屋で泣いている私が気になったのか、フジが心配そうに土間からこっちを見ていた。
私はフジのために玄関のガラス戸を少し開けてやると、フジは直ぐに外に出て行き、しばらくして戻って来た。
その間子犬が可哀想なので、縁の下に手を入れて一匹づつ撫でてやっていると、台所から出て来た母が「あれほど構うなって言っているのに、どうして言う事聞かないの」と、凄い剣幕で駆け寄って来た。
私は両手で頭を押さえながら「ちがうよ、フジがオシッコに行ったから、その間留守番をしているだけだよ」と必死で言い訳をした。
どうやらその場はぶん殴られずに済んだが、私はなぜ自分が叱られるのか、どうしてもよく分からなかった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
- 平成16年10月30日(土曜日)
【曇のち雨】《29日の続き》
学校から駆け足で帰って見ると、フジは朝と同じように子犬達にオッパイを飲ませていた。
父がゆっくりと手を伸ばして、その内の一匹を手に取ると、フジは物凄く心配そうな顔で父を見ていたが、「大丈夫、ちょっと見るだけだから」と言って、子犬をフジの鼻先に出してやると、フジは子犬と父の顔を交互に見ながら、「クーン」と鳴いた。
「少しだけだぞ」と言う父の手から、私の手の中に移った子犬の大きさは、まるでネズミのようだった。
耳はほとんど無い位小さく、まだ目は見えない。
親から離されたのが不安なのか、子犬はしきりに「クチュクチュ」と小さな鳴き声を上げながら、手の平に鼻面を押し付けてくる。
子犬に顔を近付けると、フジのオッパイの匂いがした。
「ホラ、もういいだろう」と、父は子犬を私の手から取り上げてフジに返してやると、フジはその子をしきりになめてやっていた。
初めてのお産だったから、物凄く神経質になっているのだと母が言った。
私はフジにあまり心配を掛けないように、もっと眺めていたいのを我慢して、その場を離れた。
「今夜はフジにご馳走をしてやらなくちゃ」と、母は長山肉屋から特別に取り寄せた肉を使って料理を作った。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
- 平成16年10月29日(金曜日)
【晴】
フジが初めて6匹の子犬を生んだのは、玄関の上り框の下の戸板を外して、いつも人の気配がする縁の下にワラを敷いた寝床の上だった。
初産では心細いだろうと、父がフジのために作ってくれたのだ。
フジもそこが気に入ったのか、出産の何日か前から外の小屋には入らずに、縁の下にもぐっては父の用意したワラをどかして、地面をかなり深く掘って、自分流に直す仕事に熱中していた。
「今夜あたり生まれるかもな」
父はその日私に言った。
私はフジがお産するまで絶対に起きているぞと、堅く決心して夜を迎えたのだが、次第に襲って来る睡魔には勝てず、いつの間にか眠ってしまい、目が覚めたら朝になっていた。
大慌てで玄関の部屋に行くと、父と母や何人かの人達が、賑やかにお茶を飲んでいた。
「フジは?」と母に聞くと、「のぞいてごらん」と言った。
私は胸をドキドキさせながら、フジを脅かさないようにそっと下を覗くと、ホッとしたフジが、何匹もの子犬を抱えて乳を飲ませていた。
本当は8匹生まれたのだが、残念な事に2匹は死んでしまったのだそうだ。
「生まれたばかりだから、まだ子犬に触ってはダメだよ」という母に、「どうして?」と私は食って掛かった。
「今触ったりすると、フジは子を取られると思って食べちゃうかもしれないよ」
それを聞くと、私は急いでフジのそばを離れて、どうかフジが子を食べませんようにと、一生懸命祈った。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
- 平成16年10月28日(木曜日)
【晴】
足利公園発の路線バスが、魚英の前で立ち往生していると大人達が騒いでいるので、工場の庭で遊んでいた私達も、誰からともなく表通りに出てみると、いつ故障してもおかしくない見慣れたオンボロバスが、フロントグリルから白煙を出して止まっていた。
乗客の半分程は外に出ていて、腕まくりして修理している運転手を囲みながら、何やら話し掛けている。
「もう少し冷えれば動くと思いますよ」
運転手がのんびりと言うと、「エンジンかける時は手伝うよ」と誰かが答えた。
故障しているバスを見ていても別に面白くも何ともないが、エンジンをかける時は結構面白いのだ。
「もうそろそろお願いしますか」と運転手が声を掛けると、「ホイきた」と乗客の一人がボンネットの前に立ち、両手にツバをつけると、ごっついクランクを握って運転手の合図を待っている。
「ハイッ」という合図と同時に、その人はクランクを力一杯回した。
ガクンガクンという感じでクランクが回されると、エンジンが「グーッグーッ」と音を発て、やがて「ゴロゴロ」という音と共に生命が蘇えって、いつも聞く力強い音を発て始めるのだった。
外にいた乗客達は何事もなかったようにバスに乗り込むと、バスは白い排気ガスを残して走り去って行った。
あとにはお祭りのあとのような静けさが残り、大人も子供も、何だか少し損をしたような淋しい気持ちになりながら、その場から立ち去って行った。
いつの間にか魚英の店の中の灯りが、闇の濃くなった通りに漏れていた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
- 平成16年10月27日(水曜日)
【晴】
「自動車事故、自動車事故」
物見高い大野の姉ちゃん達が口々に叫びながら、我が家の前の道を表通りの方へ走って行った。
それを聞いてじっとしている人など、病人と赤ん坊を除いてこの辺では大人子供を含めて誰一人いない。
「それっ」とばかりに飛び出して行くと、表通りには黒山の人だかりが出来ていた。
私は木戸門の脇のゴミ箱を足掛かりにして、柳田鉄工所の塀の上に乗った。
現場は人見医院の前で、大型トラックがリアカーを押し潰して止まっていて、散乱したリアカーの荷の下に、防寒帽を被った男の人が仰向けに倒れていた。
警察はまだ来ていなかったが、人見先生がゲタ履きで診察カバンを脇に置いてケガ人のそばにうずくまって手当てをしているのが目に入った。
先生に一生懸命話し掛けているのが、トラックの運転手らしく、その人に向けて先生は首を横に振っている様子から、ケガ人はもう死んでいるらしかった。
下にいる人達が、そんな事をヒソヒソと話しているのを耳にした私は、何だか自分が車に轢かれたような気がして、恐くて恐くて塀の上から降りる事が出来なくなってしまった。
塀の上にしがみついてオイオイ泣き出した私に気付いた人達が、「何をやってるんだよお前は」とか、「このバカガキが」などと叱り付けながらも助け降ろしてくれたのだが、その現場を通りの向こうから上の兄がじっと見ているのに気付いた。
多分親に言いつけるだろうと思い、その日は家に帰れずにウロウロしていたが、空腹と心細さから、ソッと裏口の戸を開けて家に入ると、それを待っていたかのように母が目の前に立っていた。
その夜、私は飯ぬきは勿論1時間程押入れに入れられた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
- 平成16年10月26日(火曜日)
【雨】《25日の続き》
風呂から出た磯辺さんを囲んで再び話に花が咲くと、「何か皆で歌おうか」という事になり、「みかんの花咲く岡」や「里の秋」、「庭の干草」などを合唱した。
日本の歌をと言う母の要望に応えて、磯辺さんは「あざみの歌」や「ダンスパーティーの夜」を、心に染みるように歌ってくれた。
戦前はアコーディオン奏者で、戦地で捕虜になった時、フランス系の米軍人に腕を買われて、その人の好きだったシャンソンを教わったのだそうだ。
復員したあとに戦友の家を訪ね歩くところは、父のもとで働いているハルさんによく似ていると思った。
ハルさんもやはり、亡き戦友の家を訪ね歩いて、その最後を報告し終わった時に、戦友の亡霊から解放されたと聞いた。
戦争によって深く傷付いた人が、今ここにも居るのだと、私は子供ながら痛い程感じたのだった。
磯辺さんはそれから半年ほど父の仕事を手伝いながら、時々旅に出ては戻って来た。
そして夜になると、兄のギターと磯辺さんのアコーディオン、そして時々マンドリンの弾き手も加わって、華やかなコンサートが開かれるのだった。
磯辺さんはその後家に戻り、間もなく日本を代表するようなアコーディオン奏者として活躍したと母から聞いた。
秋が深まるにつれて、私はあの夜我が家を訪れた磯辺さんの事を思い出す。
磯辺さんも、吟遊詩人の一人だったのだろうか。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
- 平成16年10月25日(月曜日)
【晴】《24日の続き》
いつの間にか席を立った母が、夕食の膳を整えて戻って来た。
「もし良かったら夕飯を召し上がって下さいな。無理じゃなくていいんですよ」
アコーディオンの人は黙って深く頭を下げると、母の用意した膳の前に座った。
「ホラッお前達向こうへ行ってなさい」
私達は慌てて隣の部屋に移り、食事を済ませたその人が、もう一度歌ってくれる事を期待した。
母はアコーディオンの人の給仕をしながら、姉達に二階へ床をのべるように言いつけると、「今夜はもう遅いから、もしこれから宿を探すのも大変でしょう。おかまい出来ませんが、よかったらお泊り下さい」と言った。
「ありがとうございます。実は恥ずかしながら今夜の食事代も宿代も持ち合わせておらず、どうしようかと路頭に迷って歩いておりましたら、お宅様の灯りが見えたものですから、本当にワラをもすがる思いでおたずねしたのですが、地獄に仏とはこの事です」
「何か深い事情があって旅をなさっているんでしょうけれど、さぞ大変でしょうね」
「申し遅れましたが私は磯辺と申します。実は一昨年復員して来ましたが、思うところがありまして、今から半年前に家を出て旅をしております」
「でも、いつかはお帰りになるんでしょう」
「ハイ、戦死した戦友の実家を訪ね終わって、自分なりにふんぎりがつきましたら、両親に不幸をわびに帰りたいと思っております」
「それがよろしいでしょうね。旅先からご両親への連絡は?」
「時々ハガキで」
「それはよろしい事です。ご両親もきっと安心されていますよ」
「お風呂の下つけましょうか」
下の姉の言葉に母はうなずくと、「どうぞお風呂に」と言った。
以下次回に
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
- 平成16年10月24日(日曜日)
【晴】《23日の続き》
その人は歌い終えると「何かご注文があれば…」と恥かしそうに言った。
「ピアフの愛の讃歌をお願いします」
下の兄が身を乗り出すようにしてリクエストすると、その人はとても嬉しそうにニコッと笑って、アコーディオンを抱え直して弾き始めようとした時、「とにかく中へ入ってもらいなさい。そこでは寒いから」と母が声を掛けて来た。
兄はその人を中に入れると玄関のガラス戸を閉め、土間の上り框に腰をおろした。
「もし良かったら座りませんか」と言う兄へ、「イエ、このままで歌わせていただきます」
そう言うと、その人は静かにアコーディオンを弾き始めた。
〈たたえ山を裂け梅は朽ち果てても、君の愛あれば…〉
今度は日本語だった。
「この歌は神様の愛を歌ってるんだ」
兄は小さな声で私に教えてくれた。
やがて歌詞はフランス語に変わり、朗々としたフォルティシモで終わった。
歌い終わると、その人は深々と頭を下げた。
「枯葉は歌えますか?」
上の姉が恐る恐る尋ねると、その人は姉の方に顔を向け、「枯葉は私も大好きな曲です」と言った。
姉は言葉こそ口にしなかったが、祈るように両手を握り合わせて、喜びと感謝を表した。
イブモンタンが歌い、日本では高英夫が歌っていたこの曲は、子供の私でも知っている程、あの頃の時代を代表する曲だった。
少しテンポの早い前奏が長く弾かれたあとに続いて、水の流れるような美しいフランス語の詩が歌われると、兄や姉達ばかりでなく、その場にいた全員が、身動きも出来ない位の感動の中に放り込まれていた。
以下次回に
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
- 平成16年10月23日(土曜日)
【晴】
明日は日曜日なので、少し遅くまで起きていても、あまりうるさく言われないのをいい事に、夜8時過ぎても姉達とコタツに入っていた。
ちょうど隣の柿沼の家の人達も貰い風呂で来ていたから、何となく場が華やいで、少し気分が浮き立っているのも、床に就きたくない理由のひとつだった。
そろそろ親のカミナリが落ちる頃かなと思った矢先に、外に人の立つ気配がした。
皆が振り向くと、玄関のガラス戸越しに誰か見知らぬ人が顔を向けて頭を下げた。
今頃いったい誰だろうと思っていると、突然アコーディオンの演奏が始まった。
アコーディオンは、公園ののど自慢大会やお祭りの時によく出ている傷痍軍人が弾いているので、私達には馴染みのある楽器だった。
しかし、今外から聞えてくる演奏は、子供でも分かる程素晴らしいものだった。
前奏が終わると、アコーディオンの人は静かに弾き語りの歌を歌い始めた。
それは映画でしか聞く事のないフランス語だった。
「アァー、パリの下セーヌは流れるだ」
我が家で一番音楽好きの下の兄が、感極まった口調で呟くと、土間におりてガラス戸をゆっくりと開けた。
少し痩せて背が高く、彫りの深い顔立ちの男の人が、大きなリュックを背負ったまま、身なりとは対照的に豪華なアコーディオンを抱え、豊かで艶のある声で、私達に語り掛けるように歌っていた。
私だけでなく、その場にいた人達は全員、その場に凍りついたようにじっと動かずに、その人の歌に聴き入っていた。
以下次回に
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
- 平成16年10月22日(金曜日)
【曇のち晴】《21日の続き》
頭を刈り終わったあと、オバさんはヒゲブラシをお湯につけると、石鹸箱の中の石鹸にグリグリ押しつけてから、襟足から耳の上に塗ると、「動かないでね」と言ってカミソリを使い始めた。
「晃ちゃんの襟足は本当にきれいだね」とか、「この額の生え際を役者が見たら、さぞかし悔しがるだろうね」とか、私がじっと我慢をして動かないように、一生懸命おだてるのだった。
私は床屋の中でカミソリが一番嫌いで、その次が洗髪だったから、急に動いてよくカミソリで切った。
オバさんはそれが分かっているので、ケガをさせないように私の機嫌を取っているのだ。
私はじっと目をつぶってカミソリが終わるのを待っていたが、どうしても耐え切れなくなって、「オバさん本読んでいい?」と頼むと、「仕様がないねえ」と言いながら、さっきまで私が読んでいた少年王を持って来てくれた。
私は下目使いで本を読みながらカミソリの辛さに耐えた。
「ハイこっちにおいで」
オバさんは私を流しの前まで連れて行くと、私をイスに座らせ、頭をぐっと前に押して、ジャーと熱いシャワーをかけるのだった。
「あついよっ」と言うと、「ごめんね」と、あんまりごめんでもない返事をしてから、少しぬるい湯にしてくれる。
頭を洗う時には、最初いつも熱いのはなぜなのだろうかと、私はいつも考えていた。
やられる前に「熱くしないで」と言っても、「ハイ分かったよ」と返事はしてくれるのだが、その約束が果された事は一度もなかった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
- 平成16年10月21日(木曜日)
【雨のち晴】《20日の続き》
雑誌から顔を上げて時々イスの方を見ると、相変らずオジさんの見事なハサミさばきが目に入って来る。
左手にくし右手にハサミ、そのハサミの動きが見えない位に早くて、腰で調子を取りながら客の周囲をくるくると回って散髪して行く姿は、子供でも凄いなと思った。
正面の壁一面に張られた鏡の前は、厚さが15cmはあるケヤキの一枚板が突き出し、その上には化粧水や整髪料のビン、シッカロールやバリカンなど、床屋に付き物の道具類が置かれ、右角のタイル張りの流しの脇には、銀色に光るボイラーが湯気をたてている。
台の端にはカミソリのとぎ皮が下がって、オジさんは始終カミソリを皮に当てている。
「ハイ晃ちゃんお待ちどう。ここにおすわり」とオジさんが声を掛けたので、言われたイスに近付くと、オバさんが子供用の補助イスを乗せてくれた。
「手ぬぐいちょうだい」
オバさんは私が差し出す手ぬぐいを受け取ると、台からぶら下がった襟紙を一枚を首に巻いて、その上から手ぬぐいを少しきつく巻いた。
それからオバさんは、台の上のホーロー引きのハッドの液に浸してある分解したバリカンを、鼻歌を歌いながら組み立てると、「動いちゃダメだよ」と言って刈り始めた。
「5分刈りでいいんだね」
「ウン」
私は本当の事を言うと7分刈りの方が好きだったが、母はもったいないから駄目だと、なかなか許してくれなかった。
5分刈りだと、いかにも床屋に行って来たと言っているようで嫌だったのだ。
以下次回に
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
- 平成16年10月20日(水曜日)
【雨(台風23号)】
「いつまでぐずぐずしているの。早く床屋さんに行って来なさいよ」
大嫌いな床屋に行き渋っている私に、母は少し腹を立てたのか、無理矢理に外へ追い立てたので、私は仕方なく手ぬぐいをぶら下げて家をあとにした。
我が家の行き付けの中山床屋は、両毛線の踏切を渡って直ぐの四つ角にあり、北向かいは昔の廻船問屋の川万、東向かいは渡辺酒屋、そして斜め向かいは旅人宿の飯島旅館だった。
中山床屋の前を過ぎると直ぐに土橋が架かっていて、そのたもとを右に入ると、川沿の家並みの南側が、1mにも満たない小路となって西に続いている。
その小路に入って直ぐの家の一階は、私達が行き付けの釣具屋で、家全体の作りは小さな宿屋のような雰囲気だった。
何でも釣具屋の他にダルマ屋もやっているというのだが、見た所どこにもダルマが置いてないので、私達はよく釣具屋のオジさんに、「オジさんダルマどこで売ってるん?」と尋ねるのだが、オジさんはいつも「ウーン」と生返事をするだけだった。
あまりしつこく聞くと、オジさんは機嫌を悪くして怒り出し、せっかくの買物が出来なくなるので、ダルマに興味はあっても我慢した。
不思議な事に、この辺は釣具屋に限らず、主に川に沿って何軒もダルマ屋がありながら、肝腎のダルマを売っている所を誰も見た事がなく、子供達の七不思議のひとつとなっている位だった。
中山床屋は、オジさんとオバさんと、見習いの人が店にいて、いつ行っても誰かが順番を待っていた。
私は入口のガラス戸を開けて履物を脱ぐと、板の間に並べてあるスリッパを引っ掛けて、通りに面した色付きガラスの窓際に建て付けてある長い腰掛けの奥に座り、本棚から「少年王」を取って読みながら、自分の番を待った。
以下次回に
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
- 平成16年10月19日(火曜日)
【曇のち雨】
その夜は、我が家の裏の大越染工のお兄ちゃんが、近所の子供達のために幻燈大会を開いてくれる事になっていた。
私は夕飯もそこそこに家の裏戸から大越染工の庭に出ると、いつもの顔ぶれが闇の中のあちこちに集まっていた。
「サァそろそろ始めようか」
事務所のガラス戸が開いて、お兄ちゃんが声を掛けて来たのを合図に、私達は先を争って家の中に入った。
事務所は人でいっぱいになり、身動きの出来ない程だったが、何だか映画館に入ったようで面白かった。
電気を消すと、辺りは真っ暗となり、テーブルの上の幻燈機の先が、映写の準備をしているお兄ちゃんの顔を、まるで別人のように照らして、私達がすし詰めになっている空間さえ、何か別世界の雰囲気にしていた。
「それじゃあこれから蜘蛛の糸を写します」
お兄ちゃんはそう言うと、おもむろに最初の一枚をスクリーンに映写した。
それはどこか異国の町の入口なのか、大きな石の門が口を開けていて、その脇に一人の若者が膝を抱えてうずくまっている画だった。
「昔々、唐の長安の都に、とししゅんという名の若者が住んでおりました。……」
お兄ちゃんは皆によく聞えるようなハッキリとした口調で語り始め、心ときめく物語が、目の前のスクリーンに繰り広げられた。
あの頃の秋の夜長は、こんな珠玉の時に満ちていた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
- 平成16年10月18日(月曜日)
【晴】
毎月末になると、自転車の荷掛けに付けたザルに、根元をワラで束ねた榊をいっぱい積んだオジさんが、1日の月拝みに奉げる榊を持ってやって来る。
その日は八雲神社の宮司さんが、あの独特の装束で祝詞をあげるのが面白くて、うしろに座って見物したものだった。
1日は月拝みの他に、寺に墓参するのも慣わしになっており、それは月参りとか御朔(おついたち)とも呼んでいた。
月参りは大抵午前中、月拝みに宮司が来るのは午後が多かったようだ。
普段の日は無理だったが、学校が休みの時は、よく母や祖母のお供で墓参りに行った。
墓参の花は季節にもよるが、大抵は我が家の庭で用立てたが、参道入口の八百屋さんにも置いてあったので、時々はそこで買って持って行った。
榊は近くの山に入ると、いたる所に生えていたから、中には自分で採りに行く人も少なくなかった。
十三夜や十五夜に飾るススキや、年末のスス払い用の笹竹などは、全て近くで採れたし、今は貴重なカタクリの花やイカリ草など、あの頃は唯の雑草だった。
山芋さえ公園で掘れたのだから、思えばあの頃の自然は本当に豊だったのだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
- 平成16年10月17日(日曜日)
【晴】《16日の続き》
その夜は私も家の方々も、まんじりともせずに炉端で語り明かしましてね、心づくしの朝食を頂いた後に、もう一日泊ってくれと言う家の人を、急ぎの用があるからと説得して、詳しく教えてもらった道を、勝沼へと向かった訳です」
老人は語り終えると、目の前の湯のみを手に取り、静かに飲んだ。
それをきっかけに、父母や兄達は「ふーっ」と長い息を吐き出すと、さっきまでの緊張が見る間に解けて行った。
母は火鉢の鉄ビンに手をのばし、父や兄達は腕を組んで視線を宙に遊ばせている。
沈黙がしばらく続くと、やがて父が「望郷の想いというものは、強いもんですなあ」と一言呟くように言った。
老人は「おっしゃる通りだと思います。現に私が一年中旅をしているのも、強い望郷の念があるからかもしれません」と答えた。
「先生、もっともっと話を聞かせて下さい。お願いします」
下の兄が膝詰めでせがむと、老人は、「そうですね、お話はいっぱいありますが、もう夜も遅いし、続きは又の楽しみにしましょうよ」と足をなだめ、寝床の用意がしてある二階の部屋に引き取って行った。
結局この老人は、その後半年あまり我が家に滞在した。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
- 平成16年10月16日(土曜日)
【曇】《15日の続き》
「どちら様でしょうか。私共の身内の案内で、家を訪ねられたと伺いましたが、それはどういう事でしょうか」
夜中に突然戸を叩いた私に驚く家の人に、実はこれこれと今までの事を詳しくお話ししますと、そこではなんだからどうぞ中へと、私を快く入れてくれました。
広い土間から大きないろりが切られた板の間にあがり、こんな時は火が何よりのご馳走だと炉端をすすめてくれましてね、ともかく空腹の一時しのぎにと、熱い甘酒と漬物いただきまして、本当に身も心も芯からホッとしたところに、家の人が一枚の額を持って来て私に見せながら、「おたく様が道で会ってここまで一緒だった者はこの男でしょうか?」と尋ねたのです。
見るとその写真の人は、正しく先程の人だったので、「そうですこのお人です」と答えました。
すると、私に写真を見せたお人だけでなく多分写真の人のご両親と奥さんと思える人達も、まるで雷に打たれたように驚きましてね。それから感極まってワッと泣き崩れてしまったのですよ。
私は何がどうなったのか全く分からずに、ただオロオロするばかりでしたが、やがて写真の人の兄弟と思える人が鼻をすすりながら、「取り乱してしまい本当にすみませんでした。実はお宅様をこの家に案内してきた者は、南方で戦死した私の兄でして、おそらく望郷の念を捨てがたく、お宅様の力を借りて、我が家に帰って来たんでしょう。これも何かの御縁でしょう。どうか線香の一本もあげて頂けないでしょうか」と言ったのです。
私は何も言わずに頭を下げて立ち上って、案内された仏壇の前に着くと、その場にひれ伏したまま、しばらくは動く事が出来ませんでしたよ。
以下次回に
- 平成16年10月15日(金曜日)
【晴】《14日の続き》
道なのか薮なのか分からないような所を抜けて行くと、やがて沢が近くに流れているのが、闇の中から聞えてくる水音で分かりました。
その沢に沿って、意外に良く手入れされたそま道が続いている所に出ると、その人は私を振り返り、黙って下流を指差して、また道を進んで行きました。
私はもうすっかり安心してその人のあとをついて道を下って行ったのですが、いくら慣れた土地だとは申せ、こんな真っ暗闇の中を、よくもけつまずく事もなく歩けるものだと、ほとほと感心しました。
やがて前方に人家の明かりが見えて来ましたので、あの家がお宅ですかと聞くと、その人はニッコリと笑って、そうです、と答えたのです。
私は心の底から安心して、「どうかお家の方に宜しくおとりなし下さい」と顔を上げると、闇に紛れてしまったのか、その人の姿がどこにも見えないんですよ。
私は少しばかり焦りましたが、件の家は目と鼻の先だし、もしかしたら一足先に家に駆け込んで、私の事を家の人に伝えているのかもしれないと思ったものですから、私はためらわずに家の戸口に立って声を掛けたのです。
「こんばんは、夜分に申し訳ありません、道に迷って難儀をしているところを、お宅様のお身内に声を掛けて頂き、誠にぶしつけとは存じましたが、お言葉に甘えてごやっかいになりたくお伺い致しました。お身内の方は今日目出度く復員されたと拝察致しますが、そのようなお取り込みのところをお邪魔致し、申し訳ございません」
すると戸口に立つ気配がすると同時にガラッと勢いよく戸が開いて、目の前には目を大きく見開いた男の人が立っていたのです。
以下次回に
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
- 平成16年10月14日(木曜日)
【曇】《13日の続き》
「長い間旅をしておりますと、そりゃあ不思議な事や奇妙な事にも会いますですね。あれはもう7〜8年も昔になりましょうか。その時私は甲州を旅しておりまして、今夜は勝沼泊りと決めて山道を急いでおりました。
季節も今と同じ秋の事ですから、いつの間にか陽はどっぷりと暮れて、そう足元も良く見えない程でした。
前も後も人の影さえないし、ましてや人家など全くない山道でしたから、いくら旅慣れているとは申せ、私も段々と心細くなって来ましてな、思わず運ぶ足も早くなって来て、どこで道を外したのか、気が付けば迷ってしまった訳です。辺りは益々暗くなるし、夜気はどんどん冷えて来るし、こりゃあ今夜は野宿かなと覚悟を決めた時でした。前方の闇の中から急に人の姿がわき出て来て、びっくりして立ち止った私に気付かないのか、かたわらを通り過ぎて行ったのです。私はいい時に人に出会ったと思い、「すみません、道に迷ったようなのですが、出来ましたら人家のある所までご同行願いませんでしょうか」と頼んだ訳です。そしたらね、その人は振り返って、「それはお困りでしょう。実は私も久し振りに我が家に帰る途中でしてね。もう夜も遅いし、どうです、今夜は我が家に泊って行かれたら」と言ってくれたのです。近寄って夜目を凝らして見ますと、その人は復員兵だったので、(あ〃多分どこかの収容所から帰を許されたので、飛ぶような思いで我が家への道を急いでいるのだろうな)と思いました。
私は遠慮なくその人のご厚意に甘えようと決心して、「ありがとうございます、どうかよろしくお願いします」とお礼を言って、目で促すその人のあとについて、夜道を急いだのです。
以下次回に
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
- 平成16年10月13日(水曜日)
【雨のち曇】《12日の続き》
描くというよりは、筆の先から絵が生まれて来て、紙の上に形を残して行くとしか思えない程、老人の手さばきは子供の認識を遥かに超えていた。
ほんの数分の間に見事な老松を描くと、次はその上に薄く色を重ね、最後にもう一度濃い墨で一部を描き込むと筆を置いた。
休む間もなく、老人は竹と梅、そして菊と葉鶏頭を仕上げ、画号を入れて落款を押すと、「奥さん、つたない絵ですが、お礼代りにお受け取り下さい」と言った。
母も私と一緒に老人の仕事を眺めていたのだが、老人の動きに合わせて、「ホーッ」とか「ウーン」とか、何度も感嘆の声をもらしていた事でも、凄く驚いているのが分かった。
「あれまあ、何て素晴らしいんでしょう。ちょっとお待ち下さいね。ご近所の皆さんにも声を掛けますから、描いてあげて下さいな」と言って外に飛び出して行った。
私は老人と雑談して母の帰りを待っていたが、しばらくすると母は近所の人達を多勢連れて帰って来た。
老人がどの位の値段で絵を売っていたのかは分からないが、次から次へと注文をこなし、とうとう夕方になって外が暗くなっても、評判が評判を呼んで、一段落したのは夜の7時近くになっていた。
それではあまりにぶしつけと、しきりに辞退する老人を引きとめ、夕食の席に座ってもらうと、珍しくその夜の食卓には酒が出た。
我が家には酒を嗜む者はいなかったので、食卓に酒が出ると、それは遠来の客の到来を意味した。
私の幼い頃は、行きずりの客が泊るのも、それほど珍しい事ではなかったが、そんな事も段々と少なくなり、その夜は久し振りの見知らぬ客だったので、私だけではなく、父母や兄達も楽しそうだった。
風呂から出た老人を囲むと、父も母も老人の旅の話をせがんだ。
老人は問われるままに、今まで聞いた事もない面白い話や、思わず手に汗を握るような恐い話、そして涙ぐみながら耳を傾ける悲しい話など、夜の深けるまで語り聞かせてくれた。
以下次回に
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
- 平成16年10月12日(火曜日)
【雨】
家の前の通りから、旅人らしい年配の人が入って来た。
大きなリュックサックの他に布製のカバンを肩から下げ、脚にはゲートルを巻いている。
玄関の前に立つと「こんにちは、家の人はいますか?」
私は急いで台所に行くと母に来客を告げ、応待に出る母のうしろから玄関先に戻った。
「奥さん突然に申し訳ありません。旅の絵描きですが、何かお目出度い絵を描かせてもらえませんか」
老人はそう母に告げると、頭に被った麦わら帽子を脱いだ。
母は「まぁお掛けなさいましな。今お茶を入れますから」と、老人を上り框に座らせ、お茶とお菓子をふるまった。
老人は子供の私が見ても、ボロボロに疲れ切っているようだった。
母は黙って席を立つと、間もなく握り飯とたくあんを乗せた皿を手に戻って来ると「もしよかったらおあがり下さい。でも無理には及びませんよ。お気楽にね」と、それを老人の前に置いた。
老人は母に向いて両手を合わせて深々とおじぎすると、静かに握り飯を食べ始め、ゆっくりと全部を平らげた。
お礼にどうしても一枚描かせて欲しいという老人に隣の座敷へ上がってもらった。
老人は荷物の中から色々な物を取り出して行く。
私は見るもの全てが珍しく、老人の手元をずっと見ていた。
老人はニコニコと笑いながら私を眺め「ボク絵が好きかい」と言った。
私は「ウン」と返事をしたが、実際には専門家が絵を描くところなど今まで見た事もなかったから、好きも嫌いもなかったのだ。
やがて老人は墨を摺り終わると、それを何枚かの絵皿に取り、半紙ほどの大きさの紙に描き始めた。
以下次回に
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
- 平成16年10月11日(月曜日)
【雨のち曇】
Y字の木の股のところを使って作るパチンコは、太い針金製に比べて何となく不恰好だったが、握りの感じは針金のものよりずっと良かった。
ゴムは生ゴムの細いホースか、自転車のチューブを細く切ったものを使い、弾を包む当て皮は古いベルトなどの廃物を利用するか、手に入らない時には靴屋に行って切れ端を貰って作った。
強力なものは、生ゴムなら片側2本、チューブのゴムなら本数を加減して、どちらも長さ40cm位に仕上げる。
弾は近くの鉄工所の裏に行くと、直径5mmから1cm位のベアリングが山ほど落ちていたから、それをこっそり頂いた。
当て皮に弾を挟み、弓と同じようにいっぱいに引くと、両腕はゴムの強さでブルブルと震える。
パチンコを持つ腕は発射の瞬間も動かさず、上半身も同じように不動の姿勢を保つと、撃ち出された弾は意外に正確に飛んで、20m以内の的なら必中の確率は相当に高い。
最大射程距離は約200m、扱える自信があればゴムの張りを強くして300m位のばせるだろう。
パチンコは強力な破壊力があったから、厳しいルールを守らないと大変な事になるオモチャだった。
同じように手作りの弓や吹き矢なども、遊ぶ者の高い認識が必要で、子供とはいえ、その程度のレベルを持ち合わさないと、まず仲間外れにされてしまう。
五寸釘で作る手裏剣、しの竹の先にスポークで作った矢先を取り付けた投げ矢なども、同じ部類のオモチャだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
- 平成16年10月10日(日曜日)
【曇】
玄関のあがり框に置かれていた染め付けの大きな火鉢を前に、祖母がこよりを作っている姿をよく見掛けた。
きざみ煙草を嗜む祖母には、いつも使っている煙管の掃除には、こよりは欠かせないものだった。
短冊状に切った和紙を、両手の親指と人差し指を使ってよっていくと、和紙は見ている内に細いヒモになっていく。
最後までよらずに少し残したところに、次の紙の端を重ねてよっていくと、ヒモはどこまでも長くのびていくのだ。
煙管の掃除には長いこよりは必要ないから、短冊一枚で作ったものを20本位まとめて縛って、そこから一本づつ抜いて使っていた。
吸い口からこよりを回しながら差し込み、雁首から出たところを指でつまんで引き出すと、こよりにヤニがベットリとついて来る。
これを何度か繰り返すと、煙管の中はきれいになるのだ。
火鉢のあたりには煙草のヤニ独特の匂いが漂い、大人は何でこんな臭いものを吸うんだろうと不思議でならなかった。
掃除を終えた祖母は、かたわらの煙草盆を引き寄せると、早速煙草を詰めて一服やるのだが、ほっぺたをつぼめて吸ったあと、「ふーっ」と音を発てて煙を吐き出したあと、必ず「シューッ」と音を発てて空気を吸い込むのだ。
それと同じ音を、墓参りに行った時にもよく発てていた。
お線香をあげる前に墓標の周りを掃除したり、古い花を片付けて新しい花を供えたり、汚れた墓石を清めたりしながら、口の中で何やらブツブツ唱えていて、時々息が続かなくなると、煙草の時と同じように「シューッ」と息を吸い込む。
私はそれがおかしくて思わずケラケラと笑ってしまい、墓でそんな風に笑ってはいけないと、よく叱られた。
祖母の煙草盆は、細かいごつごつが集まって固まったような木のコブを細工して作ったもので、長年使い込んで黒光りしていた。
瀬戸の枕もよく使っていたが、試しに頭に当ててみると、堅くて痛くて、とても寝られるどころではなかったので、そんな枕を平気で使いこなす祖母が、私には自分と同じ人間とは、どうしても思えず、祖母はもしかしたら魔法使いかもしれないと、密かに思っていた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
- 平成16年10月9日(土曜日)
【強雨(台風)】
杉鉄砲と同じ原理の紙鉄砲は、杉の代りにチリ紙をクチャクチャ噛んで、直径5mm位の紙団子を作り、それを弾にして飛ばすという、極めて汚い鉄砲であった。
もうひとつの紙鉄砲は、工作用の1cm角位の角棒と、輪ゴムを使って作ったが、これは良く飛び過ぎて少し危険だった。
長さ40cm位の角棒の先に、三本位の輪ゴムを糸でとめ、元の方に長さ6〜7cmの角棒を十字の形で輪ゴムでとめる。
その上に先を斜めに切った角棒(長さは横木と同じ位)を、先の方と横木と重なる二ヶ所を輪ゴムで固定する。
先端の輪ゴムに2cm角位(適当で良い)のボール紙で作った弾を挟み、元まで引っ張って来て、先を斜めに削った押さえにとめる。
あとは標的をよく狙い、横木に重ねた角棒の元を、親指でグッと押すと、紙の弾が飛び出す仕掛けだ。
しかし、この弾はどこに飛ぶか分からないから、非常に危険なオモチャでもあった。
紙の弾だから体に当っても問題はないのだが、目に当ると失明のおそれがあったので、この鉄砲での撃ち合いは決してやらずに、もっぱら的を射る遊びに使った。
あの頃の子供は、子供なりの節度があった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
- 平成16年10月8日(金曜日)
【雨】
末広劇場は、もともと芝居小屋だったから、場内の雰囲気にも普通の映画館とは少し違った特長があった。
映画を上映中に売り子が売り歩くのは、末広劇場の他には有楽館だけだったので、親と一緒に入った時には、焼きイカやキャラメルを買ってもらう楽しみが加わって、胸がワクワクしたものだった。
末広劇場に行った時のもうひとつの楽しみは、劇場の向かい側の角にあった「立花屋」というソバ屋で、めったにないご馳走にありつける事だった。
頼んだのは大抵がかけソバで、それもなぜか二つなのだが、あの頃は客にソバを振舞う時も、盛りならば一人前二枚、つゆ物でかけの時は二杯だった。
私は夏でも湯気の立つどんぶり二つを両腕に抱えて、フウフウ言いながら汁まで平らげた。
劇場を出る時間が遅くなって店が閉まっている時は、流しのラーメン屋の屋台でラーメンを食べたが、ラーメンはいくら頑張っても二杯は食べられなかった。
普段我が家が頼むのは、立花屋よりは柾木屋の方がずっと多かった。
顔見知りの店員さんが、大きなお盆にどんぶりや盛りソバを山のように積んで、まるで軽業師のように自転車で乗りつけ、流れるような手際で荷をおろす。
どんぶりの上に乗った蓋を開けると、美味そうな汁と具の香りが鼻をくすぐる。
具といっても、かけソバのそれは大抵茹でた菜が少し乗っているだけなのだが、それがまたいいのだ。
今はそんな物は珍しくも何ともないのだろうが、あの頃はこの世のものとは思えない程の美味だったのだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
- 平成16年10月7日(木曜日)
【晴】
松ぼっくりをマッチの頭位に小さくしたようなスギの実が、枝の先に青々と実る頃になると、しの竹と竹ヒゴでスギ鉄砲を作った。
スギの実が縦にして少しきつ目に入る位の穴が空いたしの竹を、30cm程の長さに切って中をきれいにし、下に節がついた約6cm程の別の竹にヒゴを刺す。
トコロテンの突き出しと同じように、そのヒゴを約30cmの竹筒に通して、あまりきつくなく、それでいてあまり緩くないように調子をつけるのがコツ。
香り高いスギの実を口いっぱいに入れておき、その内の一粒をまず筒先に押し込み、ヒゴの先で中に突き入れる。
その時スギの実が反対側の口から出ないようにヒゴの長さを調節しておくのがコツ。
次に二つ目のスギの実を最初と同じように入れるのだが、先のやつが飛び出ないように静かにやらなければならない。
これでスギ鉄砲の弾が装填され、あとは竹ヒゴを勢いよく押し込めば、「パーン」と意外に大きな声と共に、筒の先からスギの実の弾が飛び出して行くのだ。
先の弾を押し出したあとの弾が次には発射弾となり、慣れてくるとかなりの早さで撃ち出せるようになる。
しかし、スギの実を口の中に入れて濡らしておかないと、弾と筒の壁との間にすき間が出来て勢いよく撃ち出せない。
だからスギ鉄砲の撃ち合いは、間接的にツバを飛ばし合っているようなもので、今考えると、あまり清潔とはいえない遊びだった。
同じ原理で、何かの木の枝の髄を弾にした鉄砲もあったが、これは音だけは大きくても見掛け倒しで、せいぜい女の子の耳元で鳴らして、相手をビックリさせる位の役にしか立たない。
同じ竹でも直径3cm位の筒に竹のバネを取り付けて、大きな弾を撃ち出すバネ鉄砲の一種は、見た目があまり良くないので人気がなかった。
貧しい時代の夢多き手作りオモチャである。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
- 平成16年10月6日(水曜日)
【晴】
薄い杉板の胴体にボール紙の翼を差し込んで、機首の下のくぼみに輪ゴムを引っ掛けて飛ばすグライダーが、角の鈴木の店先に並ぶようになった。
値段は5円で、針金で出来たパチンコの5円よりも少し高いような気がしたが、パチンコは作れても、グライダーはなかなか作るのが難しいから、みんな結局はグライダーを買う事になる。
これが結構良く飛ぶので、学校の校庭や川原のような広い場所に行くのが面倒な奴は、公園の広場あたりで飛ばすから、大抵は木に引っ掛けるか他人の家の屋根に乗せるかして、せっかくのグライダーをなくす事になるのだった。
グライダーの代りに、7cm位の長さの木製のロケットを輪ゴムで飛ばす事もあった。
このオモチャは先が平らになっていて、そこに薄いブリキの板が釘打ちされ、やはりブリキの蓋がついている。
蓋は本体とヒモで結ばれていて、四枚の紙製の尾翼がある。
このロケットを打上げる前に、先にかんしゃく玉を入れて蓋をする。
こいつを垂直に打上げると、かなりの高さまで飛んで行き、やがて機首を下に真っ直ぐに落ちて来る。
地上に激突すると「バーン」と大きな音で先のかんしゃく玉が破裂して、その衝撃でロケットは予測のつかない方向に飛んで行くのだ。
今思えば、どこが面白くてあんなオモチャで遊んだのか分からないが、あの頃は結構楽しかったのだ。
このオモチャの欠点は、先の蓋が直ぐになくなって使いものにならなくなるところだった。
いくらしっかりとヒモで止めても、何回か遊んでいる内に必ず切れてしまう。
なくなった蓋が見付かる事はめったになかったので、遊びはそれでおしまいになるのだ。
蓋の取れたロケットは、その場にいたミソッかすの誰かにくれてやったが、皆欲しがるのでジャンケンで決めた。
高く澄んだ秋の空に、キラキラと光りながら舞い上がって行くグライダーやロケットの勇姿は、今も心に深く焼き付いている。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
- 平成16年10月5日(火曜日)
【晴】
糸井染工に勤めている若い職人さんが、靴にへばりつけるやつではなく、本格的なローラースケート靴を買って、ヒマさえあれば前の通りで練習するようになってから、私達の間にもローラースケートブームがおこったのだが、たとえどんな形でも、まともなローラースケートなど、どこの親も絶対と言って良い位に買ってくれるはずがなかった。
唯一の例外は高際の和雄くらいのもので、和雄は当然みんなの仲間外れになった。
私達のローラースケートは、ゲタの歯に靴底に使う鋲を打って滑りやすく細工したものが一番多かった。
こいつを履いて助走をつけ、アスファルトの上を滑るのだが、うまくすると10m位は滑れる奴もいた位だ。
少し器用な奴は、金物屋で戸車を4個買って来て板にネジ止めし、そいつをヒモで靴に縛りつけて滑る。
片足2輪づつのこいつの操縦性は抜群だった。
ただし、こいつを乗りこなせる奴は、高橋のおぶちんか柿沼のケンちゃん、それに金子のヨッちゃん位のものだったろう。
糸井の職人さんのローラースケートは、金属ではなくて大きな木の車輪がついていたから、音がとても静かなのが物凄く高級な感じで、皆羨ましくて仕方がなかった。
職人さんは見物人がいるので張り合いがあるのか、いつも熱心に練習していたが、特に若い女の人が通り掛ると、一際目立つように振舞うのが、私達子供にもよく分かった。
ある時、いつものように練習していると、おまわりさんが自転車に乗ってやって来て、物凄い声で職人さんを叱り飛ばし始めた。
あの頃のおまわりさんは、信じられない位恐かったのだ。
交番に連れて行かれそうになった時、騒ぎを聞きつけて外に出て来た糸井のオジさんが何とか話をつけてくれたので、職人さんは引っ張られずに済んだ。
その時から、職人さんは二度と表通りをローラースケートで滑る事はなく、私達は少し淋しい気持ちで何日かを過ごした。
やがて私達もローラースケートごっこに飽きてしまい、また違う遊びに熱中した。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
- 平成16年10月4日(月曜日)
【雨】
「雨が降ります雨が降る、遊びに行きたし傘はなし…」
京子ちゃんとさや子ちゃんが、歌いながら踊っている。
風邪をこじらせて床についている私を励まそうと、二人で相談してお見舞いに来てくれたのだと母が言った。
熱も少し下がって気分も楽になったので、二人のお見舞いは本当に嬉しかった。
今年の文化祭(学校祭)で発表する踊りを、さや子ちゃんが京子ちゃんに教えて、代りに京子ちゃんは「里の秋」をさや子ちゃんに教えたのだそうだ。
京子ちゃんとさや子ちゃんは二つ違いで、家も直ぐ近くだったが、京子ちゃんが私達とは違う山辺小学校に通っていたので、学校の事では共有するものがあまりなかった。
男の私にとっては、女のおゆうぎ(踊り)なんか全く興味はなかったが、せっかく心配して見舞いに来てくれたのに変な顔も出来ず、二人の踊りを見物した。
脇に座っている母は、少し大袈裟な身振りと口振りで二人の踊りを誉めそやしていたが、私には母が誉めるほどの出来とは、どうしても思えなかった。
私だけでなく、男にとって何が一番嫌な授業かといえば、運動会などの行事の時に発表する、おゆうぎとフォークダンスの練習だった。
小三までのおゆうぎはまだ良いとしても、四年生以上になって練習するフォークダンスだけは、皆逃げ出したい程恐ろしかったのだ。
その位だから、二人が一生懸命踊っているのに関心が持てず、内心とても後ろめたい気持ちでいっぱいだった。
踊りが終わると、母は二人に心づくしのお菓子とミルクをふるまい、私も相伴した。
歌だけでなく、その日は本当に雨降りであった事も手伝って、二人は夕方近くまで、私の枕元で遊んでくれた。
そばで親しい者の声がしていると、こんなにも気持ちが休まるのかと、その時私は思った。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
- 平成16年10月3日(日曜日)
【雨】
金のトビの広場の東南の角にあった広告搭の丸い石の台は、高さがちょうど腰掛け位だったから、作る時に多分そんな使い方も計算に入れていたのだと思う。
3m程の高さで八角形の灯台のような搭だったが、秋の頃になると毎日のように、石の台に腰掛けているアメリカ人の姿があった。
あまり背は高くはなかったが、金髪で青い瞳という、その頃日本人が連想する外人のイメージそのものの容姿だった。
私達が近付いて行くと、その人はニコニコと笑いながら、自分のポケットからピーナツをつかみ出して手に乗せてくれた。
「サンキュー」と私達が礼を言うと、その人は「どういたしまして」と意外に上手な日本語で答えてくれた。
太田市校外の小泉町には、旧中島飛行機のあとに米軍の基地があり、太田市内にも将校クラブや米軍の施設があったから、足利公園にアメリカ人の姿があるのは、それほど珍しい事でもなかったけれど、同じ人が毎日同じ場所にいるというのは、あまりない事だった。
私達は恐る恐るその事を尋ねると、その人は朝鮮の戦場から休暇で太田に来ているのだという事だった。
足利公園の南に友人の家があって、休暇中はそこに世話になっているので、毎日公園に散歩に来ているのだと言った。
数日後、その人の姿は公園から消えた。
私達は休暇が終わって、再び朝鮮に戻ったのだと思い、皆でその人の無事を金のトビに祈った。
やがて人づてに、私達はその人が朝鮮で戦死した事を知った。
その時からしばらくの間、私達は広告搭の近くに行く毎に野の花を摘んで、石の台のいつもその人が座っていたあたりに供えた。
私達にとって、広告搭はその人の墓標だった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
- 平成16年10月2日(土曜日)
【晴】
その日は午後から、月見ヶ丘女子高校の講堂で開催される演奏会に出席するため、なかよしクラブ(西小学校合唱団)のメンバーは授業に出なくても良い事になっていた。
クラスの仲間の「ブーブー」という抗議のやじを背に、(そんな事言ったって仕方がねえだろう。何も好きで出掛けるんじゃねえや)と心の中で皆に毒ついた。
明日あたり、どうせまた嫌味のひとつも言われるのだろうと思うと、何だか面白くなくて妙に腹が立った。
「合唱団の皆さんはいいですねえぇぇ、俺達が頭を抱えて一生懸命勉強に励んでいるというのに、皆さんは仲良くピーチクパーチクですか。いいですねえぇぇ」と、こんな調子だ。
あいつらが頭を抱えて一生懸命勉強しているところなど、ただの一度も見た事はないが、そんな風に言われると返す言葉がなかった。
私だって立場が逆だったら、多分同じようなセリフをピーチクパーチク奴らにぶつけていただろうからである。
正直私は、合唱団のメンバーである事に、一種の負い目を持っていた。
普段一緒に行動している仲間の中で、合唱団に入っているのは私一人だったのだ。
少し早めに会場に着くと、講堂の前の広場で高校生の一団がリハーサルをしていた。
引率の野沢先生が、「あれは足高の代表だよ。指揮をしている藤岡先生は、素晴らしいソプラノだから、みんなもよく聴いておきなさいよ」と私を近くに連れていった。
曲目は「流浪の民」だった。
少しハイテンポで弾むようなピアニッシモから、やがてメゾピアノに、そしてメゾフォルテからフォルテッシモへと、水が流れたゆたうように、それでいて軽々と無理のない男声四部合唱を聴いていると、私達とは比べものにならないレベルの高さが、深い感動と共に伝わって来た。
男声の中に一人だけ加わっている藤岡先生の、まるで陽にきらめく水滴のようなソプラノが、全く違和感もなく響いてくるのも不思議だった。
その日の私達の合唱は、いつになく良い出来になったと、野沢先生がほめてくれた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
- 平成16年10月1日(金曜日)
【晴】
私の前の席は、栄町のたまご屋の相場昭子さんが座っていた。
相場さんも私も新聞委員である上に、クラスの図書委員だったから、普段も行動を共にする事が多く気心も知れていた。
そんな気安さもあってか、ある日相場さんが先生の指示に従って教科書を読んでいるスキに、イスをそっと引いてイタズラを仕掛けたところ、それが絵に描いたようにうまくいったのだ。
相場さんは見事に床まで尻を落とし、後頭部を私の机の前にぶつけると、そのまま両腕で顔をおおって激しく泣き出した。
川島先生は烈火の如く怒りまくって、私の頭を黒板消しで3〜4回殴りつけると、襟首をつかんで廊下に引っ張り出した。
「先生がいいと言うまで廊下に立ってろ」
先生は激しく私を怒鳴りつけて教室に戻ると、まだ泣き続けている相場さんのもとに行き、しきりに慰め始めた。
周囲の女生徒も、同情を顔中で表現しながら相場さんを抱えるようにして慰めている。
私はそんな様子を廊下から眺めながら、(フン、あの位で泣くようなタマかよ。大した事でもねえのに、この時とばかりに良い子ぶりやがってよ。カッコつけるんじゃねえよ)と内心思っていた。
その時間の授業が終わると、職員室に戻る先生達が私の前を通り過ぎて行く。
黙ってジロッと睨みつけて行く先生もいれば、出席簿でパカンとひとつ頭を叩いて行く先生もいる。
「オッ渡辺、また何かやらかしたな」と何だか嬉しそうに声を掛けて行く先生や、「渡辺君何をしたか知らないけれど、早く先生に謝って許してもらいなさい。先生も一緒に謝ってあげるから」と、淑やかに声を掛けて来る先生。
私はどちらかというと、そういう先生が一番苦手だった。
昼休みになると、私はやっと許しが出て教室に戻る事が出来たので、給食は何とか皆と一緒に食べられた。
さっきあった事など、もうすっかり忘れて自分の席で友達とワイワイやっていた時だった。
何の前触れもなく私は首のうしろを強打され、その衝撃で一瞬気が遠くなった。
相場昭子の復讐の刃を、不覚にも首に受けてしまったのだ。
ショックが遠のいて後を振り向くと、そこには本を片手に持って勝ち誇って立つ、相場昭子の姿があった。
■アトリエ雑記は平成12年12月15日からスタートしました。
作家と工房のご紹介 ⇒ 肖像画の種類と納期 ⇒ サイズと価格 ⇒ ご注文の手順 ⇒ Gallery ⇒ 訪問販売法に基づく表示
| What's New | Photo | アトリエ雑記 | Links | BBS |
| ご注文フォーム | お問い合わせフォーム | ネットオークションのご案内 | サイトマップ |