アトリエ白美「渡辺肖像画工房」 渡辺晃吉
- 平成16年9月30日(木曜日)
【晴】
堀越山のくるみが、そろそろ採り頃だとおぶちんが言うので、晩メシのあとに行こうという事になった。
「どこに行くの?」と問いただす母に「虫採り」とウソをついて、私は家を飛び出しておぶちんの家の前に行った。
そこにはもうオッちゃんとマー公、そして林のトシと金子の武が来て待っていた。
出て来たおぶちんを先頭に、私達は堀越山へと向かったが、山といっても堀越山は山ではなくて、堀越の屋敷に隣接する森なのだ。
杉や椎の大木がうっそうと茂り、太い藤づるが垂れ下っているところなどは、まるでターザン映画に出て来るジャングルのようだった。
くるみの木は森の南の外れで、渡良瀬の土手の直ぐ下の所に三本立っていたが、いずれも10m以上の巨木なので、木登りがよほど達者でなければ、とても登る事など出来なかった。
それが幸いして、これほどの豊から恵みを手にする事の出来る奴は、私達以外にはあまりいなかったのだ。
勿論くるみの木の持ち主は堀越さんだから、早く言えば私達は他人の家のものを盗む事になるのだろうが、あの頃の子供達にとって、木に生るものは、それが他人の家のものであっても、黙って頂く事に大した抵抗はなかった。
私達は闇に身を隠しながら、土手の下から堀越山に忍び込んでいった。
おぶちんと私が木に登り、あとは下でくるみを拾うという段取りで、私はポケットに肥後守が入っているのを確めると、ロープを肩に掛けて真ん中の木に登って行った。
木の一番下の枝に辿りつくと、少し上の枝にロープをしばって下に投げ、おぶちんが上って来るのを手伝った。
それから二人で手分けして、手に届く範囲のくるみの房の元を肥後守で切り離していった。
下にいる連中は落ちて来るくるみに当って、時々悲鳴をもらしながらも、用意したザマの中に手当たり次第放り込んで行った。
30分もたたない内に四つのザマはくるみで一杯になったので、下からの合図を受けて木をおりると、私達は来た時と同じように、闇に紛れてその場を脱出した。
その夜の収穫は、やがて到来した冬の間、一人でこっそりと楽しむには充分の量であった。
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- 平成16年9月29日(水曜日)
【晴】
学校から帰る途中で、急ぎ足で向こうからやって来る田中と出会った。
「どこに行くんだ?」と尋ねると、田中は柳原町にじゃんぼんがあるので、念仏玉を貰いに行くのだと言った。
それを聞いた私達は、田中と一緒に行こうと話が決まり、邪魔なカバンを行く道にある5丁目の八雲神社の床下に放り込んで道を急いだ。
ヘビ屋の前を通る時に、店先のウインドーの中を覗いてみたい気持ちをおさえて、大日様の脇を抜けて柳原小の近くに出ると、子供達が列を作って道の端に並んでいるのが見えた。
「ジャンボーン・ジャンボーン」と、くわえ煙草のおじさんがドラを鳴らしていたので、私達は何とか間に合ったと思った。
列のうしろにつくと、前の奴がとがめるような顔つきで私を睨み付け、自分の前の奴に何か耳打ちをした。
耳打ちをされた奴もうしろを振り返ると、私達をじっと睨んでいたが、自分達より頭一つでかい吉田がスイッと出て来ると、慌てて前を向いたきり二度とうしろを振り向かなかった。
念仏玉はキャラメル一箱と20円入った袋だったので、私達はここまでやって来た甲斐があったと狂気した。
本当は二度貰いをしてはいけないという暗黙のルールがあったのだが、岡田と宮内はチャッカリと二度貰いをしたので、私達は二人の獲物を皆で分ける事で許す事にした。
キャラメルは平等に分けて、お金は帰りに綿屋で酒まんじゅうを買って食べた。
酒まんじゅうは40円で八個買えたので、皆は大いに満足した。
家の近くまで来ると、私達はカバンを忘れて来た事に気付いたが、何も全員で取りに行く事はないという事になり、ジャンケンで負けた二人だけが行く事にした。
結局岡田と家住がブーブー文句を言いながら取りに行く事になった。
私は二人が気の毒だったので、家からそっと一番小さいリアカーを持ち出して二人に貸してやった。
行きしぶる二人を何とかなだめながら送り出すと、私達は薬師様の前で待つ事にしたが、そこに向かう途中で母に見付かってしまい、何となく様子がおかしいのを察知した母に、宮内が口を割ってしまった。
私はその日の晩めしにはありつけず、空きっ腹を抱えて寝る事となった。
それでも私は、思わぬ余禄を手にした今日は良い日だったなと、一人でニタニタしながら考えていた。
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- 平成16年9月28日(火曜日)
【曇時々雨】
その女の人が町内に入って来たのは、そろそろあたりが薄暗くなり始めた夕方の5時を少し過ぎた頃だった。
家々の台所の煙突から出た煙が、ちょうど軒先ほどの高さで横に棚引いて、少し離れた所も靄の中に霞んでいた。
女の人は靄をかき分けるように、私達が遊んでいる所に突然出て来たのだ。
オレンジ色の派手なよそ行きの服と靴を履いて、手にはギターを持っていたので、私達は一目でこの女の子はおすがちゃんと同じような人だと分かった。
私達は大慌てで逃げ出したが、糸井のチー坊がつかまってしまった。
チー坊は最近やっとヨチヨチ歩きが出来るようになったばかりだったし、兄のオチ坊やクン坊が、チー坊を見捨てて逃げてしまったので、可哀想につかまってしまったのだった。
女の人はギターを放り出してチー坊を抱き上げると、ほおずりをして子守歌を歌いながらあやし始めた。
チー坊は恐怖のあまりに涙とヨダレで顔中をビショビショにして泣き喚いて暴れたが、女の人はしっかりと抱きかかえて離そうとしなかった。
私達は何とかチー坊を助けたかったけれど、女の人が恐くてどうしても近付く事が出来なかった。
家に駆け戻ったオチ坊から事情を聞いた母ちゃんが、小さな体をつんのめるようにして駆けつけて来ると、「うちの子に何するんですか」と叫びながらチー坊を取り戻そうとしたが、女の人は「あなたこそうちの子に何をするんですか。主人に言いつけますよ」と、凄い剣幕で離そうとはしなかった。
母ちゃんの顔を見たチー坊は、益々泣き喚きながら両手を突き出して助けを求めたのに、誰も助けられずにいた。
そこへチー坊の父ちゃんが何人かの助っ人と一緒に駆けつけると、有無を言わせずにチー坊を女の人から引き離して母ちゃんに渡した。
女の人はギャアギャアと訳の分からない叫び声を上げて抵抗していたが、その内に急におとなしくなって放り出したギターを拾うと、まるで何事もなかったかのようにその場を去って行った。
その晩床についた時に、知らない女の人につかまったチー坊は、どんなに恐かったろうと想像して身震いをしたが、何だかあの女の人が可哀想で仕方がなかった。
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- 平成16年9月27日(月曜日)
【晴】《26日の続き》
精錬所の中は想像していたよりずっと広大で、迷路のように複雑な所だった。
斜面に作られているために通路に階段が多く、広さの割には働いている人の姿が少ないのも意外であった。
私達は案内係の人に引率されて、所内のあちこちを見学した。
今までに見た事もない設備や機械は、途切れずに耳に響いて来る音と共に私達を無言で威圧した。
精錬所の中はどこに行っても薄暗く、独特の匂いがしていた。
見学は鉱石が投入される行程から始まり、精錬が終わって鉱滓が捨てられるところで終わった。
足尾は銅だけでなく、他の鉱物も若干生産していて、金や銀のインゴットが展示されている場所では、直接手に触れる事も出来たが、セピア色の世界の中で、そこだけが妙に華やかだった。
見学が終わると、あたりはもう夕闇に包まれていた。
私達は精錬所の一番下にある足尾線の終点ホームに待っていた列車に乗って帰路についた。
発車を待つ間、私はホーム越しに見える黄色い鉱滓の山をずっと眺めていたが、松木沢に積まれていた真っ黒な鉱滓と、目の前にあるものとの色の違いが不思議でならなかった。
動き出した列車の窓から、渡良瀬川両岸の急斜面に建ち並んでいる社宅や民家の灯が、頭上に広がっているのが見えたので、私は線路が川底に近い所を走っているのを知った。
そこから先は駅に着くまでの間、あたりには人家の灯がほとんどなくなり、それだけに駅の灯の明るさが恋しかった。
帰りは行きよりも一般乗客の人数が多くて、私達が座っている席の近くにも、多勢の人達が立っていた。
誰からともなく席を譲り始めると、アッという間に席のほとんどは通路の客で埋まって、体調を崩した何人かを除いて、皆通路やデッキに立っていた。
私は何人かの仲間とデッキに出ると、乗降口の手すりにつかまって外の景色に目を凝らしたが、月もない夜の谷は、真の闇の中にあった。
「しっかりつかまっていないと落ちるよ」
うしろから川島先生が声を掛けて来たので、「ハイ」と返事をしながら上に戻った。
先生も車内の人いきれを避けてデッキに出て来たのだろう。
デッキは列車の立てる音と風が吹きすぎて行く音で、近くにいる人の声もよく聞えない位だったが、ガタゴトと揺られながら立っていると、なぜか汽車に乗っているという実感が強くして、私は好きだった。
午後7時30分頃、列車は足利に到着し、小学校5年生の秋の修学旅行は終わった。
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- 平成16年9月26日(日曜日)
【晴】《25日の続き》
引率の先生からの注意事項のあとに、30分の自由時間が与えられた。
私は仲間と離れて、直ぐ目の前にある枝尾根の向こうを見たくて、右のガレ場についている細い道を辿って行った。
斜面を斜めにのぼって行く道を行くと、5分ほどで尾根に出た。
街道からは50m位高くなっているだけだったが、そこからは左前方に広がる松木沢と、左方向に続く備前楯山の岩嶺や山腹が、ずっと良く見えた。
精錬所は街道から見たよりも、施設の様子を細部まで眺める事が出来たが、それだけに、まるでのしかかるように迫って来た。
尾根に立って正面を見ると、更に荒涼とした岩嶺が北から南へと連なって、私の立っている枝尾根との間には、生きるものの気配が全くない谷が深くえぐれて、渡良瀬本流へと落ち込んでいた。
足下は巨大な岩塊が転がる急斜面が左右に続き、右手の遥か高みにある山頂に近付くにつれて、その角度を大きくしているのがよく分かった。
眼前は右から左まで、ほとんど垂直の壁が続いて、僅かな緑さえ目にする事の出来ない風景を作っていた。
私は息を飲んで、その光景をいつまでも見続けていた。
「オーイ渡辺、そろそろ集合時間だぞ」
下から仲間が掛けてくれた声を聞くと、私は我に返ってガレ場の道を街道へとかけ下って行った。
点呼が済むと、私達はまた二列縦隊でもと来た道を引き返し、足尾の町を抜けて鉄橋を渡り精錬所へと向かった。
精錬所の正門は、橋を渡って直ぐの右手に開いていたが、道はかなりの広さで備前楯山の奥へと続いているようだった。
その先のY字路に赤レンガの大きな建物が、ガイシのついた有刺鉄線に囲まれて建っているのが見えた。
私はそれを見ると、アウシュビッツのユダヤ人強制収容所を思い出し、何だか恐ろしい気持ちになった。
戦争中は、強引な方法で労働者をまかなったような話を大人達から聞いていたので、あの建物も、その当時の名残りなのだろうかなどと勝手に想像しながら、縦列を組んで門の中にと入って行った。
以下次回に
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- 平成16年9月25日(土曜日)
【晴】《24日の続き》
足尾駅に近付くにつれて、眼前の風景は後にしたそれとは全く異なる様相が歴然として来たばかりではなく、両岸の斜面には鉱山労働者の住宅や施設が建ち並び、独特の雰囲気を作っていた。
私達は同じ県内、しかも行政区は足利に組み込まれていると学んだ事もあって、足尾は身近な土地という印象が強かったのだが、今、目の前にある足尾の地は、まるで外国の見知らぬ地に降り立ったのと同じ位に異郷だった。
足尾駅に着くと、私達は僅かな一般客と共に下車して、駅前の広場で整列した。
一組から順に二列縦隊で左岸を川上に進むと、直ぐに人家が途絶え、街道の左は深い谷となって落ち込んでいた。
対岸には備前楯山を背に足尾精錬所の広大な施設が、一片の情緒もなく山腹に並び建ち、右に目をやれば渡良瀬源流の松木沢が、褐色を地肌をむき出して霞んでいた。
背後には街道の直ぐ脇まで急勾配のガラ場が、遥か頭上の尾根まで続き、途中には沢山の墓標が立っていた。
目に入る全ての風景からは、鮮やかな色彩や柔和な色調が奪われていて、あるのは荒廃を象徴する褐色の複雑なバリューだけだった。
私はたしかに、この人為的な破壊の爪跡を見る事で、仲間達と同じように大きな衝撃を受けたのだが、同時に、無機的で荒々しい風景に、身震いするほどの感動が湧き上って来るのを、おさえる事が出来なかった。
無限に変化する褐色のバリューとガサガサなマチュエールはそんな風に考えてはいけないのだという理性の声を押しやって、私には例えようもない美として目に映ってしまうのだった。
遥か頭上に張られたワイヤーを伝って、長い建材のようなものが精錬所の方に運ばれて行く。
それを最初に見付けた仲間の声に促されて、全員が一斉に顔を上げたきっかけに助けられて、私は自分の印象を口にせずに済んだ。
口にすれば多分、またおかしな奴というレッテルを貼られたろう。
以下次回に
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- 平成16年9月24日(金曜日)
【晴】《23日の続き》
神戸(ごうど)を過ぎて沢入(そおり)の駅にさしかかると、左の車窓には二子山から袈裟丸連山が、右の車窓には、栃木と群馬の県境を形成する丸岩、熊鷹、根本、氷室の峰々が、驚く程の高さで見えて来た。
山々はこのあたりでは、まだ原生のままでうっそうと茂っている。
やがて右前方に地蔵岳が見えると間もなく、汽車は県境の分水嶺を越えて、群馬県から栃木県へと入り、原向(はらむこう)の駅に着いた。
列車交換待ちが終わり、再び走り出した列車が、次の通洞駅に着く手前から、前方の風景に大きな変化が見え始め、私達はその異妖な山々に息を飲んだ。
銀山平から庚申山に至る道が、街道から左の山ひだに分け入って行く所を過ぎるあたりから、裾野に足尾精錬場を抱く備前楯山が目に飛び込んで来る。
どんな事をしたら、これほどの破壊が可能なのだろうと、我が目を疑う風景があった。
茶褐色のむき出しの岩肌には、文字通り草木一本生えていないばかりでなく、強大で邪悪な力が、何らかの意志を持って目の前にある自然を叩き壊したとしか思えないような、恐るべき荒廃がそこにあった。
僅かに存在する色彩は、明らかに毒を含んだ物しか出す事の出来ない不気味な色調で、褐色の中にへばりついていた。
私達は生まれて初めて目にした光景に、ただ呆然として言葉もなく見入るだけであった。
「皆よく見ておくんだよ。これは全部人間のした事なんだからね」
担任の川島先生が、私のうしろから声を掛けて来た。
その声は心なしか、怒りに震えているように聞えた。
以下次回に
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- 平成16年9月23日(木曜日)
【晴】
小学校5年生の秋の修学旅行は、足尾銅山と鉱毒による環境破壊の実情を見学するという、少し重い内容だった。
国鉄足利駅から桐生まで行き、そこから足尾線に乗り換えて、渡良瀬川を源流近くまでさかのぼって行くのだ。
終点までトンネルはないから、機関車の煙の心配をしなくても良いのが、足尾線のいいところだ。
大間々を過ぎたあたりから、山はチラホラと紅葉し始め、上流に進むにつれて色付きが濃くなって行く。
急なのぼりのためか機関車の速度は遅く、単線の列車待ちの時間もあって目的地にはなかなか着かなかった。
歴史と社会科の授業では、足尾の山々は草木一本も生えてないほど荒れ果てていると聞いたが、眼前の風景は豊かで美しい自然が続いている。
既に渓谷の様相となった渡良瀬川は、清んだ流れを白く泡立ててかけ下っていた。
この風景のどこに破壊の爪跡があるのだろうかと、私は不思議な気持ちのままに、車窓をよぎる景色に目を奪われていたが、両岸の山々はみるみるうちに高度を増し、それにつれて谷はますます深くなって行った。
私は家の近くで見慣れていた渡良瀬川と、今、眼下をさかまき流れる川が同じものとは、どうしても思えなかった。
以下次回に
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- 平成16年9月22日(水曜日)
【晴】
5年生の2学期になると、今までの班編成がグループという呼び方に変わり、机の並べ方も黒板に向かって一列という形ではなく、各グループ毎にテーブルのような組み方になった。
班長もグループ長という、何だかよく分らない言い方に変わり、全員が対面しながら授業を受ける形となった。
どうしてそうなったのかは全く分らないが、この形には今までとは違った利点もあった反面、居眠りしたりサボったり出来ないという欠点もあったので、立てた本の影でマンガを読むなど、もう夢のまた夢となってしまった。
私のグループのグループ長は内田政子さんで、私はなぜか悪共の策略のために、ルーム長という役につけられてしまった。
内田政子さんは成練も良かったが、学校の合唱団のピアノ奏者もやっているという、今でいう才女だった。
私はなぜか内田さんには頭が上がらず、クラスの中に姉が一人居るような気がしてならなかった。
姉といえばもう一人、家も近い前原富子さんも姉のような奴だった。
それから姉というより身内みたいな雰囲気の岩崎ちず子さんとは、小学校1年の時からずっと同じ組で、それは中学に行ってからも3年間続いたから、9年間を同じ組で過ごした事になる。
あの頃は妙にアメリカナイズされた環境を、無理矢理作ろうとしていた感じがしてならず、どこか不自然でわざとらしい気がしたのは、多分子供達ばかりではなかったろう。
街に出れば、まだGIが我が物顔で歩いていた、そんな時代だったのだ。
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- 平成16年9月21日(火曜日)
【晴】
秋の運動会が近付くと、雨の日以外は毎日のように練習があった。
その中で一番力を入れたのが分列行進で、一糸乱れぬとはいえないものの、かなりのレベルだったと思う。
マスゲームやフォークダンスも念入りに練習し、各競技の入退場やスタートは、皆慣れていたので一回か二回の練習で本番に臨んだ。
練習なしの種目は玉入れと棒倒し、そして騎馬戦だった。
しかし、入場と退場、そして号令で騎馬を組み立ち上がって合図を待つまでは、何度も何度も練習した。
運動会の花形種目は何といっても町内対抗リレーで、1年生から6年生までの男女が熟戦を繰り広げる。
学年別クラス対抗リレーもなかなか人気があったが、1年から6年までの同じクラスがブロックを作って対戦する、ブロック対抗リレーは、町内対抗リレーと同じ位に白熱した試合となった。
昼になると、全員家族のところに行って食事をしたが、これが今とは比べものにならない程、嬉しいものだった。
重箱の中に詰まったのり巻きやいなり寿司はいうに及ばず、盛り沢山の御馳走に果物。
一年を通して、またとない機会なのだ。
運動会が終わると秋が深まって、周囲の山肌が少しずつ色づき始める。
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- 平成16年9月20日(月曜日)
【晴】
学校からの帰り道に、この世で何が一番恐いかという話になった。
一番はオバケだと皆の意見が一致したが、二番目がなかなか決らない。
おまわりさんと人さらいは別にして、お医者さんという奴もいるが、先生はもっと恐いという奴も多かった。
結局二番目は母ちゃんという事になり、三番目が先生でお医者さんは四番目で落ち着いた。
順番はよく分からないが、大抵の奴にとって恐いものはというと、蛇とカマキリ、ゼンタマンとバタケン、桜木の神主と白石山房の番人、岡島は飛行堂のおやじがおっかないと言った。
私はどちらかというと、夢の屋のおやじの方が恐かったし、大越のオッちゃんは我が家の犬のフジが恐いのだそうだ。
フジは物凄く頭が良くて、おまけに直ぐ噛み付くから、誰もイタズラをしなかった。
だからフジは町内を我が物顔でのし歩いていた。
フジの前でケンカのマネ事をすると、フジは歯をむいて私の相手に向かっていったから、皆はフジに一目も二目も置いて、道ですれ違う時などはお世辞を使ってやり過ごすのだった。
私は母屋から工場に行く途中の、林と高橋の間のすきまが恐かった。
昼間はどうという事もないのだが、夜そこを通ると、真っ暗なすきまから何か出てきそうで、なるべく見ないようにして走りすぎた。
工場の裏の薬師様の脇は、昔幽霊が出た所なので、恐いとか恐くないとかいう前に、夜近付いてはならないタブーの場所だった。
でもよく考えると、オバケと同じ位に恐い所が、どこの家にもあったのを皆忘れていた。
それは夜の便所だった。
その事に気が付いたのは平野のヤッさんで、聞いたとたんに、全員が一斉にうなずいた。
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- 平成16年9月19日(日曜日)
【晴】
内山百貨店と本島商店の間に、板作りの修理工場があって、ライラックという名のオートバイを売っていた。
ライラックはドイツのBMWと同じシャフトドライブが特長で、国産では唯一のメーカーだと看板に書いてあった。
ドライブシャフトをイメージした花のような形が、中の電灯で光りながら、くるくると回る看板も入口の上についていて、学校の帰りによく止まって見物した。
「ぼうず、これがそんなに面白いか」
修理工場のオジさんが私に声を掛けてくる。
「ウン」と返事をすると、「オートバイ乗るか」と言って、オジさんがまたがっているオートバイの後部シートを手で叩いたので、私は即座に「ウン乗る」と答え、急いでシートに乗ってオジさんにつかまった。
「おっこちるんじゃねえぞ」と大声で叫ぶと同時に、オジさんは胸のすくような快音とスピードでライラックを発進させ、私はあまりの面白さに背中がゾクゾクした。
7丁目の切通しの手前で左折して、足利公園の水道山にのぼる坂を一気に走り抜け、金のトビの丘の左を回って蓮台館の前に出ると、八雲神社の広場に続く下り坂を下り、神社の参道をぬけて大通りに戻り、我が家の前まで乗りつけてくれた。
その間10分と経っていなかったので、私はオートバイというのはスゴい乗り物だなと、心から感嘆し、いつか必ずオートバイに乗るのだと堅く決心した。
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- 平成16年9月18日(土曜日)
【晴】
母はミーの姿を見ると、館林にやった事をひどく後悔して、「ミーごめんよ、もう決してよそにやったりしないから、機嫌を直しておくれ」とミーに謝ったが、ミーの怒りは静まるどころか母の顔を見る事で更に強まったようだった。
「ニャーニャー」と鳴きまくりながら、人の手の届かない所に登ってしまい、少しもじっとしていないのだ。
私はそんなミーを見るのは初めてだったし、猫も人間と同じように、淋しかったり怖かったり、腹が立ったり悲しかったりするんだなと思った。
母は何度も何度もミーに謝り、ミーは何度も何度も母に文句を言い続けた。
辺りが少し暗くなる頃、ミーの怒りの声は少しづつ間が空くようになり、夜になると、ついに家の中に入って来た。
ミーは直ぐに自分のごはん茶碗の置いてある所に走って行き、その前に座って「ニャー」と鳴いたが、その鳴き方は今までとは全然違って、以前のミーと同じだった。
母は急いでごはんを入れてやると、その上にカツオ節をいっぱい乗せてよくかき混ぜ、特別に煮干を5匹も振舞った。
ミーは本当に満足そうにごはんを食べた。
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- 平成16年9月17日(金曜日)
【晴】
私は工場に着くと、直ぐ父に「ミーが帰って来たよ」と大声で知らせた。
父は「ウソいえ。似たような猫だろう」と信じようとしなかったので、「違うよ間違いなくミーだよ。すごく怒ってるよ」と食い下がった。
「どれ、どこにいるんだ」
庭に出て来た父を見たミーは、逃げるように堺の塀の上に乗ると、父と私に向かって物凄い声で「ニャーニャー」と喚き散らして、決して近くに寄って来ようとはしない。
父もさすがに驚いて、「何だミー、お前館林からここまでよく帰って来たなあ」と言うだけだった。
いくらなだめても、エサを見せても、ミーは「ニャーニャー」と怒りまくるばかりで、私達はどうして良いか分らなかった。
父は「とにかく母屋に母さんがいるから、何とかミーをそっちへ連れて行け」と言うと、逃げるように工場に入ってしまった。
仕方なく私は、「ミーむこんち(向こうの家)に行こう」と声を掛け、母屋に向かって歩き始めると、ミーもイヤイヤながらという感じで、あとからついて来た。
母屋に入ると、私は直ぐに「ミーが帰って来たよ」と母に告げた。
「ウソいいなさい。どうしてお前はいつも変な事ばかり言うんだろうね」
母は私の話を全く信じようとしなかったので、「本当だよ。ウソじゃないよ。ミーすごく怒ってるよ」と告げると、母は半信半疑の様子で外に出て来た。
母とミーの目が合うと、ミーは今までと比べ物にならない大きな声で、誰が見ても強い怒りと抗議を精一杯私達にぶつけているのは明らかだった。
「何で私をあんな遠くに連れて行ったのよ」と、人間なら泣き叫んでいるんだろうなと、私は思った。
以下次回に
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- 平成16年9月16日(木曜日)
【晴】
ミーがやたらと仔を産んで、その貰い手を探すのが大変だという理由で、今の仔達の手が離れたら、館林の親戚の家にくれてしまおうと、私に知らせないように相談がまとまっていたらしい。
ある日学校から帰ってみると、いつも庭先か玄関でゴロゴロしているミーの姿が見えなかった。
たまにはそんな事もあるから、別に気にもしないで遊びに出たが、夕方になって家に戻ってもミーがいない。
何か変だなと思って祖母に尋ねると、祖母は奥歯に物がはさまったような返答で、一向に要領を得なかった。
これは絶対におかしいと思い、今度は母を問い詰めると、最初の内はとぼけていたが、最後には館林の親戚にやってしまった事を白状した。
私はその晩ハンストを決行し、本当は翌朝もそうしようと決心していたのだが、空腹には耐えられず、ミーには本当に悪いとは思いながら、納豆とノリのおかずで六杯もおかわりしてしまった。
それからしばらくは、帰宅した直後にミーがいるような気がして、その瞬間とても淋しい気持ちになって仕方がなかったが、段々とミーのいない事に慣れ始めた頃だった。
いつものように学校から家までの道を来ると、ミーによく似た薄汚い野良猫が、何かを拾い食いしているのに出くわした。
私は思わず「ミー?」と声を掛けてしまい、その直後、(そうか、ミーは館林だったんだ)と気が付いて、何気なくその場を立ち去ろうとした時、その野良猫が私の方を振り向いて、あの耳慣れた鳴き声で「ニャーッ」と返事をしたではないか。
私は本当に驚いて、「ミーお前か、本当にお前ミーか?」とかけ寄って行くと、そいつはまるでいじめっ子にいじめられたかのような勢いで逃げたが、少し行くと立ち止まってこっちを見て、また「ニャーッ」と鳴いた。
まちがいない。そいつはミーだった。
しかし不思議なのは、私が近付くと、まるで他人に追いかけられているかのように逃げてしまい、そのくせ安全な距離をおいて、「ニャーニャー」と泣き喚くのだった。
私はどうしていいか分らず、とにかく家に知らせなくてはと、うしろを振り向きながら歩き出した。
するとミーは少し距離をおいて、まるで何かを訴えるかのように「ニャーニャー」と鳴き続けながら、私のあとをついて来るのだった。
以下次回に
- 平成16年9月15日(水曜日)
【晴】
「お晩です。旦那さんかおかみさんおられますかの」
すっかり暮れた外の闇を分けて、玄関先に誰か人の気配。
近所の大山さんが、娘さんを連れて、いつもの貰い風呂に来たのかと目をやると、見知らぬ男の人が戸口に立ち、遠慮しがちに家の中を覗いていた。
母が台所仕事の手を止めて、前掛けで手を拭きながら、「ハイ、どちら様で」と声を掛け、玄関の土間におりていった。
「おかみさんしばらくでございました。あの筋は大変お世話になりまして、本当に有難うございました。また留守中は何かとお気を使って頂いたそうで、カカアもよろしくお伝えしてくれと、申し付かってまいりました。おかげ様で少し早めに出て来られましたので、何分よろしくお願いします」
「あらまあ、誰かと思ったら戸叶さんじゃありませんか。よくご無事で、本当にご苦労様でした。おつとめ中は病気などしなけりゃいいがと、この間も皆で噂をしたばかりだったんですよ」
「ハイ、おかげ様で大した病にもかからずにすみましたし、中では酒もタバコもありませんから、かえって前より丈夫になったみたいです」
「それは何よりでしたでしょうけれど、さぞかしご不自由だったでしょうに。まあ、とにかくおあがり下さい」
「イエ、今晩はご挨拶だけと思いましてお伺いしましたので、また改めておじゃま致しますんで」
「おや、そうですか、何も出て来たその日に、わざわざ来てくれなくても、2〜3日ゆっくり休んだらよかったのに」
「ありがとうございます。それでもこちら様だけは、どうしても家にあがる前にお伺いしたかったものですから」
「エッ、それじゃあ御子達の顔も見ないで来てくれたんですか。本当に相変わらず律儀な人なんだから」
上がりもせずに帰ろうとする男の人を少し待たせて、母は慌しく祝儀袋に何がしかの金を入れて、しきりに辞退する人のポケットに、無理矢理押し込むように手渡すと、外の闇に出て見送った。
何度も何度も顔を下げながら、男の人は去って行った。
人を助けるために罪を犯してしまい、3年前に刑務所に入ったのだという。
でも決して悪い人ではないと、子供ながら直感した。
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- 平成16年9月14日(火曜日)
【曇のち晴】
夕食の準備に忙しい義姉に代わって、孫の高行をおんぶした父が、とっぷりと暮れた庭をそぞろ歩きながら、暗い空になおも暗く沈む公園の森を見上げて、「ホーラ、泣いたりグズッたりするとな、あそこからモモンガーが飛んで来るんだぞ」と言い聞かせている。
高行は「モモンガー、モモンガーこわいねこわいね」と、かえってはしゃいでいたが、そばに居る私にとっては父の言うモモンガーなるものが、とても恐ろしいもののような気がして、思わず森のホリゾントに目をやってしまう。
すると、指呼の間の森の闇から、何か得体の知れない怪物が牙をむいて襲いかかって来るような気がして、背筋がゾクゾクするのだった。
「モモンガーって何?」と父に尋ねると、父は「モモンガーというのはな、夜になると鳥でもないのに空を飛んで、悪い子供がいると、そいつをさらっていってしまうんだ。さらわれた子供は、どこか遠い所の高い木の上に置き去りにされてしまうんで、大抵は人さらいに捕まって、サーカスか見世物に売られてしまうんだぞ」と言った。
私は自分が決して良い子とは思えなかったので、こんな所にいると、モモンガーに捕まってしまうと思い、急いで家の中に逃げ込んだ。
家の中はどこも煌々と灯が灯っていて、明かりというものがこんなにも心を安ませてくれるのかと、子供ながらホッと吐息をもらしてしまった。
台所にいる母のもとに行き、父とは別の答欲しさに「ねえ、モモンガーってなに?」と尋ねてみたら、母は「モモンガーってむささびでしょう。目がクリッとしててリスみたいに可愛いよ。だけどこの辺にはもういないだろうね」と、父とは全然違う話をした。
私は「何だ、あれはウソだったんだ」と胸をなでおろした。
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- 平成16年9月13日(月曜日)
【晴】
秋になると、大抵の家の夕食にはサンマが出た。
それも冷凍ではなく、その朝川岸から運ばれて来たのを、炭火で焼いたから実に美味かった。
サンマのおかずは毎日でも良かったが、大人達の都合でそうもいかない。
それでも三日に一回はサンマを食べられたし、頭の方で一杯、尻尾の方で一杯、最後に大根おろしで一杯、都合三杯は最低平らげたものだった。
きのこが採れる頃になると、週に二回は誰かが山盛りのきのこを届けてくれた。
所謂駄きのこといわれるもので、多い時には10種類近くが混じり合って、独特の香りが家中に満ちていると、その晩の食事は、ひもかわの煮込みうどんだった。
これがまた信じられないほど美味いのだ。
特にしめじが多い時には味は何倍も強まって、おそらく松茸よりも美味かったと思う。
一本しめじ、柿しめじ、黒っ皮、赤ん坊、ほうき茸、山歩きのプロが、山の幸を大切にしながら、自然の豊かな恵を届けてくれる。
届けてもらう人も喜びながら、届ける人もまた喜びなのだ。
あの頃の人達は、与える事の喜びを知っていた。
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- 平成16年9月12日(日曜日)
【晴】
直ぐ上の姉が病気で床にふせっている時に、退屈の慰めにと、母が買った何冊かの本の中に、私を本の虫にさせるきっかけとなった「幽鬼の塔」があった。
作者は南洋一郎だったと思うのだが、たしか同じ筋書きで別の題名の本もあった。
その本の出会いは私が小学校4年の時で、その上に活字だけの読み物を手にした最初でもあったのだ。
何気なく手に持って読み始めると、あっという間に引き込まれてしまい、生まれて初めて体験した面白さは、まるで麻薬のように私をとりこにした。
最初の内は子供向けの探偵冒険小説の類を中心に手当たり次第に読んでいたが、その内に江戸川乱歩や海野十造などの作品や、スタンダール、ジュル・ルナール、ロマン・ローラン、ヘルマンヘッセなどの文学にもふれていった。
思えば今と違って、画像や映像から情報を得ずに、想像力を精一杯ふくらませながら活字を追う事が、私の現在の仕事の基を礎いたのかもしれない。
あれ以来、いったいどれほどの本を読んできたのか、まるで見当もつかないが、少なくても、世界の神秘の一片くらいは、垣間見る事が出来たかもしれない。
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- 平成16年9月11日(土曜日)
【晴】
天秤の両端の台に虫カゴを山と積んだ、虫売りのおじさんが、表通りから脇道に入って来た。
豆絞りの手拭いを頭に置き、手甲脚半に紺足袋、半天にパッチそして雪駄履き。
売り声は出さず、ゆっくりと足を運んで来ても、鈴虫や松虫の鳴き声でそれと分かるのだ。
この辺を売り歩いても、つい目と鼻の先の公園に行けば、虫などいくらでも採れるから、商売になどならないと思うのだが、それが結構買う人が多い。
考えてみれば虫採りをするのは子供だけで、大人は手っ取り早くお金を出して買った方が良いのだろう。
だから虫売りのおじさんに声を掛けたり足を止めるのは、大抵大人の人だった。
私達にとって虫を買うというのは、水を買うのと同じ位に馬鹿げた事だったから、おじさんのそばに行っても、見るのは虫ではなくて、作りの凝ったカゴの方だった。
私達の大半は竹ヒゴで虫カゴを作る事が出来たのだが、ほとんどのカゴは普通の四角い形で、屋根型や鳥カゴ型を作れる奴はいなかったので、おじさんの持って来たカゴのデザインを盗みたかったのだ。
おじさんはそんな事百も承知で、私達が買いもしないで長い間まとわりついていても、決して嫌な顔をせずに、キセル煙草をふかしながら、ニコニコと見ていた。
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- 平成16年9月10日(金曜日)
【曇のち雨】
9月半ばを過ぎると、柳田鉄工所の大屋根の上に横たわる銀河の輝きは、夏の盛りとは比べ物にならないほど冴え渡り、銀白色の光は瓦に照りはえて、まるで濡れているかのように見える。
母屋での夕食と入浴を済ませ、通りを隔てた工場に隣接する住まいに戻るのが、小学校4年までの私の日課だった。
工場までの僅かな道程も闇は深く、星空は信じられない位鮮やかだった。
月の夜は降り注ぐ光に全身が染まり、目にする全てのものが銀色の衣もまとう。
大気は澄み風は香り、虫の声は絶え間がない。
振り向けば公園の森が黒々と眼前にそそり立ち、宵を過ぎたばかりなのに、夜は深く地を覆っている。
表通りを渡り、また脇道に入り、足元も見えない中を突き当たりまで行き、岡田の家の杉の木を左に見ながら工場に入る。
ある夜の事、母屋の客とトランプ遊びをしていて、ふと柱時計を見上げると、午後9時に近い時間になっていた事があった。
そんな時間まで起きていた事がなかった私にとって、午後9時という時間は真夜中だった。
大慌てで席を立つと、母屋を出て工場に向かったが、その夜の闇は生まれて初めての深さで私に迫って来た。
一歩一歩と運ぶ足も気忙しく、私は夜更かしをした罪悪感に体がこわばっていた。
工場に戻ると急いで着替え、飛び込むように布団に入った。
その感触で、私はやっと安心した。
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- 平成16年9月9日(木曜日)
【晴】
街道は南北に走る尾根で行き止まりになり、山裾にそって流れる袋川の北側に人家が集まっていた。
畳屋のおじさんに聞いた通り、川を渡って直ぐに細い道が集落の中に続いていて、少し先がY字路になっているのが見えた。
道を左にとって少し行くと、しもた屋ばかりの中に、子供相手の駄菓子屋が、間口二間ほどの店を開いていた。
店の右手は黒い板塀になっていて、上から八ッ手の葉が覗いている。
恐る恐る中に入ると、店のおばさんが「いらっしゃい。あまり見かけない子達だね。どこから来た?」と、ニコニコ笑いながら奥から出て来た。
「緑町からビー玉を買いに来ました」と答えると、おばさんは目を丸くして驚いていた。
「ビー玉なんて僕ちゃん達の近くにだって、いくらでも売ってるでしょうに」
「普通のは売ってますけど、これと同じのはないんです」
仁田山は持って来たビー玉をおばさんに見せながら言った。
「どれ見せてごらん。あ〃、これなら家に置いてあるから買っていってちょうだいな」
おばさんの一言を聞くと、私達は大慌てて場所を探し、店の一番手前の台の上に、他の種類のビー玉やメンコなどと一緒に並んでいるのを見付けた。
そこだけが宝石箱のように青く輝いて、まるで別の世界に迷い込んでしまったかと思うほど美しかった。
ビー玉は全員が手に入れても少し残っていたが、多分直ぐになくなってしまうだろう。
私は近い内に一人だけでまた来ようと密かに考えながら、帰りの道を歩いた。
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- 平成16年9月8日(水曜日)
【晴】
蔵王様から東に道を辿り、山にぶつかって行き止まりになった所が、仁田山の親戚の家があるあたりだそうで、ここから先は誰もまだ行った事がなかった。
広い砂利道の所々に家はあるが、ほとんどは田んぼなので、行き止まりの山までは良く見渡せた。
秋とはいっても、まだ夏の名残の暑さの中を、あそこまで歩いて行くのは大変だ。
しかし、あのビー玉を手に入れるためには、この位の道程を歩くのは何でもない。
私達は期待に胸をふくらませて、山までの真っ直ぐな街道を歩き続けた。
蔵王様の次の四つ角は裁判所だった。
社会科で勉強した足利地方裁判所を発見したので、私達は明日クラスの皆に今日の事を話して聞かせる事にした。
裁判所を過ぎて少し行くと、あとは山までの道沿いには、一軒の工場のような建物があるだけだった。
近くまで行ってみると、そこは畳屋さんの工場で、何となく面白そうなのでしばらく見学した。
「みんなどこから来たんだ」と畳屋さんが話し掛けてきたので、「緑町から来ました」と答えると、「えらく遠くから来たな。どこへ行くんだ」と感心しながら、また尋ねてきた。
私達は今日の遠出の訳を説明して、「おじさんビー玉を売っている店知りませんか」と聞くと、「あ〃、多分鈴木だと思うよ。この道を行き止まりまで行って、右に曲った先がY字路になるから、左の方の道を約100mくらい行くと左側に店があるよ。この辺でビー玉を売っている所といえば、その店くらいだな」と教えてくれた。
私達はおじさんに礼を言って、残り少ない道程を走るように進んだ。
以下次回に
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- 平成16年9月7日(火曜日)
【晴】
仁田山が学校に持って来たビー玉は、今までに見た事もないほど大きくて、青緑色がとても美しく、親指と人差し指で挟んで陽にかざすと、薄青の光が机の上に斜めに差して、まるで水の中を見ているようだった。
どこで買ったのか聞くと、親戚の子から貰ったのだそうだ。
その子の家は助戸の山の下で、訪ねて行けば、多分売っている店を教えてくれるだろうと仁田山が言うので、今度の日曜日に皆して行ってみようという事になった。
その日、学校の校庭に集合したのは、仁田山と私、そして小野寺のオッちゃん、家住、そして、一つ年下の平野のヤッさんだった。
本当はもっと多勢のはずだったが、ビー玉は一個10円もすると聞くと、かなりの奴らが諦めなければならなかったのだ。
正門を出て逆川沿いに東に行き、織姫神社の登り口を過ぎて善徳寺を左に見ながら、月見ヶ丘女子高等学校の下を通り、足利日赤の交叉点を渡り、警察署と市役所、そして柳原小の前を通って疎開道路の蔵王様の四つ角まで来ると、そこはもう他国だった。
蔵王様の四つ角の真ん中には、菩提樹の古木が立っていてロータリーを作っている。
その頃は今と違って、狂暴で自分勝手なドライバーも少なかったから、あまり危険を感じないで広い交叉点を渡る事が出来た。
交叉点を渡って蔵王様の境内に入ると、深い木陰が涼しかったので一休みする事にした。
以下次回に
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- 平成16年9月6日(月曜日)
【曇】
宮内は30分たっても蛇口から離れられず、とうとう昼休みが終わって、5時間目の授業が始まってしまった。
やがて教室にやって来た川島先生は、宮内が一人だけ水道の蛇口にしがみついているのを見て、「宮内君、お前何やってるんだ?」と問いただした。
「くっせえよ、息が出来ねえよ」と宮内は泣きながら先生に訴えたが、先生は何の事かさっぱり分からずに「臭いって何が臭いんだい?どうして息が出来ないんだい?」と心配そうに尋ねたが、宮内も今自分に何が起っているのかよく分からないのだから、うまく説明できるはずがないのだ。
沼はチラチラとこっちを見て何か言いたそうだったが、私は口に指を当てて黙ってろと合図を送った。
「しようがないねえ、臭いのがとれたら教室に戻るんだよ」と、先生は宮内に小言を残して教室に入って来た。
宮内はそれから10分ほどして戻って来たが、まるで今にも死にそうな顔で、席につくなりガバッと机の上につっぷしてしまった。
私は少しやり過ぎたかなと、内心後悔した。
授業が終わっていつものように下校の道すがら、「宮内ごめんな。さっきのは俺がやったんだ」と白状して謝ったのだが、宮内はそれを聞いたとたん、「てげびゃー」と妙な叫びと共に掴みかかって来た。
私は慌てて逃げ出したが、宮内は大声で喚きながらどこまでも追いかけて来て、学校の周囲を三回まわっても諦めなかった。
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- 平成16年9月5日(日曜日)
【雨のち曇】
教室の隣の準備室には、黒茶色の大きなガラス戸棚が、左右の壁を塞ぐように置かれていて、中には色々な薬品や実験器具などが、ぎっしりと納まっていた。
その中からアンモニアのビンを見付けると、私は前から考えていた悪戯を実行することにした。
アンモニアは仕事柄我が家の工場にもあったから、その臭いを直に嗅いだらどうなるか、嫌というほど思い知らされている。
その強烈さは、百年の眠りさえ一瞬で覚めてしまうほどで、しばらくは息も出来ず、涙が出て目もあけていられない。
いつだったか、懲りもせずビンの口を恐る恐る鼻の下に持って行った時に、わずかだが中身がついてしまった事があった。
まるでぶん殴られたような衝撃と窒息状態のまま、近くの水道まで手探りで辿り着くと、夢中で水の中に顔を入れて洗ったが、いつまでたっても臭いがとれず、死に苦しみにのた打ち回ったのだ。
私は戸棚の引出しから脱脂綿を出すと、少しちぎってアンモニアを含ませ準備室を出た。
教室の前の水道の所にたむろしている連中の中に、宮内がこっちに背を向けて沼と話をしている姿が目に入った。
私はそっと宮内のうしろに忍び寄ると、手に持った脱脂綿を宮内の鼻の下にビシャッと押しつけると、あとをも見ずに教室に駆け込んだ。
誰に何をされたのか分からないまま、宮内は苦しさのあまり何度か伸びたり縮んだりしていたが、「グエーッ」という訳の分からない呼び声をあげると、水道の蛇口にすがりついて必死になって顔を洗った。
以下次回に
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- 平成16年9月4日(土曜日)
【曇夕方雨】
午後6時を過ぎると、少し薄暗くなるほど陽が短くなって、外では虫の音が途絶える事がない。
今夜は皆で公園に虫採りに行く予定で、昼間の内に空缶を利用したガンドウを作っておいた。
作り方は簡単で、空缶の胴の部分に穴を2つあけて、そこに針金を通して持ち手にする。
その中にローソクを立てて灯をつけると、真っ暗な闇の中では充分な明かりとなるのだ。
夕飯もそこそこに家を出ると、ちょうど皆が迎えに来たところだった。
弓引き場への坂道をのぼって公園に入ると、薮の中はどこも虫の音で湧き返るようだった。
ほとんどは「ガチャガチャ」と呼ぶクツワ虫と、「スイッチョン」というキリギリスだが、よく耳をすますと、「チンチロリン」と鳴く松虫も見付ける事が出来る。
虫の音をたよりに薮に入ると、見当をつけて明かりを向けながら、そおっと草をかき分けて相手を探す。
ガンドウの光の外は文字通りの真の闇だから、近くに仲間がいても、ただ光が動いているだけで、姿は全く見えない。
さかんの羽根を震わせている相手は、大抵の場合直ぐに見付かり、手を静かにのばして指先で挟んで採るのだ。
30分も採ると虫カゴの中はいっぱいになり、声を掛け合って帰路につく。
十五夜の前の、初秋の遊びである。
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- 平成16年9月3日(金曜日)
【曇時々晴】
音楽室から戻って来た野沢先生が、私をジロッと睨みつけ、「また何かやらかしたのか。今度は何?」と問い詰めて来た。
私はハイともイイエとも答えられずに、黙って下を向いていると、川島先生が、「実はこういう訳なんですよ」と説明し、「それでこれから退学届を出しに校長室に行くところだったんですよ」よ言うと、野沢先生は「そうですか。家住だけでなく、こいつら全員退学させた方がいいでしょうね。そうじゃないと家住が淋しいだろうから」と、とんでもない事を言い出した。
「そうですね。じゃあ書類をもっと持って行かないと」と言いながら、川島先生は机の引出しから、さっきと同じ紙を何枚か取りだし、「みんな淋しくなるけど、学校を退学しても元気で暮すんだよ」と言って、しがみついている家住を引きずりながら、校長室の方へ歩き出しだそうとしたのだが、家住の必死の抵抗にあってなかなか前に進めなかった。
この機会を逃したら大変とばかりに、私達も家住に習って先生にしがみつき、めいめいが大声で謝りまくった。
「それじゃあ本当に勉強するか」
「します、します、一生懸命勉強します」
「先生や、父ちゃん母ちゃんの言う事を聞くか」
「聞きます」
「先生や、父ちゃん母ちゃんの手伝いをするか」
「します、します」
「それじゃあ今回だけは大目に見て勘弁してやるけど、この次に何か悪さをしたら、もう駄目だからな」
私達は九死に一生を得た心地で職員室を去った。
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- 平成16年9月2日(木曜日)
【雨】
サイレン山を下って学校に戻り、恐る恐る職員室を覗くと、川島先生はまだ帰らずに残っていた。
何となく気配に気付いたのか、先生は机から顔をあげて廊下をウロウロしている私達を見ると、「入って来い」と目で合図した。
私達は入口でめいめい礼をして中に入り、職員室の真ん中あたりの席に座っている先生の所に、ビクビクしながら行った。
そこに行くまでの間は、ジロッと睨む他の先生方の視線に晒されて、本当に生きた心地がしなかった。
「何しに来たんだ?」と、先生は物凄く素っ気無い調子に言った。
「先生ごめんなさい」と家住。
「何がごめんなさいなんだ?」相変らず素っ気無い先生。
「あのお、学校に勉強がなければいいって言った事」
「じゃあ、勉強のない学校に、いったい何しに来るんだろうね」
何だか急に優しい声でニコニコ笑いながら先生は聞いた。
「運動(体育)をやります」
「フウーン、それじゃあ1時間目から6時間目まで、ずっと運動ばかりやる訳?」
「そうじゃないけんど…」
「それじゃあ、あとは何やるの」
「反省会(ホームルーム)とか学芸会とか、あと運動会とか遠足とか」
「フウーン、あとは?」
「お割烹(料理実習)とか映画会とか…」
「ヘエー、それから?」
「大掃除とか避難訓練とか」
「それから?」
家住はしばらく考えていたが、今までずっと伏せていた顔をあげて「社会見学」と大声で答えた。
工場や市の施設などを訪問する社会見学は、小さな遠足みたいで楽しい授業なので、私達も思わず一斉にうなずいてしまった。
すると先生は立ち上って、「このバカモンが」と家住の頭をポカリとやった。
家住は「先生、俺を退学とか感化院に入れないで下さい」と、もう半分泣きながら頼んだが、先生は腕組みをしてしばらく考えていた。
やがて「そうだなあ、学校で勉強しない子に毎日学校に来てもらっても仕方がないし、そういう子は退学してもらうか、感化院に入って朝から晩まで勉強だけやってもらうか、どっちかしかないかなあ。先生方どう思います?」と言った。
「そうですなあ、学校が勉強をやらなくなると、私達も学校を辞めなくてはなりませんから、家住君には悪いが、退学してもらいましょうか」と、石黒先生がニコニコ笑いながら答えた。
「そうですね。じゃあ今から校長先生のハンコを貰って来ますから」
川島先生は机の引出しから紙を一枚取り出すと、席を立って校長室の方へ歩き出した。
「ヤダーッ、ヤダーッ、退学はヤダー、先生ごめんなさい、もう絶対に悪い事はしません。ごめんなさい。ごめんなさい」
家住は顔中涙とよだれでグチョグチョになりながら、先生の腰のあたりにしがみついて大泣きした。
私達は全員恐怖のあまりに、その場に釘付けになってブルブル震えているばかりだった。
以下次回に
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- 平成16年9月1日(水曜日)
【晴】
今日は二学期の始業式なので、カバンや夏休みの宿題も持たず、手ぶらで登校した。
いつも思うのだが、学校へ手ぶらで行ける日というのは、どうしてあんなに得をした気分になるのだろう。
始業式が終わり、いつもの仲間と帰る途中に、「あ〜学校から勉強がなくなれば、こんないい所はねえんだけどな」と家住が言うと、みんな一斉に「そうだよなあ」と答えた。
ところが運悪く、そこは職員室の窓の下だった上に、教頭先生がちょうどその時窓際から校庭を見ていたので、目と目がピタッと合ってしまったのだ。
教頭先生は口をへの字に曲げ腕組みをして私達を睨みつけていた。
(まいったな、これは絶対に居残りで立たされるぞ)と誰もが思った時、窓際近くにいた先生方が一斉に笑い転げたのだ。
それにつられたのか、教頭先生も「プーッ」と吹き出すと、窓際から中に引っ込んでしまった。
私は担任の川島先生がいなければいいけれどと思いながら、恐る恐る職員室の中を覗くと、運の悪い時は重なるもので、先生は今にも掴みかかって来るかと思うほどの凄い顔で、こっちを睨みつけていた。
私達は一斉にその場を逃げると、いつもはほとんど通らない西門から校外に飛び出し、何を思ったのか学校の裏からサイレン山に登って行った。
人間は追われる立場になると、本能的に山に逃げるらしい。
「オイ家住、オメエ明日学校に来ても、きっと退学か感化院だぞ」と宮内が真剣に言うと、「やだよ、オラやだよ、そんな事になったらオラ父ちゃん怒られるよ。ああどうすんべ、どうすんべ」と、家住はオイオイ泣き出した。
「バカ、小学生が退学なんかになるはずねえだろうが」と長谷川が家住を叱り飛ばすと、「でもよ、感化院にはぶっ込まれるかもしんねえぞ」と宮内が口を尖らせて反論した。
これには長谷川も「ウーン」と腕組みして黙ってしまった。
なぜなら夏休みに入る少し前に、川島先生がこんな話をしてくれたからだ。
「いいかいみんな、いま東京や大阪ではね、浮浪児童を捕まえて感化院や少年の家に収容してるんだって。何も浮浪児童だけじゃないんだよ。普通の家の子だって、親や先生の言う事を聞かなかったり、人に迷惑をかけたり、弱い者いじめなんかするようなどうしようもない子は、みんな感化院に入れられるんだからね」
それを聞いた私達は、言葉の雰囲気で少年の家はともかく、感化院という所は、きっと恐ろしい所にちがいないと思った。
それでも家住にとっては、退学や感化院よりも、父ちゃんに怒られる方が一番恐ろしいらしい。
いつだったか家住の家に行った時、裏から大泣きする声がするので覗いてみると、奴が沢庵石を抱えた格好でぐるぐる巻きに縛られて、井戸端に転がされていた。
どうせいつもの事なので、みんなでしばらく家住の姿を眺めて楽しんだあと、縄を解いて助けてやった。
確かに家住の父ちゃんは恐い人なのだ。
「オイ家住どうする?このまま家に帰るか、それとも学校に戻って川島先生にあやまるか?」
皆さっき家住の言った事に同意した事も忘れて、まるで奴一人が悪者のような口ぶりで言うと、「学校に戻って先生にあやまる」と家住が言った。
以下次回に
■アトリエ雑記は平成12年12月15日からスタートしました。
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