アトリエ白美「渡辺肖像画工房」 渡辺晃吉
- 平成16年8月31日(火曜日)
【晴午後まで強風】
夏休み最後の日、私は父の使いで7丁目の氷屋まで行った。
工場の水桶に入れる氷を2貫目買うので、運搬車に麻袋を乗せて出掛けたが、途中誰かに会うのが嫌でたまらなかった。
普通の自転車とは違って運搬車は物凄く大きいので、乗っている姿はお世辞にも格好の良いものではなかったからだ。
こんな時はこそこそと脇道に入らずに、堂々と大通りを行った方がかえって目立たない。
思った通り誰にも会わずに氷屋に着くと、「おじさん氷2貫目下さい。お金は帳面につけておいて下さい」と、親に教えられた通りに告げると、おじさんは「ハイヨッまいど」と威勢良く返事して、店の奥の大きな氷室のぶ厚い木の扉を開けた。
私は真鍮のごっつい金具や取っ手の付いた扉を開けるところがいつも楽しみだったので、おじさんの直ぐうしろについて見ていた。
ガシャンと音を発てて扉が開いた瞬間、中からサーッと身も凍るほど冷たい風が、白い霧と一緒に吹きつけて来る。
私が思わず「フォー」と嘆息すると、おじさんは「なあ、冷たくていい気持ちだろう」と笑いながら、クワガタの角のような大きな金バサミを持って中に入っていった。
直ぐに大きな氷を手に持った道具で挟み、床の上を引きずって表に出すと、「どうだ、これをしまうまでの間この中に入っているか」と言った。
私は「ヤダーッ」と後退り、いつでも逃げ出せる体勢をとった。
おじさんはゲラゲラ笑いながら、「大丈夫、しゃあしねえから」と言った。
そして右の壁にかかっていた大きなノコギリを手に取ると、氷の柱に当てて軽く2〜3回シャリシャリと切り、今度はノコギリを逆さにして切り跡に入れてトンと打ちつけると、大きな氷の柱から2貫目の氷がきれいに離れた。
おじさんの流れるような仕事を見ているのも、私は大好きだった。
「麻袋広げておきな」と言うおじさんの声に、私はいつも通り荷掛けの上に麻袋を広げると、おじさんは氷をその上に乗せ、もう一枚を使って全体を包むと、ヒモでしっかりと止めてくれた。
「気をつけてな」というおじさんの声を背に自転車に乗ったが、来た時とは違って少しフラフラした。
何とか無事に家に戻ると、「買って来たよ」と父に告げた。
父は「ヨシご苦労」と言いながら氷を手早く荷掛けから解くと、水桶の中にドボンと沈めて大きく四つに割った。
「みんな水が冷えたら適当に飲んでくれ」
「ヘーイ」と職人達。
工場の中は蒸し風呂のような暑さで、所々に塩の入った器が置いてあった。
それでも仕事柄で工場の中には冷たい水が出しっぱなしになっていたから、めいめいに水を頭からかぶったりして体を冷やしていた。
私は働いている人に少し悪いなと思いながら、水桶のそばに置いてある柄杓を使って、氷水を飲んだ。
父は私の方をじろっと見たが何も言わなかった。
自転車でこいでほてった体に、氷水はとても美味しかった。
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- 平成16年8月30日(月曜日)
【曇時々雨】
太田の市街地を外れると、街道はY字路になり、左に行くと桐生、右に行くと足利だった。
道の幅は熊谷街道の半分ほどだろうか。
疎らだが両脇に人家もあり、相変らず真っ暗ながら人の気配が何となく漂っている安心感もあってか、私は次第に睡魔に襲われ、幾度となくヒロヤンの運転の邪魔をした。
ヒロヤンは仕方なく、荷掛けのヒモを使って私を自分の体に縛り付け、「サア、これでいくら眠っても大丈夫だからな」と、再び自転車のペダルを全力で踏み、闇の街道を疾走し続けた。
ヒモで体を縛り付けられると、これで落とされないという気持ちとは反対に、逆に目が冴えて眠気が吹っ飛んでしまった。
「ヒロヤン、今どの辺?」と私が大声で聞くと、ヒロヤンは「今ちょうど植木野に入った所だ。もうすぐ足利だからな」と、私を励ましてくれた。
「ここから先が面白れえぞ。いいか道路標識をよく見てろよ」ヒロヤンが楽しそうに教えてくれたので、「ホラ見てみろ、足利に入ったぞ」という声に、目を凝らして左側を見ると、確かに足利市という標識があった。
(あゝよかった足利に帰って来た)と内心ホッとした矢先、「ホラまた標識があるから見てみろ」とヒロヤンが言った。
それにつられて目をやると、あれっ、今度は標識が太田市になっていた。
前に進んでいるのに元に戻ってしまったのだろうか。私は方向感覚がおかしくなって、少し混乱してしまった。
するとまたヒロヤンが「ホレまたあるぞ」と笑いながら呼びかけるので慌てて目をやると、何だこりゃ、標識は再び足利市になっていた。
そして再び太田市に入り、また足利に戻ると、「なあ面白かんべ」と愉快そうに笑った。
私は「ウン」と答えると、何だか嬉しくなって「ウアー」と思わず叫んでしまった。
「いいか、これから土手の坂をのぼるからケツを上げるぞ。しっかり首につかまってろ」ヒロヤンはそう言うと道を左にとって土手の坂に自転車を乗り入れた。
立ち上がってペダルを踏むので、ヒモで縛られた私は、ヒロヤンの首につかまりながら右や左に振り回され、今にも振り落とされそうで恐ろしかった。
坂はすぐに下りとなり、下ると直角に曲って緑橋の上に出た。
木の板の上を走る自転車は独特の音を発てる。
眼下には渡良瀬川の水面が、所々で微かに光り、やがて対岸に着くと、右に曲った道は、しばらくの間川原の草の中を進んだ。
そして見慣れた上り坂にさしかかり、さっきのように立ちこぎで上ると、そこはもう緑町だった。
土手をおり、両毛線の踏切を渡り、公園通りを少し行って右に折れ、露地の突き当たりの我が家の工場に着くと、暗闇の干し場に開け放った戸口から差す灯が、長々とのびていた。
自転車の気配に、長兄から電話の知らせを受けていたのだろう。母がゲタを履くのももどかしそうに外に走り出て来た。
「ヒロちゃん本当にご苦労様、大変だったろうに」
「なあに、晃ちゃんの一人位どうって事はねえですよ。かえって話し相手ができて良かったですよ」と、何だか得意そうに答えた。
炊きたての飯とみそ汁、沢庵に煮物、そしてアサリのむき身をおかずに、ヒロヤンは飯を六杯もお代わりした。
私もヒロヤンと一緒に箸を使いながら、ヒロヤンの食いっぷりの見事さに、何だかとてもいい気分になった。
足利から太田の高林まで、毎日自転車で通うヒロヤンを、私は本当に偉いと思った。
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- 平成16年8月29日(日曜日)
【曇時々雨】
仕事を終えたヒロヤンが工場の隣の住まいの方にやって来たのは、午後8時少し過ぎていた。
「晃ちゃん帰るぞ」
「すまないね、何も今日帰らなくったって明日帰ればいいのにね」と、義姉がヒロヤンと私のポケットに何かを入れながら礼を言った。
挨拶もそこそこに外に出ると、ヒロヤンと私は早速ポケットの中身を出してみると、ヒロヤンには300円、私には100円が入っていた。
どちらからともなく顔を見合わせてニヤッと笑うと、思ったよりずっと大きな分解した模型グライダーを背負い、ヒロヤンの自転車の荷掛けにまたがった。
「いいか晃ちゃん、これから足利までぶっ飛ばして行くからな」と言うヒロヤンに、私は「ウン」と返事をして、ヒロヤンの腰に手を回してつかまった。
外は真っ暗闇で外燈などほとんどなかったから、灯といえば道に面した家から漏れる明かりだけだった。
その中をヒロヤンは、熊谷街道に出るまで普通の速度で走った。
街道に出ると、ヒロヤンは道の端を全力でペダルを踏んで突っ走りはじめ、その速度はいつまでも落ちずに続いたのだった。
人家の途絶えた真っ直ぐな街道の闇を、ヒロヤンの自転車のライトが引き裂き、ダイナモとタイヤの擦れるシャーという音と、チェーンが回る時のジャーという音、そして<ハッハッハッ>というヒロヤンの息使いだけが、私の耳に途絶える事なく届いて来る。
時たま私達を追い越して行く車や対向車に出会うと、(あ〃世界には俺達だけでなく、他の人もいたんだ)と、ホッと安心した。
左も右も墨を流したような闇で、遠くにポツンと見え隠れする家の明かりが、私達をゆっくりと追い駆けて来る。
ヒロヤンがいくら走っても、街道はどこまでも続いていた。
私は尻の痛みに耐えられず、思わず動いてしまった。
そのとたん、ヒロヤンの自転車はグラッと右に傾いで、もう少しで転倒しそうになった。
「ダメだよ晃ちゃん、動いちゃ。動くとひっくり返っちまって、自転車動かなくなっちまったら、俺も晃ちゃんも野宿だぞ」と、ひどく叱られた。
気の遠くなるような時間が過ぎて、私達はようやく太田市内に入る事が出来た。
いくら夜が深けたと言っても、市内はさすがに明るくて、まだ開いている店も結構あった。
私は真っ暗な街道とはまるで違う市内に入れた事で、芯からホッと安心したのだが、道はやがて市内を外れて、また暗い街道が私達を待っていた。
「これから太田街道だぞ。もう半分は来たから、あともう少し我慢すれば家だからな」と、ヒロヤンは私を励ました。
私はヒロヤンに心配を掛けたくなかったので「ウン」と元気良く返事をしたが、本当は泣きたいほど心細くて怖くて仕方がなかった。
夜もだいぶ深けてきたらしい。
私は心細さの上にたまらなく眠くなって、いくら目を開けていようとしても、いつの間にかヒロヤンの背にもたれかかって眠ってしまうのだった。
以下次回に
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- 平成16年8月28日(土曜日)
【曇】
太田市の長兄の所で仕事を手伝っている直ぐ上の兄から、作ったばかりの大型模型グライダーをやるから取りに来いと、昼近くに電話があった。
今から行っても帰りが大変だから、明日朝早く出掛けるようにと止める母の言う事など耳にも入れず、私は電車賃を懐に駅に走った。
東武足利市駅から太田駅まで乗って、駅前で待つ熊谷行のバスに飛び乗った時には、もう時間は午後3時を過ぎていたが、砂埃の舞う砂利道を、いくつもの停留場に停まりながら、ダラダラと走るバスが、高林交叉点に着く頃には、午後4時近くになっていた。
バス停から歩いて10分ほどの長兄の家に着くと、長兄は「何だお前今日来たのか。こんな時間じゃ今日は泊って明日帰るんだな」と言ったが、私にはそんなつもりはなく、模型グライダーを貰ったら直ぐに家に帰るつもりでいた。
ところが肝心の兄が尾島町まで荷物を届けに出掛けていて、グライダーがどこにあるのか分からなかったので、仕方なく兄の帰りを、甥や姪達と遊びながら待っていた。
午後7時少し過ぎに、バタバタとオート三輪の音が近付いて来ると、バサバサ頭の兄が車から降りて、「何だ今日来たのか。俺は明日来るとばかり思っていた」と、まるで長兄と同じ事を言った。
「でも早く見たかったから」と私が言うと、「とにかく今日はもう帰れないぞ。明日は俺も足利に帰るから、その時に乗っけていってやる」と兄が答えた。
私が長兄の家から足利の我が家までの長い道程を、オート三輪の助手席に座って行ける魅力に負けそうになったから、「でも今日帰るよ」と言った。
「馬鹿こんな時間に子供が帰れるもんか。第一太田までのバスは、もう出てないぞ」と言う兄の言葉に、私は思わずワーッと泣き出してしまった。
私の泣き声を聞いた長兄は、兄が私をいじめたと思ったのか、「どうしたんだ、何泣いているんだ」と外に出て来た。
兄が事情を長兄に説明すると、長兄は「仕様がないな、それじゃあヒロヤンがいいと言えば、ヒロヤンに乗っけて行ってもらうか。ちょっと待ってろ、今ヒロヤンに聞いてみるから」と工場の方に行った。
「ヒロヤン、すまないが帰りに晃吉の奴を足利まで乗せて行ってくれねえかな」
長兄の声が外にも聞こえて来た。
「いいよ、どうせ帰り道だから。晃ちゃん来てるんですか」と、ゴム長靴にゴム前掛け、ゴム手袋にねじり鉢巻き姿のヒロヤンが、ニコニコ笑いながら工場から出て来て、「晃ちゃん来てたんか、いいよ任せておきな、俺がちゃんと家まで送っていってやっから」と力強く請合ってくれた。
私は今までの塞いでいた気持ちが、パッと明るくなって、「ウン」とヒロヤンに返事をした。
以下次回に
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- 平成16年8月27日(金曜日)
【雨】
8歳年上の兄は、家族で一番手先が器用なだけでなく、運動神経も抜群だった。
その日は作りかけの飛行機に張る布が途中で終わってしまい、私に買って来いと言い付けるのだったが、それを売っている店は柳原小学校の前なので、子供が行くには少し遠い距離だった。
それでもイヤだと言えば撲られるのに決っているから、嫌々ながら家を出た。
「何を買ってくればいいの?」
「赤い布のガンピだよ」
「いくら買うの?」
「1mだけ」
お金を預って1時間近く歩き、やっと店に着くと、中は客でごった返していた。
やっと私の番が来て、店のオジさんの前に立つと「お兄ちゃん何が欲しいんだい」と、少しイライラしながら問いかけて来た。
「赤い布のガンピ下さい」
すると、オジさんは「赤い布のガンピ?うちにはそんなもの置いてないね。赤い紗か赤いガンピならあるけど、布でもあり紙でもありなんて、そんなふざけた代物は、どこに行ったって置いてないよ」
口を歪めて意地悪そうに語る姿は、なぜかとても醜かった。
しかし、このまま帰ったら、今度は兄に撲られるから、こっちも必死で追いすがり、「布はどっちですか」と聞くと、「紙じゃない方が布に決まってるだろう」という返答。
「じゃあ、それを1m下さい」
「何だい、だったら最初からそう言えばいいじゃねえか」
そのやりとりを聞いている客達は、何がおかしいのか私を見てケラケラと笑っていた。
私は恥かしくて前を見る事が出来ず、じっと足元を見ていたが、「エヘン」という咳ばらいに上を向くと、オジさんが赤い紗を持った手を突き出していた。
「いくらですか」
「40円」
預って来たお金を出すと、ひったくるように取ったあとに、「邪魔だ、そこどきな」と叱りつけるように言った。
私は親や年上の家族から、四六時中お使いをさせられていた事で、色々な大人達と触れ合って来たが、これほど根性の悪い大人に合うのは滅多になかった。
帰宅してその事を兄に告げると、兄は私を自転車のうしろに乗せてその店に行くと、「オイ、これ傷があるじゃねえか、オメエん所は、相手が子供だと傷物を売りつけるんか」と、店中に聞える大声でオジさんを怒鳴りつけた。
見ると本当に傷物だったのだ。
「これはすみませんでした。すぐお取替えしますので」と、オジさんは青くなってオタオタしていた。
「もういらねえよ、金返せや」
「ハイ、誠に申し訳ありませんでした」
金を受け取った兄は、「オイ、オヤジ、赤い布のガンピ1mくれや」と、店の中はおろか、外にまで聞える大声で言った。
オジさんは私の時とは大違いの卑屈薄笑いを浮かべながら、1m物差で紗を計って、今度は袋に入れてうやうやしくささげて出した。
兄はそれをひったくるように受け取ると、金をカウンターに叩き付けて店を出た。
晩年温厚を絵に描いたような兄の、荒ぶる魂を持っていた若き日の姿である。
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- 平成16年8月26日(木曜日)
【晴】
「源さんの古い知り合いでね、以前から◯◯さんのお屋敷に出入りしていて、色々面倒をみてもらっている奴が、ある時にね、旦那さんから相談を受けたって言うんですよ。そりゃあ断る事も出来たでしょうが、何せそいつにしたら大事な出入り先だしね。結局引き受けたんだそうですよ。それからは月に一度の割合で、つい最近まで届けていたんだけどね、どうした訳かポックリ逝っちまったんだそうですよ、そいつが。先様はあてにしていた物が手に入らなくなっちまったんで、だいぶ固まってしまったようなんですが、なんといっても一番気を揉んだのが当の娘さんですよ」
「それからどうしました」
「娘さんもね、病気によく効くといっている物が何なのか薄々は知っていたんじゃないですか。ある晩ね、娘さんの姿が離れから消えてしまったんだそうですよ。外は雨でね。もしもあんな体で外に出て雨にでも打たれたら、それこそ大変だって言うんで、家中の人間で探し回ったらね、すぐ近くの、ほら◯◯寺のね、その日埋葬された新仏の墓標の前にね、娘さんが傘もささずにボーッと立っていたんだそうですよ」
「あれまあ、何て不憫な事でしょう」
「慌てて家に連れ帰ったんですがね、無理が祟ったのか雨に打たれたのが悪かったのか、娘さんその夜から容態が悪化してね、亡くなったのは、それから間もなくだったそうですよ」
「その話を源さんがお宅に?」
「そうなんですよ。源さんが奴から聞いた話をね、その日たまたま私が聞いちまったって訳ですがね、でもね、何も源さんから聞かなくったって、そんな噂は前々から薄々あったんですよ」
「いくら何でも、それはないでしょうに」
「いえね、人の口に戸は立てられないって事ですよ」
「それにしてもね、江戸の昔ならいざ知らず、この昭和の代に、まさかそんな事があるとは、どうしても信じられないですよ」
「おカミさん、何言ってるんですか。江戸だろうが昭和だろうが、この手の事は昔も今も、これからだってあると思いますよ。もっとも近頃じゃ東京あたりは大抵火葬にするそうですから、その内にこの辺でも皆が火葬になるのかもしれませんね。そうなりゃあ、もうこんな話はどこにもなくなってしまうんでしょうけどね」
「おお嫌だ嫌だ、早くそうならないとね、気の毒な病人が、そんな根も葉もないヨタ話で悲しい思いをしなくっちゃならないでしょうよ」
母は少し腹が立ったのか、強い口調で相手に噛み付くように話していた。
あとで聞いたら、その夜信じられない話をしていたおじさんは、知らない人がいないほどの大ホラ吹きで、その人の言う事をまともに聞いていたら、最後には必ず馬鹿を見るのだそうだ。
そんな事は知るはずもない私は、その夜本当に恐怖の時間を過ごさなければならなかった。
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- 平成16年8月25日(水曜日)
【晴】
「勿論誰にも言いはしませんよ」
「実はね、おかみさんもよくご存知の◯◯町の◯◯さんのお宅なんですがね、あそこの一番上の娘さん、もう女学校の時から結核で、離れで療養するようになってから、かれこれ10年近くなるらしいんですよ。あそこは御大家だから、いくらでも病院に入れて、どんな高い薬だって、それこそ湯水のように使ったって、どうという事はないんでしょうけど、あそこの奥さんが我が子を病院に入れるのは何といってもふびんで出来ないっていうんでね、バアヤを一人つけて一日おきに◯◯先生に応診してもらっている訳ですよ」
「その話なら私達も聞いてますよ。本当にお気の毒な事で…」
「そうなんですよ。まあ至れり尽せりの看病のかいがあって、病気の方も悪くはならないんですが、かといって良くもならない。そんな状態を10年近くも続けていた日にゃあ、誰だって気も滅入るってもんでしょう。それがね、娘さんには前から好きな人がいるらしくって、その人もね、娘さんの病気が治るのを待って一緒になろうと、約束してくれてね、何かにつけては娘さんを励ましてくれているらしいんですよ。まあ、それが娘さんの気を強くしてくれているんでしょうね」
「本当ですか。その話は今はじめて聞きましたけれど、それはとても力になるでしょうね」
「その事もあってか、この1年というもの、娘さんの病気がメキメキ良くなって来てね、普段は離れにこもりっきりだったのが、たまには母屋に足を向けて来るようになったんだそうですよ」
「それは何よりの事じゃないですか」
「ところがね、それには人に言えない裏があったらしいんですよ」
「まさか、さっきの恐ろしい話って事じゃないんでしょうね」
「いえね、まさにその恐ろしい話が、話でなく本当だったと、結構評判になったらしいんですよ」
「あのね、先方はまだ嫁入り前の娘さんですよ。めったな事でそんな恐ろしい噂話なんて、絶対にしてはいけませんよ」
「いや、これはどうも申し訳ありません。しかしねおかみさん、この話はただ根も葉もないヨタ話なんかじゃなくてね、ほら、例の◯◯の源さんご存知でしょう」
「源さんならうちも何かと面倒をかけていますし、これまでにも無理な頼みを引き受けてもらって、本当に有難いと思ってますよ」
「その源さんがね、まあ言ってみれば仲間内の一人にね、ここだけの話だけれどって打ち明けられたって事ですよ」
「あなた、その話を源さんから、直接聞いた訳じゃないでしょう」
「ところが直接聞いちまったんですよ。源さんからね」
「それは嘘でしょう。源さんは商売柄貝のように口の固い人ですよ」
「そりゃあしらふなら確かにその通りですけどね。あの男は酒が入ると、ガラッと人が変わってね、何でもベラベラ喋ってしまうんですよ」
「それも初耳ですよ。あの源さんが酒を飲むとはね」
「飲むなんてもんじゃないですよ。飲み出したら一升は軽くいってしまう位なんですから。だけど、めったに飲まないとは聞いてましたけどね。きっと飲むと自分がどうなっちまうか、よくわきまえていたんでしょうね」
「その源さんが何でまた…」
「それがね、7丁目の◯◯のたてまえの時にね、源さんも私も呼ばれましてね。めでたい席だから断りもならずに、一口一口とやる内にね、もう止まらなくなって、帰りに二人でちょっと脇で飲み直した時にね、出たんですよ、例の話が」
以下次回に
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- 平成16年8月24日(火曜日)
【曇のち晴】
風呂から出て蚊帳の中に入り、うちわを使いながら横になっていると、夜の客と父母の会話が、盆踊りの囃子と一緒に耳に入って来た。
聞くとはなしに聞いていると、それは身の毛もよだつほどの物凄い話だった。
「昔から猿の脳ミソは結核に効くというので、金のある家では猟師に頼んで手に入れていたそうですがね、でも本当はね、猿の脳ミソは代用品なんですよ。そりゃあ猿だって効かない訳じゃないんだろうけど、そういう物が必要な家ではね、本音を言えば人の脳ミソが欲しいという事ですよ」
「でも、そんな事は許される事じゃないでしょう」
「そりゃあ建前はそうでしょうがね。仮におかみさんのお子が、もしも結核になって、それしか効く薬がないとしたらどうします。なにも人殺しまでして手に入れる訳じゃなし、その筋の人に頼めば、手に入るとしたら、我が子のために鬼になりませんかね」
「そりゃあ、まあ」
「そうでしょう。誰だって他に助かる方法がなければ、心を鬼にして手に入れたいと思うのも人情じゃないですか」
「だけどそれは、人の道に外れる事でしょう?」
「どうしても死なせたくない人間が助かるなら、犬畜生にもなろうという者も、この世の中にはいるという事なんでしょうね」
「仮に人の脳ミソが、その病気に効くとして、いったいどこでどんな人に頼めば手に入るんでしょうね」
「そこはそれ、世の中には色々な人間がいるものですよ。ある筋の人に、それとなく頼めば、いつ持って来るとは約束出来ないけれど、必ず手に入れて届けてくれるんだそうですよ」
「何てまあ恐ろしい話だろう。そのために人が一人死ぬんでしょう」
「馬鹿なことを、脳ミソは何も人殺しなんかしなくたって、手に入れる方法があるでしょうに」
「えっ、まさか亡くなった人から取り出すって事ですか」
「そうに決ってるじゃないですか。いつどこの寺で埋葬があるかなんて簡単に分かる事だから、あとはその夜の内に墓をあばいて、いるものを取り出して持って来ればいい訳ですよ」
「恐ろしい話ですね」
「でも、ものは考えようでね、そのままにしたら、いずれは腐って土になっちまうんだから、体の一部が誰かの役に立つんなら、それも功徳ってもんでしょう。人の体は魂の入れ物っていうじゃないですか。その人の魂は行くべき所に行って、残った入れ物が役立つんなら、それにこした事はないのかもしれませんね」
「それにしても、なんだか空恐ろしい話ですね」
「実はね、私が聞いた話でね、つい最近ある御大家の娘さんでね、その病気で長く療養していた人にまつわる話を聞いたんですよ」
「それは名前を聞けば誰と分かる家ですか」
「勿論その通りですけどね。この話は決して他言無用にお願いしたいんですよ」
以下次回に
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- 平成16年8月23日(月曜日)
【曇時々雨】
8月20日を過ぎると、渡良瀬川水泳場は閉鎖になり、まだ泳ぎ足りない奴らは、川向うの沈砂池まで行った。
沈砂池というのは、渡良瀬川から引いた農業用水を、プール状の池に溜めて、水の中の砂を沈下させる施設で、幅4〜5m長さ70〜80mの水路が、間に1.5mほどの通路を挟みながら何本も流れている、まるで泳いで下さいと言っているような所なのだ。
水路の深さは2m〜3mあったから、とても子供の背は立たなかったし、東の端は水門になっているので、毎年のように事故があったのだが、なぜか泳いでも注意される事はなかった。
水は透明で冷たく、底の方は氷のような水温だったから、うっかりすると足が痙攣を起こしたり、運が悪ければ心臓麻痺でおだぶつとなる。
水路の東側の道路の向こうにある扉の形をした溜め池は、水路よりずっと深かったので、高さが3m位の水門の上から飛び込んでも大丈夫だった。
沈砂池の周囲は人家もあまりなく、緑町から緑橋を渡って向こう岸の土手にのぼると、沈砂池まではまだかなりの距離はあったが、水門のてっぺんに立っている人の姿がよく見えた。
私達は行く夏を惜しむかのように、ヒマがあれば連れだって沈砂池に出掛けた。
たまたま連れがいなくて私一人で泳ぎに行った時は、沈砂池の南を東西に走っている通称「太田街道」を渡って、東武線の「野州山辺」駅の近くにあった叔母の家を訪ねた。
叔母は私が行くと、トマトや塩をまぶしたきゅうりなどを出して食べさせてくれたし、たまには小遣いもくれたから、少し無理をしても立ち寄るのが楽しみだった。
ただし、帰りは大抵お使いを頼まれて、子供には手に余るほどの荷物を、母に渡すようにと託されるのにはゲンナリだった。
小学生の私には、お使いの時ならともかく、自分の遊びのために自転車を使う事は、特別の事情がない限り出来なかったから、沈砂池へ行くのも、帰りに叔母の家に寄り道するのも、全て徒歩なのだから、家までの遠い道程を大きな荷物を持って、テクテクと歩いて帰るのは少し辛かった。
それよりも、私がなぜ山辺の叔母の家に行ったのかを、親に問い詰められた時の言い訳が大変なのだ。
大抵は友達の親戚の家に一緒に行ったついでという事で、何とか沈砂池の事はごまかせたが、もし沈砂池に泳ぎに行った事がバレたら、物凄いお仕置が待っている。
この辺の親にとって、渡良瀬川も怖い場所だったが、沈砂池はそれより比べ物にならない恐ろしい所だったのだ。
子供だけでなく、大人も何人か死んでいる所に、我が子が出掛けて行くのを平気でいられる親はいない。
それでも親の心子知らずで、そんな親の心配をよそに、ヒマさえあれば目を盗んで泳ぎに行っていた。
私の母も、夕方になって私が家に戻って来ると、「あ〃、今日も無事に生きて帰って来たか」と、胸を撫で下ろす毎日だったと、後年になって聞かせてもらった。
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- 平成16年8月22日(日曜日)
【晴】
丑三つ参りは、深夜1時から2時の時間に白装束で身を包み、額に巻いた鉢巻きにローソクを挟んで、口につげのクシをくわえ、呪う相手の名前を書いた紙をワラ人形と一緒に木の幹に打ちつけるのだと聞いた。
その間は人に見られると呪いが効かなくなるので、密かに行わなければならないのだそうだ。
だから万一現場を見てしまった人は、相手に気付かれないように物影に隠れて、呪い人をやりすごすのだという。
母が若い頃には、八雲神社の森の中に丑三つ参りのワラ人形が見付かるのは、珍しくないほどよくある事だったと話してくれた。
しかし戦後ともなると、さすがに稀にはなったが、それでも時々こんな事が起こるのだ。
私には呪いというものが、ただ漠然と何か怖いもの位にしか理解出来なかったし、実際に効き目があるとも思えなかったが、そこまでして誰かを呪おうとする人間の、恐ろしくも哀しい一面を感じる事は出来た。
私は目の前にある呪いのワラ人形を見ながら、真夜中の真っ暗な森の中で、額のローソクの灯だけをたよりに、一心に五寸釘を杉の木に打ちつけている人の姿を想像して身震いした。
想像に出て来る人は、なぜか女の人だった。
しばらくすると、ヒロキさんのお父さんで八雲神社の神主の桜木先生がやって来た。
大人の人達は少しかしこまって「おはようございます」と挨拶をする。
その朝の先生も、いつものようにきちんと身ずまいを正して一分のスキもない。
「朝早くからご苦労さんですね」と言いながら、ワラ人形の打ちつけてある木に近付くと、手に持った釘抜きで無造作に五寸釘を引き抜き、まるで何かの道具でも扱うようにワラ人形を手に取ると、何事もなかったかのように本殿の中にあがって行った。
みんなが予期していたような、秘密めいた儀式も何もなかったので、妙に拍子抜けしてしまったためか、急に関心が薄れて、一人また一人と境内をあとに家に戻って行った。
私もみんなのあとについて石段をおりて行ったが、途中で本殿の方を振り向くと、先生の姿が奥の方でチラチラ動いていた。
家に戻ったとたん「また人の話を聞いて八雲様に行ったんだろう。どうしてお前はそんなに物見高いんだろうね」と、叱られた。
姉達は現場の様子が知りたくてたまらず、少し遅れて朝食を摂っている私に、矢継早の質問を浴びせるのだった。
私は見て来た事に多少の尾ひれをつけて話してやると、「うーん」と唸り声をあげながら、凄い熱心さで聞いていた。
母は子供が見るものではないと、また説教を始めそうな気配がしたので、私は慌てて食事を終えると、今朝見た事を仲間に報告するために、呼び止める母の声を背に、外へと飛び出して行った。
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- 平成16年8月21日(土曜日)
【晴】
その日は何だか朝から騒々しくて、いつもより少し早く目が覚めた。
寝ぼけ眼を擦りながら、玄関前の部屋に出てみると、近所の人達が少し興奮しながら母と話をしていた。
私は母に「どうしたん?」と聞くと、母は「ゆうべ八雲様で丑三つ参りがあったんだって」と言った。
それを聞いたとたんに、私は眠気がいっぺんに吹き飛んでしまい、寝床に戻ると急いで服を着た。
表から出ると母に捕まってしまいそうなので、勝手口から家を抜け出し、前の道には出ないで、我が家と金井織物の間の道を抜けて神社に向かった。
正面の鳥居をくぐり石段を駆けのぼると、本殿前の広場には、もう20人位の人達が、左脇の杉の森の中を恐る恐る覗き込んでいる。
皆の前には神社の長男のヒロキさんが、少し得意そうな顔で立っていて、森に踏み込まないように見張っていた。
人垣をくぐって前に出てみると、あった。
まだ薄闇の残る森を少し入った真ん中あたりの幹に、意外に大きなワラ人形が、一目で達筆と分かる文字の書かれた紙と共に、赤くサビの浮いた五寸釘で打ち止められていた。
闇の中で、そこだけがボーッと明るく、まるで妖気が漂っているかのように不気味で恐ろしかった。
呪いのワラ人形は、お祓いを済ませない前に触れたり近付いたりすると、その人に呪いを移すと言い伝えられているので、誰に咎められる訳でもないのに、禁を破って近付く人はいなかった。
私もその事を知ってはいたがムクムクと頭をあげてくる好奇心に勝てず、ヒロキさんの脇をすり抜けて森の中に入って行くと、「駄目だよコーちゃん、入っちゃ駄目だよ」とヒロキさんがたしなめてきた。
「大丈夫、あんまり近くまでは行かないから」
ヒロキさんは私より3つ年上だったが、腕力では私のが上だったので、あまり強く言えないのだ。
それでも私が森に入って行くと、ヒロキさんや何人かの人達も、恐々うしろから付いて来た。
紙に書かれた文字が読める所まで近付いてみると、最初に飛び込んで来たのは、私と同じ「渡辺」という漢字だった。
頭が真っ白になり、心臓はドキドキと今にも張り裂けそうになる。
(まさか俺じゃねえよな。俺だったらどうしよう)
内心そんな事を考えていると、隣のおじさんが顔だけ前に出して、「なになに、渡辺◯◯郎、36歳午年の男だって」と声を出して読んでくれた。
私は自分が呪われたのではないと分かり、心の底からホッとした。
以下次回に
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- 平成16年8月20日(金曜日)
【晴】
夏休みも残りが10日あまりになると、朝10時に外へ出て行っても、通りや空地にはほとんど人影はない。
みんな宿題の残りを片付けるのに追われて、遊んでいるヒマがないのだ。
休みの前には、宿題はあとで慌てないように、最初の内に片付け、あとはゆっくり遊ぼうと毎年思うのだが、どういう訳か一度も成功した事がない。
いつも楽しみのあとに苦しみを背負っている気がして、仲間どうし顔が合えばグチをこぼし合ってしまう。
しかし、どこの町内にも、ほとんど友達と遊ばずに勉強をしている、まるでお化けみたいな奴がいるもので、宿題なんか余裕で終わっているらしい。
そんな奴に限って、教えてもらおうと頼んでも、まず教えてくれないのだ。
何も答を教えろと言っている訳ではなく、勉強を教えろと言っているのだから、少しは手を貸してくれてもいいのにと思うのだが。
私は姉達が問題集をほとんど片付けてくれる事が多いので、その点では苦労する事が少なかったから、近所の同じ組の仲間に手を貸してやった。
その代りこっちも色々と手伝ってもらうから、お互い様なのだ。
この時期は、とにかく宿題が気がかりで、仲間どうし頻繁に行き来するから、誰がどんな事をやっているのか大体は分かってしまう。
どいつもこいつも似たようなもので、中には他人の図画作品をそっくり真似て、色だけを変えたものや、弟が去年提出した昆虫採集標本の箱を新しくしたりして、何とかごまかそうとする奴もいた。
どうしても間に合わず、このままだと先生にぶっとばされると泣き出した子供に、ボテや網を買って来て持たせる親もいると聞いたが、それは多分ガセネタだろう。
苦し紛れの傑作は、家で使っている木製のハンガーを、わざわざ小刀で削って、いかにも手作りしたように見せかけた作品や、仏壇の扉に墨をつけて紙に押し付けて作った、版画まがいの作品。
両方とも、あとで家の人に大目玉をもらったそうである。
とにかくこの時期は、余程の模範生以外は、誰でも夏休みの宿題に振り回されっぱなしの毎日を、最後の一日まで続ける事になるのだ。
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- 平成16年8月19日(木曜日)
【晴】
表通りの4丁目から2丁目の交叉点の間では、毎晩のように夜店が開かれていた。
通りの両脇に露店を出して、夜の11時近くまで、人の賑いが途絶えなかったのを思い出す。
通りに面した商店が店先に出すだけではなく、銀行やしもたやの前には、お祭の時と同じ屋台も出たし、時には大道芸人の姿も見られたので、8月も終わりに近くなると、よく夏の名残を惜しみに出掛けて行った。
晩メシのあと、近所の何人かと誘い合わせて、ブラブラと行くと、同じように夜店を目指す人達がそぞろ歩いている。
表通りに出ると、夜店の客をあてこんでか、大抵の店は灯を灯したまま戸を開けている。
7丁目から6丁目、そして5丁目と進んで行く内に、通りは人でいっぱいになり、歩く人のゲタの音が賑やかだ。
あちこちで焼いているトウモロコシの香りが、食事したばかりなのに食欲を刺激する。
酒屋の前には、ラムネやサイダーが、水を入れた桶に入って汗をかいている。
八百屋の店先にも、冷やしたスイカやモモが並び、魚屋の前では、焼きイカが香ばしい香りをふりまき、古本屋は見るからに売れ残りの古本を山積みして客を待っている。
家の中から引いて来た裸電球を吊り下げて照明にしている店よりも、カーバイトを使っている店の方が多かった。
アセチレンガスがツンと鼻をついて、少し黄色い光があふれる。
何を買う訳でもなく、来た道をまた引き返して行くだけの事なのだが、それでも何となく満足して家に戻るのだった。
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- 平成16年8月18日(水曜日)
【晴】
夏休みの宿題の中で各教科の問題集は、何だか知らないが7月中に姉達がやっつけてくれたので、残るのは自由研究や図工作品くらいのものだった。
しかしそれが宿題の中で一番大変な課題なのは、今までの経験で骨身に染みている。
工作は何の問題もないが、自由研究は俄か仕立てという訳にはいかず、本当はもう少し充実してからと思っていた植物採集標本を出す事にした。
もうひとつの図画工作は、水彩やクレヨンではなく、我が家にある何点かの水墨画を参考に、野菜や花などを写生して画帖にして提出した。
苦し紛れの追っ付け仕事だったのに、これが意外に高い評価を受けて、市内や県のコンクールに出品されたのには、私だけでなく家族も驚いたようであった。
私には、むしろ木彫のブローチの方を認めてもらった方が、ずっと嬉しかった。
そのブローチは巻き貝を出来るだけ写実的に彫り、木肌をよく磨いたあと、透明ラッカーを何度も塗って仕上げた、自慢の作品だった。
今考えると、あの当時の社会風潮としては、子供がアクセサリーを作る事自体が、何か不真面目な印象を与えてしまったのかもしれない。
昭和20年代というのは、そんな側面も残っていた時代だったのだ。
隣の京子ちゃんは、何種類かの花の汁で染めた布でハンカチを作り、それを台紙に貼って作品にした。
京子ちゃんは本当は私と同じ西小学校に転校するはずだったが、緑町に引っ越して来る前に通っていた、川向うの山辺小学校に通い続けている。
町場の西小学校は、何となく肌が合わないので嫌なのだそうだ。
それでも夏休み中は、ほとんど毎日のように一緒に遊んでいたので、京子ちゃんが私とは違う学校に通っているという印象は全くなかったように思う。
ただ京子ちゃんの学校と私の学校との大きな違いは、宿題の量が西小学校の方がずっと多い事だった。
同じ小学校なのに、どうしてこんなにも差があるのかと、私は京子ちゃんが羨ましくて仕方がなかった。
夏休みの後半10日間を、ほとんど宿題に追われている私をよそに、外で遊び回っている京子の声が耳障りで、しゃくにさわって仕方がなかった。
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- 平成16年8月16日(月曜日)
【晴】
送り盆の夜、公園の広場に集合した私達は、時間になると手にした灯篭舟に火を入れて、二列に並んで渡良瀬川に向かって静かに進んだ。
途中から列に加わる数も含めて、約300基ほどの灯篭舟の光は、晩夏の闇を優しく溶かしていく。
土手にのぼると、先に川原におりていた列の灯が、チラチラと揺れながら長い帯となって、急ごしらえの桟橋へとのびて行くのが見えた。
今夜は他の町内でも、めいめいの場所から灯篭を流すのだろう。
目を凝らすと、水面に赤い灯があちこちで瞬いている。
今夜の灯篭流しのために作られた桟橋は、橋下の浅瀬が終わったあたりから、流れの3分の1近くまでのびて、その上には先発の人達が、もう渡りかけていた。
私が手に持つ灯篭には、曾祖母、祖父、叔父、そして姉二人の名前が書かれている。
めいめいの灯篭にも、その家の大切な人の名が黒々と書かれているのを見ていると、なぜか心が静まって行くのがよく分かる。
少し物悲しく、少し華やかで、少し楽しい不思議な気配が、灯の光の広がりと共にあたりを包んで、灯篭流しが始まる。
桟橋に10人づつ進み、水面に置いた灯篭を、呼吸を合わせてそっと押し出す。
灯篭はゆっくりと桟橋を離れ、ゆらゆらと揺れながら流れに乗ると、それぞれが生命あるもののように動きながら、次第に遠ざかって行く。
しばらくの間桟橋の上に額ずき、心の中で逝った人達の名を呼び、鎮魂の祈りを手向ける。
時間はゆっくりと流れ、既に自分の灯篭を送った人達も、誰一人その場を去らず、次第に数を増していく灯篭の浮かぶ水面を、じっと見入っている。
岸辺に額ずく人、合掌を崩さず下流に向かって立つ人、静かに経文を唱える人、普通の言葉で故人に語り掛ける人、
子供達は近くの月見草を手折り、水面にそっと置く。
川は次第に光の帯となり、送り盆の夜は静かにふけて、夏は今逝く備えを始める。
- 平成16年8月15日(日曜日)
【雨のち曇】
小学校4年の夏休み、二つ年下の弟を連れて太田の長兄の家に、泊り掛けで遊びに行った。
東武線太田駅で下車をして、高林行のバス乗場を探したが見付からず、仕方がないので歩いて行く事にして、熊谷街道を南に路をとった。
真夏の炎天下、埃の舞う砂利道の脇を、とぼとぼと歩いて行ったが、二時間経っても兄の家の近くにさえ行き着けず、むずかる弟をなだめながら、日影を見付けて休み休み進み、太田駅を出てから四時間後に、やっと兄の家に着いた。
朝の8時に家を出発して、着いたのは午後2時を過ぎていたから、前もって電話を貰っていた兄は、道中で何かあったのかと、随分心配していたようだった。
私達が太田駅から約12kmの道程を歩いて来たのを知ると、「バカな事をするんじゃない」と、呆れながら叱った。
兄の家には、私より6歳年下の甥と、8歳年下の姪がいて、兄弟のように育った事から、久し振りに会うのが楽しみだった。
おまけにチクという名の、犬のように大きな猫に会えるのも、私にはもっと楽しみだったのだ。
チクは人懐こいばかりでなく、とても大人しい性格の猫で、私達が遊んでいるそばを、片時も離れなかった。
兄の家に来て二日後、私は食あたりで寝込んでしまい、3〜4日で家に帰る予定が、10日近くを過ごさなければならなかったのだ。
弟は一足先に、駆け付けて来た父親と共に帰宅したので、私は迎えに来た姉に付き添われて、およそ半日振りに帰に戻った。
その頃我が家は、朝鮮戦争景気の波に乗って多忙の毎日だったから、さすがの母も、病中の私の所に来る事が出来ず、そのためなのか、帰宅した私を見ると、無理矢理床につかせ、その後何日か床上げをさせてもらえなかった。
盆が近付き、ぼちぼち泊り掛けの親戚が訪ねて来る頃に、やっと床上げを許された私は、病気で遅れた夏休みを取り戻すために、家にはほとんど寄り付かないほど、朝から晩まで外を飛び回った。
その頃の私は、植物採集に夢中していた。
毎日のように公園を歩き回り、採集した標本を持ち帰ると、植物図鑑と照合しては記録していた。
採集で分け入った薮の中には、弱肉強食の様々な現場にもぶつかった。
カエルを飲んでいる蛇や、虫を襲うクモ、蝶をとらえるカマキリや、甲虫をつかまえている蜂の姿など、子供にとっては驚異の世界を数多く観察する事も出来た。
あの頃、一日中肩から下げていたドーランは、今どこに行ったのだろうか。
もしも見付かったら、きっと中には今でも、少年時代の息吹が詰っているだろう。
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- 平成16年8月14日(土曜日)
【晴】
生前の祖父が道楽で飼っていた4群の蜜蜂の巣箱は、母屋の玄関手前の左側に並んでいて、私達はよく刺されて大泣きした。
それでも当時は大変貴重な蜂蜜が、大きなカメに常時保存されていたのは、刺される痛さの代償を払っても余りがある恵みであったと思う。
今考えると、人里離れている訳でもない町中で、蜂を飼っていても苦情ひとつなかったのは、本当に不思議だった。
春は梅に桜に桃など、初夏から夏にかけてはツツジやアカシヤ、町とはいえ、すぐ近くには公園があり、当時は家々にも花木が普通にあった事が、蜂を飼える条件としては、まあまあの合格点だったのかもしれない。
頭からスッポリと網をかぶり、フイゴで煙を巣に吹きかけると、蜜蜂は皆気絶してしまい、そのスキに長方形の木枠に囲まれた巣を、遠心機に入れてグルグルと廻すと、下の方の口から、ダラダラと蜜が滴り落ちて来る。
それをホーロー引きの大きな容器に受け、容器がいっぱいになると、大きなカメに移すのだ。
父は時々、遠心機に入れる前の巣の表面をスプーンで引っかいて、私達になめさせてくれた。
強烈な甘味と、蜂蜜独特の香りが口いっぱいに広がり、頭がクラクラするほど美味しかった。
採集した蜜は家で食べるだけではなく、希望者には一升ビンに入れて分けてやっていた。
工場に行くと、乾燥室を兼ねた倉庫の中に、まるで堆積岩の欠片のようなブドウ糖や、一斗缶に入った水飴などが保管してあったので、甘いものには不自由しなかったが、やはり蜂蜜の味は格別だった。
盆客をもてなすテーブルの上には、他の物と一緒に、ぶどうやナシ、スイカ、リンゴ、瓜などの果物が皿に盛られていて、脇には蜜蜂の入った大きなガラスの器が置いてある。
私達は先を争って、リンゴや瓜などに蜂蜜をたっぷりとかけて食べた。
熟れた瓜はメロンより甘かったから、そこに酸っぱい青リンゴと蜂蜜が会うと、まるで別の果物のように甘かった。
客の中にはキュウリに蜜をつけて、「美味しい、美味しい」と食べている人もいたが、真似して食べてみると、あまり美味しくなかった。
どちらにしても、私が小学生の頃には、蜂蜜は貴重な食品のひとつであったようだ。
お盆になると、あの頃口にした鮮烈な味を思い出す。
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- 平成16年8月13日(金曜日)
【晴】
13日の迎え盆には、祖母や母の手伝いのため、決って近くの福厳寺まで出掛けて行った。
夕方あたりが少し暗くなりはじまる頃、「さあ、そろそろお祖父ちゃんや皆を迎えに行こうか」と、祖母が言う。
私は誰に言われるでもなく、仏壇の前にある迎え提灯を手にして外に出るのだ。
毎年決って、これが私の役割だった。
「さあ、手の空いている者は一緒においで」と母が声を掛ける。
姉達や親戚のいとこ達など、結構多人数になった一団が、家の前の道を西にとり、逆さ川沿いを流れの方向に歩いて行く。
ぼちぼちと寺に向かう人達が祖母や母に挨拶、二人も丁寧な挨拶を返しながら進むと間もなく、川に架かる小さな石橋を渡ると、そこはもう福厳寺の山門である。
本堂に続く20段ほどの石段を、祖母を助けながら上り、石畳に沿って本堂にお参りする間、私はいとこ達を促して水桶に水を汲んでおく。
本堂から出て来た祖母達は、最初に墓地の入口にある六地蔵にお参りして、そこを過ぎて直ぐの所に立っている御地蔵様にも手を合わせ線香と供物をあげるのだ。
道はそこから右上りの坂となり、不規則な形の石段が、ずっと奥まで続いている。
左に墓地の斜面、右に本堂を囲む生垣を見ながら10mほど上ると、石段の途中から右の方に平らな道がのびている。
そこは本堂の直ぐ裏の道で、少し上って来たから屋根がよく見えた。
100mほど進み墓地にはよくある迷路のような山道を左にとり、くねくねと行くと我が家の墓地の前に出る。
墓地は道から5段ほどの狭い石段をのぼるようになっており、左には大きなカシの木が立っている。
祖母と母は皆より先に墓地に入ると、何やらぶつぶつと唱えながら、花を生けたり線香に火をつけたり、前もって掃除してあるのに、あちこちにホウキを使ったりするのだ。
その動きは、まるで決められた形式に従って行う儀式のようで、その間私達は少し神妙な態度で控えている。
祖母達はやがて墓石に水をかけたり、線香をあげたりして墓前に額ずきしばらく祈ったあと、私達も墓前にお参りするように促す。
それぞれが思い思いにお参りを済ませると、祖母は私の手から提灯を受け取ると、再び本堂にあがって火をつける。
「さあ、お祖父さんみんな、お迎えに来ましたよ。家に帰りましょうね」と、まるでそこに祖父達がいるように声を掛けると、火のともった提灯を私に返すのだった。
茶渋を塗った丸い提灯には、渡辺家の家紋が黒く書いてある。
私は途中で火を消さないように注意しながら、皆のあとから歩いて行く。
川沿の道に出ると、前にもうしろにも、火のともった提灯の灯りが、あちこちで揺れていた。
「私にも持たせて」といういとこに、少しホッとした気持ちで提灯を渡すと、私は祖母と母のそばに走り寄って、家に着くまで一緒に歩いた。
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- 平成16年8月12日(木曜日)
【晴】
渡良瀬川は緑橋の下で早瀬になり、白く泡立ちながら土手下を斜めにかすめて流れ、その先で瀞になっていた。
文字で言えば、ちょうどへの字の形で、その折れ曲がった所が、水のぶつかる力で深くなっていたので、いくつもの渦が巻いていた。
渦の力は、そこに入り込むと自力で脱出するのが大変なほど強く、泳ぎに自信のある奴は、それがかえって面白くて、早瀬の方から流れに身を任せて渦の中に沈んでいった。
しばらくの間は、もみくちゃにされながら渕の中を振り回されるが、脱力したままで1分もすると、やがてポカッと渕の外に浮かぶのだ。
いくら平気だと言われても、最初の時は物凄く怖くて足が出ない。
だから初めての時は経験者に同行してもらうのだ。
「いいか絶対に力入れちゃだめだぞ。体をダラーンとして目をつぶるな。少し我慢すればスーッと楽になって浮き上がるからな」
「うん分かった。手離さないで」
「大丈夫、しっかり持っててやるから。だけど途中で我慢できなくなって暴れたりしがみ付いて来たりしたら、二人共死ぬかもしれねえからな。絶対に最後までダランとしてるんだぞ」
それでもまだビクついている奴を励まして、いちにのさんで早瀬に身を投じると、二人の体は物凄い速度で流されて行くのだ。
水の中にいる時は目を開けているから、大小の玉石にぶつかる水が、大きな力でかき回されて、いたる所で泡立っているのが見える。
やがて辺りは水だけとなり、自分の体が渦にのまれて水底に引き込まれて行くのが分かる。
下へ下へと引っ張られるかと思えば、今度は角に岸の方へ引っ張られ、そのあと直ぐに左右へと振りまわされる。
そして最後は一番深い水底へと、まるで押し込まれるように沈むと、今まで自分にのしかかっていた圧力が、ふっと消えるような感じになる。
すると体がフワッと軽くなって、スーッと水面に運ばれて行くのだ。
一度これを体験すると、あとは面白くてやみつきになり、人数が多い時には、水の中でぶつかり合うほどだった。
渕とその下流までは、激しい流れから土手を守るために、ジャカゴを積み重ねて護岸してあり、深い所では3m以上、浅い所では160cm位の壁を作って、魚には格好の住処になっていた。
泳ぎに飽きると、ヤスを片手に岸辺に潜って魚を突いた。
魚はハヤとフナ、そしてコイがほとんどで、小さな雑魚は無数に泳いでいたが、ヤスで採るには細かすぎた。
川底のきれいな砂の中にはドジョウもいたが、掘り出して遊んでも採る事はほとんどなかった。
時には大きなウナギや雷魚などが、悠々と目の前を通り過ぎて行ったり、水の中ではイルカのように大きく見える草魚などを見る事もあった。
渡良瀬源流に、まだ砂防ダムや大きなダムがない時代の、今では信じられないほどに水量の富かだった頃の話である。
昨日、そこと同じ場所で、バーベキューに来ていた地元の大学生が、浅瀬で水遊びしている時、あやまって流されて溺死したというニュースを聞いた。
思えばあの頃の自分達の遊びを振り返ると、よくも溺れずに生きていたものだと、今になってゾクゾクと身震いした。
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- 平成16年8月11日(水曜日)
【晴】
小学校4年以上になると、各学期の終業式直前に、各組単位の演芸会があった。
個人が得意のかくし芸をやってもいいし、気の合った仲間で歌を歌ってもいいし、とにかく自由だった。
勿論参加したくない奴は見学するだけでも良かったので、その事で悩んだりする必要もなく、参加しない奴に文句を言う者もいなかった。
演目も多彩で、手品、日本舞踊、八木節、浪曲、講談、クイズ、合唱、空手の板割り、あやとり、折り紙、オルガン演奏、独唱と、歌謡曲以外は何でもあったと思う。
変わったものでは、木琴演奏、洋舞、バレエなど、かなり本格的な演目もあったが、残念ながらそれは皆他の組で、我が4組の中には、飛びぬけた奴はいなかったようだ。
それでも全校行事の学芸会より、演芸会の方がずっと面白かったので、時期が来ると誰が言うともなく、その準備を始めるのだった。
4年3学期の時、私は雑誌に出ていた簡単な網の手品でお茶を濁したのだが、5年の1学期ではそういう訳にはいかず、いつも一緒にいる仲間で、柔道の試合をやる事にした。
その頃、新水園で大映の柔道映画がよくかかったので、それをヒントにして、柔道試合の芝居を考えたのだ。
泣いて嫌がる今泉を悪役に仕立て、善玉の組と悪玉の組の対抗試合で、最後は正義漢の主人公に投げ殺されるという設定なのだ。
大柄でごつい顔付きの今泉は、こんな時絶対のはまり役だった。
大将どうしの試合で勝敗が決るというところまで、芝居が進む頃には、会場は沸きに沸いて大騒ぎとなった。
先生は腹を抱えて笑い転げるし、皆も涙を流して笑っているのだが、私達は何もお笑いのつもりでやっていないので心外だった。
最後に、主人公に投げ飛ばされた今泉が舞台を転がり落ちて、断末魔の表情で死ぬところは、収集がつかないほど馬鹿ウケした。
本当は身の引き締まるような芝居を目指したのに、何でこうなったのかよく分からなかったが、あとで話を聞いてみると、やっている私達は真剣だったけれど、演技が物凄くわざとらしくて、それが我慢できないほど、滑稽だったのだそうだ。
自分達は相当うまく芝居しているつもりだったので、少し気落ちしたが、それでも皆が喜んでくれたので、まあいいかという事にした。
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- 平成16年8月10日(火曜日)
【晴時々曇】
5年4組の夏休みの宿題の中で、男子は鉄棒で逆上がりと巴と蹴上がりが出来るようにというのがあった。
鉄棒は何といっても仁田山が4組で一番だった上に、唯一人バク転とバク中がこなせた奴だった。
仁田山にとっては逆上がりや蹴上がりなど遊んでいるようなもので、正車輪も逆車輪も堂々とやってのける奴だった。
私は蹴上がりや巴は出来たのだが、逆上がりが少し苦手で、他の奴らと一緒に、夏休み中に何回か仁田山の指導を受ける事にした。
仁田山は担任からも頼まれていたので、休みに入る前に練習計画表を作ってくれた。
仁田山の家は西宮町で学校には近かったから、7月中は毎朝10時から12時まで学校に来てくれる事になり、その期間中に出来るだけ全員がこなせるようにという考えだった。
最初は計画表に従って、その日に割り当てられた奴らだけ集っていたが、その内に大多数の奴らが毎日顔を出すようになり、指導者の仁田山をおおいに困らせた。
幸いに鉄棒は5年4組だけの宿題なので、他の組と鉄棒のある砂場でかち合う事はなかったが、それでも近所の子供が遊びに来るので、結構気を使わなければならなかった。
一応全部こなせるようになった奴は、次の日からは来ないか、来ても練習はしなくていいから、7月の末には、もう少し練習しなければならない奴の人数は、10人位に減っていた。
最初は20人近くいた訳だから、仁田山の指導力はたいしたものだ。
結局7月中には全員の仕上りが無理だったので、残った奴らは8月から週2回学校に来て練習をみてもらい、あとは出来るだけ自分で頑張るという事になった。
私は7月中に仕上った内に入っていたので、家の近くでまだ出来ない奴の面倒をみてくれと、仁田山に頼まれた。
私は自分だってやっと出来るようになったばかりなのに、他人に教えるなんてダメだと言うと、仁田山は、出来るようになったばかりだから、かえって相手に分かり易く教えられるのだと言った。
私には全く自信がなかったが、世話になった仁田山の頼みなので、思い切って引き受けた。
他の町内の奴らも、その形で仁田山を助ける事になり、早速学校や公園、町内によっては足工や一中の鉄棒まで借りて、競争のように頑張った。
結局全員が宿題を仕上げたのは、8月20日過ぎのギリギリだったが、皆何ともいえない達成感と満足感で、胸が張り裂けるほど嬉しかった。
夏休みが終わり、二学期最初の体育の授業の時、私達は見事に全員が宿題の完成を証明した。
先生は本当にびっくりしたようで、「宿題にはしたけれど、まさか全員が出来るようになったなんて、これは凄い事だよ」と褒めてくれた。
皆の努力も立派だが、何といっても仁田山の指導と頑張りのおかげだと、全員が心の中で仁田山を讃えた。
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- 平成16年8月9日(月曜日)
【晴夕方にわか雨】
子供の頃、夏は毎日のように夕立があった気がする。
早い時には午後2時頃、あっという間に空が暗くなり、渡良瀬川で泳いでいた私達は、大慌てで家に逃げ帰る事も少なくなかった。
雨に濡れるのは何でもないが、何もない川原の真ん中で雷に打たれるのが恐ろしいのだ。
小学校3年の夏、八雲神社本殿脇の杉林に雷が落ちた時には、まるで我が家が直撃されたような気がするほど、凄まじいものだった。
落雷した杉の大木は、まるで大きなナタで打ち割ったかのように見事に引き裂かれていた。
いつだったか、物凄い降りのため家まで辿り着けずに、母屋に続く道の入口にある木戸門の下で、何人かの仲間と雨宿りしている時だった。
北の7丁目の四つ角の方を見ると、陽がさんさんと輝いていて、道行く人も炎天下のそれだった。
夕立は馬の背を分けると聞いてはいたが、雨と晴の境を実際に見たのは、この時がはじめてだった。
我が家でも近所の家と同じように、夕立になると急いで蚊帳を吊ってその中に逃げ込んだのだが、そんな事をしても、もし雷が落ちたら何にもならないだろうと密かに思っていた。
それでも母は、蚊帳の中なら大丈夫と信じていたと思う。
母は蚊帳の真ん中に座って、子供達をそばに引き寄せると、「くわばら、くわばら、くわばら」と、雷避けのおまじないを唱えるのだった。
家の外は飴色のどしゃ降りで、開けっ放しの戸口からはサーッと涼風が吹き込んで来る。
深い軒は相当の強雨も何とか止めてくれるが、露のようなしぶきは風と一緒に家の中に入って来るのが、涼しさを増して楽しかった。
夕立に降り込められた客や、通りすがりの雨宿りの人が、外を眺めながら談笑している。
飼い犬のフジは玄関の隅にうずくまって雨を避け、それを見た猫のミーが、背を丸めて嵐を吹く。
祖母は仏壇の前にうずくまって、「おおいやだ、おおいやだ」と呟き続けている。
祖母は雷が死ぬほど嫌いだったのだ。
夏の想い出は尽きる事がない。
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- 平成16年8月8日(日曜日)
【晴】
七夕が終わると、町内はお盆に向けて色々な準備に入る。
公園の広場では盆踊りの櫓が立ち始め、大通りに並んだ祭提灯と〆網が片付けられ、家々の軒には鮮やかな岐阜提灯が吊り下げられる。
店には盆棚飾りが並び始め、薮入りで帰る人もいれば、戻って来る人達もいる。
住み込みの人達の中には、早々と帰省する者も出て来て、慌しさの中にも、何となく華やいだ雰囲気が漂うのだった。
ほとんどは迎え盆の夜に帰宅するのだが、運悪く体調を崩したり病み上がりの人は、少し早目の帰省が許され、10日前に戻って来た。
病気の大半は「脚気」と呼ばれるビタミンB欠乏症で、米飯の偏食が原因と聞いた。
大抵の人は、郷里の食生活を取り戻す事で回復したのだが、中には心臓脚気になって急死する人達もいたのだ。
私の近所にも住み込み先で脚気となり、自宅療養のため長期帰省した人が何人もいた。
その人達の帰省は、どういう訳か盆に近い頃が多かったのだが、それは単なる偶然だったのだろうか。
つい数年前まで真っ黒になって一緒に遊んでいた年上の仲間が、中学を卒業すると東京に行ってしまい、ある日突然大人になって帰って来た時の事、寝巻を着てフラッと我が家に挨拶がてら入って来ると、私は何だか恥かしくて直ぐには話が出来ず、母の背中に隠れて照れていた。
奉公先で病気になり、療養のため帰されたのだという。
病人にとって自分の生まれた家は、それがどんな苫屋でも、一番の薬だったのかもしれない。
三日ほど後に、すっかり元気になって東京の奉公先に戻って行った。
八つ年上のいとこの仙ちゃんは、中学を卒業すると信州の問屋さんに住み込み奉公に行ったのだが、私が小学校5年の夏に、叔母と共に我が家に泊り込みのお客に来た。
三日ほどの滞在期間中、仙ちゃんは信州での驚異に満ちた話を、胸をドキドキさせながら聞いた。
山を越えて隣町へ使いに行く時には、道の途中で熊に出会った時の用意に、猟銃を肩に吊るし、腰に登山ナイフを下げて行くのだとか、冬はどこに行くにもスキーだとか、リンゴなんかは、どこにでも実っているので、食べたい時には手をのばして採ればいいとか、今思えば少し大袈裟というよりは大ボラなのだったが、小学校4年の子供にとって、話の全てが光り輝いていたのだ。
仙ちゃんは盆が終わると、太田の長兄の工場に入るために、信州の奉公先をやめて来たので、来年の夏休みには、私を信州に連れて行ってくれると約束してくれた。
私は嬉しくて友達に会う毎にその話をして皆を羨ましがらせたが、一年後も、その次の年も、信州行きはとうとう実現しなかった。
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- 平成16年8月7日(土曜日)
【晴午後にわか雨】
8月7日の足利は、昼間から花火大会の熱気に、いたる所が染まっているような日だった。
商店や客商売は別に、普通の商家や工場は大抵休みか半ドンで、我が家も一日休みになった。
母屋の二階から花火がよく見えたので、花火見物のお客の内で年配の人達は、その夜は会場に出掛けずに、家の二階から見物した。
私は兄弟や親戚の人達と一緒に会場の一部に用意した見物場所に出掛けたが、最後までその場にいる事が出来ず、毎年途中から抜け出して川原に降りて中洲に渡り、打上げ現場にできるだけ接近して、花火職人達に気付かれないように、細心の注意を払って見物した。
安全な場所で見物する花火と違って、打上げ現場近くで見ていると、音も光も戦場のようで物凄い。
遠くからでは分からないが、実際の現場では職人達の怒号が飛び交い、ひとつの打上げ現場から次の現場にと、足元の悪い川原を走り廻っているのがよく見える。
尺玉以上の打上げ筒は、まるで直立した砲身のようで、実際に打上げる時は、大砲を打つのと同じだった。
<ズゴーン>という轟音と、10m以上の火柱が吹き上がって、花火玉が炎の尾を引いて真っ直ぐに上昇して行くのがはっきりと見えるのだ。
川原の砂利の上に仰向けで寝て、真上の空いっぱいに広がる花火を見ていると、土手の上や桟敷で見る花火は絶対に別物だと思ってしまうほどだった。
小学校3年の時、私は大失敗をしてしまった。
川原で横になって花火を見ている内に、いつの間にか眠ってしまったのだ。
そこに運悪く、次の打上げ現場に走って行く職人に踏み付けられてしまった。
その職人は、てっきり私を土左衛門だと思って、死ぬほど驚き、「このバカヤロー、ここは立入禁止だぞ。いったいどこから入り込んで来たんだ。早く帰れ」と物凄い剣幕でどやしつけるのだった。
私は全速力でその場から逃げて皆の所に帰ると、何食わぬ顔でごまかした。
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- 平成16年8月6日(金曜日)
【晴】
昭和20年8月6日、私の長兄は広島で被爆した。
爆発直後の地獄のような市内に救援隊として入り、何日も留まったにも関らず、幸運にも発病はせずに済んだ。
瓦礫や柱の下から、まだ息のある人達を出来るだけ助け出しても、そのあと何もしてやれずに死なせてしまう、そんな空しい作業を繰り返すと、戦争というものが、どれほど罪深いものかが、理屈抜きに分かるのだという。
せっかく助け出した小さな女の子が「おじさん水を下さい」頼むのを「今水を飲むと死んでしまうから、もう少し我慢しようね」と飲ませなかった。
女の子は間もなく兄の腕の中で息を引き取ったが、なぜあの時に水を飲ませてやらなかったのだろうと強く後悔をし、今でも時々夜中に目を覚ますのだと聞いた。
子供の頃、夏になると兄は決って私に戦争の話、特に広島の話を聞かせてくれた。
話を聞くのは大抵湯船の中で、親子ほどに年の離れた長兄の話は、私には別世界の出来事のように思えてならなかった。
兄は広島の惨状を見て直ぐに、日本の敗戦を確信したという。
志願で入隊し、船舶工兵隊「暁部隊」の一員として実戦に参加、何度も危機を乗り越えて生還した後の被爆であった。
広島以前にも、戦争の愚劣さを何度も思い知らされる出来事に遭って来た兄は、もし生きて帰れたら、もう二度と戦争には関るまいと、固く心に誓ったという。
「だからな、映画の中で戦争がどんなにカッコ良くてもな、カッコいい戦争なんて絶対にないし、戦争は人を苦しませ悲しませるだけの、世の中で一番バカげた事なんだぞ。だからな、お前も大人になったらな、戦争だけは絶対に関っちゃダメなんだぞ」
兄は話の最後を、いつもこう締め括った。
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- 平成16年8月5日(木曜日)
【晴】
夏休みは昼食を家で摂るのだが、大抵は朝の残りの冷飯を、これも温め直した味噌汁と漬物、それからカボチャやジャガイモの煮付けなどのオカズで食べた。
私はカボチャの甘い煮汁を飯にかけて食べるのが好きで、その現場を母に見付かってよく叱られた。
飯に何かをかけて食べると、胃に悪いからというのがその理由だったが、それならなぜ大人はよくお茶漬けを食べるのか、その辺がどうしても納得できなかった。
温かい飯のオコゲは美味しいけれど、冷飯のそれは美味しくない。
だから自分で飯を盛る時には、なるべくオコゲを入れないようにした。
冷たいオコゲでも熱いお湯をかけると、結構美味く食べる事が出来たが、漬物を食べ過ぎるので、あとで喉が渇いて仕方がなかった。
昼時に折良く豆腐屋さんが通れば、その日の昼の食卓には冷奴が乗り、そこには刻みネギやおろしショウガが添えられて、何だか得をしたような気持ちになった。
我が家では、朝食と昼食は大抵台所の板の間で摂り、夕食は隣の仏間で摂った。
朝と昼は各々がバラバラに食事をする事が多く、夕食は家族が揃って食卓につくので、台所では少し手狭だったからだ。
夏の夕食は、さっぱりと麺類が多かったが、中でも母の手打ちうどんは絶品だった。
シコシコした食感は子供にでも分かるほどだったし、何よりもおつゆが美味かった。
カンナを上向きにしたようなカツオ節削りで、飴色のカツオ節を山ほど削って作るつゆの味は、お店にも負けないほどだったと記憶している。
夕食のあと、茶の間には枝豆が毎日のように出され、塩味のきいた濃厚な豆の味を楽しんだが、今では房だけで皿に盛られる枝豆も、あの頃は文字通り枝のまま釜茹でして出されたのだ。
夜も8時を過ぎると、寝間には蚊帳が吊られ、子供達は早々にその中に入って床につく。
大人達は蚊取線香の焚かれた茶の間で話の花を咲かせ、私達はそれを子守歌代りに聞いている。
開け放たれる所は全て開け放たれ、家の中は外気と同じ気温で夜を過ごし、何の危険も意識する事なく朝を迎えた。
人が人を恐れずに生活する事が当り前の、そんな時代があったのを、まるで夢のように感じるほど、今の世は狂気が充満する時代になってしまったが、それだけに善意を信じていきたいものだと、心の底から思う。
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- 平成16年8月4日(水曜日)
【晴】
夏休みの宿題の定番は、まず絵日記と朝顔観察日誌、そして読書感想文と自由工作、昆虫採集と植物採集、それから動物飼育や化学実験なども人気があった。
絵日記は絶対嫌だったし、朝顔観察も最後まで続かず、大抵は放ったらかしにした。
昆虫採集と植物採集は好きだったが、採集するだけで整理をしないから、ただ部屋を散らかすだけで終わった。
動物飼育も、ただ飼育するだけだったら、ヒワや金魚、亀とイモリもいたけれど、観察記録を作るくらいなら飼わない方が良いタイプだったから、これも駄目で、結局まともな宿題は読書感想文と工作、そして化学実験記録だった。
特に工作は得意とは言えないが、魚採りに使うボテや、竹製のウケ、同じ竹細工の鳥かごなど、何とか人並みにこなせた。
ボテは網を編む事と本体の板金が面白くて、ウケはヒゴを作らなくて済むので楽だった。
鳥かごはヒゴ引きで何本ものヒゴを作らなければならず、結構大変な作業なのだ。
五寸釘を金床の上で叩いて、忍者の飛くないを10本作り、これを布製の袋に並べて収納できるようにしたものは、提出したとたんに担任から大目玉を食らった。
化学実験の宿題は、実際は実験などしないで、近所の中学生の兄ちゃんが持っている本を借りて来て、さも実験したように記録を作って提出したが、一度もばれなかった。
しかし、いつもごまかしをしていた訳ではなく、実際に多くの実験をやって記録にまとめ、それがコンクールで入賞した事もあった。
水の中に硫酸を入れた場合と、その逆の場合どう違うか。
銅板にアスファルトを塗り、その表面を引っ掻いて絵や文字を書き、硫酸と硝酸の混合液につけて、露出部分を腐食させるエッチング。
色々な花や植物、土などを塗料にして、木綿の布を染めたらどんな色に染まるのか。
そんな他愛もない実験だったが、子供には大変な仕事で、それなりに苦労も多かったのだ。
いつだったか、ロクな宿題も出来ずに日が過ぎてしまい、あと一週間で夏休みが終わるという時、苦し紛れに渡良瀬川に行って、手当たり次第に石を拾い、ボール紙で作った箱に並べて標本のようなものを提出した事があった。
集めたのはいいが、石の名前が全く分からなくて困ってしまったが、近所の高校生の兄ちゃんで、東大をめざしているという秀才の趣味が鉱物採集だったのを思い出して飛んで行った。
兄ちゃんは30分もかからずに全部の名前を書いてくれたが、標本の中の一個をお礼代りに取られてしまった。
マラカイトという緑色の石だったが、そんなもの一個で済むのならお安いものだと思った。
なぜかといえば、兄ちゃんはマラカイトを珍しい石だといったが、あんな石は良く探せば直ぐに見付かる石で、別の名をくじゃく石といった。
何だ秀才もたいした事はないなと、その時密かに思った。
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- 平成16年8月3日(火曜日)
【晴】
毎年8月になると、我が家は遠来の客で連日賑やかになる。
7日の七夕に開催される花火大会見物のため、親類が数日前から泊り掛けで来ているので、毎日がお祭り騒ぎのようで楽しかった。
母屋の二階のふすまを取り去って作った広間には、大きな座卓を何台か置いて、朝から料理と酒、ジュースやサイダー、そして果物が所狭しと並んでいる。
入れ代り訪ねて来る客は、下でもてなしたあとに二階に上がってもらい、次の客に備えるといった忙しさが、お盆が終わるまで続いた。
全ての客は抱えきれないほどのお土産を持って来るので、私達子供は期待で胸がワクワクした。
埼玉の叔父さんは、大人の手ほどもある大きな手作り大福を、背中いっぱいに背負って来たし、千葉の叔父さんは二つのボストンバッグに、信じられないほど太いひじきやワカメ、色々な種類の干物、ウニのビン詰め、スルメ、そして沢山の海ホウズキを持って来てくれた。
館林の叔母さんは有名な麦落雁と乾麺を、東京のイトコは浅草の肉マンと雷おこし、そして人形焼を、そして、今は結婚した母の姓で、ずっと我が家で姉やをしていたオカネさんは、凄い量の枝豆と梨を、行田の叔母さんはスイカと瓜を、そして、祖父や父のもとで修業した名も知らぬ多勢の人達も、8月を待っていたかのように、それぞれが心づくしの土産を携えてやって来た。
お盆には未だ間があるのに、仏間は終日線香の香りが途絶える事もなく、仏壇の前は、供物が所狭しと置かれて、不思議な華やぎが生まれていた。
無類のうどん好きな那須の叔父は、母の手打ちのうどんが楽しみだと、もう昼の内から舌なめずりをしていた。
私にとって、夏は祭の季節であり、懐かしい人達との再会の季節でもあった。
大人達にとっても同じだったのだろうが、子供と違うのは、この季節が鎮魂と祈りの時だった事だろう。
旧盆の月である事に合わせて、8月は終戦の日であり、広島長崎に、人類初の原爆が投下された月でもあった。
どんなに華やいだ中にも、どこか粛然とした物があるのは、子供にも伝わって来た。
夏が来ると、あの頃の我が家の喧騒を思い出す。
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- 平成16年8月2日(月曜日)
【晴】
夏休み中は町内別に朝のラジオ体操があった。
大抵は朝の6時30分からだったが、早い人は5時頃から会場に来ていたようだ。
緑町は公園の広場が会場で、神社に毎朝参拝に来る近所の年寄りも、その足で参加した。
我が家から会場までは直ぐに行けたので、本当は朝食を済ませてから行きたかったのだが、朝っぱらから家の中をウロウロしているのは邪魔だと、いつも6時頃には家を追い出された。
仕方ないので出席カードを首にぶら下げて、ダラダラと会場への道を歩いて行くと、いつもの仲間が同じようにダラダラと歩いているのに出くわし、誰からともなく固まって進んで行く。
仲間の誰一人として、この行事を喜んでいる奴はいないのは、どいつもこいつもポケーッと眠そうな締りのない馬鹿づらをして、さも嫌そうに歩いているのを見れば直ぐに分かる。
それなのに、何か特別の事情でもない限り、ラジオ体操をサボる奴がほとんどいなかったのは不思議だった。
ラジオ体操に参加するのは、小学生を中心に町内役員の人達やミソッカス(小学生以下)、足腰の丈夫な年寄りと、なぜか10匹以上のワン公達、そしてワン公達から安全な距離を保って、我が家の猫を入れて、これも相当な数のニャン公達だった。
我が家の猫のミーは、私が朝に家を出ると、どこで見ているのか、必ずあとから追いかけて来て、私がいくら追い飛ばしても、その時だけは「ニャー」と文句を言って逃げるのだが、少し離れると、またノコノコとあとをついて来るのだった。
猫のくせに、いったい何が面白くてラジオ体操について来るのだろうと思ったが、多分会場に来れば友達に会えるからかもしれないと勝手に考えて納得した。
Oの家のバカ犬は、Oがラジオ体操を始めると、なぜかOのまわりをワンワン吠えながら全速力で走り回り、その内にOを目掛けて飛び掛って行く。
するとOはバカ犬に倒され、顔中を舐められて泣くのだった。
それを毎朝やっているので、皆はOが泣いていても、誰一人助けようとはしないで、Oはいつも泣きながら家に帰った。
バカ犬は自分がOを泣かしたくせに、泣きながら帰って行くOと一緒に歩きながら、さも心配そうにしていた。
Fの家のおじいさんは、伴奏に合わせて体操はするのだけれど、例の第一と第二の形とは全然違う、変な体操をしていた。
そして、体を動かす毎に「エイッエイッ」と気合を入れるのがおかしくて、近くにいる子供達は思わず笑ってしまう。
するとおじいさんはカンカンに怒って、「お前ら海軍体操を知らんのか」と怒鳴り散らすのだった。
Fの家のおばあさんに聞くと、おじいさんは少しもぼれ(ボケ)て来ているので、あまり気にするなということだった。
母が言うのには、もぼれているのは、おじいさんではなくて、むしろおばあさんの方なのだそうだ。
そういえば、Fのおばあさんは私の弟を家に連れて行って、まだ沸いていない水風呂に入れていた事があった。
Fの家の風呂場から、心細そうに泣いている弟の声を聞いたので、その事を母に告げると、母は真っ青な顔でFの家に飛んで行き、寒くてブルブル震えている裸の弟を抱いて出て来た事があった。
弟も赤ん坊じゃないんだから、嫌だったらサッサと逃げ出して来ればいいのに、多分逃げるとおばあさんが可哀想だと思って、我慢して水風呂に入っていたのだと思う。
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- 平成16年8月1日(日曜日)
【晴】
夏の強い陽射しは、我が家のような染色業者のとっては、文字通り天の恵みだった。
染色工場の庭は、染物を干すために広い事が大切な条件で、加えて効率よく干すために、独特の工夫がされていた。
長さが10m近い杉の丸太に、J字形の金具を何段にも取り付け、干し場を囲むように埋め込んで、そこに染物を通した竹竿を、ザンマタという道具を二本使って、二人掛かりで高く持ち上げて金具に引っ掛けて干すのだ。
ザンマタとは、Y字形をした木の板を10m以上の長い竹竿の先に取り付けたもので、一般家庭でも短い物を使っていた。
一竿に通した糸の束は約30kg位あったから、これを二人が竿の両端をザンマタに引っ掛けて、息を合わせて一気に持ち上げるには、単に力だけでは絶対に無理で、かなりの熟練が必要だった。
一般家庭の物干しの高さは、せいぜい5m位だったから、女の人が一人でも、一番下の引っ掛けに掛けた竿を、大体3段位上まで、片方ずつ一段一段上げて行けば良かったのだが、10mの高さに、30kg近くあるものを上げるには、大の男二人の力が必要だった。
小林のヒロヤンが、中学を卒業して直ぐ我が家に来て間もなく、ヒロヤンより一回り小柄な父にハッパを掛けられながら、死にもの狂いで父の相手をつとめて、ザンマタを使っていた姿は、技と力の大きな違いを物語るには充分の見本だった。
それが半年後には、文字通り鼻歌混じりでザンマタを使うヒロヤンがいた。
それでも、ハルさんやヨッさんに比べると、まだまだ未熟なのが子供の目にも分かるほどの差があった。
夏の強い陽射しを浴びて、色とりどりに染められた糸が、10mほどの高さの壁を作って風に揺れている様子は、息を飲む位に美しい風景だった。
生乾きの染め物は、まだ染料の金属的な匂いが残っていて、それが夏の風に乗って散って行く。
職人さん達の手は、特に爪が染料に染まっていて、いくら専用石鹸を使っても落ちなかった。
当時の染料は、主にドイツからの輸入品が多かったので、ねじり鉢巻きをした荒々しい職人が、べらんめえ口調でドイツ語の単語を口にするのを聞いていると、何だか知らないが少しおかしかった。
緑町には、我が家と同業の家が、少なくても10軒以上はあって、近隣の町内を入れたら、おそらく50軒近くはあったろう。
繊維の町として全国に知られた足利が、私の子供時代にはまだ生きていた。
■アトリエ雑記は平成12年12月15日からスタートしました。
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