アトリエ白美「渡辺肖像画工房」 渡辺晃吉
- 平成16年7月31日(土曜日)
【雨のち晴】
バサバサのひげと髪を振り乱しながら、素足を長靴に突っ込んで、どこから持って来たのか分からない、山のようなゴミを積んだリアカーを引いて、子供の敵のバタケンがやって来る。
バタケンは何故か子供を見ると、別に悪さを仕掛けてもいないのに、いつも目の敵にした。
「このクソッたれガキ共が。どたま撲っくらかしてくれっからな」とか、「何見てんだよ。向こう脛おっぺしょられてえか」などと凄んで、運悪くバタケンと道で会った子供達を震えあがらせた。
バタケンは、バタ屋のケンさんを短くした呼び名で、時々この辺りの家を物乞いして回る事もあったから、大人から子供まで、バタケンを知らない者はいなかった。
「あんまり言う事聞かないと、バタケンに連れていってもらうよ」
目の離せない悪ガキの親で、この脅し文句を使わない親は、おそらく一人もいなかったと思う。
なぜなら、バタケンは人さらいもしていて、今までに何人も子供をさらって、サーカスや角兵衛獅子に売ったという噂が、まことしやかに流れていたからだった。
鞍馬天狗の中で、角兵衛獅子の杉作が、いつも親方にいじめられているのを観ているので、もしも角兵衛獅子に売られたりしたら、いつもいじめられるだろうし、芸を失敗したりすれば飯ぬきのお仕置が待っていると思っていたから、多分本気で言ってはいないと信じながらも、もし万一バタケンに渡されたらと考えると、恐怖のあまり小便がちびりそうになった。
誰かが「バタケンのリアカーの荷台の下は、さらった子供を入れる丈夫な箱があって、俺はそれをハッキリと見た」などと言う奴もいたから、誰もがバタケンを見ると全速力で逃げた。
人さらいのバタケンを、警察は何故捕まえないのか不思議でならなかったので、その事を親に聞くと、悪い子は、いつかきっと警察に捕まって牢屋に連れていかれるのだから、その前にバタケンが連れていってくれれば、警察の手間が省けるので、バタケンを捕まえないのだと教えてくれた。
私は直ぐにそれを皆に伝えると、皆はバタケンだけではなく、警察も同じ位に怖いんだと心から思って身震いした。
仲間の中で、バタケンに一番連れていかれそうな奴は誰なんだと話し合ったら、皆は高際の和雄が一番危ないと言った。
それを聞いた和雄は、まるで気ちがいのように泣き喚きながら家に逃げ帰って行ったが、その直ぐあとに、高際のおばさんが顔を真っ赤にして押し込んで来た。
「みんな、どうしていつも和雄を泣かすんだろう。本当に悪い子達なんだから」てな調子で、決して大きな声を出して怒らないのだが、それがかえって私達には怖かった。
「ちがうよおばさん、俺達和雄をいじめたりなんかしてねえよ。ただ俺達の中で、和雄が一番バタケンにさらわれやすいんじゃねえかって言っただけだよ」
「どうして和雄が一番さらわれやすいんだろう。うちの和雄よりも、みんなの方がずっと悪い子でしょう」
「だって和雄は、この間バタケンのリアカーから自転車のリーム盗んだもん。それがバレたら、きっと和雄はバタケンにさらわれると思うよ」
おばさんはそれを聞くと、尻尾を踏ん付けられたミーのような勢いで家に戻って行った。
その直ぐあとに、ギャーという殺されそうな和雄の絶叫が近所中に響いて来たので、私達はとばっちりを受けては大変とばかりに、くもの子を散らすようにして、その場から逃げた。
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- 平成16年7月30日(金曜日)
【晴】
八雲神社の境内の石垣の下の広場は、戦後直後に青年団の勤労奉仕でテニスコートになった事で、その後普通の広場に変わってからも、草一本生えていないほど良く手入れされていた。
その代り、同じ位の広さの南半分は、夏になると猫じゃらしや丈のある雑草におおわれた草原になったが、これがまた面白かったのだ。
原っぱのいたる所に色々な罠が作られて、あわれな犠牲者を待っていたからだ。
罠の種類は、一番簡単なもので、二本の束を縛って輪にしただけだったが、これが意外によく利いて、何人もの人が足を取られてひっくり返った。
子供がスッポリ入ってしまうほど深い落し穴は、作るのも大変だったが、犠牲者がこれにはまった時の手ごたえは、苦労して作っただけの値打ちは充分にあった。
薪で作った杭にロープを結び、先を輪にした罠には、人間だけでなくワン公もよく引っ掛かって、キャンキャン鳴き喚いているのを助ける時に、よくかまれたものだった。
一番悪質なのは、長さ10m位のロープの両端を杭に結び、そこを通ったら絶対にすっ転がるという罠で、こいつは少し危ない事もあって、あまり作らなかった。
パンクしたドッジボールに水を入れて、浅く掘った穴に埋め、それを踏みつけると、空いた穴から水が吹き出して体にかかる罠は、やられた奴が一番ビックリするのでよく仕掛けたが、どこに仕掛けたのかよく分からなくなってしまい、探し出すのに苦労した。
原っぱはバッタやイナゴの絶好の狩り場でもあったから、子供は勿論、大人もよく来ていた。
祖母はイナゴの佃煮を作るのが上手で、私の顔を見るといつも一緒にイナゴ採りを手伝わさせられたが、結構面白いので、あまり嫌ではなかった。
バッタは食べないけれど、子供にはイナゴよりバッタの方がずっと身近だったし関心も高かった。
大きな殿様バッタを見付けた時など、炎天下を汗まみれになって、何時間でも追い駆け回した。
あの頃、田や原っぱに行くと、赤トンボとイナゴは幾らでもいたので、祖母が嫌というほど持ち帰って喜ばせた。
オニヤンマは原っぱの王者で、運良く捕まえた時に、あの強いクチバシでかじられた時の痛さが勲章になった。
原っぱは冒険の世界であるばかりではなく、様々の恵みを与えてくれる豊饒の地であり、多彩な自然を学ぶ学習の場でもあった。
秋の気配が立つと、原っぱの住人はガラッと変わって、夏とは違う出会いが待っている。
ガチャガチャ(くつわ虫)、スイッチョン(キリギリス)、チンチロリン(松虫)、リーンリーン(鈴虫)
皆子供達には宝石にも等しい友達だった。
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- 平成16年7月29日(木曜日)
【雨】
午前10時を過ぎると、町にはアイスキャンデー売りの自転車が、ぼちぼちと走り始める。
夏休みの規則で、子供達は午前10時までは家で宿題や勉強をする事になっていたから、あまり商いにならない。
緑町でも「舟定」という和菓子屋さんが、夏になると自家製のアイスキャンデーやアイスクリームを売っていたが、遊んでいる直ぐそばまで来てくれる流しのおじさんの方が買いやすかった。
ハンドルに吊るした鐘をカランカランと鳴らしながら、大きな四角い箱を荷台に乗せ、その横に立てた竹竿の先に付けた旗を、パタパタとひるがえしながらやって来る姿は、正しく夏の風物詩だった。
キャンデーは1本5円で、味はレモンとミルク、そして小豆とメロンと、結構多彩だったが、油断していると食べながら残りが溶けかかって落ちてしまうのが難点だった。
アイスキャンデーやアイスクリーム、そしてカキ氷などを、私が子供の頃は氷菓子と呼んでいた。
果物は水菓子、乾き物は干菓子、大福などは餅菓子、羊羹などは練り菓子、金ぺい糖やハッカ飴は砂糖菓子、豆板や甘納豆などは豆菓子、そんな呼び名をあの頃の子供達は、いとも簡単に使いこなしていた。
お菓子とは呼べないが、夏には付き物なのが、ぶっかき氷だった。
今はカチ割りというのだろうが、私達が子供の頃は、もっと直接的な言い方で、そう呼んでいた。
ぶっかき氷は店で売っている訳ではなく、氷屋で買って来た氷を千枚通しで突き割って、自前で作るのだが、氷は普通一貫目が一本で、大抵の家は半分の五百目を買って来た。
氷屋さんは物凄く目の荒いノコギリで少し刻み目を入れると、一貫目の氷を簡単に割ってしまい、手早く荒縄で縛って渡してくれる。
氷は手渡された時から溶け始めるから、買った人は急いで家に持ち帰らなければならないのだ。
夏に何かを冷やす時には、普通は井戸水の中に入れた。
今のように冷蔵庫で冷やすほど冷たくはならなかったのだろうが、それでも充分に冷たかったから不思議だ。
井戸端のタライの中に、トマトやきゅうり、スイカなどが色鮮やかに浮かんでいる様子は、とても色彩的で美しかった。
トマトは今よりもはるかに濃厚な味で、きゅうりには刺があったが、とても甘かった。
サイダーの炭酸は、子供が身震いするほど強くて、夏みかんは、身構えて口に入れるほどの酸っぱさだった。
近所の駄菓子屋に、売り物を入れるための冷蔵庫が入ると、子供だけでなく大人まで見学に行った。
それは木製の中古の冷蔵庫で、一番上に氷を入れて中を冷やす仕組みだったから、あまり冷たくはならなかったが、「おばさんラムネ」と、あまり飲みたくなくても、つい買ってしまい、本当は少し温かいのだけれど、無理して冷たいと言い聞かせながら飲んだ。
今より遥かに不便だったが、今より遥かに手ごたえがあった。
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- 平成16年7月28日(水曜日)
【晴】
チャンバラごっこの時に、手裏剣は有りかどうかでよくもめた。
坂妻の荒木又衛門が、甥の数馬の仇討ちの助太刀をする時、額に巻いた鉢巻きに手裏剣をはさんで戦う場面があり、それが凄く格好が良かったので、誰もが手裏剣で相手をやっつけたかった。
しかし、皆が剣で戦うのに、特別に手裏剣を使うのは、どう考えても不公平だし、第一卑怯だという奴もいた。
それに仮に手裏剣が体に当っても、刃の方なのか柄の方なのか分からないから、果して死んでいいかどうか決められないのが具合が悪い。
結局手裏剣は決斗の時だけ使う事になり、チャンバラごっこが決斗ごっこになる事が多くなった。
決斗ごっこの良いところは、チビとデカが戦っても、あまり大きな力の差が出ない事だったから、特にチビ共が決斗ごっこをやりたがった。
決斗ごっこは、金子の武が意外に強くて、5回の内3回は勝ったが、時々飛び入りで参加するGIは、武の上手を行った。
そのGIは緑町2丁目のオンリーさんの所に日に何度かやって来て、私達が公園で遊んでいると、ニコニコ笑いながら仲間入りするのだった。
最初は大人を仲間に入れるのに少し抵抗があったが、日本人の大人とは違って、何だか断り切れない親しみがあった。
決斗はお互いに手裏剣を三本持って背中合わせに立つ。
立会人の合図でゆっくりと10歩離れて向き合うのだが、この動作をいい加減にしてはいけないのだ。
あくまでも真剣に格調高くなければ、皆から文句が出た。
お手本は勿論映画だった。
お互いに向き合うと、地につけた足は絶対に動かしてはいけない。
もし一歩でも動かすと、それで負けとなる。
どっちが先に投げてもいいし、続けて三本を投げてもいい。
とにかく先に相手に当てた方が勝ちになる。
だから最初は相手の出方をうかがったり、フェイントをかけたりして、なかなか手裏剣を投げられないのだ。
どうしたら相手に打たれずに手持ちの手裏剣を投げ切らせるかが勝敗の分かれ目になる。
GIは相手が投げる手裏剣を、自分の手裏剣で叩き落すという離れ業を持っていただけでなく、投げる手裏剣が百発百中といって良いほど凄い腕前なのだ。
いったい何であんなに強いのか、私達は勝負のあとでよく話し合ったが、結局はよく分からなかった。
GIが時々連れて来た女の子は、金髪の長い髪をしていたが、顔は日本人でよく鼻を垂らしていたので、それがとてもチグハグな感じだった。
GIは私達にその子の遊び相手になってもらいたかったらしく、私達も少し珍しい女の子と遊ぶのが、何となく楽しかった。
女の子は日本語も英語も話せた。
一度家に連れて来た時、我が家は上を下への大騒ぎとなり、母はとりあえずうどんを出してやった。
女の子は美味しい美味しいと喜んで食べていたが、それを見物していた家族は、皆目を白黒させて驚いていた。
女の子を送って帰って来ると、母は凄い剣幕で私を叱り、二度とその子を家に連れて来てはいけないと言った。
私は何で叱られたのか訳が分からなかったが、子供ながらに大人の持つ偏見の匂いを感じて、とても哀しかった。
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- 平成16年7月27日(火曜日)
【晴】
昭和20年代、大抵の家では庭や僅かな地面を生かして、野菜作りやニワトリを飼っていたが、勿論趣味の園芸などではなく、乏しい食料事情を少しでも補うためのものだった。
特に夏になると、ナス、キュウリ、トマト、インゲン、枝豆、スイカなど、結構色々な種類が収穫できた。
ニワトリは卵を取ったり肉にするためで、決してペットとして飼っていた訳ではない。
うさぎもよく飼われていたが、これも毛皮と食肉用として、主にその家の子供達が飼育を担当していた。
成長したうさぎは、近くにあった専門業者の所に持ち込まれて、何がしかの金に代る。
肉と毛皮の両方を売る事もあるが、大抵は毛皮だけ売って肉は引き取って来たようだ。
親は子供が学校に行っている間に、黙って運び出すから、帰宅した子供は、いつものようにうさぎ小屋に行き、そこに見慣れた姿がない事に気付くと、その日に何が起こったかを瞬時に理解した。
まだ手の平に乗る位の子うさぎを飼い始める時から、いつかはこの日が来る事を言い聞かされてはいるものの、ついにその日を迎えた時の悲しさは、本当に他人事とは言えないほど、まわりの仲間にとっても辛く悲しいものだった。
どこの家に、どんな名前のうさぎがいるのか誰でも皆知っていたし、一匹一匹が皆にとっても友達だったからだ。
大切な友達を失った奴は、空地に積んである薪の裏や、神社の境内の隅など人目に立たない所で、黙って泣いていた。
親の前で涙を流せば、ひっぱたかれるだけではなく、親も辛くなるのを知っているからだ。
「どうしたんだ、チビが連れてかれたのか?」
「うん」
「もうハコベ取りに来なくていいんだな」
「うん」
そんな程度の言葉しか掛けてやれないけれど、その言葉には万感の思いを込められていたと思う。
直接育てた訳ではなかったが、一緒に成長を見守って来た仲間達にとっても、それはとても悲しく辛い出来事だったからだ。
「いつ戻って来るんだ?」
「夕方。父ちゃんが仕事の帰りに貰って来るって母ちゃんが言ってた」
「そうか。だけどおめえ、チビの奴を食ってやんなきゃ駄目だぞ。おめえが食ってやんなきゃ、チビが可哀想だぞ」
「俺ぁ食ぇねえよ。とてもチビを食う気なんかしねえよ」
「バカヤロー、それじゃチビが何の為に肉にされるか分かんねえじゃねえか。父ちゃん母ちゃんなんかに食わせることはねえんだ。みんなおめえが食えばいいんだよ」
「俺ぁヤダな。とても食えねえな」
涙と鼻水でゴチャゴチャになった顔で無理に笑顔を作りながら、淋しそうに言った。
でもきっと、そいつは今夜泣きながらチビを食うんだ。
親が憎くて悔しくて、チビが可哀想で悲しくて、こんな家なんか飛び出してやると心で叫びながらも、そいつはきっとチビを食うんだと思う。
だって、そいつが最初に箸を付けなければ、家族は誰も手を出さないだろうし、食うのが遅くなればなるほど、父ちゃんや母ちゃんの目にたまった涙が増えて来て、もう少し経つと、そいつの一番嫌いな親の涙を見なければならないからだ。
あの頃そんな奴が大勢いたし、そんな家が沢山あった。
それでも皆優しい目をしていた。
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- 平成16年7月26日(月曜日)
【曇のち晴、夕方にわか雨】
夏休みになると、学校の校庭や公園の広場などを使った映画会が、一週間に一度ほど開かれていたので、大抵は見逃さずに観ていた。
太い竿を2本立て、その間に白い布を張っただけのスクリーンだったから、風が吹けば画面がゆらゆらと揺れたし、画面は裏からでも観られたから、わざわざ裏にまわって、直接地面に寝転びながら楽しんだりした。
校庭で上映されるのは全部優良作品というやつで、チャンバラやギャング映画などを観られるのは稀だった。
「おらあ三太だ」「少年期」「路傍の石」「ここに泉あり」「銀嶺の果てに」「青い山脈」「長崎の鐘」「姫ますは帰って来た」「暁の鼓笛隊」「無法松の一生」「王将」「お嬢様お手をどうぞ」「生きる」「秋刀魚の味」「父帰る」
大体そんな感じの作品だったが、時にはサービス精神を発揮したのか、「四谷怪談」とか「牡丹燈篭」などのお化け映画も上映された。
そんな時は校庭中がワーワーギャーギャー大騒ぎとなって、子供の中には怖さのあまり大声で泣きながら、「家に帰ろう、家に帰ろう」と喚いている奴が何人もいた。
外国映画には、「西部戦線異常なし」「自転車泥棒」「心の旅路」「外燈」「外人部隊」「モロッコ」「カサブランカ」「白い馬」などがあったが、スクリーンが風に揺れて字幕がよく見えない事もあってか、子供にはあまり人気がなかった。
ただ近所の姉ちゃん達が、ハンカチを握りしめながら溜息をついたり、時には泣いたりしているのが面白くて、そっちの方ばかり見ていた。
夏の夜は暗くなるのが遅いために、映画の始まる時間は大抵午後7時30分過ぎだった。
小学生にとって午後9時過ぎは真夜中だったから、映画を最後まで観ていられず、ほとんど途中で眠くなって引き上げて来たのだが、そんな時は家までの道程が、随分遠く感じた。
同じ野外映画会でも、校庭以外が会場になると、片岡千恵蔵の「七つの顔の男」シリーズや、大河内伝次郎の「丹下左前」、あらかんの「鞍馬天狗」、長谷川一夫の「銭形平次」などの娯楽映画もよく上映され、時には私の母なども皆と一緒に楽しんでいた。
母が最も好きだったのは、三益愛子主演の母物映画だった。
子供の為に全てを犠牲にして愛を貫く姿こそ、母の世代の女性がめざした理想の母親像だったのだろう。
夏の夜の深い闇を引き裂く乳色の光が、古びたスピーカーから出るくぐもった音に合わせて、ヒラヒラと形を変えて行く様子が、鮮やかに蘇えって来る。
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- 平成16年7月25日(日曜日)
【曇】
脳梅で少し頭のおかしかったYさんは、子供が好きだったのか、私達が遊んでいる所に通り掛ると、必ず近付いて来て仲間に入ったが、直ぐに飽きてしまいプイッとどこかに行ってしまった。
Yさんが病気になる前は、多分かなり優秀な頭の人だったと思うのだが、その証拠には、公園の金のトビの前や、裏のドードーの縁に立って、物凄く真剣に独り言を話しているのを聞いていると、私達には全く分からない難しい言葉や外国語が、ポンポンと飛び出して来るのだ。
Yさんは時々我が家の玄関前に黙って立つと、そこに家などないような素振りで、天を仰いだり腕を広げたりしながら、宇宙の話や政治経済の話、そして戦争によって多勢の人達が苦しめられた話などを、立板に水を流すように語り続けるのだった。
適当な所で母が、「Yさん、そこじゃなんだから入ってお茶でもおあがんなさいな」と言うと、待ってましたとばかりにスーッと入って来て上端に座り、母の入れたお茶を黙って飲みながら、外の話の続きをするのだった。
そんなYさんに、母はいちいち相槌を打ちながら、お茶うけの漬物などを箸でつまんでYさんの前に出すと、Yさんは黙って手を広げ、そこに乗せてもらった漬物を美味そうに食べるのだった。
さすがに食べ物が口に入っている時だけは独り言は言わないが、また直ぐに続きが始まる。
そして、お茶やお茶うけに充分満足すると、別に礼を言う訳でもなく、入って来た時と同じように、プイッと外に出て行くのだった。
Yさんは時々小学校の校庭にも顔を出したが、その時は大抵校門脇の砂場の鉄棒で遊んでいた。
大振り、巴、跳上りの順で鉄棒に上ると、それは見事な大車輪をするので、校庭が見渡せる本校舎の教室では、少しの間授業が中断する事もあった。
Yさんは鉄棒から降りると、今度は二宮尊徳の石像の前に立ち、最敬礼をしたあと大声で歌を歌い始める。
「みいたあちいがあおおかあべえ、まあなあびぃやあのを、ひいらあけえばあ、まあどおのを、かあぜえきぃいよおしいい」
(御立ヶ岡辺、学び舎の、開けば窓の風清し…)
西小の校歌なのだが、これを聞くと、先生も生徒もたまらずにドッと笑いこけてしまうのだった。
Yさんはそんな事には全くの関心を示さず、またプイッとどこかへ行ってしまう。
いつだったか学校の帰りに、栄町の稲荷神社の石段に腰掛けて休んでいると、Yさんがふらっと近付いて来て私の隣に座った。
「Yさんどこに行って来たの?」と私が聞いても、Yさんは私など全く無視して、「どこに行って来たのか、どこに行こうとするのか、それが問題なのは分かっているが…」と、いつものように独り言を始めるのだった。
しばらくの間は付き合っていられるが、こっちにも色々都合があるから、「Yさんバイバイ」とその場を離れると、Yさんもベラベラと喋りながら私のあとをついて来る。
そんな事はよくあるので、私もかまわずに家に帰ると、Yさんは私の直ぐあとから入って来て、いつものように上端に座ると、外を眺めながら話し続けるのだった。
家の者も慣れっこになっているから、「Yさん来たの」とか「Yさん今日はどこに行って来た?」とか語り掛けるのだが、Yさんは決してそれに答えようとはしない。
母か祖母が相手をしない時には、Yさんは勝手にお茶を入れ、置いてあるお茶うけも勝手に食べて、またプイッと出て行く。
Yさんはその後病気治療のため群馬県の病院に入院したそうだが、私達が再びYさんに会う事はなかった。
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- 平成16年7月24日(土曜日)
【晴】
私が生まれて初めてパンを食べたのは、たしか5歳の夏だったと思う。
その日はパンの配給日というので、朝から母屋では大人達が少し浮き浮きとしているのが、幼い私にもよく分かった位だから、当時の食糧事情がどんなものだったか想像がつく。
「パンを軽く焼いてさ、それにバターをぬって食うと本当に美味いもんだよな」と、長兄が同席の人達に話している。
真っ黒に日焼けした顔の中で、高笑いした時の歯が真っ白に光っていた。
木の柄がついた大きな手提袋を引きずるようにして、営団に出掛けて行った小学校2年の姉が、中身でふくらんだ袋を両手で重そうに持って帰ると、長兄は早速パンを出して卓袱台の上に並べた。
パンが卓袱台の上に山のように積み重なったのを見て、私は生まれて初めて見るパンという食べ物が、想像していたものよりも焦げ臭いのに少し驚いた。
それでも、大家族の我が家に割り当てられたパンは、他人も入れてそれを見つめる人達の心を富にしてくれるほどの量であったので、「ウァー」という、ため息とも歓声ともつかぬ声が思わず漏れたのだった。
コッペパンを少し小さくした形のパンは、全体のこげ茶色に重なって、所々が真っ黒だった。
私は長兄が渡してくれた一本では物足らずに、「もっとちょうだい」と頼むと「それが全部食べられたらあげる」と言った。
期待に心をふくらませながらかぶり付いたとたん、(うへぇ、まっじ〜い)と思うほど、生まれて初めてのパンは苦くて固くて、ボソボソとしていた。
口の中がカラカラになり喉が詰って、「ゲーッ」とえずいてしまうと、長兄は「無理に食わなくてもいいぞ」と心配していた。
私は少し前に長兄が話していたパンの話と、実際のそれが違い過ぎるので、何だか騙された気分であった。
あとで聞くと、そのパンは小麦粉の代りにふすまを使ったものだったのだそうだが、私のパンに対する第一印象が大きく変わるのには、それから一年を待たねばならなかった。
その日、私は義姉に手を引かれて、柳原小近くの山本パンまで出掛けた。
約一時間ほどの道程を歩いて店の前に着くと、もう多勢の人が配給券を手に通りに行列を作っていた。
嫌になるほどの時間が過ぎ、ようやく私達の番が来ると、何も置いていない店内の向こうに見える大きな釜の戸が開き、白い服を着た人達が、見事な手際でパンを次々に箱へ移して行く光景が目に飛び込んで来た。
辺り一面が今まで経験した事のない香りにあふれ、配給券を渡して口を開けた義姉の手提袋の中に、次々と入れられるコッペパンの形と色を見た時、私は生まれて初めて味わった時のパンと、目の前のものとがあまり違い過ぎるのに驚いていた。
店を出ると直ぐに、義姉はコッペパンを一個私の手に握らせてくれたので、夢中で食いつくと、そのパンは柔らかくて甘くて香ばしくて、おまけにホッカホカに温かかった。
文字通り6年間の人生で食べたものの中で、それは一番の味だった。
足利を代表する老舗の息子は、その後同窓の友となり青春の一時期を共有した。
今年の7月のはじめ、その友と久し振りに再会したが、ほんの数日後、近隣に何店もの店を持つほどに大きく発展した会社を閉めたと人づてに聞いた。
真面目でひたむきに生きる人達が恵まれない今の世に、密かな憤りを感じるのは、決して私だけではあるまい。
お〃らかで皆に好かれた友の再起と健康を心から祈って止まない。
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- 平成16年7月23日(金曜日)
【晴】
無想剣の達人で、私より2つ年下のMは、祇園太鼓の名人でもあったが、八雲神社のお祭でも、集会場に置いてある太鼓で祇園ばやしをやってしまうので、よく怒られていた。
「ダメだぞ。八雲様の時にお祇園やったら、八雲様が驚いて逃げていっちゃうぞ」
それでもMは目を半眼に閉じて、いつまでも打ち続けていた。
「まあいいか。音が出てねえよりも何ぼかましだもんな」と、おじさんが苦笑いしながら言った。
無想剣も祇園太鼓も、Mは映画を観て覚えたのだ。
無想剣は大河内伝次郎の「魔の剣」、祇園太鼓は阪妻の「無法松の一生」からだった。
剣を片手下段に垂らして目を閉じ、無我の境地となって相手と向き合う。
もしも相手が攻撃して来ると、無意識に倒してしまうという、完全無敵の剣法だった。
無法松の一生の祇園太鼓の場面は有名なので、その頃は子供でもよく知っていた。
しかし、どちらも一度観た位では、とても覚えられるものではないから、Mはおそらく逆さ川沿いから新水園に入り込む、秘密の抜け道を知っていたに違いない。
いくら安いとはいっても、子供10円の木戸銭では、とても毎日入る訳にはいかないのだ。
只観は当然悪い事なのだが、映画館の只観よりは紙芝居の只観の方が、ずっと罪悪感が強い上に、技術的にも難しかったと思う。
なぜなら只観を見付かると必ず批難の的にされたからだ。
かろうじて攻撃されずに済むためには、紙芝居の前の集団から、少なくても2m以上離れなければならない。
そうすれば、紙芝居のおじさんも見物人も、まず文句は言わなかった。
Mが私の前にあらわれたのは、私が小学校5年の時だったから、きっと転校生だったのだろう。
家は我が家から2軒目で、家の前は少し広い物干し場になっていて、その左横は竹垣に囲まれた3坪ほどの花壇兼畑だった。
我が家の前に仲間が集まり始めると、Mは決って物干し場からこっちを見ていた。
両手をだらんと下げ、無想剣の達人らしく目は半眼で、時々両方の鼻の穴から垂れる青ばなをすすり上げる時以外は微動だにしない。
私達が黙って手招きすると、Mは無表情のまま直ぐにやって来る。
私はMが笑っているのを、ほとんど見た事がなかった。
けれど決して暗い子ではなく、私達と一緒に遊ぶのを心から楽しんでいたのは肌で感じる事が出来た。
Mはやはり誇り高い孤高の剣士だったのだと思う。
Mと私達の交流は、その後一年もなく終わり、Mはまたどこかに転校して行った。
一緒の間に一度も父ちゃんの姿を見なかったから、きっとMは母ちゃんと二人暮しだったのだろう。
夏祭りの頃になると、でたらめ祇園太鼓の音と共に私はMの事を思い出す。
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- 平成16年7月22日(木曜日)
【晴】
八雲神社の夏祭りは、20日の宵宮から22日までの3日間で、夏休みの最初の行事だった。
昔は大人が中心の祭だったが、私が神輿を担ぐ頃には子供中心のものに変わっていた。
大人用の神輿は、絢爛豪華な飾り神輿と、全て真鍮作りで、重量が三百貫(約1.2トン)もあるケンカ神輿の二種類があったが、祭の間本殿に飾られるのは飾り神輿だけだった。
理由は以前にケンカ神輿で死人が出たからだと聞いた。
子供用の神輿は全て木造で、元町10町内10基に加えて、近隣の町内も参加するから、祭の期間中は実質上車の通行は不能となる。
神輿は各町内の世話人の家を開放して安置され、終日大人も子供も集って来る。
21日朝9時、神輿を担ぐ子供達が集まって来る。
子供といっても小学生4年生以上の、大柄で力のある奴らだけが約80人がかりで担ぐので、かなりの破壊力があるから、周囲を屈強な大人達が囲んで、他の町内の神輿とぶつかり合うのを防がないと、あちこちでケンカが始まってしまうのだ。
たとえ子供用神輿といっても、その本質はケンカ祭だった。
各町内を出発した神輿は、最初に八雲神社前に集合し、宮司のお払いを受けたあと、それぞれの町内を巡行し、本通りで合流しながら5丁目の八雲神社に向かう。
町内巡行の時、隣の町内の神輿が近くに来ようものなら、ワーッとばかりに突っ掛って行き、少しでも大人の手がゆるんだりしたら、思い切り神輿をぶつけ合う事になる。
その時の体勢は、お互いに神輿を斜めに傾けて、本体を相手に投げ付けるようにしてぶつける方法と、担ぎ棒を突っ込んでねじり倒す方法が多かった。
しかし、ほとんどは成功する事なく、大人達の力に押し戻されてしまうのだったが、大人達もそれを楽しんでいるようだった。
腹いせに道の両脇に立つ堤燈柱を何本か叩き折ったが、その位は大目に見てもらえた。
本通りに戻った各町内の神輿は、お互いに前後の神輿を挑発して、あわよくば相手を叩き潰したいと思っているので、普段歩いても20分足らずの5丁目までの道中が、半日近くかかってしまう。
そんな祭が2日間続いて、夏休みの幕が開くのだ。
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- 平成16年7月21日(水曜日)
【晴】
造り酒屋の北側にある高い塀が、深く長い影を作っていたのが幸いして、私達は塀に自転車を立て掛け、その場に腰を下ろして小休止した。
向かい側には一軒一軒の生垣が、道の端から端まで連なって涼しそうだった。
道は東に少し行くとT字路になって、そこを右に折れると、少し広い道を挟んで反対側も造り酒屋の建物が建っていた。
T字路の角にあった水道から水を貰い、思い切り飲んで再び自転車を南に向け、ほんの数100m行くと、大きな踏切に出た。
踏切の直ぐ東には駅があり、「富田駅」だと沼が言うと、「じゃあこの線路は両毛か?」とマーコー。
「そうだよ。この先が足利駅さ」と、沼が西を指して言った。
(あ〃、ここはもう足利なんだ)と私は心の中で思った。
踏切を渡ると直ぐに、東西に走る水戸街道に出た。
私達は街道を右に曲って、砂利の中に刻まれた轍を拾いながら、緩く右にカーブしている坂をのぼって行った。
一列に並んだ私達の脇を、オート三輪やトラックが物凄い砂塵を巻き上げながら追い抜いて行く。
それでも街道を行き来するのは、車よりも自転車や歩きの人の方がずっと多かった。
坂は逆に左にカーブしながら両毛線を越え、直線に戻るとその先にも低い坂が待っていた。
「沼、坂はねえって言ったのに、あるじゃねえかよ」と宮内。
「坂ったって越床に比べればたいした事はねえじゃねえか」と沼が言うと、皆も「そうだな。この位なら降りて押すほどでもねえしな」と、沼の意見に同意した。
二番目の坂は思ったより楽に越えられたが、遥か前方を見ると、街道は低い尾根の東斜面の中に食い込んでいる。
また坂があるようだった。
陽は少し傾いて来たのか、ほとんど正面から私達をぶり続けた。
汗に砂塵がへばりついて、皆首の辺りに黒い横じまを作っている。
顔は思わず笑ってしまうほど薄汚れていて、まるで浮浪児の集団が旅をしているようだった。
坂の頂上は切り通しで、そこがS字の真ん中になっていた。
街道は再び真っ直ぐになって、遥か先は砂塵と陽炎の中に霞んでよく見えない。
しばらく走ると右側に小学校があったが、この学校には見覚えがあり、確かコーラスで訪ねた事のある毛野小学校だろうと確めてみると、間違いがなかった。
ここまで来れば、もう帰ったのも同じで、私達は2時間後に無事帰り着く事が出来た。
採掘場で見付けた黄色い石は、トパーズだと後日知った。
水晶の産地で、その細工でも有名な山梨では、水晶より硬くて細工しにくいトパーズを、ごろた石と呼んで川に捨てていたのだそうだ。
同じような理由で、葛生でも重きを置かなかったのだろうか。
とにもかくにも、夏の冒険がまたひとつ終わった。
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- 平成16年7月20日(火曜日)
【晴】
午後の強い日差しが、街道の両脇の雑草を焼いて、ムッとするような草いきれの中を、前を行く奴の自転車が立てる土埃を浴びながら、見渡す限り広がる田んぼの中を、南へ南へと走った。
やがて右斜め前方に、田の海へ突き出た半島のような尾根が近付いて来ると、「あれが西場の百観音だ。あそこまで行くと日影があるぞ」と沼が言った。
渇いた喉には、街道の脇を満々と水をたたえて流れる小川の水さえ飲み干したい位だったので、その言葉に勇気付けられて道を急いだ。
30分ほど走ると、私達はようやく百観音の崖下に辿り着いたが、そこは日影どころか、真夏の太陽が真上から照り付けてくる場所だった。
よく見ると、右の方に寺の山門が見え、細い石の橋が、山門に続く石段の下にのびている。
深い森の作る影が石段も山門も包んでいる様子が、いかにも涼しそうだったので、私達は誰からともなく自転車の向きを寺の方に変えた。
石段の下に自転車を停めて、涼しい風と蝉時雨の中を、思い思いの場所を見付けて腰を下ろすと、「水が湧いてるみたいな音がする」と馬場が言った。
耳をすませると、なるほど石橋の下の沢の方から、微かに水音がする。
せいぜい1m位の落差を降りて橋の下を見ると、コケとシダに覆われた岩のすき間から水が流れ落ちていた。
山際にはよくある泉が、運良く直ぐ目の前にあった。
飲めるだけ飲んだあとに、各々の水筒を満たすと、私達は再び炎天下の街道に自転車を乗り出した。
百観音下の切通しを巻くようにして、道は山裾に沿って西に向かい、西場の部落に入ってから大小山の東の裾野の下を、今度は南に方角を変えていた。
とても狭くて見通しも悪かったが、下が土であるのと日影が多いのが大助かりだった。
部落に何軒かある万屋の店先には、必ず氷の旗が長い竹竿のてっぺんではためいている。
あの冷たいカキ氷を思い切り口に入れる事が出来たら、どんなにいいだろうなと、誰もが思ったが、生つばを飲み込んで店の中を横目で見ながら通り過ぎた。
しばらく走ると、街道は部落を離れて少し東に向きを変えながら、次の部落へと入って行った。
高い煙突と大きな屋根が、屋敷林越しに見える。
そこは古い町と農村が共存しているような、不思議な雰囲気の場所だった。
「あ〃、ここは富田だ。あの煙突は酒作りの家のだよ」とオブチンが言った。
ほどなく私達は酒蔵の近くに辿り着き、普段見慣れている町の佇まいとは全く違う、まるで映画の中に出て来るような風景を、ただあ然として眺めるのだった。
以下次回
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- 平成16年7月19日(月曜日)
【晴】
宮内は頭のてっぺんが長さ2cm近く切れて、そこから出血していた。
見ると大抵の奴も頭が切れていたが、全員帽子をかぶっていたのが良かったのか、骨には異常がないようだった。
ひとつひとつの傷は、大きいものでも普段良く作っている程度なので、それほど驚かない。
ただ傷の数が多いのには皆参ってしまった。
それでも何とか手当てを済ませると、誰にも見付からないように自転車の所まで戻り、大急ぎで山をおりた。
粉塵にまみれた葛生の町を走り抜け、秋山川の橋を渡ると、私達はホッとしたとたん急に力が抜けてしまって、橋のたもとから川原に降りて橋の影に入ると、どっとその場にへたり込んでしまった。
「12時少し過ぎだから飯にしよう」、馬場の声に皆は急に元気付いて一斉に荷物を開け、それぞれが持参の弁当を出した。
「水がねえな」とオッちゃんが言うと、「大丈夫、ここなら飲める」とオブチンが足元の砂をほじくると、そこにたまった水に直接口を付けて美味しそうに飲んだ。
そういえば渡良瀬川で泳いだあとも、川岸で同じようにして水を飲んだが、正直あまり美味しくなかった。
私は少しためらったが、ひりつくような喉の渇きには勝てず、オブチンの真似をして飲んでみた。
渡良瀬とは比べものにならない位冷たくて美味かった。
喉の渇きがおさまると、俄然食欲がわいて来たのか、皆息をつく間もないほどの勢いで飯にかぶり付いた。
弁当を食べ終わっても、涼しい橋の下からなかなか離れられなかったが、陽のある内に家に帰らないと、また面倒な事になるので、一同渋々と腰を上げ、体のあちこちがズキズキと痛むのを無視して自転車にまたがった。
帰りの道は不思議なほどペダルが軽いので、やはり平地から山間部へと上って来たという実感があった。
2時間ほどで越床峠の下まで無事に辿り着いたところで、「俺、またこの坂上るの嫌だな」と家住がボヤき始めると、馬場もマーコーも「俺も」とボヤく。
「それじゃあ下を行くか。少し遠回りになるけど、坂はねえよ」と沼が言った。
下を行けるのなら誰も反対する理由などあるはずがない。
「よーし、下を行くぞ」と全員一致で進路を変更した。
以下次回
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- 平成16年7月18日(日曜日)
【晴】
落ち着いて考えてみれば、ハッパ現場から私達の所までは、優に1kmは離れていたから、直接爆発に巻き込まれるはずはないのだけれど、あの時は直ぐ近くで爆破があったような気がして、完全にパニック状態になっていた。
ようやく安全と思える所まで退避したあとも、「ドーン」という音が何度か続いて、かなり広い範囲から白茶けた噴煙が舞い上り、ゆっくりと広がって行くのが見えた。
「もう帰るべえよ」と、マーコーが言ったが、「せっかくここまで来たんだから、ハッパ現場を見よう」と言うオブチンの提案に従って、もう少し奥まで入って行く事にした。
もう自転車では行けそうもないので、私達は採掘場の直ぐ外側を、雨の作った溝や大岩に隠れるようにして登って行った。
30分ほどで、どうやら尾根らしい所に出たが、尾根の南側は深い崖が100m近く落ち込んでいる危険な場所だった。
眼下には荒涼とした採掘現場と、遥か先には、どこまでも広がる関東平野が広がり、地平は朧に霞んでいた。
崖があまり深いのに、すっかり怖気付いてしまった私達は、屁っ放り腰でその場を逃げ出し、崖に近付かないように注意しながら、更に尾根を登って行くと、どうやら安全に採掘現場に降りられる所を見付ける事が出来た。
40°ほどの斜面が約50mほど下の採掘場に落ち込んでいて、かなり踏み固められた小路が斜めについている。
僅かな雑草が所々に生えているだけの荒れた斜面の、まるで獣道のような小路を、私達は駆け下るように降りて行った。
斜面の直ぐ下には、木造の小さな小屋が建っていたが、どうやら人はいないらしかった。
スレート屋根も板壁も、四方に開いているガラス窓も、粉塵が降り積もって汚れていた。
そっと中の様子をうかがったが、汚れきったガラス窓からは、中がよく見えなかった。
南に緩く傾斜している採掘場のあちこちには、赤い旗が微かにゆらめきながら立っていた。
何かの目印なのだろうが、その時の私達には意味が分からず、かえって旗にひかれるように近付いて行った時だった。
右上100mほど先の地面が、「ガーン」という音と共に、まるで生きているかのように盛り上って、私達の目の前に立ち塞がった。
頭の中が真っ白になり、一瞬恐怖も何も感じなかったが、辺り一面に大小様々の石の破片が降り注いで来たのが正気を戻す刺激になったのだろう、私は文字通り脱兎の如く元来た方へと走りに走った。
私達の上からは、豆粒ほどの大きさから印ほどのものまでの石つぶてが情容赦なく落ちて来て、痛いのを通り越して息が出来ないほど苦しかった。
前を行く家住の背中や肩、そして帽子をかぶった頭の上にも、バラバラと音を発てて石つぶてがぶつかっているのが見える。
おそらく私も同じ目に会っているのだろうが、不思議とそれほど痛みはなく、時々少し大き目のがぶつかった時にだけ、気が遠くなるほどの激痛が襲った。
どうにか小屋の影に飛び込んで、へなへなとその場に崩れてしまったが、何とか全員無事だったので安心したが、皆、全身に粉塵をかぶって真っ白になっていた。
見ると誰も顔や腕から出血している。
ひとつひとつは大した事もないのだが、傷の数は無数にあった。
ほとんどのかすり傷はいいとしても、中には相当に深いのもあったし、宮内は顔から出血したのか、流れ出た血で顔が濡れていた。
私は直ぐにリュックから救急箱を出して、まずケガの一番重そうな宮内から手当てを始めた。
それを見ると、何人かも箱から適当なものを取り出し、自分や仲間の手当てを始めた。
以下次回
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- 平成16年7月17日(土曜日)
【晴】
全員が夢中になって掘り返している時、上の方から「ザー」という音と共にザレが崩れ落ちて来た。
皆泡を食って横に逃げたが、もう少し遅かったら岩なだれの下敷きになるところだった。
見上げると尾根に人の姿がチラホラと動いている。
その内の一人が私達に気付き、大声で「オーイ、止めろ。下に人がいる」と叫んだ。
「この野郎共、そこで何してるか。そんなとこにいたら死んじまうぞ。早くどけっ」
私達は飛ぶようにザレを滑りおりると、自転車にまたがり、くもの子を散らすように現場から逃げ去った。
「ヤーバかったな」
「あ〃、ヤバかった。俺死ぬかと思った」
沼と宮内が、しみじみと言ったが、気持ちは皆も同じで、まさかザレ場の上から掘かすが降って来るとは思わなかった。
「もうボタ山はやめるんべえよ」と家住。
「本当だよな、もしケガしたら、家の人に葛生に来た事がバレちまうしな」
私達には、それが一番恐ろしい事なのだ。
山の奥へと通を辿って行くと、目の前が急に開けて、とても日本とは思えない風景が広がっていた。
およそ目の届く限り、白茶けた大地が続いて、所々に塔のような構造物が、重々しく破壊的な音を響かせていた。
地形は複雑に起伏して、全体は西に下っている。
人の気配は全くないが、おそらく相当の人数が働いているはずだ。
私達は恐る恐る、目の前に広がる砂漠のような採掘場に入って行った。
雨の流れが作った細かい節目模様と、毒々しい色に染まった地面は、入り込んだ私達には、禁断の地の印のようで恐ろしかった。
「あんまり奥には行かないようにしようよ」
馬場が心細そうに言ったので、皆口を揃えて「そうしよう」と答え、いつも誰かの姿が見えているように気を付けながら、足元を掘って行った。
「これ水晶じゃねえか」
小さな黄色い石をかざしながら、マーコーが皆を呼んだので、それぞれは持場を離れてマーコーの所に行き、マーコーの手から石を受け取って、ためすがめす眺めてみるのだが、どうも水晶とは違うようだ。
結局どんな石なのかよく分からず、とにかくきれいだから持って帰ろうという事になった。
一時間後、収穫は例の黄色い石が5個見付かっただけで、水晶を見付ける事は出来なかった。
その時、右上の方から「ズーン」という音がして、白い噴煙がモクモクと湧き上った。
「ハッパだ、ハッパだ、逃げろ」
沼が大声で叫びながら、転げるような勢いで逃げて行った。
以下次回
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- 平成16年7月16日(金曜日)
【晴】
葛生の町は、街道を外れると狭い道が入り組んで、その両脇に低い軒が連なっていたが、所々に大きな屋敷が深い森を作っていた。
少し視界が開ける所に出ると、セメント工場の高い煙突や設備が見え、その後には採掘の跡も荒々しく、私達の目的地の山々があった。
とにかく山の近くに行く事にして、適当に道をとってしばらく進むと、人家は直ぐになくなって、辺りの様子は鉱山独特のものに変わり、どこが道で、どこが鉱山の敷地なのかよく分からなくなって来た。
私達はできるだけ人目を避けて、人の気配のない方へと移動しながら、山に取りつく場所を探した。
かなり奥まで来ると、やっと適当な場所が見付かり、皆ホッとして自転車のスタンドを立てた。
そこは野球場ほどの空地で、南の外れには急角度のザレ場が空地に崩れ込んでいた。
真下から見上げると、妙に白っぽいザレが100mほどの高さから、200mほどの幅で落ちている。
こういう場所には、水晶に限らず何かが埋まっている事を、私達は豊富な経験からよく知っていた。
「いいか、登ってる奴の下に行くなよ。必ず横に広がって登れよ」
一番年上のオブチンが皆に指示した。
ザレ場は崩れやすく、初めの小さな落石が、時には大きな岩なだれに成長して、思わぬ事故になってしまう事さえあるからだ。
そんな事は皆承知しているが、「OK」と返答して登り始めた。
最初の内は、お互い2mほどの間隔で足元を探りながら登っていたのだが、いつの間にか10m以上も間が広がってしまったのに気が付いたオブチンが、「だめだ、そんなに間を広げると危ねえぞ」と大声で注意した。
あまり間隔が空き過ぎると、何かの時に助ける事が出来ないのを心配しているのだ。
私達は大急ぎで間隔を元に戻して、再び探石を始めたが、登り始めて30分経っても、誰も水晶を見付ける事が出来なかった。
陽は段々と高くなって、容赦なくザレ場をあぶり続ける。
上からの直射も辛いが、下からの熱はもっと辛かった。
一時間位経った頃、「これ何だ?」と家住が手に持ったものを差し出すので、私達はどうせろくなものじゃないと思いながら、「どれ、見せてみろ」と近付いてみると、それは直径が5cm厚さが3mmほどの円盤状で、キラキラと光る細かい結晶が同心円状に並んだ、とてもきれいな石だった。
「あ〃、それも水晶だよ。もしかしたら、こっちの方がいいかもしれねえぞ」と馬場が言った。
それを聞くと、私達は暑さなど忘れて、ワッとばかりにザレ場にへばり付き、夢中になって探し始めた。
「あった」とオッちゃん。「俺もあった」と宮内。そして馬場も私も直ぐに見付けた。
以前、飛駒のマンガン鉱山のザレ場にバラ輝石を採りに行ったが、品質を問わなければザレ場全体がバラ輝石だった時ほどではないけれど、ここも宝の山だった。
以下次回
- 平成16年7月15日(木曜日)
【晴】
人家は直ぐに途絶えてしまい、街道はまた田んぼの中を少しづつ北に向きを変えながら続いていた。
ペダルを踏む足が重いのは、どうやら緩い上りになっているらしい。
やがて前方に葛生線の線路が南北に走っているのが見えた。
「あれが葛生線だよ。線路に沿って行けば間違いなく着けるから」と沼が皆を励ます。
早朝とはいえ、午前7時を過ぎた夏の朝は、街道を自転車で行く者にとっては猛暑と同じだった。
道の両脇の草薮も、忘れたように建っている農家の生垣も、砂利道が巻き上げる砂埃で灰色に汚れている。
再び左に迫って来た山裾にあった神社が作る日影を見付けると、まだ充分に余力はあったが小休止する事にした。
道はもう葛生線に沿って北にのびている。
「あと一時間で着くぞ」と沼が言った。
父親と一緒に何度か来た事のある沼は、いつもこの神社で最後の休憩をしたのだそうだ。
街道の直ぐ脇から、深い杉木立の中を急角度でのぼる石段の上は、本殿とその前の広場だけの、こぢんまりとした境内だったが、全体が森の中に包まれているためか、絶えず冷気が吹き抜けて涼しかった。
「オイ、そろそろ8時になるぞ。行くか」と馬場が言った。
本当はもう少し休みたいと、内心は皆そう思っていたのだろうが、そんな事は口に出さず、「よしっ行くか」と一斉に腰を上げた。
鳥居の前に停めてあった自転車は全部無事だったが、オッちゃんと宮内の自転車の後輪の空気が甘かった。
一応虫だけを交換して空気を入れると、しばらくは持ちそうだったので、とにかく進もうという事になって、私達は再び炎天下の街道へと乗り出した。
しばらく走ってから「空気大丈夫か」と聞くと、「平気、平気」と、馬鹿に威勢の良い返事が返って来た。
皆に心配をかけまいと気を使っての空元気なのは、誰にも分かった。
山裾と線路の間の狭い街道を30分ほど走ると、道は踏切を渡って線路の反対側へと移り、やがて少しづつ向きを東に変えて行った。
間もなく足尾山地の氷室から流れ出る、秋山川に架かる橋を渡ったが、その橋の上からは葛生の町と山が一望出来た。
私達は目の前にある風景が、日頃見慣れていたものと、あまり違い過ぎた事の驚きで、しばらく呆然とその場に佇んでしまった。
眼前の風景は、山も家並みも木も、目に入るもの全てが灰白色の粉塵に被われ、そのためか不自然に霞む大気の中に、薄汚く沈んでいた。
「きったねえー」と誰かが間の抜けた呼び声をあげた。
あまりに異質な光景に触れた瞬間の、正直な気持ちだった。
(こんな汚ねえ所に水晶なんか本当にあるんかよ)、私も心の中では同じ思いだったが、それを口に出すと、ここまで張り詰めて来たものが、一気に崩れてしまいそうな気がして我慢した。
やがて、誰からともなく自転車にまたがると、粉塵の舞う葛生の町に向かって、緩い下りの街道をおりて行った。
以下次回
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- 平成16年7月14日(水曜日)
【曇のち晴】
目の前の光景を見て、長い上りがやっと終わったのを知ると、皆一斉に「ウォーッ」と思わず歓声をあげてしまった。
ずい道を出てからの街道は見た目よりも強い下りで、細かく蛇行していた。
下りの初めの方は、皆大はしゃぎでスピードに乗って走ったのだが、みるみる速度を増して行く上に、急カーブが連続しているため、先頭を行く沼が「ウアーッ」という悲鳴を残して、左脇の薮の中に消えて行った。
私も仲間も(やったあ)と心で叫び、自転車を横倒しにして薮に飛び込んだ。
背丈を越える薮を掻き分けると直ぐに、自転車を体の上に乗せて仰向けでもがいている沼が見付かった。
深い草薮のおかげで、どうやらケガもないらしい。
それでも沼は、助け出されてから数分の間、放心状態で動けなかったから、これを機会に小休止しようという事になり、皆ホッと胸をなでおろしながら道端に腰を掛けて休んだ。
沼が気を取り直すのを待って、私達はまた長い下りに自転車を乗せたが、今度は無茶に飛ばしたりしないように、ゆっくりと下って行った。
下りが段々緩やかになるにつれて、街道は曲りを止めて、東に向かって真っ直ぐにのびていた。
道の左手には山、右手には見渡す限り田んぼが広がり、その中に点々と土まんじゅうのような古墳が影を落としていた。
舗装された道路は、家を出てから市役所の前辺りまでで終わり、あとは所々を除いて、ずっと砂利道ばかりを走って来たので、人間のためというより自転車のために、時々休憩をとらないと思わぬ障害に会ってしまう。
パンク位なら難なく直せるが、チェーンが切れたり、リームが曲ったりしたら、子供にはどうする事もできない。
一緒にいる人数が多いほどトラブルも多くなるのは、こうした経験をかなり積んでいる私達には自白の理だったから、少し押さえ気味の調子を崩さなかった。
やがて左側の山も遠ざかり、街道が深い雑木林の中に入って行くと、両端には少しづつ人家が増えて来た。
彦間川の橋を渡り、再び開けて来た前方の遥か東には、低い山並みが南北に望まれ、北には足尾山地が北へと連なっている。
4〜5kmほど先にある集落は、多分田沼町だろうと見当をつけて、砂利道の轍を拾いながら進むと、しばらくして左に大きな杉、右には鍛冶屋のある辻に出たので、近くに水も出ているのを幸いにここで朝飯を摂る事にした。
渇いた喉を潤し、かぶりついたにぎり飯は美味かった。
「オイ、今何時だ」と馬場に聞くと、「いま6時半だ」と答えた。
家を出てから2時間以上経っている。
残り2時間半で本当に葛生まで行けるのか心配になって、「沼よ、この調子で時間通り着けるのかよ」と聞いた。
「あ〃、もっと早く着けるかもしれねえ」
「ヨーシッ」と思わず気合を入れると、まだ覚め切らぬ田沼の町を、ほとんど全速力で走り抜けた。
以下次回
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- 平成16年7月13日(火曜日)
【曇】
自転車とはいっても、子供用などは一台もない。
どれも皆大人用の、しかも後ろに大きな荷掛けの付いている、実用車と呼ばれる自転車だった。
色は黒で、中には錆び付いてメッキの剥げたリームを、銀色のペンキで塗ってあるのも何台かあった。
ただし、どの自転車も要所には充分に油を注し、ボロ布で丁寧に磨いて良く手入れされている。
上場の庭から表通りに出ると、道を北に7丁目の四つ角まで進み、そのまま横断して逆さ川沿いの道にぶつけ、それを東にとって市役所の前を通り、菩提樹が道路の真ん中に立っている疎開道路を左に折れると、一面の田んぼの中に女子高が見えた。
「あそこを右に曲るんだ」
沼の道案内で女子高前の道を東にとり、袋川の橋を渡ると、そこはもう見知らぬ地も同じだった。
緩いのぼりの細い道を、更に東へと進むと、富士見橋という名の少し大き目の橋を渡った。
道はその辺から、北北東に向きを変えて、遠く霞む山ひだの中にとけ込んでいる。
田んぼ以外には人家も疎らな街道を北上して行くと、目には見えないが、緩い勾配をのぼっているのを、ペダルを踏む足が教えてくれた。
この辺りは大月村という所で、まだ足利の中だと馬場が言った。
道を進むにつれて山が迫って来る。
「この山越えるのか?」と聞くと、「大丈夫、途中にトンネルがあるよ」と沼が皆を励ます。
大月村から樺崎に入ると、街道は山裾に沿って東にと向きを変えながら、段々と上り坂になって来た。
もう自転車に乗って進めなくなり、全員降りて転がした。
最後の人家を過ぎると間もなく、つづら折りの上りとなった街道の様子は、追いはぎが出てもおかしくないほど不気味だった。
早朝の涼しい内とはいえ、誰もが汗だくになった頃、前方にトンネルの入口が見えて来た。
「あれが越床峠のずい道だ」と沼。
街道の両脇は深い樹木に覆われ、枝は頭上に張り出しているので、朝の光も届かない位薄暗い中に、ずい道の入口は、なお黒々と口を開けていた。
唯一親父の懐中時計を持って来た馬場が、「もう5時半だぞ。そろそろ少し休まないか」と言ってくれたので、本当は誰もが思ってはいても、口に出せず我慢していた堰が切れたように、口を揃えて「ウン」と返事をした。
結局、休むのはずい道を抜けて峠を下ってからにしようという事になり、皆一斉に自転車にまたがった。
峠のずい道は、まだ少し上りだったが、誰も自転車を降りて転がそうとする奴はいなかった。
真っ暗なずい道の中を、ライトもなく歩くなんて怖くて出来なかったのだ。
だから、どんなに辛くても、皆一生懸命ペダルを踏んで、集団から絶対に離れまいと頑張った。
やがてずい道を抜けると、道は目で分かるほど下りとなって、森の中に続いていた。
以下次回
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- 平成16年7月12日(月曜日)
【晴、夜雷雨】
高橋のヒトシさんが、両崖山に登る途中の岩場で水晶を見付けて採って来たのは、夏休みに入って間もなくの頃、山百合の根を採りに行ったのが、すごい宝物まで見付けたというので皆羨ましかった。
そこで早速俺達も採りに行こうという事になり、翌朝早く山に登った。
両崖山周辺には少しだが金も出るし、試掘の跡もあちこちにあったから、多分水晶があっても不思議ではないと、大人達に教えてもらった事もあり、絶対に探してやると意気込んで出掛けたのだが、岩場の割れ目などを覗くと、確かに小さな結晶がキラキラ光ってはいても、とても採集できるような大きさではなかった。
夏場の低い山尾根の暑さは、登った人にしか分からないほどきついもので、持参した水筒の水も直ぐに飲み尽くしてしまい、結局は収穫ゼロで早々に引き上げて来た。
昼近くに家に戻ると、誰かが「葛生のハッパかけてる所に行くと水晶がゴロゴロしてるって」と言った。
それじゃあ今度は葛生へ行こうという事になったのだが、葛生がどこにあるのか、誰も知らない。
セメントの原料である石灰の産地として、日本でも有名な所だという事は、学校の授業でも教わっているのだが、この近くとは聞いていても、実際に行った奴は一人もいなかったのだ。
「どうしようか」と全員腕組みして考えていると、「そうだ、沼なら知ってる。あいつ葛生に親戚がいるって言ってたから」宮内が言った。
「だけどあいつん家は緑町北だろう、一緒に来るかな」とオッちゃん。
つい何日か前の八雲神社の夏祭りでは、ケンカ相手として神輿をぶつけ合った間柄だったのだ。
とにかくさそってみようと、皆で沼の家に行ってみると、運良く本人が家にいたので、自分達の計画を話すと即座に乗って来た。
聞くと今までに何度か自転車で行った事があるので、道は良く知っているそうだ。
「ここからどの位?」と尋ねると、「だいたい5時間位で行けるよ」
(すげぇ、そんなに遠いんだ)、私は密かに思って少し興奮した。
小学生が自転車で5時間かかる所に行くのは、まるで外国に行くのと同じ手応えなのだ。
そんな遠くに行くのを親が許すとは思えなかったから、一同相談の上で、夏休みの宿題の鉱物採集に両崖山に行くという事にしようと、またしても悪巧みをした。
参加者は道案内の沼に私、そして宮内とオッちゃん、オブチン、マーコー、家住、そしてどういう風の吹き回しか、秀才の馬場までが同行する事になった。
4年生以下のチビ共は、いくら泣きつかれても今回は連れて行かない事にして、その代り必ずお土産を持って来ると約束して黙らせた。
出発の日の午前4時、全員が我が家の工場の庭に、各自前の日に徹底的に整備した自転車と共に集合した。
念の為パンク修理道具一式と空気入れを二組ほど用意し、それぞれの当番が持った。
あの頃の小学生の中には、パンク修理など遊び半分でこなしてしまう奴など、吐いて捨てるほどいたのだ。
「それじゃあ、行くか」、誰いうとなく声を掛け合い、期待に胸ふくらませた8人は、まだ薄闇の残る中を、静かに出発した。
以下次回
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- 平成16年7月11日(日曜日)
【晴】
またいとこの吉田功は、小学校5年生の時には身長が170cmを越えていた。
体がでかいだけではなく、かなりの熱血漢だったから、上級生どころか中学3年生や高校生相手に、五分のケンカを平気でやった。
小学校4年生が最上級生をつかまえて、「オイ、そこのバカ、廊下をバタバタ走るんじゃねえよ」などと凄むと、皆コソコソと引き下がってしまう。
あの野郎生意気だというので、中学生が10人掛りで立ち向かった事があったが、まるで歯が立たないどころか、全員の顔が血まみれになるほどの大敗北となった。
背がでかいだけに、一見ヒョロッとしていて弱そうなのだが、近付いて腕の長さや太さを比べると、長さでは30cm近く、腕の太さでは二倍近い差があるのが分かる。
昭和20年代の小中学生の身長は、せいぜい150cmから160cm程度が平均だったから、どんなに突っ張ってみたところで、吉田に勝てる訳がないのだ。
しかし、腕力に物をいわせてゴリ押ししたり、弱い者いじめなどは絶対にした事がなく、素行は真面目で勉強家でもあったから、先生方の受けは、むしろ私などより数段良かった。
抜群の身長を誇る吉田は当然野球少年だったが、あれだけの背丈があるのになぜか足がのろく、もしも俊足に恵まれていたら、相当なところまで行ったに違いない奴だった。
いつの時代にも小面憎いガキというのはいるもので、家が金持ちとか、成績が良いとかを鼻にかける奴を見ると、吉田の制裁は容赦がなかった。
そういう奴は、万座の中で嫌というほど恥をかく事になるのだ。
朝礼のあとや放課後の校庭のど真ん中が、制裁の場として良く使われたが、多勢の見物人がいるだけに、先生にも直ぐに見付かってしまう事になるが、吉田はそんな事は一向に頓着しなかった。
「ハイ、この野郎はこれこれこういう訳のふざけた野郎なので、僕がこらしめました」と、先生の頭ひとつ上から堂々と言われると、さすがの先生もしどろもどろして、「まあ、お前の気持ちも分かるが、ほどほどにしろや」位のところで逃げてしまう。
「オイてめえ、てめん家に少しばかり金があるのが、そんなにえれえんかよ。てめえの金じゃねえだろうが。親が金持ってるんが、そんなにえれえんなら、おれんちは貧乏だから、おれはおめえより下っぱかよ」などと大声で叱り飛ばしながら、相手の胸ぐらをつかまえて、その顔を自分の顔の高さまで引っ張り上げるのだから、相手は目を白黒させて恐怖に震えるばかりなのだ。
「おいNよ、おめえTが算数出来ねえって笑ったそうじゃねえか。んじゃ聞くけどよ、おめえ勉強以外でTに勝てる事あるんかよ。あったら言ってみろよ。それみろ、何もねえじゃねえか。いいかおめえ、少しばかり秀才だからって人をバカにするんじゃねえぞ。まわり見てみろ、おめえなんかよりな、Tの方がずっとみんなに好かれてるんだ。この根性悪が」といった調子でやられるのだ。
吉田の気に入らない奴は、きっと先生も気に入らない奴だったのだろうか、大抵は何の咎めも受けずに終わったが、一度だけ生徒の嫌われ者だった先生が吉田と張り合った事があった。
この先生は生徒をエコひいきする事で有名だったから、大方自分を持上げてくれる家の子供が吊し上げられたからだろう。
その先生は凄い剣幕で吉田をなじり、手をついて相手に謝れと命じたが、吉田は頑として従わなかった。
引っ込みのつかなくなった先生は、顔を真っ赤にして吉田のほっぺたを数回殴りつけたのだが、自分よりも背丈のある相手を殴りつける姿がまるで猿のように滑稽なのに比べて、殴られても微動だにしない吉田は、誰の目にも堂々としていた。
捨てゼリフを残して立ち去る先生の背中に、「オイ、俺はいつまでも小学生じゃねえんだぞ。今日の事は忘れねえからな、おめえも忘れずに憶えていろよ」と、笑いながら語りかけた。
先生は振り向きもせずに校舎に入っていった。
数年後、吉田の約束は現実のものとなり、その噂は、下は小学校から上は高校生にいたるまで広まった。
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- 平成16年7月10日(土曜日)
【晴】
明治の初めに生まれた祖母が日常使っていた言葉の中には、その当時でも死語に近いものが相当あった。
祖母はレコードを種板と呼び、帽子をシャッポと呼んだ。
多分フランス語のシャポーが語源なのだろう。
それから駅の事をステンショ、これは英語のステーションがなまったものだと直ぐに分かる。
きゅうすの事をきびしょう、パイプを吸い口、上着をジャケツ、女性用パンツがズロース、男性用が猿股、ネクタイを幣束、歯ブラシを楊枝、バスを乗合、そしてラジオをレエイディオと呼んでいた。
今でも時々耳にする事があるから、死語とは言えないのだろうが、トイレをご不浄、台所をお勝手、地域社会を世間様、葬式をとむらいと言っていたが、何か潤いのある言葉のような気がする。
いらっしゃいが、ようおいでなんしょ、ふざけるがあばさける、音信が沙汰、無事を息災。
「◯◯どんは、しばらく沙汰がないけれど、息災かね」と使う。
文字で書くとよく分からないが、実際には独特の韻律と間があって、人の心に嫌でもしみ込んで来るような話し方だったのを憶えている。
外人は全て異人だったし、女性全般はおなごし、男性の場合は熟壮年をだんなしゅ、青年を若いしゅ、子供を親がかりなどと区別していたようだ。
人の名を呼ぶ時など、まだ見習いの子供には◯◯どんというようにどん付けで呼び、それか少し半人前位に成長すると◯◯やんとなり、一人前の職業人になって始めて◯◯さんとさん付けになる。
しかし、子供の頃から住み込みで育った者は、相手がいくつになっても我が子と同じ呼び捨てだった。
今では考えられないだろうが、あの頃は他人と身内の区別など、あまりなかったようだ。
他人相手の時の祖母は、自分の事を「私」といったが、家族だけの会話になると、「私」が時々「俺」に変る事があった。
女の人が自分を「俺」と呼ぶなんて、とてもおかしいと思ったが、祖母と同じ年頃の女の人のほとんどが、やはり自分を「俺」というのに気付き、その事を父に問うと、父は「江戸の女達は自分の事を俺と呼んでいたし、言葉使いもべらんめえ口調だったんだ。言葉は水の波紋と同じように、中央からゆっくりと外へ広がっていくので、お祖母ちゃんが生まれ育つ頃には、そんな言葉使いが、ちょうど届いたんじゃないかな。今この辺の年寄りが使っている言葉は、江戸末期の江戸言葉に近いんじゃないか」と教えてくれた。
それを聞いたあとは、祖母が自分を「俺」と呼んでも、あまり嫌にならなかったし、その祖母が「お前のお母さんが嫁に来た頃は、毎日きちんと丸まげを結ってね、着物も襟足をぐっと開けてね、それはそれは粋なもんだったよ」などというのを聞いていると、遥か遠い昔と思っていた江戸時代や明治時代も、案外身近に感じたものだった。
そういえば、近所の大抵の家には、明治天皇と昭和天皇皇后の肖像写真が飾られていたし、戦死者の遺影は、太平洋戦争のものに加えて、日露戦争従軍兵士のものもよく目にした。
祖母は晩年テレビを観る事も出来たし、東京オリンピックや大阪万博の事も、テレビを通じて知るのだが、人類初の月着陸のニュースだけは、「おおいただ、何てバチ当りなことをするんだろうね」と、強い拒否反応を示していた。
祖母にとって月の世界は、やはりかぐや姫の住む別世界であり続けたようだ。
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- 平成16年7月9日(金曜日)
【晴】
昭和20年代にプールのあった学校は、まだ柳原小学校だけだったので、かなりの遠出ではあったが、炎天下をよく出掛けて行った。
今のように更衣室や消毒設備などはなく、プールに近い林の中で着替えをした。
着替えといっても、ポケットに入れた幅10cm長さ2m位のフンドシを、手早く身につけるだけだったから、ものの2分とかからなかった。
大人も子供もごちゃまぜの中を、いやというほど遊んでから、近くの水道の水で目や口をすすいだ程度で上ってしまうためか、仲間の中にはトラホームなどの眼病を患っている者も少なくなかった。
ずっと昔、まだ小学校にも入学していない頃には、近くの新水園にも有料のプールがあったが、今思うと、あれは何か動物を飼っていた所を再利用していたに違いなかった。
以前には小動物園もあった所だそうだし、半室内のような作りのプールなんて、あの当時あるはずもなかったからだ。
それもあっという間になくなってしまったから、川原以外で水に入れる場所、しかもプールとなると、少なくとも旧市内の子供達にとっては、柳原小以外にはなかった。
一中の裏には、畑の中に用水池があり、一中水泳部が、ここに木の台を設置してプール代りしていたが、水深がありすぎて小学生には無理だった。
何といっても、渡良瀬川は最高の泳ぎ場だった。
反面水の事故も多く、親達にとっては子供を遠ざけておきたい第一の場所でもあったので、それほど自由に遊びに行けなかった。
それでも、こっそりと泳ぎに行ったあとには、その痕跡を消すのに一苦労したものだった。
紫色に変色したくちびるは、陽に照らされて熱くなった石を押しつけてごまかし、耳の中の水も、やはり熱くて平たい石に耳を押し当てて外に出した。
困ったのは妙に綺麗になった顔と、ふやけた指だった。
幸いに顔の方は、炎天下を歩いて家に着く頃には、もう汗だくになっているので、何とかごまかせたが、指のしわしわをごまかすのが思ったより大変だった。
それでも親の目をごまかせるのは極まれで、大抵はばれてしまい、手ひどく叱られた。
どうして分かってしまうのか最初の内はなかなか判らなかったのだが、ポイントはどうやら目の色と髪の匂いらしい。
いくら隠しても目が赤くなっていたり、髪の匂いが妙にひなた臭くて、それでばれてしまうらしい。
あとは親の巧妙な誘導尋問に引っ掛かって、つい本当の事を言ってしまう場合がとても多かった気がする。
「今日は水があまり冷たくなかったって?」とか、「隣の◯◯ちゃんも行ってたでしょう」とか、「緑橋の上に行くんじゃないよ」とか言われると、ついポロッと返事が出てしまうのだ。
バレた途端、それに気付いて裸足のまま逃げようとしても、何であんなに早いのか、まず逃げられた試しがなかった。
襟首をつかまれて引き戻されたあと待っているお仕置は、まず軽くて押入れと尻叩き、中くらいでお灸と正座、そして極刑は、むぐし刑と飯ぬきだった。
しかし町内に住む子供達の誰ひとりとして、お仕置のあとに、親の言い付けを守って川原に行かなかった奴は、多分一人もいなかったと思う。
それほどに夏は、子供にとって魅惑に満ちた季節であった。
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- 平成16年7月8日(木曜日)
【晴】
お姉さんは、あまりの怖さに目を廻してしまったらしい。
助けを求めるおばさんの金切り声がいつまでも続いたので、近所の人達が何事かと集まって来た。
隣という事もあってか、いつものように我が家の両親が一番に大貫さんの家に飛び込んで行ったのを、物影から覗いていた悪ガキ集団は、一人また一人と姿をくらまして、あとには私だけが一人取り残されていた。
現場を見て直ぐに事情を察知した両親は、その辺をうろうろしていた私の挙動を不審に思い、そばに来て言った。
「どうせ直ぐに分かってしまうんだから、今すぐ誰がやったか話してごらん」
「ううん、知らない。俺は見ていただけでやってない」
「そら、やっぱり知ってるんじゃないか。ちゃんと話さないと押入れだよ」
私は最後まで黙っているつもりだったが、押入れと聞いて直ぐに全てを白状した。
「誰が指図したんだい」
「哲ちゃん」
「一緒にやったのは誰と誰だい」
「あとは、大貫のマーちゃんと、柿沼のサーちゃん、それから小野寺のタカシちゃんと大野のマーちゃん」
私の自白が終ると、直ぐに追手がかかり、家でしらばっくれていたり、捕まるのを怖れて隠れていた連中も全て捕まって連れて来られた。
それぞれの親が集って相談の結果、今日という今日は勘弁出来ないので、すごくきついお仕置きをする事になった。
捕まった全員は工場の庭に連れ出され、物干しの柱に一人づつ荒縄で縛りつけられた。
このまま明日の朝まで放って置かれるのだ。
「痛えよ、手が痛えよ、ケツも痛えよ」と、誰かが泣きながら訴えている。
「俺が悪いんじゃねえよ、俺は見てただけで絵かいたんは哲ちゃんだよぉ。助けてよぉ」
「俺はヤダっていったんだよ、本当だよ、だけど言う事聞かないとあとで皆にしめられるから、仕方なかったんだよ」
大貫のマーちゃんは、目の前に立ってハエ叩きで頭をぶん殴っているおばさんに、泣きながら叫んでいた。
「何を言ってるんだい、お前が一緒になって面白がっていたのは皆知ってるんだから、今日は許さないよ」
柿沼のサーちゃんは、工場から汲んで来た水を、頭からぶっかけられて苦しんでいる。
やっているのはサーちゃんの父ちゃんで、「おめえがこんな悪さをするのは、おめえの中に悪い虫が住んでいるからだ。父ちゃんが悪い虫を外におん出してやるからな。もう少し我慢しろ」と、薄笑いを浮かべながら、何杯も水をぶっかけるのだ。
大野のマーちゃんは、大嫌いなフジ(我が家の犬で噛みつくので有名)と一緒に縛られていた。
フジはそれでもマーちゃんをかじろうとはせず、尻尾を振りながらマーちゃんの顔をなめてやっていた。
マーちゃんは「ウーッ、ウーッ」と唸りながら、今にも死にそうだった。
グルグル巻きに縛られている兄の所に行って「大丈夫?」と聞くと、「うるせえな、向こうへ行ってろ、おめえがばらしたから、みんな捕まったんじゃねえか」
私は内心(へん、俺が言わなくったって直ぐにバレちまうさ)と思ったが、口には出さずに皆の間を歩き回って勇気付けた。
誰もが「うるせえ、向こうへ行ってろ」と口を揃えて喚いた。
その内評判を聞きつけて、近所だけでなく少し遠くからも見物人がやって来て、ワイワイガヤガヤと賑やかになった。
そして私を近くに呼んでは、みんなが縛られた訳を聞くので、私は出来るだけ詳しく教えてやった。
その夜、私は主役になった気分で、得意の絶頂だった。
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- 平成16年7月7日(水曜日)
【晴】
工場の庭の北には、表通りから栄町の薬師堂の裏に抜ける露地が東西に走っていて、表の角から金子、北林、高際、岡田、そして奥に稲荷様を奉った三坪ほどの小さな空地をはさんで大貫さんの家があった。
露地は大貫さんの境のない庭に沿って北に折れ、町中では珍しい大きなケヤキの木を左に見て、薬師堂裏から、堂の前にある広場で終っている。
大貫さんちのマーちゃんは、喘息の持病があったが、いつも優しくて皆から好かれていた。
私の上から二番目の兄と、普段から悪ガキの評判の高かった兄の仲間の数人は、マーちゃんを抱き込んで、ある悪戯を考えつき、ある日それを実行した。
マーちゃんの手引きで、誰もいなくなったマーちゃんの家の便所に忍び込み、猫いらずを使って、ちょうど座った時の目の高さに合わせて、壁に幽霊の絵を描いたのだ。
昼間は壁が少し汚れている位の見え方なのが、夜になると猫いらずで描いた所がぽおっと光って見えるのだそうだ。
その時の私は、まだ小学校の二年生位の年齢だったので、直接悪戯に加わる事は出来なかったが、所謂ミソッかすの一人として、兄達の悪ガキ集団の尻を追いかけるのは許されていた。
自分達の仕掛けが、夜になってどんな成果を生むのか想像しながら、嬉々として動き回る兄ちゃん達の興奮が伝わって来るので、私も一緒になって大興奮した。
それでもマーちゃんだけは段々と怖くなって来たようで、悪戯が終ったあとの事を心配していたが、誰もそんな事に耳を貸す奴はいなかったから、マーちゃんもしぶしぶ皆と歩調を合わせる事になった。
夜になり、大貫さんの家の人達が、そろそろ帰宅する頃をみて、私達は稲荷様の空地に身をひそめて、その時がやって来るのを待った。
大貫さんの便所は、稲荷様の空地に向けて掃き出しがついていたから、ここにいれば何か起こった時に直ぐ分かるからだ。
やがて大貫さんの家の人達が帰って来た気配が伝わって来る。
おばさんとお姉ちゃん達の、とりとめのない会話がひとしきり続いたあと、誰かが鼻歌を歌いながら便所に入って来た。
少し時間が過ぎたその時だった。歌っていた鼻歌がピタッと止まり、一瞬の間が空いたあと、「ビエーッ」とブタが絞め殺されたような悲鳴が響き渡って、それがいつまでも続いていた。
「どしたんだ、どしたんだ」とおばさんがやって来る。
「オバケ、オバケ、オバーケー」と、お姉ちゃん。
「ナニッ、オバケが出たんか」と、おばさん。
そのあとに「ギャーッ」というおばさんの悲鳴が、「ビエーッ」というお姉さんの悲鳴に重なって、もう大変な騒ぎとなってしまった。
「◯◯子、◯◯子、しっかりして、誰か助けて、◯◯子が気を失ったぁ」
以下次回に
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- 平成16年7月6日(火曜日)
【晴】
屋台の焼そば屋やおでん屋の中には、この頃になると氷屋に商売変えする人もいた。
カンナを逆さにしたような台の上に氷を乗せて、サックサックと小気味良い音を発てて氷を削り、下の器をすりこぎ運動させながら、ふわっと山にして受けるのだが、やってみるとなかなか難しいのだ。
蜜は最初に器の下に入れ、氷をかき終えたら上にもう一度かける。
イチゴとメロンは5円、白蜜は10円、あずきとミルクは15円だったから、大抵は5円のイチゴかメロンで我慢した。
遊びで忙しい時には「おじさん氷まんじゅうね」と言うと、「よしきたっ」と掛け声も勇ましく、同じ量の氷を器の中にギュッとつめ込んで、その上にたっぷりの蜜をかけると、四角く切った新聞紙の上に乗せて渡してくれる。
新聞紙を通して伝わって来る氷の冷たさと、活字独特の匂いに蜜の甘い香りが、夏の到来を告げているようで嬉しかった。
あまりの冷たさに頭がギューンと痛くなり、思わず「ウーッ」とうめく。
「何で氷食うと頭が痛くなるんだんべな」
誰かが顔をしかめながら、まるで独り言のように呟く。
氷屋のおじさんは、そんな子供達を見て苦笑いしながら「あんまりガッツイて食うからだよ。もっと少しづつ落ち着いて食え。氷は何も逃げはしねえよ」
ごま塩頭にねじり鉢巻き、白いクレープシャツの胸元と二の腕から、龍と虎の彫物の朱と藍が覗いている。
時々「玉乃湯」でおじさんと一緒になるので、おじさんの彫物がどんな図柄なのかよく知っているのだ。
「オーッ、誰か背中流してくれ」
おじさんの声に先を争って背中に飛び付き、時には取り合いのケンカになった。
「ケンカするんじゃねえよ。ジャンケンで決めればいいじゃねえか」
おじさんの声に皆しぶしぶジャンケンをする。
幸運にも一番になった奴は、意気揚々とおじさんの背中を流すのだが、これには二つの大きな訳があるのだ。
背中を流した奴は、あとでおじさんに商売物をおごってもらえるのと、もうひとつは、いくら石鹸をつけてゴシゴシと力一杯背を擦っても、おじさんの彫物は絶対に色が落ちないのが、とても面白くてたまらなかったのだ。
おじさんが動くと、背中の龍と虎が本当に戦っているように見えて、少し怖い位だった。
「いいかお前ら、おじさんみてえに親から貰った大切な体を、こんな風に傷物にしちゃなんねえぞ。こんな事する奴はな、人間のクズなんだぞ。父ちゃんや母ちゃんを泣かせるような事をするんじゃねえんだぞ」
おじさんの口癖だった。
今はそんな事はないのだろうが、あの頃渡世人を引退する人の中には、退職金代りに屋台を一台貰って、その後の生業にしたのだと聞いた。
不思議な事に、出会った全てのおじさん達は、皆いい人達だった。
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- 平成16年7月5日(月曜日)
【晴夕方曇】
昭和20年代も後半になると、子供の目にもはっきりと分かるほど世の中が落ち着いて来て、大人達の中で戦争の記憶が少しづつ薄らいで行くのが伝わって来た。
日常の会話から戦争の話が段々と消えて行き、代って将来への希望と夢が、次第に語られるようになったのだ。
それでも映画館のニュース映画などで、舞鶴港に入港する引き上げ船や、広島長崎の原爆被爆者の近況、そして、未だ戦争の中に身を置く旧日本兵の発見など、戦争の深い傷跡を再確認する報道が間を置きながらも絶えず届けられる時代でもあった。
軍服を日常の服装にしている人達も珍しくなかったし、少し大きな子供の中には、器用にゲートルを巻ける奴もいた。
今だから話せるが、モーゼルによく似た南部式拳銃を、戦争の記念にと隠し持っている人や、実際に人を切った日本刀を持ち帰り、処分に困って近くの神社に奉納した人など、戦争の影を未だいたる所に残しながらも、未来を見つめる事を取り戻し始めるという、大きな変換期を迎えていたのだと思う。
そんな時代に幼少年期を過ごせた事は、日本人として何と豊かで刺激的だったかを思うと、我が身の幸運を感謝しない訳にはいかない。
そんな時代の記憶をひも解いてから、そろそろ一ヶ月は経ったろうか。
もう少しこのテーマを追ってみようと考えているので、雑記をご覧の皆様、どうかお付き合い下さい。
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- 平成16年7月4日(日曜日)
【晴】
緑町の踏切にある番小屋は、通2丁目を除けば、この辺で一番立派だった。
当時の踏切は今と違って、人の手で遮断機を動かしていたから、その仕事を専門とする踏切番と呼ばれる人が、遮断機のかたわらに建つ番小屋に常駐していたのだ。
番人は大抵踏切の近くに住む人が、鉄道から依託されて任に当っていたようだ。
遮断機のない無人踏切に、赤ランプが上下に点滅する警報ランプが付くようになる以前は、各自が自分の責任で安全を確認し踏切を渡らなければならない。
私の住む近くには、栄町1丁目、2丁目、緑町、公園南に二ヶ所と、ちょっと数えただけでも五ヶ所もあり、その内で遮断機があるのは緑町の一ヶ所だけだったから、今とは比べ物にならないほど踏切事故がよく起こった。
事故の大半は小さい子供か年寄りで、無茶な横断が原因のものは意外に少なかったと記憶している。
当然の事ながら、犠牲者は踏切近くに住む人が多く、普段の慣れが悲惨な結果を生んでしまうから、充分の上にも充分に注意するようにと、学校や家で言い聞かされ続けて来た。
それでも数年に一人は鉄道事故で亡くなり、その度に朝礼台の校長先生は、悲痛な表情で事故を報告して注意を促した。
交通事故の生々しい現場写真を見せて注意を喚起したのと同じように、鉄道事故防止の手段としても、やはり現場写真を公開する方法がとられたが、皮肉な事に、鉄道事故現場を警察よりも早く目撃する事が多かった私達には、交通事故のそれよりも効果はなかったようだ。
事故に遭遇した列車は、誰にでも分かるような独特の警笛を鳴らして停止するので、近くの人達は大人も子供も「ソレッ」とばかりに現場に駆けつける。
人が死んだかもしれないというのに、考えれば酷い話である。
文字通り野次馬根性丸出しなのと、あとは怖い物見たさもあったのかもしれない。
停止した列車は、事故確認が終ると直ぐに発車して行く。
単線なのでダイヤの乱れと二次事故を防止するためには、無慈悲のようだが仕方がないのだと聞いた。
鉄道事故は全面的に被害者の責任になるのだそうで、そのためか、被害者の家族が悲嘆のどん底に沈みながらも、バケツを手に線路上に飛散した遺体の破片を拾い集めている光景が、現場ではつきものだった。
事情が事情だけに大人達も手伝う訳にいかず、ただ黙って遺族を見守る事しか出来なかったが、見守る人達の深い同情と哀悼の心だけは、線路を黙々歩く遺族には通じていたと私は思っている。
事故からしばらくの間、私達は路傍の花を摘んで現場に備え、故人の冥福と家族の平安を祈った。
私達は日常死を直視させられる事で、逆に生命の尊厳と重さ、そして生きる事の大切さを骨肉の中に植え込まれたような気がする。
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- 平成16年7月3日(土曜日)
【晴】
夏祭り前の繋ぎなのか、足利公園で蛍狩りをやる事になった。
この辺でも稀に蛍が飛ぶのを見るが、むしろ、北の山沿いの名草や樺崎あたりが本場で、足利公園は場違いだった。
変だなと思って親に聞いてみると、やはり別の所で採ったものを、当日の夜に何ヶ所かで放つのだという。
少し興ざめではあったが、それでも皆その夜が来るのを楽しみに待った。
その夜、夕飯もそこそこに虫カゴと玉網を手に家を飛び出し、いつもの集合場所に駆けつけると、もう半分位の仲間が来ていた。
開始は7時半からなので、まだ一時間近く待たなければならなかったが、そろそろ山に上って行く人達を眺めたり、今夜を当て込んで店出しをしている屋台や露店を冷やかしている内に、辺りはだいぶ暗くなって来た。
20人近い人数だったので5人位のグループを作って別れ、なるべく広い範囲に分散して採る作戦を立てた。
まず水道山下の広場を中心にひとつ、金のトビ広場にひとつ、そして八雲神社の脇から蓮台館までの所にひとつ、残りは公園全体を自由に駆け回り、誰が採っても採らなくても、収穫は平等に分ける事にした。
そうしないと、まだ小さい奴らは手ぶらで帰らなければならない。
蛍を放つ役割の人は、皆に気付かれないように身を隠して作業すると聞いていたが、実際には誰が見ても分かってしまう格好をしていたので、それに気付いた人達は係のおじさんのあとをぞろぞろついて歩いて、おじさんが蛍を放つのをてぐすね引いて待っているという、実に間の抜けた蛍狩りになってしまった。
係のおじさんも、何とか皆を振り切って適当な場所を確保したいのだが、何百人という集団はおじさんから絶対離れずに、引けば押し、押せば引いて、長い間睨み合いが続いた。
係のおじさん達は結局諦めて、群集に取り巻かれたまま、仕方なく蛍を外に放つのだが、中にはおじさんがカゴの口を開いて、中の蛍を振り落とす所に網を差し出す人さえいた。
おじさんはさすがに語気を強く注意するのだが、誰も耳を貸そうとはしないほど、辺りは興奮のるつぼとなってしまった。
私達子供は、そんな現場に近付く事さえ出来なかったので、その場で捕まらずに逃げ延びた蛍を追った。
夜の公園は外燈のある近くが明るいだけで、大抵は自分の足元も見えないほど暗い。
だから地理に不案内な大人達よりも、公園を毎日飛び回っている私達の方が数倍有利だった。
闇へ闇へと集って来る蛍の数は意外に多く、私達は段々調子を上げて、二時間ほどの間には相当の成果をあげた。
集合場所に戻って仲間と分配すると、一人当り3匹になり、チビ達は嬉しさのあまり小便をもらす奴までいた。
分配している時に、何人かの中学生が横取りしようとやって来たが、皆で袋叩きにして逆さ川に投げ込んだ。
緑町の悪ガキ集団にちょっかいを出す奴は、きっともぐりに決まっている。
おおかた通4丁目あたりの奴らだろう。
私達は川の中でちぢこまっている中学生を無視して、意気揚々と引き上げて来た。
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- 平成16年7月2日(金曜日)
【晴】
母屋の西の壁ひとつ隔てて、煎餅屋の柿沼さんの家があった。
もともとは一軒の家だったのか、あとから建て増ししたのかは知らないが、家と家がくっついているので、早朝に石臼を搗く音が微かに聞えて来る。
私が物心ついた時には住んでいたから、我が家がそこを貸したのはずいぶん昔の事だったのだろう。
煎餅作りはおじさんとおばさん二人の仕事で、早い時には朝の2時位から、もう下準備を始めるのだから、子供ながら大変な仕事だと思った。
米を石臼で搗いて、餅のようになったものをローラーで薄くのばし、缶詰の空缶の形をした型抜きで丸く抜いて行く。
大きな作業台に乗せた材料を、向かい合った二人がトントンと叩くようにして、あっという間に抜き終わると、材料の端を持って板から剥すと、あとには丸く抜かれた煎餅の素が残る。
それを大きな四角い金網の上に並べて、土間の上にある専用の乾燥場で乾かすのだ。
更に天日で乾燥させると、今度はそれを炭火で焼いて行く。
焼きながら何度かひっくり返し、数回醤油の中にくぐらせながらの仕事は、何度見ても見飽きなかった。
煎餅を焼くのもおじさんとおばさん二人の仕事で、おばさんは小さい体を転がすようにして、休まず手早く焼いていた。
ある日、いつものように石臼で下ごしらえを始めて間もなく、どうした訳なのか捏取りと杵打ちの調子が狂ってしまい、おばさんの手が石臼の中に入った時に、おじさんの杵が入ってしまった。
おばさんは右手の指を三本骨もろとも潰され、急を聞きつけた私の両親やおばさんの大きい子らの手でリアカーに乗せられ、近くの鈴木外科へと運ばれて行った。
私が見ていた限り、おばさんは「痛い」の一言も言わず、ただじっと目を閉じて苦痛に耐えていた。
結局おばさんは、指を三本失ってしまった。
手に巻かれた真っ白な包帯が、まるで大きなコブのように目立ち、体の小さなおばさんと妙に不釣合いだった。
おばさんの指を潰した石臼と杵は、その後二度と使われる事はなく、杵は燃やされ、石臼は裏の隅に片付けられた。
おばさんのケガは、その後しばらくの間、大人の人達の間で事ある毎に話題となったが、回復に合わせるかのように、いつの間にか皆の関心の外になった。
包帯の取れたおばさんの手は、とても痛々しかった。
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- 平成16年7月1日(木曜日)
【晴】
サーちゃんちのハチが、白石山房前の線路で後足を轢かれたのは、もう直ぐ夏休みになる頃の日曜日だった。
その日は朝から、線路沿いの池でカエルを採っていたのだが、サーちゃんが散歩がてらハチを連れて来ていた。
ハチは顔なじみの子供達が多勢いるのが嬉しくて、辺りを駆け回っては誰かまわずに戯れついていた。
「サーちゃん、ハチが危なくてしようがねえよ。何とかしてよ」
ハチがあまりしつこいので何人かが苦情を言うと、サーちゃんはしぶしぶハチを捕まえて近くの木に縛りつけたのだが、ハチは今にも死にそうな鳴き声で抗議した。
ハチがあまり騒ぐと、本当は立入禁止の池で遊んでいるところを、白石山房の番人に気付かれてしまいそうなので、サーちゃんはハチを解放してやったのだが、これがいけなかったのだ。
再び自由になったハチは、前にも増してはしゃぎ回っていたが、気が付くと線路の上を全速力で走り去ってしまい、しばらくするとまた全速力で戻って来た。
この辺では犬がよく汽車に轢かれるので、サーちゃんは心配になり、ハチを何とか呼び戻そうとしたが、うっかり近付くと、さっきのように捕まってしまうと思ったのか、直ぐ近くまで来てもサッと逃げてしまい、どうしても捕まえられなかった。
逃げて行く方向が線路とは逆ならいいのだが、ハチはなぜか線路に駆け上っては、こっちを向いてワンワンとはしゃぎ声をあげている。
サーちゃんだけでなく、皆段々と心配になってきた。
誰からともなく池を離れてめいめいでハチを追ったが、ハチは自分が遊んでもらっていると勘違いしたのか、ますます暴れまくって手がつけられなかった。
その内に西の方から、小山方面行の列車が来るのが見えたので、皆は線路を降りて池の近くに戻ると、ハチも私達の方へやって来た。
(あ〃よかった)と、一同が胸を撫で下ろした矢先に、何を思ったのかハチはまた全速力で線路に駆け上って行った。
アッと思った瞬間、白石山房の南端をかすめるように疾走して来た列車の下に、ハチの姿が消えた。
(あぁ、もう駄目だ)と、全員がそう思ったが、列車が走り過ぎた直後に線路に駆け上ってみると、何とハチは生きていた。
線路脇の砂利の斜面に、頭を下にして横たわり、全身をぶるぶる震わせて、じっと目を閉じていたが、あれは多分気を失っていたのだろう。
その代り、ハチの左の後足は中間あたりで折断されていて、そこからは少しドロッとした血が流れていたが、その量は意外に少なかった。
私は持っていた手拭いで何とか傷口を縛ると、その痛みで気が付いたのか、ハチは弱々しい悲鳴をあげながら、私の手を噛んだが、それは噛むというより、はさむといった方が良いほど力の無いものだった。
とにかく家に運ぼうとハチを抱き上げ、途中誰かが気を利かせて取って来たリアカーに乗せて連れ帰ったが、その頃からハチは本当に痛そうな声で鳴くものだから、皆まるで自分がケガをしたような気がした。
家に帰ると、サーちゃんの家には誰もいなかった。
私は直ぐに母のもとに走り、事情を説明して助けを求めた。
母は一瞬のためらいもなく「ついておいで」とサーちゃんに声を掛けると、ハチを人見先生の所に連れて行った。
「僕は獣医じゃないから出来るかどうか…」と尻ごみする先生を何とか励まして、ハチは無事に手当てを受ける事が出来たが、先生の話では、犬は強いようでいて意外に弱いので、もしかしたら助からないかもしれないのだという。
ハチはその夜一晩中鳴いていたが、数日もすると元気を取り戻し、やがて三本足で私達と元気に駆け回るようになった。
■アトリエ雑記は平成12年12月15日からスタートしました。
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