アトリエ白美「渡辺肖像画工房」 渡辺晃吉
- 平成16年3月31日(水曜日)
【晴】
夕餉の煙と匂いの混じった夕靄をかき分けながら、今日も小林のおばさんが、母のもみ治療にやって来た。
道と屋敷に何の境もない我が家へは、ほとんど盲目のおばさんにとっては、訪れ易い家なのだそうだ。
おばさんは早速治療に取り掛かり、たっぷり一時間程母の身体をもみ解すと、用意された夕食を摂って帰路につくのが日課であった。
私はおばさんが母のもみ治療をする様子と、夕食を摂る様子を見るのが、なぜか好きだった。
おばさんが帰るのを庭先まで見送るのも私の日課で、家の前の道から本通りへ出るまで、道に立って見守っていたものだった。
私には、盲目の人が杖一本を頼りに、なぜあんな遠くまで帰っていけるのか、本当に不思議でならなかった。
おばさんの家は、我が家から徒歩で30分程の雪輪町の銭湯の脇の道を入った所の長屋の一軒だった。
おばさんの家には電話がなかったので、母の使いで私はよくその家を訪れた。
時にはおばさんと一緒に家に戻る事もあったが、そんな時には、おばさんが杖を使って上手に歩く姿を、穴の空く程見つめていた。
そんな縁で、おばさんの息子のヒロヤンが我が家に勤める事になり、私にとっては、頼りになる兄がひとり出来たような気分であった。
ヒロヤンは少し知恵が遅れていたが、心根はとても優しく、気性の明るい面白い人だったが、かなりケンカ早いところもあって、生傷を作って出勤するヒロヤンを、母がよく叱っていたものだった。
ヒロヤンは正座して、固く握った拳を膝に乗せ、涙をポロポロ流しながら、もう絶対ケンカはしないと誓うのだったが、その誓いが守られた事は、一度もなかったのを、よく覚えている。
ヒロヤンはその後、太田市の兄の工場の方に勤め変えになったが、片道25kmの道を、雨の日も風の日も通い続けた。
私は一度、兄の家からヒロヤンの自転車の荷台に乗せられて、冬の夜道を二時間程かけて家に連れ帰ってもらった事があったが、道程のほとんどを全力でペダルを踏んで走るヒロヤンが、まるでスーパーマンのように思えた。
そのヒロヤンが交通事故で死んだと聞いたのは、私が20歳を越えた頃だったが、検死解剖の結果、大量のアルコールが検出されたために、遺族への賠償は、意外に少なかったと聞いた。
ヒロヤンが唯一演奏できた楽器はハーモニカだった。
あの頃ハーモニカ演奏の巧みだった人は多く、ヒロヤンもその一人で、ほとんど名人芸に等しかった。
演奏のほとんどは歌謡曲だったが、荒城の月や、ふるさと、埴生の宿なども上手だった。
ヒロヤンがこの世に生きていた事を知る人はとても少なく、どちらかと言えば人知れず生まれ、人知れず死んでいった人の一人だったのだろう。
それでも、ヒロヤンの生きた証しは、確実に時の柱に刻まれ、その存在の重さは、他の人に比べ少しも軽んじてはいない。
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- 平成16年3月30日(火曜日)
【雨】
「あれはきっと、和子が私の体を心配して、お母さんもう来ちゃだめって、追い返したんだと思うよ」
母はこんな風に言って、静かにほ〃えんだ。
数年後の事だった。
墓地の改装に伴い、土葬した棺を掘り出す事となり、どうしても行くという母を引き止めて、父と近所の手伝いの人達、そして専門の人夫の人達で、我が家の墓が掘り返され、姉の和子の棺が、まるで昨日埋葬したかのように、何の損傷もなく出てきた。
中を改める必要から、一同がかたずをのんで見守る中を、父の手が棺の蓋を開けて中を見ると、何とそこに見たものは、棺に納めた日とほとんど変わらぬ姿の姉だったそうである。
あの日のままに、生き生きとした頬と赤いくちびると、色白のおもざし。
色褪せぬ赤い着物の鮮烈な色と鮮やかな花の色。
皆、唖然としているその時、空気に触れた姉も副葬品もまるで砂の器が崩れるように、音もなく崩れていき、あとには真っ白な骨が残ったと、父が母に語り聞かせたのを、私は母から聞かされた。
その光景を目の当たりにした父は、なぜか来世と復活のある事を肌で実感したのだという。
口下手だった父が、精一杯母に語り掛けた言葉に、母は真の救いを得たのだろう。
それからは、亡き子との再会と不滅の命を、強く信じる事の出来る人になったようである。
存在は、それ自体が神秘であり、悲しみの果てにこそ、真の喜びがあるのかもしれないと、私は自分の両親の生き様の中に見たような気がしてならない。
私がこの世に生を受ける前に死んだ姉達の事を、一日も忘れる日がなかったという母も今はもう亡いが、いつかまた再会できる事を固く信じている。
その時には、先に逝った姉達に自己紹介しよう。
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- 平成16年3月29日(月曜日)
【晴】
姉の和子がジフテリアに肺炎を併発して、満3歳の幼い命を終えたのは、私が生まれるずっと以前の事だった。
その前に長女のふさ子を水の事故で亡くしている母は、不眠不休で姉の看護をしたのだが、ある夜の事、高熱でもうろうとした意識の中、突然大きな目を開いて母の顔を見てニコッと笑ったという。
「和子苦しいかい、もうすぐ良くなるから頑張るんだよ」
笑いかけながら静かに励ます母に、「おかあたん」と語りかけると、まるで眠るように目を閉じて息を引き取った。
真っ黒く大きな瞳で、オカッパ頭の、それは可愛い女の子だったと、母は何度も私に聞かせてくれた。
痛みやつれのほとんどない姉に、せめてもの門出と化粧を施し、好きだった赤い着物を着せて、いつも一緒に遊んでいた人形や花を入れた棺は、父が手に入る限り一番高価なものをと、注文したものだったという。
ぶ厚い材質は、たとえ幼な子の棺といえども、大人数人がかりで、やっと持ち上がる程だったと、これは祖母の話である。
葬式も済んで、初七日、四十九日と日が過ぎていっても、母は自分の仕事が終ると、ただ一人墓地に出掛け、何時間も墓標の前に佇む日が続いた。
特に雨の夜は、あの子が濡れては可哀想だと、一晩中カサを墓標に差し掛け、あまりの事に心配になった父が迎えに行っても、和子が可哀想だからと、雨が止むまでは決して帰らなかった。
そんなある夜、母はいつものように寺に行き、坂を上って墓地に着いて、静かに我が子に語り掛けている内に、今までは決してなかった凄まじい恐怖が襲ってきて、どうしてもその場にとどまる事が出来ず、転げるように家に帰ってきて以来、もう二度と夜の墓参に行く事はなかったと、母自身が語り聞かせてくれた。
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- 平成16年3月28日(日曜日)
【晴】
母の使いで7丁目のゲタ屋まで行く私と友人を、いくら来るなと追い飛ばしても、我が家の猫のチミがついてくる。
途中で諦めてしばらく行ってから振り向くと、チミの姿が消えていた。
(はは〜ん、あいつ諦めたな)と思い歩いて行くと、何と角丸の仕事場の前で、ちゃっかりと私の来るのを待っている。
あいつ、どこを通って先回りしたんだろう?猫は時々人にはおよびもつかない不思議な事をする。
結局は最後まで後をついて来たチミが家に帰ると、まるで大仕事をしたかのようにひっくり返って休んでいる。
母にその話をすると、チミは私が心配で、道中何事もないように守っていたつもりなのだという。
チミにとっては、私は自分の子供のようなものだったのだ。
そういえば、チミは獲ったネズミを、よく私のところに持ってきた。
私はチミをからかうつもりで、そのネズミを食べるまねをして、代りにせんべいをかじっている様子を、目を細めて見ていた。
猫は近道の天才だと思う。
多分猫にしか分らない道が、網の目のように走っているのかもしれない。
いつかチミの後をついて行った事があるが、とてもの事無理な話であった。
チミは何でついて来ないの?といわんばかりの顔付きだったが、やはり猫のまねは人間には無理だった。
近藤の井戸端には、決って猫達が集まり、文字通りの井戸端会議をやっていた。
その数は多い時では20匹を越えた。
私がその脇を通って行く時、チミは「ニャー」と必ず声を掛けてくれるので、時々は皆の仲間入りして、しばらく遊んだものだった。
三河さんの家のチクは、猫というより小さいブタのようにふとった猫だったが、鳴き声は子猫みたいな奴だった。
私はチクとは妙にうまが合ってよく遊んだが、チミにはそれがあまり面白くなかったようだ。
月のきれいな夜には、チミはよく屋根に上り、いつまでも月光に濡れそぼる町を眺めていた。
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- 平成16年3月27日(土曜日)
【晴】
緑町の渡しには、人の他に自転車も乗せられたが、なぜか自転車が乗っているのを見た事がなかった。
多分そのために余分な船賃を払う位なら、少し遠回りでも、渡良瀬橋を渡って行く方を選んだのだろう。
母の使いで叔母のもとに届け物を持って行く時に、客待ちの船に乗って先の方に進むと、「あんちゃん、今サオさすから、そのワイヤーつかんで引っ張ってみな。船が進むから」
「え〃、やっていいのオジサン」
「いいともよ、何なら毎日やってくれていいんだぜ」
オヤジには仕事でも、子供にとっては船を操れるなんて、とんでもない幸運であった。
ここの渡しは、桟橋から桟橋の間に太いワイヤーが張ってあり、船の先についた鎖の先端の輪が通っていて、船頭はサオで船を出した後、そのワイヤーを引っ張って、船を向こう岸まで運ぶのだ。
あの頃の渡良瀬川は、水量も多く川幅も広かったので、渡り切るまでに結構時間がかかった。
向こう岸に渡り、土手を上って反対側におりると、そこは山辺地区で、緑町の人達は「村」と呼んで少し差別的であったのを覚えている。
太田街道を横切り、円満寺の脇を抜けて、何軒かの藁葺の農家の前を行くと、やがて野州山辺の駅にさしかかる。
その反対側の細い道を生垣に沿って行くと、左手に叔母の家があった。
広い庭で洗濯物を干していた叔母が、やって来る私の姿をみとめると、エプロンで手をふきながら近付いてきて「よく来たね。大変だったろう。早くおあがり」と家の中に招き入れ、お菓子を出してくれた。
母から預った物を叔母に渡し、もう少し遊んでいけという叔母の手を振り切って、もらったお菓子と小遣いを抱えて、もと来た道を引き帰して、家に帰る前に新水園に飛び込んで、観たかった大小路伝次郎の「丹下左前」を観た。
貰った小遣いの半分が残ったので、その金で売り子から焼きイカを買って食べている時、私は正に大名の気分だった。
映画館を出ると、外はもう夕闇に包まれていた。
帰宅すると、母の猛烈な折檻が待っていた。
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- 平成16年3月26日(金曜日)
【晴、午後西の風】
朝の4時頃だったろうか。
いつものように台所では、もう誰かが朝食の仕度を始めている物音が、目覚めて間もない寝床まで響いてくる。
春とはいえ、外はまだ夜の闇の中にあり、未明の底冷えが部屋を包んで、襟元から布団の中に忍び込んで来る。
それでも、もう起きなければならないのだが、結局ぐずぐずとしている内に、姉が強引に布団をはがしに来るので、大慌てで服を着ると、日課の散歩に出て行く事になる。
玄関を出ると、表は真っ白な朝もやがたれこめて、5m先は何も見えない程であった。
ジャンパーの上から帽子とマフラーをつけ、手袋をして八雲神社の方に向かってブラブラと歩いて行く。
蓮台寺川沿いの道に出ると、もうたくさんの人が朝の礼拝に神社に向かって行くのに出会った。
その人達にまじって、納豆売りの人や豆腐売りの人が、なじみの頭に出合う都度挨拶を交わして走り過ぎて行く。
手袋をしている手をズボンのポケットにつっこみ、背を丸めてブラブラと歩いて行くと、隣の糸井のおばあちゃんが追い抜いて行った。
糸井のおばあちゃんは、今でも決して魚を食べないのだという。
なぜかというと、魚は海に沈んだ人の肉を食べるからなのだそうだ。
北林のおじさんが、私の肩をポンと叩いて通り過ぎて行く。
おじさんは変人だと皆が言うが、私は好きだった。
新聞配達のアルバイトをしている同級生のSが、いつものように声を掛けながら走り去って行く。
「オーッス」、「オーッス」
Sは、その後、従業員を多勢抱える牛乳店の社長になった。
体がまだ小さいので、乳母車を改造した荷台を押しながら、豆腐売りのアルバイトをしているTが、向うからやって来る。
私は黙ってTの車の後について、しばらくの間、行動を共にするのが日課だった。
午前6時30分頃に帰宅して、直ぐに食卓につく。
大抵は、ノリと卵と納豆、そしてタラコかアジの干物、味噌汁、漬物が並ぶ食卓であった。
母親のいつもの説教と姉達のいつもの小言を、聞くとはなしに聞きながら食事を済ませると、時刻は午前7時を少し過ぎているだろうか。
「いってきます」の挨拶で学校に向う途中で、いつもの奴らと出会いながら、やがて校門をくぐって教室に入る。
小学校1年生の頃の、私の日常である。
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- 平成16年3月25日(木曜日)
【曇】
それは真夜中の事だった。
私は父の背におぶさり、家から本通りに出た所の電柱の下で、目の前を通り過ぎて行く行列を見ていた。
緑町の八雲神社から通5丁目の八雲神社まで、氏神様が渡られるという想定のもとに、深夜に長い行列が、静々と進んで行く。
「御徒歩渡り」の神事である。
行列は沈黙のまま、ゆっくりと進んで行く。
先頭は天狗、その後を冠衣烏帽子の一団が、様々の調度を携え、更にその後には、絢爛豪華な神輿が、衣を正した者達に担がれて静かに進む。
いつ終るかも知れぬ程、行列は長々と続いて、やがて夜の闇の中に消えて行った。
その年を最後に、「御徒歩渡り」の神事は中止となり、以来あの神秘的な行事に触れる機会はなかった。
あの頃を境に闇は既に失われ、時に関りなく行事を行う習慣も消えて、仕事以外の事は、日曜日か休日に限って行われる時代になってしまった。
縄文以前から、めんめんと続いた美しい儀式も慣わしも、失われた闇や朝もやと共に消え失せ、人々の心は荒み荒れ果てて、ささやかな悪意の充満する世が生まれた。
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- 平成16年3月24日(水曜日)
【曇】
トン・トンと東の背戸を叩く音がする。
「誰だろう」と母が板戸を開けると、外は満々たる月光に溢れ、灯の届かない戸口にまで、青々とした光が入り込んで来た。
「おばんです。あの奥さんおられるかの」
笠を被ってはいるが、その姿は時々訪ねて来るごぜのおばさんだと、直ぐに分った。
「あらおよねさん、こんな時分にどうしたんですか。まあそこじゃ何だから、中にお入りなさいましな」
「いや、ここで結構でがす。奥さん、わし達これから郷里に帰りますんで、ひとこと沙汰をと思いやして、夜分に申し訳ねえけんど、おじゃましやした。これで郷里に帰ると、もうこの年ですけえ、二度とお目にかかる事はねえと思いやす。奥さんもどうぞおたっしゃで」
「そんな切ない事を言わないで、まだまだかせぎに来てくださいよ。こっちはいつでも待ってますから。およねさんのごぜ唄は本当に楽しみなんですからね。それがもう聞けなくなるなんて、淋しいじゃありませんか」
「ありがとうございやす。でもね、わしもよる年波でね、もういけません。声もよう出んようになりやして、足腰も思うようにならねえしね。本当に名残惜しい事でやすが、これが今生のお別れでございやす」
あとは母と二人で涙ながらの別れであった。
ごぜのおよねさんが去ってしばらくして、いつも来る越後の毒消し売りのおばさんが、およねさんの訃報を携えてやって来た。
赤城颪が、びょうびょうと吹き荒ぶ季節になっていた。
この時、私は満5歳であった。
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- 平成16年3月23日(火曜日)
【雨のち曇】
その病院は周囲に人家のない低い丘に食い込むようにあった。
東に緩やかに上って行く坂の途中の左手に、幅が二間程の間隔で石の門柱が立ち、まるで人目をはばかるような佇まいの建物は、見る人にある種の恐怖をうらつけるのだった。
今ではこのような施設を隔離病棟と呼んでいるが、昔は避病院といった。
あれは梅雨が明けて間もなくの頃だったろうか。
近所の友達が法定伝染病にかかり、リアカーに乗せられて避病院に運ばれていった。
手すきの人は皆表通りまで出て家族を励まし、行ける人はリアカーの後について病院まで随行した。
それから三日後だったろうか、友達は物言わぬ体で帰宅した。
近所中が哀しみに沈み、友達の家の前には、いつまでも人だかりがしていて、真夜中になっても賑やかであった。
翌朝、長い葬列が家を後にして、徒歩で一時間程の所にある斎場をめざし、静かに進んでいった。
友達のオフクロさんは、涙ながらに葬列を見送り、最後にぽつりと言った。
「あああー、あんな事やって行っちゃった」
(あああー、あんな風な葬列に守られて行ってしまった)
私は葬列が小さくなるまで、じっと動かずに見送るオフクロさんのそばに立って、その顔をじっと見つめていたが、その時に生まれて初めて人の悲しみというものを肌で知った。
それからしばらくの間、私は時々友達の墓を訪れては、気の済むまで共に過ごしたが、その事を家族には決して話さなかった。
ある時、私がいつものように友達の墓の前に座っていると、オフクロさんが花と線香を手にやって来た。
オフクロさんは何度も何度も墓参の礼を言いながら涙をこぼしていた。
その日、オフクロさんは我が家を訪ね、私の母に事の顛末を泣きながら話し、再び何度も何度もお礼を言って帰っていった。
後日、私が友の墓に通っていた事が、オフクロさんにとって大きな救いになったのだと、母に聞かされた。
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- 平成16年3月22日(月曜日)
【雨】
いつも行動を共にしていたMちゃんは、今は東京で新興暴力団のドンになっている。
Mちゃんの父ちゃんは、口数の少ない人で、技術者だった。
勤めている工場が直ぐ近くだったので、二人でよく遊びに行った。
Mちゃんが初めて人を殺したのは、その道に入って所謂勢力争いの中での事だった。
喫茶店にいる相手を、もうひとりの仲間と一緒にピストルで射殺し、その直後に逮捕された。
Mちゃんは子供の頃から、もう既にアウトローだったが、私にとっては良き友人であり、兄であり、保護者だった。
だから嫌な思いは一方もなく、全てが懐かしく微笑ましく甦る。
夕方に公園から家に戻る道で、今福の悪共につかまって、二人共ロープでぐるぐる巻きにされて木に吊るされ、顔から地面に落とされた時も、悪態はついても決して弱音を吐かずに頑張った。
いつだったか、Mちゃんが家から持ち出した日本刀を皆に見せびらかしている時、ものの弾みで指を切られたが、自分の事のように心配して手当てしてくれた。
そんなMちゃんが、ある時自衛隊に入ってしまった。
今までの生活に見切りをつけ、まじめになるんだというのがその理由だったが、やはり無理だったようだ。
Mちゃんの兄貴のTちゃんは、いつだったかナイフで身体中をメッタ刺しされ、もうだめかと思われたが、幸いに心臓をやられなかったので、半年余りの入院の後、家に帰って来た。
それでも当分は自宅療養をしなければならなかったので、毎日我が家に遊びに来ていた。
そんな折に、刃物で身体を突き刺される時の感覚をよく話してくれたが、痛みは全くなく、気が付いたら病院のベットの上だったのだそうだ。
それでもTちゃんは良い人だった。
弱い者は決していじめず、かえって手厚く保護してくれた。
Mちゃんも同じ良い人だったし、今だってきっとそうだろう。
人間とは、本当に不思議な生き物だ。
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- 平成16年3月21日(日曜日)
【晴】
緑町の踏切を越えて、川万の店の角を右に折れた道の右側には、軒の低い家が密集し、露地が細かく通っている、独特の雰囲気を漂わせた土地で、地元の口の悪い連中は本町の「カスバ」などと呼んでいたが、私達にとっては魅力あふれた冒険の地であった。
どこと言わず露地というものには、一種の魔力的な気配がつきまとっているような気がしてならない。
露地は別世界への入口であり、秘密に満ちた空間への通い路でもあった。
大人達にとって、露地は単に露地にすぎないのかもしれないが、多くの子供達にとって、そこは文字通り世界そのものだった。
いくつもの露地が行き着く広場や、ほの暗い行き止まり。
猫か、すばしっこい子供しか通れない抜道や、どうしてそんな場所が生まれたのか、ただ不思議としかいえない場所、家の壁に四方を挟まれ、唯一ドブ板の下をくぐらないと行く事の出来ない、そんな空間も、露地のもつ魔力が生み出した異界かもしれない。
その廃工場は、何本かの露地の奥に、黒いアスファルトを塗った高いトタンの塀に囲まれて、深いセピア色の中に沈んでいた。
両側の瓦屋根が12間程の高さで、その上に明り取りの窓を持った屋根が乗った、木造の工場だった。
一部朽ちた所からのぞいている内部は、錆びたプーリーや切れて垂れ下ったベルトがあちこちに残骸をさらして、ほこりと油にまみれているのが分った。
大人でも難しい程厳重に封印されたこの廃工場へもぐり込むには、人並外れた身の軽さと、迷路のようなルートを進む知略も必要だったために、ほんの数人の子供しか許されない冒険だった。
塀の高さは7m以上あり、どこも平坦でとりつく場所はない。
しかも塀の上には鉄条網が6列に張られているために、ロープを投げてのぼるのも難しい。
方法はただひとつ、とある民家の庭に忍び込み、工場の塀にくっつくように立つ木にのぼって、工場の屋根にとりつくと、これもただ一ヶ所だけある手がかりのある場所まで屋根の上を移動するのだが、屋根のひさしから地上までの高さは約8m、落ちたらただでは済まないし、地上は様々のガラクタの山だ。
唯一の手がかりのある場所に来ると、落ちないように注意しながら上半身をひさしの下に引き込むようにして手を伸ばし、手がかりをつかむと思い切って身を片手に預けてぶら下がり、決められた場所の手がかりと足がかりに体重を預けて下におりる。
こんな事をして何の得があるのかといえば、別に何もないのだ。
ただ目の前にある試験に挑むような気持ちというのが一番近い心境かもしれない。
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- 平成16年3月20日(土曜日)
【曇のち雨】
緑橋と渡良瀬橋の中間辺りの砂浜に、太田市を空爆した折に撃墜されたB29の機体が、ジェラルミンの骨格だけを半分以上砂に埋もれて放置されていた。
残骸のほとんどは、当時としては大変貴重な資材だった事で、誰かが持ち去っていったのだろうが、なぜ骨格が残されていたのか、今考えれば不思議であった。
その姿が消えたのは、私が小学校2年の時だったから、終戦後4年経った頃だろうか。
この機の生存者は多勢に取り押さえられ、まるで狩の獲物のように両手両足を縛られて、そこに通された丸太で担がれて、どこかへ連れ去られていったという。
親の話では殺されるような目には会わずに、かえって身柄が警察によって安全に保護され、その後間もなく終戦となり、無事に帰国したとの事であった。
B29が墜落する数日前に、やはり太田市を空爆した戦闘機の一機が、気まぐれにこの近くの民家目掛けて機銃掃射をしかけていったのだそうだ。
その事があったので、墜落した機の生存者への憎しみが、ふくれあがったのだろうか、とにかく暴徒化した群衆の手でリンチされるという最悪の状況だけは免れ、終戦後に戦犯として処罰されなかったのは幸いであった。
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- 平成16年3月19日(金曜日)
【晴】
最近は子供達の学力低下が著しく、年を追う毎にひどくなっていると聞く。
その原因はよく分らないが、このままの現象が続くと、国の存亡にも関ると言っても過言ではない程に、事態は深刻であると、教育現場にいる知人が嘆いていた。
知的能力が発達しないのには、それなりの明確な理由があるはずであるし、その責任は家庭にあるとか社会にあるとか、または学校にあるとか、それぞれに擦り合っても仕方がない事だ。
いったい日本人は、いつの頃から聡明である事を放棄してしまったのだろうか。
我欲と自己中心性の肥大化と知性の劣下とは、何か因果関係があるのだろうか。
とにかく、街ですれ違う学生達の態度立ち振る舞いに触れるにつけ、何か違和感を抱いてしまうのは偏見だろうか。
知人の考えでは、早くからの塾通いにも、知力未発達の原因があるのではないかという。
自ら考えて自ら行動し、自らその結果を分析検討するという機会を得られないまま、人生で最も多感な時期を過ごしてしまうとしたら、確かに問題があるだろう。
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- 平成16年3月18日(木曜日)
【雨】
「カズコシス、カエル、」マチダ
いとこの和子が、那須の叔父の家で急死したとの電報が届いたのは、折からの雨が本降りになってきた午後の事だった。
人一倍人情の厚い母は、直ぐに父を那須にやろうと、あちこちを探したが、その日に限ってどこにも居なかった。
私には父の行き先がどこか分っていたが、その時はなぜか誰にも言わずに、置いてあった電報を掴むと、家族の目を盗むようにして雨の中を飛び出して行った。
人の死がどんな事なのか、まだよく分らない年だった私には、何か非日常的な事が、これから起きようとしている予感に、かなり興奮していたのかもしれない。
いくら夏とはいえ、まだ幼い子供が、雨の中を傘もささずに道を歩いていると、大人達が心配して声を掛けて来た。
降る雨に濡れ歩く事で自分を痛めつけ、亡きいとこへの鎮魂の思いを表したかったのだろうと思う。
訪ねた先で父に会う事が出来ず、一時間程して帰宅してみると、家では電報が紛失しているので大騒ぎであった。
雨で濡れた電報を見せると、どうしてこんな事をしたのかとひどく叱られたが、私は本心を決して話さなかった。
和子の遺体は、那須で荼毘にふされ、それを抱いて帰る町田の叔父は、駅に着くまでの長い道程を、何度も何度もつまずきながら歩いたと、後日叔母が話してくれた。
あまりに深い悲しみに足がもつれ、どうしてもまともに歩けなかったのだという。
那須の叔父は開拓地に入植していた。
電気もなく、駅からは徒歩で何時間も歩かなければならない事で、和子を死に追いやったという自責の念が、那須の叔父にも町田の叔父叔母にも、長く付きまとったという。
那須の叔父は私が小学校4年の時に、開拓を断念して山をおりた。
その直後、開拓地は別荘地ブームにより地価が高騰し、残った人は皆金持ちになったという。
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- 平成16年3月17日(水曜日)
【晴】
父のお使いで、近所の大宮というたばこ屋によく行った。
昔は大きな酒屋だったのだそうで、公園入口の南角に、四間程の間口を東に開いて、堂々たる風格の店だったが、今は一間程を開け閉めして、細々とたばこを売っているだけであった。
そこのガラス戸を開け「くださあい」と声を掛けると、店の奥から「ハイ」と静かな声が返って来て間もなく、その声にふさわしく、小柄で楚々とした中年の婦人が出て来る。
顔立ちも髪型も、昔母が読んでいた婦人雑誌の表紙のような雰囲気の人だった。
こちらもつい静かな口調で「いこいをください」と言うと、「おいくつ」と問うて来る。
「2つください」と言ってお金を渡すと、「ありがとうございます」と呟くように小声で言って、たばことおつりを出してくる。
もう商売はしていないとはいえ、全体がセピア色にくすんだ店の様子は、外からでもよく見えたし、奥にでんと座っている大きなグランドファーザークロックは、現役で動いていた。
私は子供ながら、なぜかこの店の佇まいにひかれ、大宮へのお使いは内心喜んでいたものだった。
たばこ屋は大宮以外にも何軒かあったのだが、あの、時が止まったようなセピア色の空間や、外に立ってわずかに見える、家の中庭に当る陽の輝きや、目の前の黒ずんだ大きな商品棚などが醸し出す、まるで別の次元のような印象に、強く心をひきつけられていった。
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- 平成16年3月16日(火曜日)
【晴】
池上のおばさんが、家の前の掘立て小屋を改装して茶店を開業したのは、当時米軍基地に勤務していたおじさんが、今でいうリストラにあった事で、家計の助けになればというのが理由だと聞いたが、実際はそんな訳ではないようだった。
夏はカキ氷と蜜豆、冬はもんじやきとヤキソバ、あとは餡蜜が評判も良く、子供達は勿論、大人達もよく足を運んだが、何よりも助かったのは、多少のつけが効いた事だった。
つけといっても、せいぜい200円か300円位の金額で、それ以上は決して許さなかったのも、子供達のためを思ったおばさんの親心だったのだろう。
勿論、駄菓子の類は、店の片隅に山と置かれていたし、トコロテンは二回に一回は一本おまけしてくれた。
勤務明けのおじさんはよく店に顔を出して、私達を相手によもやま話に花を咲かせ、仕事柄身に付けた英語を、得意そうに聴かせる。
囲碁が強く、将棋もかなりの腕だったので、基地では兵隊達とよくチェスをやったそうだ。
開店して何年か過ぎると、冬はつぼ焼きも売るようになり、その内にラーメンも始めたので、客は次第に大人が中心となっていった。
あの頃はまだ、ほとんどの人が自転車であったから、おばさんの店のような存在は、ちょうどオアシスのような役目も持っており、通りすがりの人がよく立ち寄って一息入れていた。
「だんなさんはどちらから来られました」
「私は助戸なんですよ。この先の◯◯さんのお宅にお届物がありましてね、今その帰りなんですよ」
「この寒空にご苦労様ですね。ゆっくり暖まってからお帰りになると良いですよ」
「ありがとうございます。すみません、おだんごを一皿とおでんをいただけますか」
「かしこまりました、今お茶を入れますからね」
そんなやり取りが毎日交されて、時間も心なしか少しゆっくりと流れていたような気がする。
- 平成16年3月15日(月曜日)
【晴】
栄町の稲荷神社の四辻を、土地の人は昔から「別れの辻」と呼んでいたが、その角の一軒は母の知人で平野さんというおばさんの家だった。
東と北に広く間口があいているのを利用して、おばさんは駄菓子屋さんをしていた。
家の中が広いので、冬になると「もんじやき」の台が四〜五台置かれ、子供だけではなく、若い女性にも人気があった。
ヤキソバは夏を除いていつでもやっていたが、これが絶品の味で、客足の途絶える事のない位だった。
ラードは豚の脂身から作ったし、スープはトリガラとブタガラから手抜きせずに取り、ラードを取った脂身も、丁寧に炒めて具に使った。
注文があると、おばさんはおもむろにヤキソバの台に火を入れ、まずラードを鉄板に流し加熱させる。
パチパチと音を発てる頃に、まず切りイカと脂身を入れて軽く炒め、次にネギとキャベツを入れる。
それらが適当に調理されると、次にソバを入れてよく炒めるが、この辺になると、辺りは良い匂いでいっぱいになる。
次におばさんは自家製のスープを入れ、勢いよく上がる湯気にソバを絡ませるようにヘラをさばく。
そして最後にソースをかけ、もう一度軽く炒めた後ノリとコショウと紅しょうがをふりかけて出してくれる。
夏のかき氷にかける蜜もおばさんの自家製で、これがまた絶品なのだ。
白砂糖を火にかけてよくかきまぜながら作るだけなのだが、とにかく味が濃厚で、市販の二倍以上は甘く、文字通りアメ色で、氷の上にかけても色が薄まらない程だった。
後年、私はおばさんからヤキソバの焼き方を習い、今でもバザーなどで大いに活用している。
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- 平成16年3月14日(日曜日)
【晴】
緑町の踏切を渡って山中床屋の前を過ぎ、土橋を渡る前を右に入ると、川に面して手すり付きの窓の並んだ家が何軒か、まるで旅館のような佇まいで建っていた。
一番手前の一階は、この辺で唯一の釣具屋なのだが、さしや赤虫などのエサも売っていた。
この辺のガキ共にとって、大人以上に無くてはならぬ店なのだ。
仲間の内で何人かは、この店にエサを買ってもらっていたようで、赤虫やミミズは、それぞれが秘密の穴場を持っていて、他人には絶対に教えなかった。
ドバミミズ、この辺ではウタウタを使った置き針で取るウナギは近所の古い川魚料理店で売れたし、寒ブナなどは定期的に頼んで来る常連がいたと聞いた。
半分玄人のような子供達が、結構地元の需要を満たすのに一役かっていたのも、時代の反映だったのだろう。
鳥屋は川向うの土手下にあったが、古くて大きな二階家の二階に直接入れるようになっていた。
これと分る看板も何もない店で、中も普通の座敷のままなのだが、所狭しと幾種類もの鳥が置いてあるのでそれと知れた。
店の一隅には竹ヒゴの鳥カゴが山と積まれ売られていたが、その大半はこの辺の子供のアルバイト作品だった。
たくさんの穴のあいた鋼の板を木台に打ちつけ、細く割った竹を、大きな穴から細い穴へと順々に引いていくと、好みの太さの竹ヒゴが作れ、これを材料に鳥カゴを組み立てて行くのだが、一基や二基ならともかく、十基二十基と作り上げるには、相当の熟練を要する仕事だった。
しかし、そんな力量を持っている奴など、星の数程とはいかないが、町内に何人かは必ずいたものだった。
季節の鳥獲りも、大抵の子供にとっては楽しい遊びだったが、貴重な資金稼ぎにしていた仲間もいた。
獲り方はオトリを使った高アガという方法が主だった。
朝まだ暗い内に連れだって山に入り、尾根に高いサオを立て、サオの途中にオトリの入ったカゴを吊るしておく。
サオの先には長さ1m程の細い竹を数本刺して、そこに鳥モチを巻き付ける。
夜明けと共に鳥の群れが尾根を越えて飛んで来ると、オトリに引かれて高アガに止まったところを獲るという寸法だ。
獲物は、ヒワ、メジロ、シジュウカラなどだった。
その他に鳥刺しという方法があったが、長さが釣り竿程の竹の先にモチを付けて、鳥の止まっている木の下に忍び寄り、相手に気付かれないように、そっとモチ竿を伸ばして捕えるという高度な技なので、獲物が獲れる機会は少なかったが、一人で手軽に遊べるという利点もあった。
変ったところではゴム引き、所謂パチンコでスズメを落とし、焼鳥にして皆で食べたり、同じスズメ獲りでも、レンガ三個を使った罠もよく使った。
あの頃の子供達には、もしかしたら縄文人の血が少し残っていたのかもしれない。
皆狩人であり技人であった。
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- 平成16年3月13日(土曜日)
【晴】
ヒバリが空高くさえずる頃になると、渡良瀬川の河原にヒバリの巣を探しによく出掛けて行った。
ヒバリは自分の巣の近くには決して降りないので、こっちは地に伏せて出来るだけ身を隠し、地に降りた親鳥が巣に戻るのを張り込むのだが、向うはどうして一枚も二枚も上手で、まず気付かれずに巣を見付ける事は難しかった。
それでも、この手の仕事をさせたら、誰も太刀打ち出来ない名人が必ずいるもので、それにかかると親鳥がどんなに誤魔化そうとしても、かなり高い確率で巣を見付けてしまうのだ。
巣を見付けると、まだ目の開いていない子か、かえる前の卵をいただいて来る。
卵の方は本当に手厚く孵化させると、自分が親になって育てるのだ。
目の開いていない子も大切に育て、やがて飛び立てるようになると河原に連れて行く。
カゴを空けて空に放つと、文字通りさえずりながら高く舞い上がり、やがて満足するとカゴに降りて来るようになる。
鳥カゴは大抵の家にひとつかふたつあったし、エサはすり餌だからほとんど金もかからず、努力と根気さえあれば、ハイレベルな楽しみになるばかりではなく、結構いい小遣いになったりもする。
私はこの手の事は苦手だったので、いつも指をくわえて見ているだけだった。
思えばあの頃の子供の中には、恐ろしい程技にたけた奴が、きら星のようにいたと思う。
小学校四年以上で、自転車のパンク張りが出来ない奴は、仲間から人間として認めてもらえなかったし、中には親の言い付けで投網に柿しぶをつける作業までやってのける奴もいた。
ペンキ塗りは出来て当り前だし、水道の修理や大工仕事など、軽々とこなしてしまう。
知り合いのラーメン屋の長男は、まだ小学校一年生だったが、自分の食べるラーメンを、自分で作っていたのには驚いた。
おそらく貧しさのゆえに、必要に迫られての結果だったのだろうが、それでも、靴の鋲をゲタの歯の裏に打ちつけて、ローラースケート代りにアスファルトの上を滑って遊ぶアイディアをはじめ、様々に工夫して色々なものを生み出す知恵は、感嘆に価したと思う。
持つものが少なくても、豊かな時代があったのだ。
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- 平成16年3月12日(金曜日)
【晴】
今日は天候が崩れやすいと聞き、いつもより少し早目に家を出たが、なるほど空には雲が厚く垂れ込めて、今にも降り出しそうであった。
それでもやはり3月の声を聞くと、早朝でも暖かく、道の半分で少し汗ばんで来た。
画室に近付き、この辺では一番広い耕作地にさしかかると、「ケンケーン」とキジの鳴き声が右手から聞えて来た。
自転車を止めて目をやると、大きなオスのキジがゆったりとあぜを越えてこちらにやって来る。
どういう訳か周囲にはスズメが数羽、まるで主人に従うかのようにつきまといながら、一緒にエサをついばんでいた。
しばらく見とれていると視線の端に何か動くものの気配。
斜め前方を見ると、先のキジに劣らない程の堂々としたオスが、約100mの距離を保ってエサを食べている。
キジは里につくというが、こんな光景は珍しい。
最近は日光足尾山地の奥にいた野猿が、足利でも姿を見る程になっているのだという。
何かが少しづつ変ってきているのだろうが、悪い方にばかりではなく、良い方にも変化の方向が向いてもらいたいものだ。
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- 平成16年3月11日(木曜日)
【晴】
昼間はそれほどでもないが、帰路は当然暗い中を自転車で走る事になるので、下校途中の女子学生や若い女性から、不審人物として警戒される事がよくある。
つば付き帽子を深く被って、花粉避けのマスクで顔をおおい、大抵は黒のコートに黒のパンツ、そして黒の手袋というスタイルは、誰が見てもあやしいおじさんとしか思えないのも当然。
ましてや最近の社会情勢を思うと、その位の警戒心を普段から身に付けていた方が良い。
今夜も母娘連れと女子中学生から、露骨な視線を何度となくあびせられ、マスクの奥で思わず苦笑。
良く考えれば、自転車などよりも、むしろ車の方がはるかに危ないと思うのだが。
いきなり前方に立ち塞がり、車内に引きずり込まれたら、かなり深刻な事態になってしまうのではないだろうか。
最近ではよく妙な車が街を走っているのを見かける。
車内が全く見えないつくりになっているのは、いったいどういう訳なのだろうか。
何か人に見られてはまずい事情でもあるのだろうか。
それから、あまり意味があるとも思えないのだが、やたらに太いマフラーを付けて、正常なら実に不愉快な音をわざわざ出しながら走っている車にも、強い違和感と警戒心を抱いてしまう。
最近地元で起きた拉致事件も、犯人は車を利用して犯行におよんだ。
幸いにも、この事件は早期に解決を見たので、皆ホッと胸を撫で下ろしたが、これからも類似の犯罪は必ず発生すると思っていた方が間違いないだろう。
特に非力な小学生には、学校はもとより、家庭でも充分な教訓を与える必要があると思う。
悲しい事ではあるが、日増しに危険度が高まる社会となるという現実を、避けて通る事は出来ない。
今日、例の青年が仮退院したとの報があった。
事件の被害者の遺族にとって、これがどれほど複雑な心境かは、察するに余りあるものがある。
改めて犠牲となった被害者の皆様の御冥福を心中よりお祈りしたい。
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- 平成16年3月10日(水曜日)
【晴】
梅の花が散る頃になると、公園のあちこちに仮設の茶屋を建てる工事がはじまり、下の広場には舞台が出来る。
それらは皆、地元のとび職の人達の仕事なのだが、忙しく立ち働く姿を見ていると、大人達ばかりではなく、子供達まで浮き浮きと心が弾んだ。
とびの人達に混じって、たくさんの電機屋さんが、公園中に電線を張りめぐらし、おびただしい数のぼんぼりを下げる仕事に精を出している。
3月の末からはじまる足利公園祭の準備は、すっかり終るまでに一週間はかかる大仕事で、おまけに大通りの両脇にも、桜の造花をあしらった柱がずらりと並び、これからの季節は、毎日がお祭気分となる。
要所に取り付けられたスピーカーの試験に、その当時でさえかなり流行おくれになっていた歌謡曲が流れ始めると、公園下の商店では、協賛特別大売出しの手書きビラが店先に張り出されるようになる。
間もなく、公園内は言うに及ばず、通りにも酔っぱらいがあふれ出し、毎日どこかでケンカがはじまるというおまけまでついて、春は日毎にたけて行く。
そんな風情も、昭和40年代の半ばあたりまでだったろうか。
車の普及とともに次第にすたれて行き、今ではもう全く行われていないと聞いた。
それに拍車をかけたのが、足利公園改良工事とやらで、レンガ敷の遊歩道や、芝生におおわれた再現古墳などが、妙に空々しい雰囲気をにじませて、以前の懐かしい佇まいを消してしまった。
季節になると、めでる人のない桜が咲き誇り、散り染めて行く様をみかねて、散歩をやめたと、ある友が言った。
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- 平成16年3月9日(火曜日)
【晴】
暗闇の中を八つ年上の兄に手を引かれて、公園の弓引場にある我が家の防空壕に向う途中、坂を踏み外して1m程下の小さな畑に落ちてもがいている祖母に出会った。
急いで助けて防空壕に入ると、もう母が待っていて、夕食代わりの豆を子供達に分けてくれた。
我が家の防空壕は、なぜか電気がついていたので、中はとても明るいのが、子供にはありがたかった。
壕の中にしばらく避難していたが、母が止めるのも聞かずに、父は私達を連れて外に出ると、弓引場の外れに連れて行き、東南の方向を指差した。
少し高台になっている弓引場から、町内の屋根越しに、川向うの浅間山が望まれ、その上の空が真っ赤に染まっていた。
辺りは真の闇である。
その闇を染めて、東南のほぼ全天が燃えている情景は、その下の地が、地獄となっている事など想像できぬ程美しく、そして華やかであった。
その日、東京は大空襲のため、ぐれんの炎に包まれていた事を、ずっと後になって知るが、その時の私は満3歳にも満たない年であったために、強烈な印象の部分だけが断片的に繋がって、私の最初の物心となった。
3月の東京大空襲による犠牲者の数は10万余。
広島、長崎の原爆犠牲者にも劣らぬ人数である。
あの大空襲を直接体験した犠牲者の遺族も、既にかなりの高齢であり、その体験も次第に風化していくのだろうが、忘れてはならない歴史というものがあるとすれば、東京大空襲もその中に厳重に納めなくてはならない出来事のひとつだろう。
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- 平成16年3月8日(月曜日)
【晴】
所属画壇の公募展出展作品の制作準備に入る。
F50号油彩肖像画を描く予定であるが、制作期間がそれほどないので、大変な仕事になるだろう。
今日も相変らず風が強い。
それなのに、南の関東山地が青く煙っているのは、やはり春が近いからだろう。
剪定の済んだぶどう畑から出た枝の束が、近くの青地に山と積まれ、処理を待っている。
多分、燻製作りや蒔ストーブを使っている人の元に行くのだろうが、この谷から出る蒔の量は半端なものではない。
その前に、梅の枝の剪定で生まれる小枝の量だって、相当なものになるはずだが、それらはいったいどこに行ってしまうのだろうか。
画室の庭から出る枝の処理でさえ、意外に大変なのだ。
数ヶ月間枯らした後、風のない日を選んで燃やす。
それも燃やし終了までに二時間以上はかかってしまう。
暖房に蒔を使うのなら、この辺は冬中燃料に事欠かないだろう。
子供の頃、我が家の工場にはダルマストーブが据えられていて、一日中赤々と燃えていたのが、懐かしく思い出される。
ただ、その頃使っていた燃料は、蒔ではなく石炭だったが。
てっぺんがTの字型の煙突から、もくもくと煙を出している光景は、町の中に限らず学校でも一般的なものだった。
人間が暖を取るために限らず、生活の中で燃える火を直接眺める事をしなくなってから、何だか色々なものを失ってしまったような気がする。
石油ストーブやガスレンジも、炎といえばいえなくもないが、やはり少し違うだろう。
赤々と燃え、ゆらゆらとゆらめく炎には、人を癒す力があるようだ。
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- 平成16年3月7日(日曜日)
【晴】
強い向い風の中を帰路につく。
納期は15日だが、なるべく早目に手に取りたいのは、作品を依頼する立場としては当然の事なので、休日を返上して今日描き上げて送り出した。
水彩による細密彩色は、透明よりも不透明の方がずっと楽なのだが、しっかりと描き込んだ下描きを生かすには、やはり透明水彩が良いと思う。
ただし、透明水彩の透明感をより効果的に出すには、ごく薄い絵具を、何度も何度も根気よく塗り重ねて行かなければならず、その性質上他の絵具のような重厚さは、ないところから、多くの人が油彩などよりも簡単に仕上げる事が出来ると誤解しているようだ。
所謂淡彩による着彩は、確かにその要素があり、むしろそれが魅力なのだが、細密着彩は実に根気のいる仕事だ。
少し早目の帰宅であったが、だいぶ陽がのびてきたので自転車のライトを点けずに走れるのがとても助かる。
今日の午後、また山火事が発生した。
強風による自然発火が原因らしい。
大望山から自衛隊道路にかけて、ヘリコプターが飛び続けているし、山への入口は警察によって交通止めとなっていた。
突風のため何度か自転車を降りて歩いたが、市街地に入ると、だいぶ走りやすくなり、午後5時少し過ぎ帰宅した。
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- 平成16年3月6日(土曜日)
【晴】
折からの強風に、さしもの梅の木も散り舞っている。
今朝は雨模様であったが、午前中には晴れ間が見え、その内に風が吹き始めた。
風が午後になって益々強くなってきたようだ。
2月が季節はずれの暖かさだったのに比べ、3月に入ると冬が戻って来たとしか思えない。
午前中のレッスンが終り、肖像画の仕事に入る前に、土間のガラスがあまりに汚れているのに気付き、掃除してみたところが、見違える程きれいになったのには驚いた。
土間に立った人が、中を見易くするのには、やはりガラスを磨いた方が良い。
画室を訪ねる人達のほとんどが、他はどうあれ、ガラスを磨くと雰囲気が壊れると嫌がるが、こうしてきれいにしてみると、この方がずっと良い。
家から持って来た魚の残りを庭の皿に出している時に、大家さんがノソノソとやって来た。
まさか、こっちの様子を見ている訳でもないだろうが、それにしてもタイミングが良過ぎるようだ。
相変らず風は吹き止む気配もなく、外はごうごうとこずえが鳴り、電線がヒョウヒョウと吠えている。
今日は土曜日なのに、この天気ではハイカーの姿は全くない。
庭の梅の木や隣の畑に、今まで見た事もない中型の鳥が数羽、さっきから遊んでいるが、あれは渡り鳥なのか。
大家さんの食べ残しをあさりに、いつものカラスがやって来た。
あいつは多分、大家さんの友達のカラスだろう。
今度名前を考えてやろうか。
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- 平成16年3月5日(金曜日)
【晴】
前の畑から大根が2本届いた。
少し短いが、太くて重そうな大根であった。
さっき梅の木の下でフキノトウを摘んでいたおばさんに声を掛けた時、ふと庭の木の下に目をやると、こっちにもかなりのフキノトウが芽吹いているのが見えた。
今年もそんな季節になったのかと、しみじみ思っている矢先に、大家さんが土手を下りてこっちにやって来る。
家から持って来たご飯に鰹節をまぶし、魚肉ソーセージを一本沿えて出してやると、満足そうに食事を始めた。
仕事に入る前に、朝頼まれた百合の球根を、画室の庭の端に植えた。
午前10時塾生来室、正午までレッスン。
室温が高すぎるのか、絵具の乾きが早過ぎて肖像画の着彩が少しやり辛いので、ストーブを止める。
朝念入りに掃除したのだが、描いている最中、細かい糸状の埃が画面にくっついて困った。
透明水彩による細密着彩は、何度やっても本当に難しい仕事だと思う。
勿論、易しい仕事などないのだが、それぞれの画材の性質というものは厳然としてあるのだから、やはり難度の違いは出て来るだろう。
描いては乾かし描いては乾かし、グレージングを繰り返して、段々と色の調子を上げて行く。
完成までにあと2日はかかるだろうか。
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- 平成16年3月4日(木曜日)
【晴】
午後に懐かしい旧友から電話があった。
出た途端に、ひどく叱られてしまったが、それは私が約束を守らずに、返さなければならない大切なものを、借りたままにしてしまったからだった。
気にはしていたのだが、どこかに甘えがあったのだろう。
どんなに怒られても、一言の弁明も出来ないし、ただ私の不実を詫びるばかりであった。
普段では想像出来ない程の激しい剣幕に、かなり驚きはしたが、同時に少し嬉しい気もした。
あれだけの勢いで叱る位だから、きっと元気にやっているに違いない。
もうだいぶ前になるが、来訪した友人から少し心配な噂を聞き、あいつどうしているのかと時折思い出していたからだった。
過日、高校時代の恩師に出会った時、Mの店が倒産し、その直後離婚して行方不明になり、Aは夜逃げしてから、もう5年経ったそうだ。
なるべく早く、あいつの大事なものを返さなければならないが、どうしてもと言う知り合いにまた貸ししてしまったので、もしも最悪の時には、買って返さなければならないだろう。
本当に悪い事をしてしまった。
今日、水彩肖像画の彩色に入り、下塗り完了する。
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- 平成16年3月3日(水曜日)
【晴】
高い生垣に両側を挟まれた、狭くて急な坂を上ると、左側に梅林と段々畑があった。
右側には古くて大きな二階建ての家が、坂に沿って組まれた石垣の上に、まるで小さな城のような佇まいで建っていた。
坂は家の辺りで頂上となり、後は斜面に沿って右に下がっていく。
梅林のある左手は、うっそうと繁る雑木に阻まれて、どこが尾根なのか分らないが、辺りの様子からさほど遠くない所にあるのだろう。
疲れた足を引きずって家の前にさしかかると、二階の窓から女の子が顔を出して声を掛けてきた。
(あ〃、さっきから聞えていたピアノの音は、この家からか)
「どこから来たの?どこに行くの?」
女の子はニコニコと笑いながらたずねるので、
「迷子になったので道を探してる」と答え、少し不愛想にしてその場を離れようとすると、
「あっ、ちょっと待って、今、下に降りるから」と女の子の姿が窓から消えて間もなく、優しそうなお祖母ちゃんの手を引きながら女の子が外に出て来た。
「お祖母ちゃん、この子迷子になっちゃったんだって。道教えてあげようね」
それからは、聞かれるままに答え、家に招かれて飲み物とお菓子を振舞われたが、女の子は私の腕に自分の腕を廻して片時も離れずにいた。
年は私と同じ位だったろうか。
腰まであるような長いお下げ髪を垂らして、その根元を淡い青のリボンで結んでいた。
何となく気恥ずかしくて、コップの飲み物を飲みほすと直ぐに席を立ち、逃げるようにその家を辞したが、後ろを振り返ると、女の子は坂の上に立って、いつまでも手を振っていた。
それが、いつ頃で場所はどこであったのか、今はもうおぼろな記憶の断片しか残っていなかった。
今朝、いつもとは違う道を画室に向っている時だった。
山裾の家並みを左に見ながら、とある場所にさしかかると、50余年の時をさかのぼった光景がそこにあった。
今まで幾度となく同じ道を通っていたしそこをいつも見ていたのに、全く思い出さなかったのが、今突然に遠い記憶と目の前の風景が重なり合った衝撃に、しばらく自転車を降りて、その場に佇んでいた。
日影の坂の上は、折からの朝日が明るく照り映えて、梅の花が目にしみるようであった。
この坂を上り切ると右手に家があるはずだが、この場からは分らなかった。
少し離れて山の斜面を見通せる所まで自転車を走らせて、改めて眺めてみると、深い木の間越しに家が一軒、確かに建っている。
そこは山川町という所で、家からは子供の足にすると外国に行くのと変らない程の隔たりがあった。
今思えば、なぜそんな遠くまで来たのか皆目分らないが、とても大きな発見をしたようで、なぜか嬉しかった。
次の機会は、坂を上って行こうと思っている。
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- 平成16年3月2日(火曜日)
【晴】
外が暖かくなると、地面にくっつく程長くて高い箱に、たくさんの引出しが付いた道具入れを荷台に乗せた靴みがき屋さんが、時々訪ねて来る。
母はまず茶菓でもてなした後に、家にあるだけの革靴を出して来ると、みがき屋さんの来訪を近所にふれ回った。
靴みがき屋さんは靴みがきだけではなく、靴の修理もしてくれるので、革靴が貴重品だったあの頃には、こういう人は本当に有難かったのだ。
それは近くに靴屋が無い訳ではなかったが、新品を買うのならともかく、ちょっとした修理を頼むのは、何となく気が引けるものなのだ。
その点、家の前まで来てくれる人には、気がねなく頼めたし、少しボロの靴だって遠慮なく見せられたのだ。
靴みがき屋さんは、玄関脇の陽だまりに腰を据えると、道具箱から色々な道具を取り出して仕事を始めた。
靴墨とブラシ、そして様々の布を使い、流れるような手際で次々と靴をみがいて行く。
薄汚れた靴が、あっという間にピカピカに光って行く過程は、まるで魔法を見ているようで、いつまで眺めていても飽きなかった。
「僕、靴みがくところそんなに面白いか」
「うん」
「そうか、おじさんのやり方をよく見ておいて、あとでお母さんの手伝いをしてやるんだぞ」
「うん」
靴みがきも面白かったが、修理の方はもっと面白かった。
すり減った靴底を削って革をノリ張りすると、今度はそこを刃物で整形して行く。
切り取られた革が、まるで生き物のように飛び散り、きれいに形が整えられて行く。
それがあっという間なのだから、ただ驚くばかりだった。
靴によっては底に鋲を打って補強し、表面の傷は色に合せて部分塗りの後磨きをかけると、まるでさっきまでの傷が嘘のようになくなって、新品とは違うが、新品以上に素晴らしい靴が次々と出来上がって行く。
昼になると、母の呼ぶ声に玄関の上りかまちに腰をおろし、その頃ドカ弁と言った大きな弁当箱を出して、母の入れたお茶と、心づくしの漬物で食べ始める。
その様子がとても気持ちが良くて、母がいくら叱っても、私はおじさんのそばを離れずにいた。
おじさんからは靴墨と革の匂いがした。
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- 平成16年3月1日(月曜日)
【曇時々雨】
小学校に入学して初めての春休みを迎える時、やっと馴染んだクラスの仲間と2年生も一緒だと聞かされ、皆「ウォー」と歓声を上げた。
夏休みも冬休みも、大量の宿題に苦しめられたのだが、なぜか春休みは宿題がほとんどなく、身も心も解放された気分でいっぱいだった。
ひとつ悲しかったのは、学校から帰ると、いつも一緒に遊んでいた、吉野アキちゃんが、家の都合で転校した事だった。
アキちゃんの家は、公園に上る坂の途中の高台にあって、東に向いた縁側からは、緑町から栄町、北は西宮まで眼下に見渡せる程の景観だった。
春休みになったら、アキちゃんの家の裏で、よめ菜や色々な山菜を摘む約束をしていたのだったが、それが果せなかった事よりも、いつもそばに居た仲間が、ある日を境にどこかへ行ってしまった事の方が、ずっと辛く悲しかった。
勿論、近所にはアキちゃんだけではなく、たくさんの仲間が居たし、遊び相手に不自由する事はなかったが、アキちゃんは特別の存在だったのかもしれない。
アキちゃんの家を出て坂を右に行くと、道の右側は椎の森の斜面が続き、その斜面をのぼりきった所に、つつじやかえでに混じって大きな椿の木があった。
その木の下がアキちゃんと私の遊び場で、木の葉やどんぐりを相手に、よく遊んだものだった。
音信が途絶えて久しいが、今はどうしているのだろうか。
平穏に過ごしている事を願わずにはいられない。
■アトリエ雑記は平成12年12月15日からスタートしました。
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