アトリエ白美「渡辺肖像画工房」 渡辺晃吉
- 平成15年11月30日(日曜日)
【雨】
妙に生暖かい日となった。
今日は岩本家の本家の法事なのだが、どういう訳か岩本家の葬儀や法事は雨が多いようだ。
普段は無住の本家も、今日は久し振りに人の気配が家の中に漂うのか。
人の住まない家は、見た目にもどんどん荒廃していくのが分るのだが、どうする事も出来ない。
本家は二階建ての母屋と、その西の、これも二階建ての倉、少し離れた東側の物置という配置で、敷地面積は地続きの山を除いて約500坪。
近くに住む親戚の一人が、時々様子を見てくれているが、やはり人の住まない家は家ではないようだ。
母屋の北裏には、小さな離れの形で風呂場と納戸があるが、多分今は内風呂もあるのだろう。
庭は所謂日本庭園風で、ビワや柿、ザクロ、茗荷、フキやフキノトウなど、結構実り豊かなのに、何とも勿体無い話である。
今日ほんのひととき、本家にも灯が燈る。
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- 平成15年11月29日(土曜日)
【雨】
帰路は激しい降りとなったが、意外と暖かいのが有難い。
カバンを包んでいるスーパーの袋と、合羽のフードに当たる雨音がパラパラと耳に飛び込み、前輪のダイナモの擦れたような音と重なる。
フードの隙間に入り込む風が、シューという微かな唸りを聞かせてくれて、もしも音に色があれば、辺りはまさに紅葉の真っ盛りだろう。
やや上り坂の歩道を走る脇を、様々の形をした車が通り過ぎて行く。
降る雨に濡れそぼり、水溜りを踏んで行く音が切れ目なく聞える。
運転者からこちらを見れば、さぞ惨めに映っているのだろうが、その当事者が、車のハンドルにしがみ付き、背を丸めて前方に目を凝らす者達を、ある種の同情の目で眺めている事を知ったら、いったいどんな顔をするのだろうか。
晩秋の暖かい雨の中を行く醍醐味を知るまい。
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- 平成15年11月28日(金曜日)
【晴時々曇】
今は知らないが、以前は鉄道の両脇には、歩行者用の幅が50cm程の小道が平行して続いていた。
その道は、結構便利なもので、大人も子供も手近な生活道路として使っていたものだが、考えると相当危険な事であったのかもしれない。
しかし、あの頃の日本人は、大人も子供も危険への対応は現在とは比べ物にならない位に発達していて、まず事故になるような事はないと言ってよかったろう。
それは極めて簡単な理由で、要するに危ないものを危ないと認識出来るだけの知恵と経験を備えていたというだけの事なのだ。
だから鉄道の脇の道を歩いていても、列車が近付いて来れば少し端に退いてやり過す分別を持っていた。
両毛線を東に辿ると、足利駅までは市街地を抜けて行くので、通路は2m程の高さの土手の上を通る事になる。
その土手は駅を過ぎても、少し続いているのだが、間もなく線路の下を走るようになり、山川町を過ぎる頃から人家が途絶え、富田駅近くまでは、水田と所々にある屋敷林の間を抜けて行く。
道は線路を乗せた枕木を受ける砂利の両脇にどこまでも続いて、地平線の彼方に消えて行くのだ。
線路、鉄路、レール、鉄道、呼び名は様々であるが、いずれにも夢とロマンが漂っていると思う。
子供の頃、家の近くを走っていた線路とその両脇の道は、遥か彼方にある冒険の地へのルートであった。
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- 平成15年11月27日(木曜日)
【晴】
画室のカーテンを開けて外を見ると、何とチビ野良がもう一匹のチビ野良を連れて上を見上げていた。
ガラス戸を開けたとたんに、慌てて逃げ出した二匹だが、安全な距離から物欲しそうにこっちを見ているので、急いで大家さん用のキャットフードを皿に入れて戸を閉めると、まるで兄が弟をいたわるように、少し大きい方のチビが、ヨチヨチ歩きのもっとチビの方を従えて皿に近付くと、自分はそばに座って小さい方が夢中で食い付いているのを眺めていた。
この子らは、まさか大家さんの子供じゃないのかとも思ったが、どうも違うらしい。
チッピを遊ばせる番の時に、どこかに行っていた二匹が、またヒョコヒョコやって来ると、遊び場の網越しにチッピの姿を不思議そうに眺めていたが、それを見たチッピも網のそばまで近付いて来て、好奇心まるだしでチビ野良達を見返していた。
チビ野良は二匹共トラで、色は黒っぽい。
兄ちゃん(姉ちゃんかもしれないが)の方は、小さいながらプロポーションも良く、将来の勇姿が目に浮ぶが、チビの方は何となく弱々しく、歩き方もまだたどたどしい。
体も一回りは小さく、同じ生まれだとしても、その差は歴然としている。
チビも自分がひ弱なのを自覚しているのか、何かにつけて兄ちゃんを頼っているようであった。
これから冬に向って、このチビ達はどうするのだろうか。
また心配事がひとつ増えた。
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- 平成15年11月26日(水曜日)
【晴】
大沼田の山々は、いつの間にか紅葉していた。
平野部の紅葉は少しくすんではいるが、昨夜からの雨雲の名残が尾根にたゆたい、沢に沿って流れる中に、慎ましく色付いて山腹を埋めている。
折からの陽に猫じゃらしの穂がきらきらと輝き、セイタカアワダチ草の黄色が、最後の彩りを誇示している。
既に紅葉色の草薮に、青い野菊が映えて美しく、手裏剣草は、いたる所に網を張って取り付く獲物を狙っている。
実を落した柿の木の枝に、からす瓜が橙色の実をたわわに下げている下を通って、もはやツルだけになったぶどう棚の脇を過ぎ、画室へのゆるい上り坂に差し掛かると、家を出た時の冷たさは去って、少し汗ばむ程の暖かさになっていた。
梅の木は葉をほとんど落して、谷はもはや冬の兆し。
日の出前の闇の中を、家を出て画室に向う日も近い。
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- 平成15年11月25日(火曜日)
【雨】
どしゃ降りの雨の中を画室へと向う。
早朝のため、それほど車もなく、あまり危険な目に会わずに画室に着き、チビ達に声を掛けてカーテンを開けると、なぜか大家さんが表に来ていない。
ひどい降りなので、どこかで雨宿りしているのならいいのだが、事故にでもあって身動きがとれないのだろうかなどと、つまらぬ想像をしてしまう。
あの腹っぺらし母さんが来ないなんて、どう考えてもおかしい。
明日は無事な姿を見せてくれれば良いのだがと思いながら、チビ達の世話を終えて仕事に入る。
午前中の塾生が来室、12時までレッスン。
降りは益々激しくなり、ひさしを打つ雨音でBGMが聞えない。
今日は母屋の義姉が休みのため、漬けたての白菜をおかずに、母屋で昼食を摂る。
午後A氏来室、久し振りの再会に話が弾む。
雨はまだ降り止まず、外は既に夕闇に包まれているのだが、時刻はまだ午後4時を少し過ぎたばかり。
この様子では、帰りも合羽のお世話になるだろう。
(以下、インターネット担当者)
父(渡辺晃吉)が画室から帰宅した後、大家さんが来て外に置いてあるエサをバリボリ食ってました。因みに、大家さんは猫ですヨ。
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- 平成15年11月24日(月曜日)
【曇】
朝、目覚めてみると、昨日に比べてかなり寒いようだ。
今午前6時、外はまだ暗い。
この分だと、画室のチビ達は心細い思いをしているだろうから、今朝は早目に家を出て、画室を暖めてやろう。
午前7時少し前に画室に着いてみると、いつも外で待っている大家さんがまだ姿を見せない。
(おかしいな、交通事故にでもあったのだろうか)
何となく気にしながらチビ達の世話をしていると、外にいつもの気配がして、まるで怒ったような顔をした大家さんがこっちを見ている。
早速エサを出してやり、そのそばを通ってチビを遊び場に連れて行く。
最近チビ達を外に出すと、いつの間にかカラスが近くに来るのが気になって仕方がない。
まさかチビを襲ったりはしないと思うのだが、カラスの中でも特別にでかい奴にかかったら、多分やられてしまうだろう。
大家さんが近くにいればカラスは警戒して近付いて来ないので安心なのだが、最近寒くなってきたので、あまり長く庭にいてくれないのが気掛かりだ。
月が変ったら、そろそろ家に連れ戻すか。
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- 平成15年11月23日(日曜日)
【晴】
小学校5年の秋、生まれて初めて足尾に行った。
修学旅行の目的地で、郷土の歴史を学ぶというテーマであった。
桐生駅から足尾線に乗り換え、渡良瀬渓谷に沿って、紅葉のただ中を進み、やがて終点の足尾駅に着いた。
鉱山町特有の雰囲気の中を、渡良瀬川左岸に沿った街道を少し行くと、そこは既に町外れとなり、道の右手はすぐ脇から、急斜面で立ち上がるザレ場になっていて、そこにまるでしがみ付くように点在する墓標が、子供ながら暗示的であった。
対岸に目をやると、草木一本とてない備前楯山を背に、精錬場の荒涼たる風景が、物理的な衝撃さえ伴って眼前にあった。
いたる所でむき出しになった土の色は、今まで見た事のない狂気じみた毒々しさで、うねうねとのたうつように続いていた。
見るもの全てが想像を絶して迫って来た。
大気には鼻をつく臭気が漂い、冬にはまだ遠いのに、びょうびょうと風が吹き過ぎて行った。
これほどの破壊を目にしながら、私にはなぜかこの風景が美しく思えたのだった。
美とは、いったい何なのだろうか。
美と醜とは対極にあるはずなのに、実は表裏一体のものなのだろうか。
そんな事を初めて考えたのがこの時だった。
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- 平成15年11月22日(土曜日)
【晴】
晩秋の夜の事、糸干し場の外燈の下に、人力車が一台停まり、母が岡田の家に入って行った。
岡田のおばさん(実際は年の離れたいとこの妻)を結核の専門病院に連れて行くためであった。
岡田のおばさんは、もう長いこと雨戸を閉めきった家に、たった一人で療養生活を送っていた。
おばさんの家族は感染を恐れて館林に移転していたので、可哀想におばさんは一人家に取り残されたのだ。
母はそんなおばさんを気遣って、毎日何回も世話をやきに行っていたのだが、おばさんの病状が日を追う毎に悪くなって、もうこれ以上は自宅療養という訳にはいかず、その夜、嫌がるおばさんを説得して、まるで人の目を避けるように、闇の中に去って行った。
少し離れてその場の有様を見ていた私には、泣き叫んで母に訴えるおばさんと、同じように泣きながらおばさんを説き伏せる母の姿が、まるで走馬灯を見るかのように鮮烈に焼き付いて今も鮮やかに蘇える。
大柄で声に張りのある、優しいおばさんであった。
病院に入ったおばさんは、臨終の間際まで残して行く我が子らの事を心配していたと、母に聞いた。
子供の頃、毎日のように遊んだ、おばさんの子供達の姿を思い出す。
幼くして母と別れなければならない子供の心境とは、いったいどんなものなのだろうか。
そんな悲しい出来事にも、人は耐えられるのかと思うと、つくづく人を支える大きな力を感じてしまう。
おばさんの子供達は、皆それぞれに幸せな生活を送っていると風の便りに聞いた。
秋が深まるこの頃、遠い昔に逝ったおばさんの、あの優しい姿と明るい声を時々思い出す。
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- 平成15年11月21日(金曜日)
【晴】
21世紀の戦争は、国家間や異なる陣営間の戦争ではなく、対テロリズム戦になるだろうと予測した学者がいたが、時代は正にその通りの様相を明らかにしてきている。
テロリズムを生み出す根源的要因というのは、いったい何なのだろう。
強国のエゴなのか、弱者への圧政なのか、様々の暴力に対する報復なのか、宗教的対立なのか、あるいはイデオロギーの対立に起因するものなのか。
残念ながら浅学の身に、明快な回答などあろうはずもなく、益々増加するテロ行為を、世の人と共に悲しみ憎む事しか、なす術がない。
強大なテロ集団による犯行とは別に、身近な日常の中に潜む個人的なテロリズムは、様々の形で私達の周辺で具体化し、現代社会の危険因子のひとつになっている事も、世界的規模のものに比べ、決して見過す事が出来ない現象ではないだろうか。
問題解決の手段として、あるいは自己の目的を遂げる手段として暴力を選択する事が一般化した時代を想像すると、思わず冷汗が出る程恐ろしくなってくる。
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- 平成15年11月20日(木曜日)
【雨】
夕方の事だった。
外から今にも絞め殺されそうな鳴き声が聞えてきたので、慌てて縁側のガラス戸を開けてみると、何と大家さんが迷子の小猫を連れて来ていたのだ。
大家さんは、さっさと縁側に上がって来たがチビ猫は置いて行かれたと思ったのか、今にも死にそうな声で泣き叫んでいるのに、大家さんは涼しい顔で知らん振りしているどころか、そばにチビがすり寄って来ると、まるで敵に出会ったような勢いで逃げて行ってしまう。
最初は大家さんの子供かと思ったが、どうも違うようだ。
チビ助は画室の庭をあちこち走り回っていて、どこにいるのかさっぱり分らない。
夕方とはいえ、外は真っ暗闇なのだ。
おまけに雨はだんだんと強くなって、このままでは凍えてしまうだろうに、人を恐れているのか、なかなか近付いて来ない。
母屋の冷蔵庫からシーチキンの缶詰をひとつくすねて、外の大家さんの皿に入れてあげると、いつの間にかぴちゃぴちゃと喰い付いているようだ。
そっと近付いて声を掛けると、今度は逃げずに、時々こっちを見上げながら夢中で食べていた。
この季節、捨てられた小猫が生き残るには、かなりの試練が待っているだろう。
どうせ大家さんを面倒みてるんだ。
このチビもついでに面倒みよう。
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- 平成15年11月19日(水曜日)
【晴】
放課後に、皆が嬉しそうに下校する様子を、恨めしそうに眺めながら音楽室に入ると、間もなく野沢先生が、いかめしい顔付きでやって来た。
いつものように10分程説教をもらい(なぜか毎日怒られるのだ)終るとすぐに練習開始となる。
ボーイソプラノなので、悪ガキ奴らに言わせると、頭のてっぺんから飛び出すような声で喚き立てる、半気ちがいの集まりなのだそうだ。
一番嫌なのは、練習中に近所でいつもつるんでいる奴らが、窓から目の部分だけを覗かせて中を盗み見る時だった。
覗きに気付いた先生が、顔を真っ赤にして走り寄って、どんなに怒ったところで、あの悪ガキ共には、文字通りカエルの面に小便なのだ。(その内の一人が私なのだが)
奴らは音楽室を振り返りながら、「ヒャー・ヒャー」と猿のような声で喚き、校門の方に立ち去って行く。
「あ〃また明日、あいつらにからかわれながら登校するのか」と思うと、本当に憂鬱になる。
あいつらときたら、音楽なんて女か女のような男のする事で、まともな男なら、絶対に近寄らない世界だと思っているのだ。
それでも小学校5年になると、さすがにからかう奴らもいなくなり、何とか気にせずに済むようになったが、その後がいけなかった。
あろう事か、学校を代表する合唱団に名前を付けるという話になり、付いた名が何と「仲良しクラブ」だった。
これを黙って見過す程のボンクラなどいるはずがない。
翌日から付いたあだ名が「仲良しクラブ」だった。
我が家の前を通り過ぎる悪ガキ共が、歌うように「なあかよおしくうらぶうう」とやるものだから、母などはその毎に首を傾げて、私がまた良からぬ企てをしているものと勘違いして、痛くもない腹を探られるはめになってしまった。
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- 平成15年11月18日(火曜日)
【晴】
「渡辺、給食のあと外に出ないで教室で待っているんだよ」
担任の川島先生が、昼休み前にこう告げて教室を出て行った。
(ははあん、これはきっと何かのお仕置きだな)
そう確信した私は、当然逃げ出すつもりでいたが、給食を平らげずにトンズラする程アホではない。
まるでバキュームのような勢いで給食をかっ込み、正に食い終わるその寸前に、教室のドアが開き先生が入って来た。
お前の腹の中なんか、とうにお見通しだよ、というばかりの顔付きで近付いて来ると、まるで襟首をつかまえるかの強引さで、音楽室に引っ張って行かれた。
学校を代表する合唱団へ、強制収容される、屈辱の日であった。
その日以来、今までつるんでいた仲間のほとんどは、まるで負け犬でも見るかのような視線を、薄笑いと共にぶつけてくるようになった。
こっちだって何も好きで行った訳じゃない。
今と違って、あの頃の学校の先生の命令は、例え親だって逆らえるはずもなく、入れられた以上、もう卒業までは絶対に抜け出す事は出来るはずがないのだ。
昼食もそこそこに音楽室に集合、他の奴らが昼休みを楽しんでいるというのに、休み時間中ピーチクパーチクと練習をさせられたあげく、放課後は、たっぷり二時間から三時間、ほとんど毎日練習するのだ。
もはや罰としかいいようのない仕打ちであった。
練習の前半は発声練習による徹底的なベルカント唱法の修得。
利き足を少し前に出し、肩を落して両腕をだらんと下げ、上半身の力を抜いてのどを開け、胸と頭部全体に声を響かせるという練習を、毎日毎日やらされたあげく、全国合唱コンクールの課題曲と自由曲を、年中無休といって良いスケジュールで練習するのだ。
しまいにはもうやぶれかぶれで、気が付いてみたら、結構好きになっている自分に驚いた。
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- 平成15年11月17日(月曜日)
【晴】
小野寺のマサアキちゃんの家に迎えに行くと、マサアキちゃんとオッチャンが昼飯を食べていたので、縁側に座って待っていた。
するとマサアキちゃんが「何で飯は口でしか食えねえんだろうな。鼻で食えたっていいのにな。食ってみようかな」
そう言って冷飯を箸で掴むと、鼻の穴にあてがって何とか食おうとした。
「どうしても食えねえな。鼻じゃ噛めねえからかな」
それを見ていたオッチャンがこっちを向いて(この馬鹿兄貴が)と目で語っていた。
今日は予てからの計画通り、八雲神社の神楽殿裏の梅林の梅を盗みに行く予定になっていた。
マサアキちゃんが昼飯を食い終わるのを待って、二人して公園の神社に出掛け梅林に入って行くのを、神社の宮司のせがれのヒロキちゃんが目ざとく見付けて、後を付けて来た。
そんな事は構わずに、出来るだけ皮が赤くなっているやつを、持参の塩を付けて噛り付くと、最初は少し苦いのだが、次第に酸っぱくて食いごたえのある味になってくる。
「あれぇ〜梅の実を生で食うと青酸カリで死んじゃうんだから。あれぇ〜」と、ヒロキちゃんが叫んでいる。
「入梅過ぎてるよ」
額にシワを寄せながら、顔をプイッと横に向けて、マサアキちゃんが言った。
それを受けて「入梅過ぎてるよ〜ん」と私。
昔から入梅を過ぎた梅は、青酸カリが抜けて生でも食べられるといわれていたが、実際はどうだったのだろうか。
多分、塩を付けて食べる事で、青酸が無害になるのかもしれないが、あの頃のガキ共は、食えるものなら何でも食ったような気がする。
ヒロキちゃんは反論出来ずに、悔しそうな顔で私達を見ていたが、やがて、後を振り返りながら、その場を立ち去った。
今福の連中に捕まり、狸便所の脇の椎の木に、逆さ吊りにされた仲のマサアキちゃんも、今は東京で、その筋のドンになっているという。
それでも、懐かしい人には変りない。
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- 平成15年11月16日(日曜日)
【晴】
緑橋下流から、渡良瀬橋までの河原は、砂利の採集現場が何ヶ所もあって、上半身裸の砂利採りの人達が、縦長の大きなふるいに、これも大きなスコップで砂利を入れると、台に乗ったコロの上で前後に動かして粒を揃えると、頑丈な木箱に入れて積み重ねていく。
砂利は一頭立ての荷馬車で運んで行くのだが、その行く先が知りたくて何度か後を付けてみたが、大抵は根負けして途中から引き返して来たものだった。
目の前を通り過ぎて行く荷馬車を、黙って見過す程の怠け者は、あの頃の子供にはひとりとしていなかったので、馬車をひく馬方と悪ガキ共の争いは、ほとんど毎日の事であった。
子供達がどんなに知恵をしぼって、荷馬車の後ろに飛び乗ろうとしても、大抵は馬方の方が一枚上手で、「このデレスケ野郎が!ふざけた真似しやがると、足の骨ぶっかいてくれっぞ、テメエの父ちゃんか母ちゃんのところにひっぱって行くけど、それでもいいのか、このクソ野郎が」
どういう訳か皆物凄く怒って、手に持ったムチでぶん殴られるか、砂利をぶっかけられるかされるのだ。
それだけに馬方の目を盗んで首尾良く荷台に乗れた時の嬉しさは、例えようもないものだった。
生命がけのスリル満点のこの遊びは、荷馬車が道から消えてなくなるまで、決してなくならなかった。
当時ニコヨンという言葉が、微かな侮蔑を含んで囁かれていたのを思い出す。
それは日給240円という意味で、社会の最低辺でうごめく低賃金労働者を呼ぶ時のものだったのだが、思えば、その人達のたゆまざる努力のおかげで、その後の高度成長時代を迎える事が出来たのだ。
いつの時代でも勤労は美徳であってほしいものと思う。
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- 平成15年11月15日(土曜日)
【晴】
こつこつと背戸を叩く音がして、戸が半分程開いた。
「こんばんは、おかみさんおられるかの、夜分に申し訳ねえですがの」
家の明りが外の闇に漏れて、そこに立つ老婆の姿が浮かび上った。
手拭いでほこ被りした上に三度笠を被り、手甲、脚半、かすりのモンペのそのいでたちは、時々我が家に宿をとった事のある、瞽女(ゴゼ)さんの一人だった。
慌しく土間に降りて背戸に向った母は、しきりに中に入るようにすすめるのだが、瞽女さんは、なぜかかたくなに家の中に入るのを拒むのだった。
母の背にとりついて、その場の様子を垣間見ていると、幼いながらも、これは別れの場なのだなと分った。
瞽女さんも母も、共にたもとの端で目頭をおさえ、流れる涙を拭っていたが、やがて瞽女さんは深く頭を垂れた後に、背を丸めた後姿を見せながら街道を去って行った。
折からの月は、家の前に建つ鉄工場の瓦屋根を銀色に染め、空には目の届く限り、銀河の帯が東西に走り、オリオンが中天にかかっていた。
後年、その瞽女さんは、母の元に今生の別を告げに訪れたのだという。
年老いたその人にとって、この旅が生涯最後の旅となったのだろうか。
それ以来、その人も含め瞽女の姿を目にする事はなかった。
あの頃はまだ、吟遊詩人という仕事を、世の中が必要としていたのだと思う。
瞽女さんは、私にとって、吟遊詩人そのものであった。
めったにない事ではあったが、興が乗ると、聞き覚えの瞽女歌を歌って聴かせてくれた母が懐かしい。
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- 平成15年11月14日(金曜日)
【晴】
風呂に入り寝床に入って直ぐの事であった。
「こんばんは」と玄関の外に人の気配。
夜とはいえ、まだ午後7時少し過ぎ位の時刻なので、仕事を終えた近所の人達や知人などが、ぼつぼつ訪ねて来て、母の心づくしの茶を片手に、賑やかに語り合う時間なのだ。
祖父の仕事の関係で、我が家の玄関は、その入口が相当広くて横長で、その幅に合せて、仕切りなしの座敷があった。
あの頃の夜の闇は、今では考えられない程深く沈んで、文字通り真っ暗であった。
「頼まれていた例の薬が、やっと手に入りましたのでお持ちしました」
既に何人かの客が父母を相手に世間話に興じていたが、その人の訪問に、母は大きな安心を得たようであった。
その薬とはネズミの黒焼きで、形状は丸薬なのだが、色は真っ黒であった。
およそ考えられる限りの方法の果てに辿り着いた、私の寝小便の薬である。
その夜に早速飲まされたネズミの黒焼きが効いたのか、毎日のようにやっていた寝小便が、その夜はピタッと止ったのだ。
これには親ばかりではなく、私自身も口では表せない程の喜びを味わったものだった。
それ以来、全くしなかった訳ではないが、ほとんどはやってしまう前に目が覚めるようになり、いつの間にか完全に治っていた。
薬を持って来てくれた人は、今でいえば「便利屋」さんのような人だったのだろうか。
その頃では、まだ入手が難しかった、色々な物を、その人に頼むと、何とか手に入れて来てくれたのだと聞いた。
昔は不思議な人達がいた。
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- 平成15年11月13日(木曜日)
【曇時々雨】
小学校3年生の校舎の玄関から、斜めの渡り廊下を北に行くと、普段はめったに人が近付かない二教室だけの校舎に行き着く。
手前の校舎は、標本室になっていて、様々の鉱物標本や昆虫標本、ホルマリン溶液に入った蛇や蛙、サナダ虫や回虫、あとは何だか判別つかないような生物標本、それにお決まりの人体模型や、アルマジロ、狸、狐、雉、山鳥、そして明らかに南国の鳥と分る極彩色の鳥の剥製など、まるで宝の山のような場所であった。
そんな場所に、なぜ皆が近付かないかというと、隣が開かずの教室になっていて、その教室に入った奴は、必ずそこに取り付いている幽霊に呪われるといわれているからだ。
今までに何人もの奴らが、教室の窓に映った影やすすり泣きの声、中には床を歩く音を聞いたというのだ。
だから、余程の物好きでない限り、その校舎に近付く奴はいないのを良い事に、宝の山のような標本室から持ち出したお宝は、まず黒水晶、紫水晶、方解石、メノウ、孔雀石、バラ輝石、オニックス、孔雀の羽根、猿のシャレコウベ、壊れているが地球儀と顕微鏡、天秤はかり、などであった。
その中のきれいな石は、箱に詰めて公園のある場所に埋めて、宝の地図を作ったりしたものだった。
今になって考えれば、あの場所は単なるガラクタ置場だったのだと思う。
木造のセピア色一色の教室や備品には、今のそれにはない格調と風格があるばかりではなく、溢れる程の夢とロマンが漂っていたと思う。
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- 平成15年11月12日(水曜日)
【晴】
公園裏の崖のエゴの実が、だいぶ実ってきたので、いつものように、ドードーの下を漁場にした、大掛かりな漁をする事になった。
集められるだけの人数を集め、めいめいに網を持たせて、ドードー(水門)の下のよどみに一列に並ばせ、年かさの何人かが、エゴの実を入れたザルを持って上流に立ち、ガキ大将の合図を受けて、一斉にザルの中のエゴの実を潰して、その汁を流れに入れていくのだ。
ドードーの下のよどみを棲家にしている、鮒、鯉、ハヤ、チリンゴ(タナゴ)などの雑魚が、エゴの実の汁に酔って白い腹を見せて水面に浮いて来る。
下流に控えたチビ共は、一匹も逃すまいと目を丸くして、流れて来る魚をすくっていく。
わずか一時間足らずの間に、驚く程の量の魚が網に入り、その日は大量であった。
まるで天下を取ったような気分で家に戻ると、早速今日の獲物料理に取り掛る。
雑魚の掻揚を作るのだ。
アッという間に、大きなザル一杯の天ぷらが出来上がり、炊きたての飯をほ〃ばりながらの大饗宴となった。
昔のガキのやる事は、結構様になっていたのだ。
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- 平成15年11月11日(火曜日)
【雨】
合羽を着る程ではないが、少し走ると、上に羽織ったコートには、びっしりと雨の滴が付いて重々しくなっている。
この調子では、今日もチビ達を外で遊ばせる事が出来ないようだ。
普通のうさぎは知らないが、ミニうさぎにとって、雨に打たれるのは、かなり厳しい試練なのだと思う。
とてもデリケートで弱い生き物だが、それだけに罪なき生命であり、誕生そのものが、既に祝福されたものとしか思えない。
チビ達は外が雨なのを知っているのだろうか。
今日は朝から皆静かにケージの中に身を横たえている。
それでも時折頭を撫でてやると、嬉しそうに甘えてくるのが愛らしい。
あのチビにいちゃん達でさえ、今日は妙に行儀が良く、まるでよそ行きのような雰囲気なのが面白い。
この雨では、いつもの小さな女の子は、チビ達に会いには来ないだろうし、外来者もないだろう。
午前中の生徒が帰った後、それを待っていたかのように、大家さんが雨を避けながら軒下に走り込んで来た。
ガラス戸を少し開けて、中に入れるようにしたのだが、どうした訳か今日は上にあがろうとしない。
まさか汚れ足なので遠慮した訳でもあるまいが、少し休むと、またどこかへと去って行った。
表の街道には、人の気配が全くなく、驚く程の静寂が辺りを包み、雨はまた音もなく降り注いで、時々ケージの中を動き回るチビ達の発てる物音だけが、静寂を破るのだった。
珍しく携帯のベルが鳴り、A氏の声が受話器の向うから、賑やかに聞えて来た。
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- 平成15年11月10日(月曜日)
【雨】
いつものように我が家の庭で、いつもの悪ガキ共と良からぬ相談をしていると、前の道を近所のオバさんがまるで追いはぎにでも追われているかのようにドタバタと走りながら、「汽車っぴきぃー、汽車っぴきぃー」と叫んで、表通りの方に消えて行った。
それを聞いてじっとしている奴など、この近所には一人としているはずもなく、何もかもおっぽり出して、「ワーッ」とばかりに全速力で公園裏のガードに向って走った。
「汽車っぴき」とは、人が汽車に轢かれるという意味で、要するに列車事故の方言のようなものである。
この辺の汽車っぴきは、大抵公園裏のガード附近と相場が決っていて、事故の大部分は、どういう訳か、そこで起きるのだ。
しかも事故のほとんどは被害者の不注意によるものなので、地元の大人達は、公園裏のガードの事を、呪いのガードと呼び、子供達が近付くのを極度に恐れていた。
ところが子供達にとっては、そのような場所くらい魅惑される所はないので、大人達の言う事など聞くはずもなく、親が見たら、おそらく卒倒しかねないような遊びをしていた。
現場に向って一目散に走って行くのは、何も我々だけではなく、どこで聞きつけたのか、多勢の人達が、皆同じように目を輝かせながら、口々に事の重大さを訴えているのだが、その割には、皆嬉しそうなのが不思議だった。
現場に着くと、附近は黒山の人だかり。
そんな時には必ず目立ちたがり屋のお調子者がいるもので、群衆に興奮して、盛んに喚き散らしている姿は、子供でもみっともないなと思ったものだった。
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- 平成15年11月9日(日曜日)
【曇時々雨】
ひとつ年下のオチボー(※平成15年10月27日・平成14年12月16日参照)を一緒に連れて行くのは、何も親切な気持ちからではなく、いざという時にこいつを囮にして逃げ出すためだった。
他の連中には内緒で、これから危険を犯して行く所は、七丁目の切通しを越えて、五十部(ヨベ)の水っ様(みずっさま)の横を抜け、三重村のどんづまりの山裾にある、オーシン(ツクツクホウシ)の穴場なのだ。
緑町から「さかさ川」に沿って七町目に出て、道を西にとって切通しを越え、今福の部落を過ぎる辺りから、辺りの気配に集中していないと、アッという間にこの辺のガキ共が押し寄せて捕まってしまう。
それでも五十部や三重の連中に比べたら、まだまだマシの方で、あっちの奴らに捕まったら、絶対に無事には帰れないのを覚悟しなければならない。
水っ様は金精様が奉ってあり、急な石段を登って格子越しにお堂の中を覗くと、大小様々の男根が奉ってある。
石段の下の広場には、大抵この辺りの悪ガキ共が集まっているので、少し遠回りして行かなければならない。
今福の東坂を越えて来る道と、五十部の東の山沿いの街道が合流する辺りから、更に道を北にとると、オーシンのたくさんいる森が見えてくる。
森といっても、大きな屋敷の屋敷林で、囲いがないので街道から自然にその中に入れるのだ。
三重の奴らの縄張りを侵している現場を見られたら、生きては帰れない位の危険を覚悟の冒険も、カゴ一杯のオーシンという宝の山を目にしては、正に悔いなしだ。
これで明日の朝は、皆の悔しそうな顔を見ながら至福の一時を過ごす事が出来ると思うと、長い道程を歩き続けて棒のようになった足も、カラカラに渇いてはり付きそうなノドの痛みも、全く気にならなかった。
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- 平成15年11月8日(土曜日)
【晴】
足利公園は別名を水道山と呼ばれ、渡良瀬川の流水を汲み上げ、落差を利用して天下一の水道水を、主に旧市街地に供給していた。
その水道山の北斜面は禁断の地、立入禁止地帯となっていたのだが、かといって何か目に見える柵や仕切りがあった訳ではない。
さすがに禁忌を犯すのに仲間を巻き添えには出来ず、よく一人でその地に分け入ったものだった。
深い雑木林というよりは、もはや森といった方が相応しい密林に分け入って行くと、そこがなぜ禁断の地なのかは、子供でも分る風景が目に飛び込んでくる。
森の奥は、いたる所が古墳だったのだ。
それが永年の風雪で、ある場所は崩れ、ある場所は遺物が露出散乱し、またある場所は、なぜか動物の白骨が、辺り一面に広がっていた。
そこは、空間それ自体が他にはない雰囲気を醸し、深い枝の重なりを貫いて差す陽の光も、この世のものならぬ輝きで森の底に漂うのだった。
考えてみたら足利公園そのものが、巨大な古墳のようなもので、露出した玄室を遊び場にして育ったといってもいい位だ。
小学校6年だったろうか、私にとっては他にかけがえのない聖域に、本格的な学術調査のスコップが入る事になり、その時から、あの場所は色褪せたものになった。
立ち入るなかれ、触れるなかれ、見るなかれ。
子供心を恐怖と好奇の魔力で縛りつけたものは、もはや今はない。
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- 平成15年11月7日(金曜日)
【晴】
一ヶ月前に死んだ福田のおじいちゃんの墓場から、火の玉が出るのを何人かの人が見たという噂が、あっという間にこの辺一帯に広まったのを、見逃すはずがない。
親にバレると半殺しの目に会うので、全員に厳しく口止めをして決行の夜を迎えた。
集会場で子供会の常会があるという事にして、夜の外出をもらう口実にしたのだ。
親の中には、結構疑り深い人もいるので、集合場所は集会場の前に決め、全員揃ったところで道を避けて公園に入り、寺の南側の不浄山の縁を抜けて墓地に入った。
不浄山とは、産後の物を捨てる場所である事を後で知った。
その夜は月も無く真の闇が辺りを包んで、何が出て来てもおかしくない雰囲気が漂い、まるで亀のようにノロノロと、福田家の墓地の方へ向ったが、今と違い、夜の暗さは文字通り墨を流したようで、鼻をつままれても分らない。
目的が目的だけに懐中電燈を使うわけにもいかず、両手を前に突出して、まるで地面を這うように進む。
昼間はともかく、あの頃の夜の墓地の恐さは、とうてい言葉では言い表す事など出来っこないのだ。
しかも墓地には独特の匂いがあって、それがまた恐さを倍増させ、おまけに吹き渡る風の音や、何やら知らぬ気味の悪い音が絶え間なくするので、皆全身の筋肉を、これ以上力めない程強くこわばらせているから、じっとしていても疲れて疲れてどうしようもなくなるのだ。
30分もたたない内に、最初の泣きが入り、それにつられて次々と我慢の限界を越えた連中が、完全にパニクってしまうと、もうどうにもならなくなる。
全員が大声で喚きながら全速力で本堂を目指し、そこから石段を駆け降りて一目散で逃げ帰る事になる。
結局、いつも結果を知る事無く終ってしまうのだ。
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- 平成15年11月6日(木曜日)
【雨のち晴】
「マンガじゃねえんだから、そんな事出来っこねえよ」
「んじゃあ、出来るか出来ねえか、やってみればいいんじゃねえか」
という訳で、さっきから出来る出来ないで大議論になっている懸案を実行する事になった。
それは、どんな事かというと、棒の先にスルメの切れ端をぶら下げて、犬か猫の体に縛り付け、スルメがちょうど鼻先にくるようにすると、目の前の御馳走を食べたさに、前に進むはずだと、私は主張した。
それに対して、皆は絶対にそんな事はないと譲らないのだ。
我が家の三毛猫のミーを台所で捕まえて連れて来ると、早くも何か悪さをされると悟ったのか、手を振り払って逃げようとするのを、無理矢理におさえつけ、ギャアギャア喚くのも構わずに仕掛けを取り付けて放してやると、思った通り鼻先のスルメを取ろうと、前に前にと進むではないか。
その様子があんまりおかしいので、皆腹を抱えて笑い転げると、棒の先が壁にぶつかり、力がかかったひょうしに、口にくわえられる状態となってしまった。
ミーは自分がおちょくられた事を知り、ありついたスルメを食べる最中、ずっと私達を睨みながら唸っていた。
猫では見事成功したので、今度は犬で試そうという話になり、近所の青空ポン太のような、ヌボーっとしたポインターのマックを騙して連れて来て、ミーと同じ仕掛けを取り付けた。
マックは多勢の子供達に囲まれ、おまけにかまってもらえるのが嬉しくて、抵抗するどころか、尻尾を振って協力してくれた。
しかし、いざスルメが自分の鼻先にぶら下がると、あまりの幸運を信じられず、スルメと子供達を交互に見ていたが、多分食べてもいいと判断したのか、くわえようと前に進んだ。
いくら進んでも御馳走が逃げて行くので、始めはクークーと悲しげな声を出しては、私達に助けを求めていたが、しまいには、ウーッと唸ったり、ワンワンと吠えながら完全に頭に来た。
辺り構わず駆け回り、地面を転がったりと半狂乱。
その内全速力で公園の方へ駆け去って行った。
皆、涙を流しながら笑い転げ、その内に別の遊びをしている時、血相を変えてクンボーの親父がこっちにやって来た。
マックはクンボーの家の犬なのだ。
可哀想に、クンボーはその時親父に背を向けていたので、その後に起きる悲劇に気付こうはずはなく、いち早く逃げ出した私達の後ろから、クンボーが親父にぶっ飛ばされる音と、クンボーの殺されそうな悲劇が追い掛けて来た。
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- 平成15年11月5日(水曜日)
【晴】
午前6時30分、家を出て画室に向う。
ほとんど人通りはない中で、この時間に通学する子供達の姿がちらほらとあるが、早朝練習でもあるのだろうか。
市民会館の前まで来ると、既にボランティアの人達が辺りを掃除しているのに出会い、挨拶を交しつつ通り過ぎ、やがて相生町にさしかかると、例の名物納豆屋さんが、いつもの美声を響かせながらこちらに走って来る。
すれ違いざまに、お互い「おはようございます」と、かなり大きな声で挨拶を交し、助戸町から山川町をへて毛野新町、そして大沼田町へと進み、午前7時10分少し過ぎ、アトリエに到着する。
カーテンを開けると、いつものように大家さんが待っていた。
チビ達のケージの掃除を始めると、表からいつもの声が飛び込んでくる。
「ぴょんぴょん、ぴょんぴょん」
今日はおばあちゃんと一緒だが、そのおばあちゃんが、まだかなり若いのが何となく面白い。
今朝はチビクロにいちゃんをお相手に遊んでもらった。
食事を終えた大家さんが、縁側に上がって、チビ達のケージのすぐ近くに寝転ぶのを見て驚いていた。
午前10時から正午まで野外レッスン。
午後商工会議所の共済担当職員来室。
午後3時、大家さんを目の仇にしているノラとその子分が、大家さんを追い回す。
午後5時10分、チビ達の寝支度をして帰路につく。
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- 平成15年11月4日(火曜日)
【晴】
午後、小さな女の子が母親の手を引いてやって来た。
いつもはおばあちゃんが連れて来るので、迷わずに入って来るのだが、初めてのお母さんは恐縮の極みといった様子であった。
ちょうど土間に若い見学者が来ていたので、チビクロにいちゃんのケージを、表のビーチパラソルのテーブルに乗せてあげた。
しばらくの間、キャアキャア言いながら遊んでいたが、その内にケージを中に持って来てくれた。
どうやら、この近くの若いお母さんにとっては、チビ達の存在はまたとないものになっているらしい。
歩きでやって来るお母さん、自転車でやって来るお母さん、車でやって来るお母さんと、まちまちであるが、大抵はジーンズにスニーカー、そして帽子を被ったスタイルなのが面白い。
お相手はチビクロにいちゃんかスカンクにいちゃんに決っていて、ケージを土間の所まで持って来て、時には網を外してやる。
大抵のお母さんは、チビ達があまりお行儀が良いのと、大人しい様子に驚いている。
でも、「下さい」と言われても、もう決してやらないつもりだ。
(以下インターネット担当者)
父は「もうやらない」と言ってますが、実際はミニうさぎ喜んで差し上げます!
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- 平成15年11月3日(月曜日)
【曇】
人間なんてワガママなものだと、つくづく思う。
クロタンとチビねえちゃんが貰われて行くのを有難いと思う反面、あ〃やっぱりやるんじゃなかったという気持ちがある。
当人達だって、家に居るよりも、広いスペースでのびのび生活できる方が幸せに決っているのだが、それでも気になって仕方がない。
「手に余るので返します」なんて言って来たら、喜んで引き取ってしまうのだが、まず言って来ることは無いだろう。
皆、とても良い人達の所に貰われていったのだから、喜ばなくてはならないとは思うものの、飼えるのなら、少し位無理をしても、一緒の方がいい。
東京の娘もメールでそう言って来たので、もうやらないと返信したら、気持ちがとても楽になった。
もう少ししたら、クロタンの所に様子を見に行ってみよう。
田沼町に行った「おねえちゃん」や、他のチビ達の音信も尋ねてみようと思っている。
グレが少し元気になったようだ。
今度はクロ母さんを画室に連れて行こう。
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- 平成15年11月2日(日曜日)
【晴】
昨夜グレの様子がどうも良くないようだ。
エサも水も、ほとんど口にしない。
もしかしたら口か歯を痛めてしまい、食べたくても食べられないのかもしれない。
ケージから外に出してやると、割合元気に遊んだが、長い紐のようなフンをしていたのが気になり、少し様子を見ている内に、段々とフンの形が整ってきた。
ずっとケージの中で過ごしているので、画室の庭で遊ばせるために、今朝は小さなケージに入れて、自転車の荷カゴの上に乗せ、ゆっくりと出発した。
少し揺れても不安そうなので、たえず声を掛けながら、なるべく揺らさないように走り、時々休んだり歩いたりして、ようやく画室に辿り着いた。
早速庭の遊び場に出してやると、生まれて初めての経験に、しばらくは固まったまま。
その内にオドオドと動き出し、しまいには中を駆け回る程元気になった。
午後もう一度外に出してやり、夕方少し早目に帰路についた。
頂き物のキャベツ四個とネギ一束をスケッチバックに詰めて背負い、ピーマンときゅうりとミニトマトは前の荷カゴに入れ、その上にカバンを置き、更にその上にグレのケージを乗せて紐で固定すると、少しふらつく程になった。
グレは不安なのか、頭をこっちに向けて私の顔から目を離さない。
休みなく穏やかに話し掛けながら、なるべくケージを揺らさないように進むのは本当に大変。
道々声を掛けてくる人にもロクな対応が出来ず、汗まみれでようやく家に辿り着いた。
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- 平成15年11月1日(土曜日)
【晴】
午後に旧友とその娘さんと子供達が、チビ達を養子に貰うために来室する。
色々迷った末に、クロタンとチビねえちゃんが良いという事になり、持ってきたカゴに入れて車に乗せた。
向うは農家で庭も広いし、エサの野菜はよりどりみどり、娘さんのご主人が特大のケージを作って、チビ達の到着を待っているのだそうである。
画室の庭に作ってある遊び場を見た娘さんは、同じものを庭に作ってもらい、一日中遊ばせてやるというのを聞き、この人達なら、あげてもいいと思った。
一緒に来た子供達は二人共女の子で、とても大人しくて優しそうなのが、チビ達にとって安心なのも幸いだ。
飼うのではなく、家族として共に生きて行くつもりでないと、とてもデリケートな生き物なので、直ぐに死んでしまうからと、少し脅し半分だがノウハウを説明し、人が快適と思う事をしてあげ、人が辛いと思う事は避けるのが基本である点を強調し、何かあったら連絡してくれるように頼んで送り出した。
■アトリエ雑記は平成12年12月15日からスタートしました。
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