アトリエ白美「渡辺肖像画工房」 渡辺晃吉
- 平成15年4月30日(水曜日)
【曇】
またひとつの戦争が始まり、そして終り、また新しい戦争が始まり、やがて、それも終り、息つく間もない内に、また戦争が始まり、おびただしい人命と、おびただしい人生と、おびただしい家族と、おびただしい未来を打ち砕いて、その戦争も終り、硝煙の臭いが消えぬ内に、もう次の戦争の兆しが見え隠れしているのを感じる時、人間とはいったい何なのだろうと、問わざるを得ないのは、私だけではないだろう。
戦場の様相がリアルタイムでテレビ画面に映り、世界中の人々がそれを観ながら食事したり、コーヒーを飲んだりしていたかと思うと、体の芯が冷たくなってくる。
爆発の閃光と轟音の下には、恐らく幾十人かの人間が苦悶の内に生命を絶たれているというのに、哀しい事に、その痛みも苦しみも共有できないのが人間の本質なのだろう。
いつの間にか4月が終り、明日からは5月となる。
月が終るのと同じように、遥か中東の彼方で進行している戦争も、文字通り終りを遂げてもらいたいものだ。
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- 平成15年4月29日(火曜日)
【晴】
高校時代の山岳部の合宿で、この季節にはよく足尾の山に入った。
両毛線桐生駅で足尾線に乗り換えて、通洞(つうどう)か原向(はらむこう)で降りるのだが、あの頃はまだ蒸気機関車が、銀河鉄道999のような客車を引いて、新緑の渡良瀬渓谷に沿って、ゆっくりと上って行くのである。
駅を降りると、庚申山に向うルートをとってパーティを進ませることになる。
その頃の道は沢沿いの文字通りの登山道で、沢の水音と野鳥のさえずりと、自然に歩調が合った山靴の音と、荒々しい呼吸音が深山の静寂の中に広がっていく。
沢の両岸は目の届く限り山吹の花が咲乱れ、頭上は、遥かな高みに青空が狭く見えている。
谷が深く長いためなのだが、実は、沢から200m〜300m上方に、バスがやっと通れる程の街道が、銀山平という所まで通っている。
銀山平が、道程のほぼ半分位だろうか、そこに至るまでに、幾つかのゴースト・タウンを通る。
銀山平から庚申山荘までのルートは、自分の足を頼るしかなくなり、古くは修験者が行き来した同じ道を、ひたすら山頂を目指すのだ。
山荘近くになると、道の両端は驚く程丈の高い杉ゴケに覆われて、不思議な美しさが辺りを包み、幽谷の霊気さえ感じるのだった。
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- 平成15年4月28日(月曜日)
【晴】
午前9時、市役所で電動バイクのナンバーを貰い、自賠責保険の書き換えのために、保険会社を訪れる。
全ての手続きを完了し、画室に戻ると、今日入院した兄に付添って行った義姉が、病院から帰って来たので様子を聞く。
余病のため手術を断られる恐れもあるので、かなりの不安を抱えての入院となった。
肺繊維症という病気のため、腰痛の手術でも生命の危険があるのだという。
今回の入院も、手術の可能性を検討するための、言わば検査入院で、そのまま何もせずに退院をしなければならない場合もあるのだそうだ。
本人は激痛に耐える日々を送っている。
だから、生命と引換でも手術を切望しているが、その希望が叶えられるのはかなり難しいようである。
もう少し成り行きをみるしか仕方がないようだ。
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- 平成15年4月27日(日曜日)
【晴】
適当な獲物が見付ると、そこは皆慣れたもので、素早く作戦を立てて物影に身を潜めながら標的に近付いて行く。
そして、リーダーの合図で一斉に弾を射ち込むのだが、弾は紙製なので万一にも相手にケガを負わせる事はないとはいえ、唾で練り固めたようなものが、何10発も顔に当った場面を想像すれば、およそ結果は知れたものだ。
しかも標的の大部分は、アベックの女性の方だから、まるで蜂の巣を突付いたような騒ぎとなるのが普通で、天地を揺るがす悲鳴を背に、全員が蜘蛛の子を散すように逃げ去る時の快感は、経験をした者でないと分らないだろう。
思えばあの頃の悪ガキ共の遊びは、今の基準で計っても、相当に悪質だったかもしれない。
しかし、日頃の悪行の報いを受ける事も時にはあるもので、ある時、米兵のアベックを攻撃した時、連れの一人が逃げ遅れて捕虜になった事があった。
そいつは両手両足を縛られて木から吊るされ、顔中を涙と鼻水でグチャグチャにして許しを請うのだが、辺りが薄暗くなるまで許されず、両手いっぱいの菓子を代償に解放された時には、まるで藁人形みたいなものに変り果てていて、とても生きている人間とは思えなかった。
そんな状態の仲間を何とか騙して、貴重な菓子を掠め取ろうとするのだから、今思えばとんでもないガキ共だった。
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- 平成15年4月26日(土曜日)
【晴】
吹矢の長さは、短いもので30cm、長いものになると1m近くにもなる。
しの竹の両端の節を切り取った後、スポークや針金を使って中をきれいにする。
それを少し太い竹を使って継ぎ合せ、ノリでしっかりと止めるのだ。
その時に使うノリは、もうその当時文房具店で売っていたセメダインのようなものは使わず、ごく普通の植物ノリを使うのがコツであった。
セメダインを使うと、隙間から中に漏れたものがなかなか取れずに、吹矢の性能を著しく悪化させるからだ。
こうして継いでいくと、理屈ではいくらでも長くなるのだが、子供の肺活量では、せいぜい1m位が実用の限界であるらしく、チビは30cmでも目いっぱいというのが現実であった。
あの頃の子供達にとって、吹矢程度を作る事など朝飯前で、余程不器用な奴でない限り、人が作ったものを使う事はなかった。
この吹矢の口径は約5mmというところだろうか。
弾にする紙は、大抵の場合新聞紙なのだが、時々和紙などという、洒落たものを持ってくる奴もいた。
和紙の弾は硬くしまって射程距離が伸びる。
子供達は自分の吹矢の口径と癖に合った量の紙を上手に加減して、口の中でクチャクチャと噛みながら標的を捜す。
この季節、獲物のアベックは、あちこちの木陰に潜んでいて事欠かない。
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- 平成15年4月25日(金曜日)
【雨】
桜祭が終り、五月のつつじ祭までの僅かな間は、足利公園を訪れる人の数は、僅かに少なくなるが、それでも、公園中に吊るされたボンボリや、ヨシズ張りの茶店が醸している雰囲気にひかれて、平日でも結構な人出があったものだった。
子供の耳で聞いても、決して良いとは言えない音を出すカーキ色で朝顔のオバケのような形のスピーカーからは、休む事無く古い歌謡曲が流れていて、それがまた、かえって人々の心をウキウキさせていたのかもしれない。
学校から帰った子供達の中で、運悪く親に捕まって、家の用事や、子守り、お使いに駆り出されずに済んだ者は、息を切らせて公園に駆け上がり、いつもの場所に集合すると、早速今日の悪巧みを始めるのだった。
この季節で一番の遊びは、しの竹で作った吹矢に、よく噛んだ紙の弾を詰めて、木陰でイチャつくアベックの、大抵は女の方の顔目掛けて打ち込むという、はなはだけしからぬものだった。(次下後日)
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- 平成15年4月24日(木曜日)
【晴】
我が家の車の購入先は堀越モータースという所なのだが、この会社が今時では珍しい程に良心的で、実にきめの細かい対応をしてくれるので、本当に有難いと思っている。
堀越モータースは、職人肌の社長と、それを側面から支える奥さん、そして実務の中心を担うご子息と、非常に優秀な数人のメカニックと事務員という、極めて家族的なスタッフによって運営されているので、ユーザーの要望に対して、行き届いた結果を生み出せるのだろう。
その上、何より社長を始め皆さんの人格が本当に良いのが、時々お尋ねした時に痛感する。
どんな時代でも、最後には誠実さが勝利を生むのだろう。
これまでもそうであったが、これからも車に関する事は堀越モータースをすすめようと思っている。
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- 平成15年4月23日(水曜日)
【曇】
今日は出品作品搬出のため、午前10時少し過ぎに足利を出発し、上野に向う。
東北自動車道から首都高に入り、扇大橋で降りて上野公園を目指す。
途中で何度か道を間違えたが、午後3時20分どうにか目指す美術館に到着し、搬出手続きを済ませた直後、画壇の最高責任者と親しく話をする機会を得て、お互いに名刺を交換し、美術館を後にする。
大きな渋滞にも会わず、来た道を逆に辿り、午後6時無事に画室に帰る事が出来た。
公募展への出品は本当に久し振りであったので、結構気疲れをしているのが自分でも分る。
休む間もなく次の作品制作に取り掛らなければならないが、やればそれなりの成果があると信じている。
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- 平成15年4月21日(月曜日)
【晴、終日強風】
朝の内は穏やかであったが、午前10時頃から次第に風が強まり、その内に地を揺るがすような突風が絶え間もない程に吹き荒ぶ、文字通り春の嵐となった。
古い建物の画室は、強風をまともに受けて、あちこちから隙間風が吹き込んでくる。
ガラス戸は今にも外れそうな音を発て、土間に展示してある茶掛けはバタバタとあおられて、かなり危険な状態になっている。
午後3時少し過ぎに、仕方なく土間の入口を閉め、代りに脇のガラス戸から出入りするようにする。
この風で、僅かに残っていた山桜も、完全に散った事だろう。
庭のフキの群生を眺めると、風は今東から吹いているが、さっきは反対に西からだった。
この調子だと、帰りは向い風になるだろう。
案の定、自転車を降りて歩かなければならない程、凄い向い風となった。
ようやく家に辿り着いてみると、何と屋根のアンテナが強風のために倒れていた。
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- 平成15年4月20日(日曜日)
【曇のち雨】
少し雨粒が顔に当る位のコンディションの中を画室へ向う。
何とか着くまで降らずにいてくれと祈りつつ、我が愛車の電動バイク「第二白美号」にムチを打つ。
画室のそばまで来ると、母屋の前に何台もの車が停車して何か騒がしい。
聞けばこの地域の鎮守の春の祭の準備で、朝早くから皆が集っているのだそうだ。
無事に春を迎えられた事への感謝と、来るべき収穫への祈りを込めて、今年も人々が集い、神楽が奉納されるのだろう。
そう云えば今日は復活祭だ。
この祭も、元は日本のそれと同じ原点を持っていたものだと聞く。
それがキリスト教に取り入れられて、イエス復活の祭として今に至っているのも、感慨深いものがある。
雨のせいか少し肌寒くなってきたので、暖房に火を入れる。
やはり春の盛りか、すぐに汗ばむ程になり火を止める。
次の仕事はコンテ画なので、イーゼルを南の縁側に移す。
毎年の決った作業で、この次は北側にスダレを垂らす。
その頃になると、もう山の緑は濃くなっているだろう。
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- 平成15年4月19日(土曜日)
【晴】
午前9時塾生が来室し、レッスン開始。
岩絵具による日本画の課程に入って、今日が三回目となり、少しだが、ニカワや岩絵具の扱い方にも慣れてきたようだ。
モチーフは前回と同じ水仙で、構図や地色などに前回の経験を生かした結果が出ている。
息が詰るような二時間が過ぎ、来週までの宿題を携えて塾生が帰った後に、草刈りの仕上げのために庭に下りると、東京の娘からメールが入る。
何度かのやりとりの後に、庭の焚火も終わりに近付き、辺りに薄闇がたち込めてきた。
今日は風がなかったので、二月に剪定した梅の枝を燃やす事が出来て、ホッと一息であった。
上に上がり、パレットを掃除して明日に備え、帰路につく。
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- 平成15年4月18日(金曜日)
【晴】
午前7時30分画室の朝の準備を済ませ直ちに草刈り開始。
この時期にしては驚く程の草の量である。
オーバーワークにならないように慎重に作業を進めるが、初夏なみの暑さのおけげで汗だくとなる。
作業を進めながらも、公募展への出品結果が気になって仕方がない。
今日あたり何の連絡もなければ入選している可能性があるが、もしも通知が郵送されてくれば、それは落選か入賞の知らせなのだ。
従って、当然落選の可能性が高い訳だから、自宅から何の知らせもない事を願いながらの作業である。
電話が鳴る度にビクッとし、別の用件と知るとホッとするという具合で、身心共に誠に良くない。
午後5時少し前に作業が一段落し、この時間で通知がないとすれば、おそらく入選しただろうと、随分勝手な解釈をして着替えもそこそこに帰路につく。
今日はやっぱり少しおかしい。帰る途中で携帯を画室に忘れた事に気付いた。
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- 平成15年4月16日(水曜日)
【晴】
午前6時少し過ぎに足利を出発し、東京に向う。
所属画壇の公募展への搬入のためであるが、当初運送屋による搬入のつもりであったのに、それでは仕上らず、直接搬入に変更となった。
おかげで久々に東京の下町の雰囲気を直に味わう事が出来た。
谷中、上野、日暮里辺りは、何となく江戸の昔の雰囲気を残した、本来の東京の風情が漂い、都心部のそれとは一味違う親しみがある。
応募の結果は分らないが、不本意な場合でも謙虚に受け止めよう。
午後1時少し前に帰り、一息入れて念願の庭の草刈りを始めたが、ノビルがあまりに多いので、つい摘んでしまいなかなか捗らない。
少しのつもりが、かなりの量を採った。
多分今夜の食卓の隅を賑す事になるだろう。
カワラケツメイの中に、アカザの小さな茎が隠れていたので、別の場所に植え替えて、少し増やす事にする。
それにしても今日は暑い。
昨日は暖房を点けていた母屋の、冷房の室外機が音を発てているのを耳にすると、季節の変化の早さにただただ驚くばかりである。
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- 平成15年4月15日(火曜日)
【曇時々雨】
朝方銀行の窓口に立ち寄ったが、最近の銀行は本当に礼儀正しくなり、かっての尊大で横柄な態度などもうどこにも見当たらないのではと思ったが、ふと視線を奥に移すと、こちらに顔を向けて机に座っている男子行員と目が合った。
まるで上から見下すような態度を慌てて改めて、取って付けたようなへつらい顔になったのが実に滑稽であった。
横柄といえば、ついこの間までの役所の窓口や私鉄の駅員、東電や電電公社の社員達の態度の悪さは、およそ言うべき言葉がない程に酷いものであった。
マナーや礼儀など、どこか別世界の言葉で、誠意ある対応は罪悪と思っているとしか考えようがない程の、無礼で常識外れな連中ばかりであった。
そんな様だから、退職後は極めて狭い世間でしか生きられず、大抵は65歳までに死亡したというのも当然の成り行きだったろう。
現在は流石にそんな馬鹿はほとんど姿を消して、あの郵便局(郵政公社)でさえ、ありがとうございますと言う時代になった。
「俺あ、人に頭下たくねえから郵便局に入ったんさあ」
昔、町内を配達していた局員の口癖であったが、あの頃の郵便局は、人を人と思ってはいけないと教育していたのだろうか。
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- 平成15年4月14日(月曜日)
【晴のち雨】
おすがちゃんは、張りぼての日本髪のカツラを被り、体の隅々に様々の我楽多をぶらさげて、こま下駄をカラコロと鳴らしてやって来る。
我楽多は大抵光り物で、中には正月飾りや恵比寿様のお宝も立派に役目を果している。
背中には何が入っているのか、大きな風呂敷包みを背負い、いつもコウモリを差しているのが他の名士達と違う。
彼女は市内の神社仏閣を巡回して、行く先々で祈りを捧げるのを仕事としており、我が町緑町には八雲神社という、有名な神社があるので、そこがお目当てなのである。
青空ぽん太別名天文学者は、すらりとした長身で坊主頭にどんちゃん眼鏡を掛けて、座敷ぼうきを小脇に抱え、素足に下駄ばき、膝より少し下位の丈の浴衣を着て、常に天を仰ぎながら、ゆっくりと町を流して、いずこともなく去って行く。
フーやんはいつも何かに文句をつけながら、背を丸めせかせかと通り過ぎて行くオバさんだが、子供達が「フーやん謝れ!」と声を掛けると、「謝ればいんだんべ謝れば」と言いながら、地面に正座して額を打ち付けて謝る。
だからいつも眉間に傷があるのが痛々しい。
それでも「フーやん踊り見せて!」とせがむと、それは見事な歌と踊りを披露してくれるという一面もあり、子供達にとっては謝るフーやんより、踊るフーやんの方が好きだった。
勿論、歌も踊りもデタラメなのは言うまでもない。
かってどこの町や村にも、今で云う知的障害者と呼ばれる人達がそれなりの役目を果しながら社会にとけ込んでいたような気がする。
中には子守りが大好きで、行く先々でお母さんの人気者だった人もいた程である。
いつの間にかそんな人達の姿が町から消えて、代りに何か得体の知れないものが徘徊するようになった。
これも時代なのかもしれない。
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- 平成15年4月13日(日曜日)
【晴のち雨】
この頃の天候のずれ込みのせいか、大望山をはじめ周囲の山々には、まだソメイヨシノが咲き残っているのに、その上の方を見ると山桜が開花し始めている。
平野部では桃の花の濃いピンクをバックにりんごの白い花が鮮やかに咲き零れ、野はタンポポの黄色、カキドオシやウツボグサの薄紫、ナズナの白など、豊かな色彩が躍る。
旗川や渡良瀬の土手に行くと、目の届く限りからし菜の花が視界を埋め尽して、多勢の人達が若菜を摘んでいる光景がのどかである。
つい先日まで満開の梅は、今えんじ色に染まって、数ヶ月後の結実を暗示している。
冬から早春にかけての主役であった椿の花は、まだあちこちで赤や白の花をたわわにつけて健在だし、あんずやすももも所々で慎ましく咲いているのも美しい。
山腹は既に新緑の気配に包まれ、宵の薄闇の中で微かに浮き上る情景に思わず息を飲む。
今日は統一地方選挙の投票日。
会場に向う人の足取も、なぜかゆったりとしている。
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- 平成15年4月12日(土曜日)
【晴のち雨】
夜寝る前に電動バイクの充電を始めると、朝にはちょうど良い状態になっている。
家から画室までの約8kmを走り切ると、バッテリーは約半分の容量を放出して、まだ充分にゆとりを残しているが、すぐに充電をして帰りに備える。
思った以上にスピードが出るので、運転はかなり慎重になってしまうし、形状が人目を引くところから、なるべく人通りの少ない道を選びながら走らなければならない。
それでも信号待ちの時などに、必ず声を掛けられる。
下り坂や平地を走行する時には、惰性を生かしてかなりの距離を稼ぐのだが、その時には自転車の惰力走行そっくりの音がする。
前を行く人はその音を聞いて、当然自転車が自分を追い越して行くものと思っているのに、実際には子供のオモチャのようなものが、大の大人を乗せて自分のそばを走り抜けて行くので、びっくりして思わず声を出してしまうらしい。
けたたましい笑い声を背中に受けながら、文字通り冷汗をかいてしまう毎日である。
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- 平成15年4月11日(金曜日)
【晴】
今はもうほとんど見る事がなくなったものの(ひとつに)、小学校の校庭に立つ二宮尊徳の石像がある。
勤労勤勉の象徴として、いつも子供達を見守り続けていたあの石像は、いったいどこに行ってしまったのだろうか。
小学校に入学した直後に、担任の先生に引率されて尊徳像の前に座り、その由来を説明され、「皆さんも一生懸命勉強して下さい」と、お定まりの説教を貰って、とてつもなく緊張した事を覚えている。
石像のそばの桜が、辺り一面に花弁の絨毯を敷いて、なお散り止まぬ花吹雪の中、春の陽は暖かかった。
昭和23年4月、足利市立西小学校入学、クラスは1年4組、クラスカラーは藤色、担任は佐藤幸雄先生。
入学の年に、湯川秀樹博士がノーベル賞を受賞し、敗戦直後の日本中が喜びにわいた。
桜色と藤色、最初の色との出会いである。
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- 平成15年4月10日(木曜日)
【晴】
「あのさあ、あそこの毛は仕様がねえから(いやらしいから)生えてくるんじゃねえよなあ。誰だっていつかは生えてくるんだよなあ」
(あ〃こいつはもう生えてきてるんだな)と思いながらも、「そんなの決ってるじゃねえか。男だったら誰だっていつかは生えてくるんだよ。仕様がねえから生えるんだったら、おめえなんか幼稚園で生えてるじゃねえか」
足利市立西小学校5年4組の中でも、とりわけ悪ガキ集団の、とある初夏の日の下校時の事である。
眉間にシワを寄せながら心配そうに馬鹿な質問をしてきたのは、意味じくもその名がH.H.という奴であった。
でも、こいつはそんな心配をする位だから、自分でも自分の事がよく分っているのだろう。
仲間の中でも群をぬいた女好きで、それはクラスの女子達も周知の事実であった。
その日以来、H.H.はもう生えているという評判が、誰からともなく全校に広まり、H.H.はしばらくの間泣きながら学校に来ていたが、学校にいる間に、少なくても10回は「生えてるくせにでけえ面すんな!」と言われれば、誰だって泣きたくなると思う。
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- 平成15年4月9日(水曜日)
【晴、西の風】
「吟遊詩人の宿」という水彩画の作品がある。
作者の名は忘れたが、アメリカの水彩画家であったと思う。
粗末な宿の一室の情景が、詩情豊かに描かれた秀作である。
画面の右手の窓から灯の消えた部屋に月光が差し込んでいる。
月の光に照らされたテーブルの上には赤いチェックのテーブルクロスが敷いてあり、古びた一本のギターと、少し大きめのワインボトル、そして燭台が置いてある。
正面の壁には古びたカレンダーが貼ってあり、その脇に詩人のショルダーバッグとつば広のよれよれ帽子が掛けられ、テーブルの右には杖が一本立て掛けてあった。
たったそれだけの画面なのだが、旅の果てに、しばしの安息を得て床に就いている吟遊詩人の、静かな寝息が聞えてくるような気がする。
静寂な時間が流れ、夜は深けて闇は濃く、月は冴えて中天にあり、地は銀色に染まり濡れ光り、風が時折窓を鳴らして通り過ぎていく。
宿は灯を落して夜の帳の中に沈んで、生きる者全てビロードの眠りに包まれて安らいでいる。
一枚の絵が人に与えてくれる喜びは、尽きる事がない。
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- 平成15年4月8日(火曜日)
【雨】
イラク戦争のニュースを聞いている内に、ある人物の事を思い出した。
その人は子供の時に、父の元に住み込みの修行のためやって来て、以来結婚して独立するまで、家族と寝食を共にしたそうであるが、彼は軍隊に召集された事で、本人も知らなかった才能を発見するのだったが、典型的な平和主義者の彼にとって、その才能は皮肉にも抜群の射撃能力であったという。
彼はそのために、入隊直後狙撃兵に抜擢され、同期の新兵から見たら、夢のような特別待遇を受けていたそうであった。
戦場での彼の任務は、敵の機関銃士と指揮官の狙撃であったが、味方の最前線の更に前方に潜み、数時間はおろか、丸一日近く息を潜めて狙撃の機会を待つのだそうである。
その間、大小便は垂れ流しでいなくてはならず、もし用を足そうと身を動かせば、逆に敵の狙撃兵の餌食になってしまうという。
狙撃兵が最も危険な時は、銃の引鉄を引いた直後で、撃った瞬間身をひねってその場を退避しないと、ほぼ確実に敵兵の狙撃の的になるそうである。
事実身を引いた直後に、十中八九は敵側からの弾が着弾するという。
そんな彼も無事生還し、銃とは縁の無い生活が戻った訳だが、いつだったか、兄の空気銃を手に取って、数発の試射後、百発百中の腕前を見せてくれた事があった。
皆の賞賛のどよめきに照れながら銃を返した彼は、淋しそうに「こんなもので遊ぶんじゃねえよ」と呟くように言った。
その人は「まさどん」という名で呼ばれていた。
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- 平成15年4月7日(月曜日)
【晴】
父の知り合いで仕事の上では弟子に当る人に、「ボロよし」と呼ばれた人がいた。
その名に相応しく、普段の様子は乞食を負かす程で、ヒゲは伸び放題、着ているものは垢で光っている。
それでもこの人は琵琶の名手。演奏会の時は堂々とした正装で、凄い演奏を披露するのだ。
昔の職人の中には、身に付けた技術以外に玄人はだしの芸を持った人が数多くいた。
琴、三弦、尺八、能楽、日本舞踊、長唄、小唄、剣舞、詩吟、ギター、マンドリン、アコーディオン、ヴァイオリン、トランペット、サキソフォン、クラリネット、そしてピアノ。
絵画では、山水画、禅画、俳画、日本画、水彩画、油絵とおよそないものはないといっても過言ではない。
囲碁、将棋は勿論、書道、花道、茶道など名取りがごろごろしていた。
変り種としては、英語、仏語、ロシア語、インドネシア語、中国語など、語学の天才達の数も、決して少なくなかった事だろうか。
そのほとんどが戦争の置き土産のようなものだという。
人間は、思っていたより、面白い存在かもしれない。
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- 平成15年4月6日(日曜日)
【晴、西の風】
朝から強風の吹き荒ぶ日曜日となった。
花散らしにならなければ良いのだがと思いながら、道々様子を見たが、どうやら心配はなさそうだ。
この時期は木蓮やこぶし、そして椿、レンギョウなどが桜に負けじと咲き誇り、下を見ると水仙やパンジーが風に揺れている。
昼少し前に母屋から米を少し盗んできて、庭で野生化しているネギと、いたる所に生えているノビルを採ってきた。
ネギは刻むと、青葉の中から透明な濃い汁が溢れてくる。
白い所も青い所も細かく刻み、醤油をかけておかずにする。
ノビルはよく洗って青い所も細かく刻んだら、味噌をまぶしてそのまま食卓に乗せる。
壊れた圧力ナベで炊いた飯は意外に美味い。
炊き上った飯にネギとノビルを交互に乗せて掻っ込むと、強烈な味が、強烈な生命力を暗示するかのように五感を伝わってくるのが何とも快い。
午後4時頃、塾生志願の年配者が来室する。
現在は定員いっぱいである事を伝え、次の機会を待ってもらう。
聞けば水墨画を嗜むが、デッサン力を育成する必要を感じているのだという。
頭の下る思いで、30分程お話を拝聴した。
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- 平成15年4月5日(土曜日)
【雨】
ほぼ満開の桜が、昨日からの冷雨に濡れ光り、並木の対岸に作られた散策路をゆっくりと進むと、眼の高さに広がる枝が風に揺れて、まるで長い絨毯の脇を歩いているようである。
今日は土曜日なので車の通りも少なく、比較的気楽に雨の道を行く事ができるのがありがたい。
水溜りのある所だけは、車の通過に神経を使わないと、水を被る事になるので充分に注意する。
この辺の人達は老若男女全て、自分の車が通行人に水を跳ね飛ばす事などに一切気を使う事は無い。
むしろ進んで跳ね飛ばしているとしか考え様がない人さえいる。
暗くなってもなかなか前照灯を点けないし、点けると上向きのままで対向車を無視して走っている。
大衆の人間的資質の著しい低下現象は、単に交通マナーの低下などという問題以上に、悪質な犯罪の一般化を助長して、極めて危険な社会を作り出してしまう恐れがあるそうであるが、既にその傾向がいたるところに見られる事に、多くの心有る人達は気付いているのだろうが、かといってどうすれば良いのか全く分らないというのが正直なところだろう。
人間の善への復元力を信じるしかない。
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- 平成15年4月4日(金曜日)
【晴】
兄の片身のバイクがポンコツになり、再び自転車での通勤を続けていたが、時間的な問題もあり、バイクを買った。
バイクといっても充電式の電動バイクで、価格も一万円台という代物。
ほとんどサドル付きスケボーといったデザインで、冗談の塊みないな印象である。
朝の内に近くの銀行に乗って行ったら、通りすがりの人達の好奇の的にされてしまったようだが、意外にパワフルでスピードも自転車に負けないのに驚く。
夜いよいよ家までの長い道程に初挑戦する。
ライトを点けての約9kmの走行に、バッテリーの容量は、どこまで期待できるのかを試す時がきた。
午後6時少し過ぎ、宵闇の中をいよいよ家に向けて出発する。
モーターの軽快な回転音を耳にしながら、緩い下り道を滑るように走り、広い道路を避けて、脇道を選びながらの走行である。
少し道が悪いとすぐにバイクのスイッチを切り、手で押してもほとんど抵抗がなく、むしろ自転車より軽い位である。
バッテリー残量が3分の2以上あるのに、無事帰宅することができたのは実に意外であった。
明日の朝は少し早目に家を出てテスト走行してみよう。
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- 平成15年4月3日(木曜日)
【晴】
久し振りに徒歩で画室に向う。
途中コンビニの前を通ったらオデンの美味しそうな香りが鼻をくすぐり、ふとある人の事を思い出した。
屋台のオデン屋で非常に小柄であったところから、通称をチビオデンと呼ばれた地元の有名人の一人で、体型からはおよそ想像できない張りのある美声の持ち主で、八木節の名人であった。
春の桜祭から始まる、足利公園の長い祭の折々に開かれる素人演芸会では、いつも花形であった上に、どんな時でも素面でいたのを見た事が無いという大酒喰みでもあったようだ。
八木節は、足利の南を通る例弊使街道の八木の宿にあった遊郭の一人のお女郎さんが口ずさんでいた「口説き節」を、馬方の源太が今の八木節に創り上げたものだそうだ。
そのお女郎さんは、越後辺りから流れて来たというから、多分元唄はゆっくりとしたテンポであったのだろうか。
唄の中での「おおいさね」という合の手は、馬方が荷に喘ぐ愛馬を励ますための、「アオよ勇め」がなまったものだと聞く。
今年も花の下にいくつもの舞台が仕立てられて、昔通りの八木節が演じられる季節が到来した。
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- 平成15年4月2日(水曜日)
【雨】
朝目覚めると、外は雨であった。
おそらく夜中から降り続いていたのだろうが、いつになく蒸し暑かったのか、ビッショリと寝汗をかいて目を覚ました時には、それと気付かなかった。
数ある物音の中で、人の心を静めるという効果を考えると、およそ雨音に勝るものはあまりないのではないだろうか。
最近の防音密閉型住宅では、相当強い雨でないと室内まで音が入ってこないかもしれないが、かっての日本家屋は、騒音や雑音も少なかった事もあり、ほんの少しの雨が降っても、何となくその気配が家の中に忍び込んできた。
「しとしと」という語に代表される雨音を表現する言葉は、なぜか詩情に溢れている。
時雨は「さー」、驟雨は「ざー」、五月雨は「さらさら」、狐雨は「ぱらぱら」、
子供の頃、板戸の外の庇を打つ雨音を耳にしながら床に就くと、本当に心が安らいで、いつの間にか深い眠りに誘い込まれていったものであった。
子供のお古の白い雨合羽を着込み、5分咲きの雨桜の下をゆっくりとペダルを踏んで画室への道を行くと、雨の日ならではの様々の風景と色彩に出会う。
今日は4月2日、昨日東京に戻った娘の、大学2年の新学期第一日目である。
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- 平成15年4月1日(火曜日)
【晴】
昨日の昼に、タンポポを二株おひたしにしたが、食べ切れずに家に持ち帰ったところ、試食した家内が意外に美味しいので驚いたようだ。
タンポポはこれからが盛んに生えてくるので楽しみである。
今朝は画室近くの田のあぜを、よく見ながら歩いてみたところ、ノカンゾウ、アカザ、イタドリ、そしてセリが見付った。しかし残念なことにセリの群生地は下水の中であったので食用にはならないだろう。
オオバコも食用になるそうだが、あまりに雑草めいてる印象が強くて、未だ食べたことがない。
スカンポはいたる所に芽吹いていて、しかも既にかなりの大きさになっている。
ノビルはむしろ山菜の王者といえる程美味しいのだが、なぜかこの辺では誰も採ろうとしない。
多分仕立てるのが面倒なのだろう。大抵は他の草と絡み合っていたり、細過ぎて掴み所がなかったりするからだ。
ヨモギはそのまま食べることはなく、草餅にして楽しむが、これは全国的なのだろうか。
渡良瀬川や旗川の土手は、今、からし菜の花盛りである。
あちこちに菜の花を摘む人達の姿があり、春はまさにたけなわである。
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