アトリエ白美「渡辺肖像画工房」 渡辺晃吉
- 平成14年9月30日(月曜日)
【雨】
雨が降っていたのと時間帯が悪かったのとで、帰り路を少し変えて、市街地に入るとすぐにJR足利駅の前を通り、線路沿いの裏道を走った。
駅裏通りの例にもれず、足利もこの辺は飲食街になっていて、スナックやスタンドバー、中華料理店や居酒屋などがひしめき、独特の雰囲気を醸しているのだが、線路沿いの道に入ったとたん、あまりの寂れように少し驚いた。
以前は隙間なく建ち並んでいた店の大半が姿を消して、雑草の繁るサラ地になっているのがいかにも淋しい。
ゆっくりとバイクを走らせながら、想いは数十年昔にさかのぼっていく。
高校生活最後の夏山合宿も無事に終り、駅前で引率の先生からの訓示の後解散して、家までの約4キロの道を、重装備のまま歩いて帰らなければならないことにげんなりしながら、ぼんやりと線路沿いの裏道を行くと、闇の中に一ヶ所だけ、早目に店を開けたのか、コバルト色の光が斜めに射していて、通り抜けるのがはばかられる雰囲気がそこにはあった。
通り過ぎながらなにげなく店の中を覗いてみると、青い光の中に、光の青よりも更に青いドレスを着た女性が、小さな丸テーブルに頬杖をついて、瞬きもせずじっと表を見ていた。
一瞬視線がからまり、物問いたげなその女性のほとんどは、通り過ぎた後に脳裏に焼き付いた残像であったが、その残像は帰宅までの一時間を支配して離れなかった。
不思議なことに、その後何度も同じ道を通っても、その店がどこだったのか、どうしても分らなかった。
どうやら逢魔刻に開いた「夏への扉」の中を、偶然覗き見たのかもしれない。
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- 平成14年9月29日(日曜日)
【曇】
彼岸花が咲く頃になると、八雲神社前の広場には、様々の店が出て子供達だけではなく、大人達にとっても結構な楽しみを提供していた。
店のほとんどは一種の賃貸業で、今思えば全く馬鹿げた代物が、大真面目で置いてあったのを憶えている。
その一つに前輪の車軸がわざとずれている三輪車というのがあった。
その三輪車にはペダルが無くて、乗った者が動かすには、上手く弾みをつけて重心を前後に移動させながら、前輪を回すことが必要であった。
広場に引かれた歪な小判型のラインに沿って一周するための借賃が5円であったから、少し多目の小遣いを貰える子供なら、なんとか借りられる金額だったので、妙に大型の三輪車が、境内の南の石囲いの外側に、整然と並んでいる勇姿を発見すると、胸をときめかせながら5円玉を握りしめて列に並んだものだった。
それでも仲間の内の何人かは、どうしても親から小遣いが貰えなかったのか、悔しそうな顔をしながら列外に逸れていたが、そんな奴に限って、この手の運転技術は群をぬいている。
金には不自由しない奴等の中には、ヨチヨチ歩きの俗に言うミソッ粕が何人かいた。そいつ等の乗れもしないのにヨタヨタとコースを転がして行く姿を、溢れた連中が冷かし、それが悔しくて、途中で泣き出したり、無理が祟ってすっ転がり、顔を地面に擦り付けたおかげで、鼻汁と涙と汗と泥で真っ黒になって泣き喚いていたり、その賑やかさは底抜けであった。
いつもは夜店や露店でイカを売っている近所のおじさんは、どこから拾ってくるのか知らないが、変なアイデアの乗物を広場に並べて客を呼んでいることがよくあった。
子供でもリンゴ箱と判る細長い箱に銀色のペンキを塗って、底には、戸車をネジ止めしてある物を「箱スキー」と称して並べてある。
箱の中には30cm程の長さの棒が入っていて、これがストック代りらしい。
一回の借賃はやはり5円で、その代りコースを二周できる。
こんな物に誰が乗るものかと思っていても、必ず引っ掛かる奴がいて、結構商売になっているから不思議だ。
一番馬鹿らしかったのは、自転車のスポークに当るように下敷の切れはじを取り付けた、「自転車オートバイ」という触れ込みの奴だった。
自転車を走らせると、下敷がスポークに当ってブルブルと音を発てる。
だから、「自転車オートバイ」なのだ。
最初の客が楽しんでいるうちに、何人かの悪餓鬼共が家に駆け戻って、おやじのボロ自転車に同じ仕掛けを取り付けて、大威張りで同じコースを走り回ったものだから、店のオッサンのプライドは完全に潰されて、代りに悪餓鬼共の頭にコブたんが出来た。
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- 平成14年9月28日(土曜日)
【雨】
足利公園は、公園というより自然の風情そのままの丘陵に、申し訳程度の道が通っているといった印象の、いわゆる自然公園に近い所で、頂上附近にある水道施設のために、一部はかなり整備されていて、周辺の人が水道山と呼んでいる地帯こそ、屋根をはさんで対立する悪餓鬼軍団が、日常的にぶつかり合う、知られざる戦場であったのだ。
公園はほぼ全域に古墳が点在しており、中には石室が防空壕の代りとなっていたために、その後も子供達の遊び場や浮浪者の住まいに使われたりしていた。
もちろん、定期的に勃発する西軍との大戦争の時には、そこは司令所兼捕虜収容所兼捕虜の拷問所となる。
拷問の種類は、鼻の前で屁をぶちかまされる軽いものから、犬に顔中を舐められる刑、そしてBB弾というダイナマイトの孫のような花火を耳の穴に入れて、導火線に火を付けられるという極刑まで、様々の形が用意されていた。
しかし大抵は荒縄で身体中をグルグル巻きにされて、石室の一番奥に転がされているだけで、充分に効果的な拷問となった。
腹が減ってきて少し戦いに飽きてくると、お互いの捕虜を交換して一時休戦となり帰宅するのだが、捕虜達はいかに自分が残酷な拷問を受けたかを、我先に報告するので、話は実際の何十倍かになって、聞く者の魂を奮え上がらせるのだった。
屁は毒ガスに、犬はライオンに、トカゲはワニにいつの間にか変身し、中にはハラワタを引き出されて首に巻かれた奴まで出てきた。
本当に身も凍る恐怖を味わうのは、親の言いつけでやむを得ず、敵地へお使いにやらされる時であった。
この時ばかりは文字通り斥候のように物陰から物陰へと移動し、その姿を敵に発見されないように、細心の注意をはらいつつ、敵陣を突破しなければならなかった。
万一発見された時には、戦場とは比べものにならない程の仕打ちが待っているのだ。
それでも敵に捕まるようなノロマな奴は、まずほとんどいなかったし、たとえ捕まっても、ほとんどは生きて帰れたので、おそらく親は、自分の子供が地獄を見て来たことなど全く知らなかっただろう。
あの頃の子供には、明らかに子供だけの王国のパスポートが配布されていたようだ。
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- 平成14年9月27日(金曜日)
【晴】
午後6時半を過ぎると、辺りは既に闇に包まれ、秋が日に日に深まっていくのを肌で感じる。
田園地帯を走っていると、結構騒々しいバイクのエンジン音にも負けずに、道の両脇から、虫のすだきが追いかけてくる。
子供の頃、夕食もそこそこに近所の子供達と近くの公園に出掛けて、虫取りに夢中になったことを思い出した。
缶詰の空き缶を利用したがんどうを手に、虫の声を目指して藪の中に踏み込んで行く。すると、明りの中に様々の虫の姿が浮び上がり、それを素手でつまんで採るのだが、腰に付けた虫カゴが、すぐに満杯になる程の収穫であった。
獲物の大半は別名をガチャガチャというクツワ虫で、次はスイッチョンと呼ばれるキリギリス、そして本命の松虫と鈴虫がほんの少し獲れたり獲れなかったりであった。
少ない時でも10数人の集団なので、鼻をつままれても分らない夜の闇でも、全く恐くないし、出来る限り仲間から離れて、少しでも良い獲物を手にしようと、皆それぞれに牽制し合っているのが実状である。
約一時間の作業で、誰が言うでもなく集合して家路につき、本格的な品定めは明日の早朝となるのが常であった。
登校前のわずかな時間を使って、昨夜の戦果をお互いに見せつけ合う。
文字通り至福の時となるか屈辱の時となるか、その朝はさすがに飯どころではなかった。
その頃になると、皆が集まる空地に注ぐ秋の陽に、長く延びた影が踊っているのを見て、子供ながらに季節が廻ってきたことを実感して、妙に感傷的になったものだった。
家の近くの酒屋の灯の中にバイクを止め、缶ビールを一本買って家に向った。
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- 平成14年9月26日(木曜日)
【晴時々曇】
いつの間にか道端に彼岸花をよく見るようになったが、群生を遠くから眺めると意外に美しいので驚く。
多分人の手が入っていると思われる大群生地があるのだが、果して今年もあの見事な乱舞を見ることができるだろうか。
画室からの眺望の中にも、橙色の点々が増えてきて、紋白蝶の白と絶妙の対比を見せているのが面白い。
いつも通る道の何ヶ所かに、金木犀が植えられていて、可憐な花の印象とは裏腹の、濃厚な香りの中を通り抜けて行くのが楽しみである。
特に帰り路は夕闇の中を走るので、あの香りがことさらに妖艶さを増し、初秋の夜気と共に後を追って来る。
やはり金木犀は、昼よりも夜が似合うようだ。
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- 平成14年9月25日(水曜日)
【晴】
足利の外れにある高松町という町を流れる矢場川を越えると、館林市日向町に入る。
街道を少し南下すると、左側が広大なひまわり畑となり、背景に矢場川の土手と足尾山系を従えて、まさに絶景である。
道はやがて多々良川という小さな川を渡り、木戸という集落を抜けて行くのだが、
道幅が狭いので車での通行はご遠慮下さい。という立札の立っている道にバイクを乗り入れると、
その先は多々良川の土手道となり、大きな水門の脇を通り、水田の中に入って新道と合流する。
水門の上流はちょっとした池となっていて、この辺一帯の農業用水として活用されているだけではなく、絶好の釣り場ともなっているようだ。
この季節のスケッチロケハンはかなりきついが、それ程遠方でもない所に生まれて初めての風景が、まだまだ残っているのには正直驚きである。
秋から冬にかけての、新しいスケッチレッスンポイントと新作のモチーフがほぼ決ってホッと一息である。
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- 平成14年9月24日(火曜日)
【晴】
その弟子は師である仏陀に問うた。「師よ、果してあの世はあるのでしょうか」仏陀は無言でその弟子をガンジスの岸辺に導き、向う岸(彼岸)を指差した。広大なガンジスの彼岸は水平線の向うに隠れて見えなかった。
仏陀は弟子に言った。
「見てごらん。お前には向う岸が見えるかい」
「師よ、私には向う岸は見えません」
「そうだろう。でも向う岸があることは分るね。見えない彼岸をこっち側(此岸)から思い患っても仕方がないよ。彼岸のことは彼岸にまかせて、私達はこっち側此岸のことに心を傾けて生きることが大切なんじゃないかな」
浅学の身に、この話が書かれている経典の何たるかは知る由もないが、人間の叡智が到達し得る高みを、はるかに仰ぎ見る感がある。
秋の彼岸は間もなく明ける。
旧暦でいうと8月20日ということになるのだろうか。
かつてお盆を中にはさんで、春・秋の彼岸には、家の台所では女衆が賑やかにおはぎを作っていたものだった。
橙色に染まる夕靄の中、ガンジスの岸辺に立つ師弟のおぼろな姿を脳裏に浮べながら味わったおはぎの美味しさが懐かしい。
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- 平成14年9月23日(月曜日)
【曇のち晴】
午後6時少し過ぎ、画室の灯を消して外に出ると、いつも通る夫婦連れのウォーカーの、奥さんが手に持つ懐中電燈の明りが、ほろほろと揺れながら坂を下って行った。
一日一日と陽は短くなり、辺りはもう夕闇の中に沈んでいた。
南南西の空に宵の明星が輝き、谷全体を包む濃藍色のしじまを、野良仕事の帰り車のライトが切り裂いて行く。
少し早目の夕餉の香りが、どこからともなく流れてきて、平和な一日の終りを静かに告げている中を、兄の形見のバイクは調子良くこの身を運んで、既に行程の半分を過ぎていた。
市街地の、とある神社の前を通り、知人の家の側を抜ける時、その安否が心をよぎる。
あとは国道293号を無事に横断できれば家は近い。
画室からここまでに、三本の枝尾根を迂回し、我が家は四本目の枝尾根の懐にある。
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- 平成14年9月22日(日曜日)
【曇】
妻の父親の百ヶ日の法要と、彼岸の中日が重なったので手分けして務めを果すために、朝9時に実家に行き、一月に逝去した兄と父母、そして祖先の霊前に座った。
間もなく姉もお参りに来たので、しばらく歓談した後、姉の家に同行する。
心づくしの昼食にあずかり午後1時過ぎに、小雨の中を帰宅する。
今日はどこにも出ずに家にいるつもりなので、早目にうさぎ達の小屋を掃除して、エサと水を与えると、二時間近くの時間が経っていた。
墓参が済んだらすぐに帰宅する予定の妻が、未だ帰って来ないのは、おそらく会食の席が用意されていたのだろう。
気が付くと雨は本降りになって、バイクにかけたシートに当る雨の滴が、パラパラと軽快な音を立てている。
この様子だと、自転車で出掛けた妻は、しばらく帰れないだろう。
久し振りに「赤ひげ」のビデオを楽しんでいると、外に人の気配がして、ガサガサと荷物の音。多分妻が帰って来たのだろう。
土産にビールの2〜3本も、実家からくすねて来てくれれば良いのだが。
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- 平成14年9月21日(土曜日)
【晴】
ボブ・デュランも、ジョーン・バエズも、ブラザース・フォーも、そして彼等と魂を共有する全ての歌人達も、結局は吟遊詩人だったのではないだろうか。
その意味では日本にはたくさんの吟遊詩人がいた。
村々を流れ歩いた瞽女や津軽三味線弾き、祭文語りや覗からくりの語り手達。三河万歳や高野聖。
世界が吟遊詩人という名の職業の存在を許していた頃、人はその心に温もりと優しさを育てることが出来たのだと思う。
名は忘れたが、アメリカの画家の「吟遊詩人の宿」という作品を思い出す。
月の光が差し込む宿の一室のテーブルの上に、一本のギターとぶどう酒のビン、そして灯の消えた燭台が置いてある。
壁には古びた帽子と手提バックが掛けられていて、吟遊詩人の姿はどこにも見えない。
だが、画面全体からは気配はおろか、その息遣いまで聞えてくる程強烈に吟遊詩人の存在が漂ってくる。
もしかしたら人生は旅で、人は全て旅人なのだろうか。
だとしたら、その旅は楽しく幸運に満ちたものであって欲しいものだ。
そして、世界の片隅で細々と生き残っているわずかな数の吟遊詩人達の末永からんことを、祈らずにいられない。
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- 平成14年9月20日(金曜日)
【晴】
待合室のテレビに目を向けると、なんとブラザース・フォーが出演していた。
あまりの懐かしさに思わず「あ〃ブラフォーだ」と呟いてしまったら、前の椅子に座っていた御婦人が振り向いてニコッと微笑んだ。
多分、同じ時代を共有しているのだろう。
そのことを無言で知らせるために、こちらを振り向いてくれたのだと直感し、「まだ現役だったんですね」と話し掛けると、「本当にね」と小声で応えてくれた。
1960年代の始めだったか、その頃の世界の若者達の心を掴んでいたもののひとつに、フォークソングがあった。
折しもアメリカでは黒人公民権運動をはじめ、様々の社会矛盾に対するプロテスト活動が盛んとなり、フォークソングはプロテストソングとして、ジョーン・バエズ、ボブ・ジンジマン・デュラン、PPM、ブラザース・フォー、カーペンターズ、などによって全世界に発信され、「ウィシャルオーバーカム」邦名「勝利の日まで」は、やがてアメリカのみならず世界をも変えていった。
あの頃から40年近い年月が流れ、今、テレビのワイド画面から、あの澄み渡った歌声が聞えてくる。
その表情には、人が善意を宿して生きる時、こんなにも美しくなれるものなのだという証しがあった。
人は美しく老いることが出来るものなのだ。
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- 平成14年9月19日(木曜日)
【晴】
午後6時過ぎに画室を出て帰路につき、谷の西側の道に出て左に首を振ると、東の稜線のすぐ上に、弓張月が煌々と輝いていた。
澄み渡った大気を通して、大沼田の谷を照らす月の光に、目に映る全ての物は濡れ光り、浄めの夜が時を刻みはじめたのを肌に感じる。
行き交う人の多くは立ち止まり、透き通った光の中にあった。
枯草を焼く煙の匂いに重なって、草刈機のエンジンの音が流れてくる。
こんな闇の中でも、まだ野に出ている人がいるのだ。
何ヶ所かあるぶどう園の直売場の仮小屋も、まだ灯を点けて客を待っていて、橙色の光が道にこぼれている。
かなりゆっくりとバイクを走らせているのに、上衣を抜けて染み込む冷気が少し辛い。
間もなく彼岸。秋は既に足元を包んでいた。
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- 平成14年9月18日(水曜日)
【晴】
久し振りに晴れたと思ったら、陽は既に秋の気配であった。
裏の家の壁に当る日差しがかなり斜めにかしいで、なんとなく弱々しい。
それでも、Tシャツの上にトレーナーを着ただけでバイクを走らせても、それ程寒くはないのは、やはりまだ夏の名残があるせいなのだろう。
昨日はブルゾンを着ていても少し肌寒かった程であった。
画室に着く頃になると風が少し出てきたようで、南の軒下に吊るしたすだれがガラス戸に当って、耳障りな音を立てている。
昨日まで雨が降り続いていた割には、空気が乾いて透明なのが、画室の北から望まれる大望山の風景からもよく分る。
そういえばこのところセミの鳴き声がしていないようだ。
夏の盛りには決してなかった昼の蚊が、時々仕事の手を止めるのも、季節の移ろいを証しているのだろう。
何軒かのぶどう園も、そろそろピークを過ぎて、間もなく店じまいするらしい。
母屋には今年も紅生姜の大きな袋が届き、近くの産地からは連日のように見事な梨のお裾分けが、台所の隅にころがされている。
間もなく本家のザクロが熟して、石塀越しに赤い実を垂らすことだろう。
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- 平成14年9月17日(火曜日)
【雨のち曇】
休み明けと時間帯の問題で、かなり車が多い朝の道を、追い抜いて行く車の嫌がらせを受けながら、なんとか無事に画室に着く。
最近自転車やバイクを巻き込んでの大事故が増えていて、加害者の多くが女性ドライバーであるという話であるが、その現象は地域的なものなのだろうか。
軒を打つ雨音が時折激しくなると、視線を思わず庭先に向けて外の様子をうかがっては、また画室に戻るのを繰り返しているうちに、いつの間にか昼を過ぎていた。
この天気では訪ねて来る人もないだろうし、表の街道にも人の通る気配が絶えて、たまに走り過ぎて行く車の音が、やけに大きく響いてくる。
連日の雨のせいなのか、ほとんど枯れていた庭のナスとピーマンが、なんとなく生気を蘇えらせて、所々の葉がピンと張ってきている。
斜めに植えたネギのほとんどは、既に直立しているし、ミニトマトは新しい赤い実を付けているのが頼もしい。
明日あたり収穫してみようか。
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- 平成14年9月16日(月曜日)
【雨時々曇】
昨日が敬老の日ということなので、久し振りに叔母を訪ねる。
涙声で応待する叔母に詫びを入れながら、叔父の霊前に挨拶。
叔母の問うままに近況を報告し、心づくしの茶菓をいただく。
すぐにおいとまするつもりが何度か引き止められているうちに、午前11時を過ぎてしまったので、近々に再訪することを約して慌てて画室に向う。
外に出てみるとかなり強い雨となっていたが、合羽を着るのが面倒でそのままバイクを走らせた。
行程の半分程来たところでとうとう諦めて、神社の樹の下で合羽を身に付けたが、あまり意味がない程濡れてしまっていた。
昼少し過ぎに画室に着く。
14日か15日に画室を訪ねたいとメールしてきた人は、結局来なかった。
何事もなければ良いのだが、少し心配ではある。
この数日はほとんど雨が降っており、なんとなく肌寒いので少し厚着して来るのだが、仕事で動き回るとさすがにまだ暑い。
昼食にカップメンを食べたら一汗かいてしまった。
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- 平成14年9月15日(日曜日)
【曇】
森高千里の「渡良瀬橋」に出てくる角の床屋の前には、あの頃進駐軍と呼ばれた米軍の兵士が、カービン銃を肩に掛けて立っていたのを思い出す。
多分4歳か5歳の頃だったと思う。
汚れも継ぎ当てもないカーキ色の軍服を粋に着こなし、黒々と光るブーツを履いて、なんともスマートに立つ兵士のほとんどが、今思えばおそらく10代か20代前半の年齢であったのだろう。
通りすがりに目が合うと、必ずこっちへ来いとジェスチャーする。
近寄るとポケットから、その当時としては大変貴重であった、ガムやチョコレートを出して手に持たせてくれた。
自分達の親の二倍もあろうかと思える程の身長と、まっすぐな背の印象が鮮烈に焼き付いて今も離れない。
家のすぐ近くの神社の広場に、時々貸自転車の店が出た。
10台位のボロ自転車が馬鹿派手な色のペンキで塗られ、どういう訳かハンドルの中央にセルロイドの風車が付いている。
主なお客は休暇中の米兵で、公園通りと言われた穴だらけの道を全速力で走り回っては、さも嬉しそうに大声で笑っていた。
要するにまだ子供だったのだ。
それでも、勢い良く廻る風車の付いた極彩色の自転車はまるで雲の上の存在のような、憧れの対象であった。
一度米兵の運転するジープに乗せてもらったことがある。
わずか数百メートルに過ぎなかったが、子供だけでなく大人達にさえ、英雄として扱われたことを今でも覚えている。
それを知った長兄は、二度とそのような事が出来ないように片足を切り落とすからと言って兄弟達に手伝わせて、木台の上に足を押さえつけて斧を振り上げたものだった。
それ程強い反米感情の持ち主だった長兄が、今は英会話に夢中である。
長兄は間もなく80歳を迎える。
親子程年の離れた、別の時代を生きた兄である。
54年前の今日、ボロボロの軍服に大きな背のうを背負ったひとりの復員兵が、我が家を訪れた。
父に仕事を仕込まれ、この家から入隊したひとりの兵士の帰還であった。
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- 平成14年9月14日(土曜日)
【曇時々雨】
明け方に目覚めると、かなり激しい雨が降っていた。
数日前とは大違いの寒さで、毛布を頭からかぶっていても、まだ薄寒い感じが、秋が確実に近付いているのを実感させる。
画室に向う頃には、合羽を着なくても大丈夫な程の小降りになり、少し厚着をしてバイクにまたがる。
今日は土曜日のせいか行き交う車も少なく、学生達もあまり姿が見えない。
画室に着き、すぐにコーヒーを入れ掃除を済ませて塾生を待つ。
午前9時レッスン開始、午前11時終了。
下塗りの乾きが今ひとつだが、今日から着彩の行程に入る。
午後6時頃、また雲行があやしくなってきたので帰路につく。
帰宅途中古本屋に寄って何冊かの本を買ったが、およそ何年ぶりかの本の買物であった。
本は毎日読むのだが、このところ蔵書を繰り返し読み直してばかりで新たに買い足していなかった。
最近は遠藤周作の「深い河」と「深い河を探る」「女の一生」だったろうか。
今日は小松左京と池波正太郎を買った。
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- 平成14年9月13日(金曜日)
【晴のち雨】
画室近くまで来ると、谷を囲む山々の尾根が、晴れているにも関わらず霞んで見えない。昨夜来の豪雨でかなり湿度が高いだろうが、谷の底にいる限りそれは感じない。
画室に着くとすぐに井戸水を汲んで、コーヒーを入れ朝食を摂った。
淡彩画用の画紙を水張りする作業を済ませると、下描きの終った油彩画の下地を仕立て、それが乾くまでの間に描きかけの写生画に筆を入れ一息つく。
そろそろザクロの実が色付いてきたので、晴れ間を見て一軒置いた本家の庭に写生に行きたいのだが、あいにくの天気なので諦める。
午後6時少し前、なんとなく空模様を確かめに裏に出てみると、今にも降り出しそうな様子であった。
慌てて帰り仕度を済ませ、バイクにまたがって家路を急いだが、画室を出て間もなくかなりの降りとなってしまった。
仕方なしにバイクを止め雨具を着て再び走り出す。
降りは家に近づくにつれて激しくなり、結局雨具はあまり役立たなかったようだ。
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- 平成14年9月12日(木曜日)
【晴、夜に雷雨】
夕方、久し振りにいとこが来室する。
最近の社会情勢の狂気じみた変貌を、しきりに嘆いていた。
特に、ごく普通の人達が極めて自己中心的な傾向を日に日に肥大化させている事実に、強い危機感を持っているようであった。
それは交通マナーやルールといった、ごく日常的な形の中に際立っていると言う。
かつては社会そのものが、人間の行動を、ある程度規制する力を持っていたと思うのだが、現在ではもはや、その力はないのだろう。
とは言え、世の中には高い徳性を備えた人達や、善意に溢れた人達、正邪の区別を明確に持ち、その規範に忠実な人達なども大勢いるし、むしろそのような人達が圧倒的多数なのではないだろうか。
そうでなければ、この国はとうに滅んでいるだろうから。
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- 平成14年9月11日(水曜日)
【晴】
良きにつけ悪しきにつけ、人類はその歴史の中に様々の記念日を刻み付けてきた。
今日9月11日も、人類が存続し続ける限り、語り継がれていく日となった。
動乱の20世紀が終り、全ての善意の人々の願望と祈りが向けられた21世紀の最初の年にそれは起った。
テロはそれを実行する者と同時に、テロを生み出す土壌を作る者にも同等の責任があるという話を聞く。
難しいことはよく分らないが、相反する価値観が、一方の価値観を全面否定するところから生まれるのは、単なる憎悪と敵意と殺意だけなのだろうか。
ともあれ、犠牲となった2,800余名の人達の冥福を祈ると共に、その中に10余名の日本人の同胞がいたことを忘れてはなるまい。
そして、自らの職務に殉じた340余名の、ニューヨーク市の勇敢な消防士の勇気と愛と力に、心から讃辞とその魂の平安を願わずにはいられない。
暴力を正当化し肯定する全ての論理や思想が、地上から根絶する日が来ることを信じることで、この日の犠牲者への献花としたい。
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- 平成14年9月10日(火曜日)
【曇のち晴】
午後、出店先のモールに、新作を10点運び込んで展示する。
位置や高さを調節して取り付けていくので、終るまで二時間以上かかってしまった。
限られたスペースに無理矢理はめ込むような展示なので、決して満足のできるものではないが、まぁこんなものだろう。
間もなく肖像画の仕事が始まる。
完成までは写生にも行けなくなるし、緊張の日々が続く。
季節は夏から秋へと移る途中で、今だからこそ見ることの出来る表情が、周りの自然にも、街角にも、そしてそこかしこに溢れている。
あと何点かは是非描いておきたいものだ。
最近今年の一月に急逝した兄の形見のバイクに乗ることが多い。
少し遠くまでスケッチに行けるのがなにより助かる。
明日の午後は近くに写生に出掛けてみようか。
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- 平成14年9月9日(月曜日)
【晴時々雨】
親子程年の離れた長兄は、志願で軍隊に入隊した。
船舶工兵として本土と沖縄の間を往復するのが主な任務で、何度となく米軍の艦載機と交戦したそうである。
ねじり鉢巻にフンドシひとつ、くわえタバコで機関砲を撃っていた上官が、急に静かになったと思ったら、敵の機銃の直撃を受けて、頭部が吹き飛んでもなお、立ったままでいたという。
最後は広島で被爆直後の救助活動中に終戦を迎え、兄の戦争は終った。
復員後の兄は間もなく結婚、父と共に家業に勤しんだが、入浴の時や寝物語など、折ある毎に生々しい戦場の出来事や、広島で体験したまさに地獄のような現実を、繰り返し聞かされているうちに、いつの間にか、私の中には強い反戦意識が育っていったのだと思う。
しかし、極限と狂気の時代を共に生きた兄にとってのバンド・オブ・ブラザースの存在なくして、戦後の兄の人生はあり得なかっただろう事は、容易に想像できた。
まさに精神の崩壊をぎりぎりのところで抑え、生き永らえる力を与えてくれた存在こそ、バンド・オブ・ブラザースであったのだ。
あの時代、いかに多くの人々がその掛替えのない存在によって共に支え合いながら生きてきたのだろうか。何かが狂い始めた今でさえ、やはり、人は信頼するに足る存在であると信じたい。
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- 平成14年9月8日(日曜日)
【晴のち雨】
父が育てた職人の中に、狙撃兵として戦場で戦い、生還した人がいた。
兄達が空気銃で遊んでいた時に、「ちょっと貸してみろ」とその銃を手に取り、2〜3発撃つとすぐにクセを見抜き、あとは立ち撃ちで100発100中であった。
「俺は別になりたくって狙撃兵になったわけじゃねえよ。たまたま射撃の腕が、人並より少しだけ良かっただけで、嫌でも命令で選抜されたけど、今思えばよく生きて帰って来たと不思議でならねえよ」
話によると政どん(狙撃兵の名前)は敵の機関銃士を狙撃するのが主な役目だったという。
最前線の更に前方に身を隠して、何時間でも動かずにいるのだそうだ。
狙撃する相手に照準を合わせ、引金を引いた瞬間に体を回転させて退避した位置に、間を置かず、数発の銃弾が着弾するのだそうである。
狙撃した相手の事を考えた事はあるのかと聞いたら、その事は考えないようにしているという答が帰ってきた。
その時の政どんの、なんとも言えない表情を今でも忘れない。
自分だけはスコープ付きの銃を支給され、全ての待遇が特別扱いであったと言うが、それだけに孤独でもあったのではないだろうか。
父の死んだ日、政どんと共にその知らせを告げに2日間知己を訪ね歩いた時の事を、なぜか今思い出している。
小柄で甲高い声の持ち主であった。
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- 平成14年9月7日(土曜日)
【雨】
「バンド・オブ・ブラザース」の全10話をようやく観終る。
深い感動の波が全身を包んでいつまでも消えなかった。
戦争という狂気の現場で、共に生死を分かち合った者達だけが持つ絆の強さがどんなものなのか、想像することさえ僭越の観を禁じ得ない。
ただこれだけは言うことを許されるのではないかと思う。
それは、勝者にとっても敗者にとっても、共に死線を越えた者同士を結び付ける絆の強さに、変りがあろうはずがないということである。
子供の頃、父は小さな染色工場を経営していたが、それでも最盛期には20人近くの職人を雇っていた。
その中に、インパール作戦に従事し、敗走の末に連合軍の捕虜になり九死に一生を得た人がいた。
余人にはおよそ想像を絶する体験をしたためか、復員後も戦死した戦友が自分の背中から離れなかったそうである。
その人は自らにけじめをつけるために、知る限りの戦友の家を全国に渡って訪ね歩き、友がどのようにして死んでいったかを報告して数年を過ごした後に、ようやく背中に背負った全ての戦友の重荷から解放されたそうである。
戦場を体験した者にとっては、死者もまた忘れ得ぬ友なのだろうか。
改めて平和の尊さを噛み締める機会となった。
(以下サイト管理者)
戦争は人間と物資の浪費であり、戦争は人類最大の犯罪である。
戦争に正義はない。
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- 平成14年9月6日(金曜日)
【雨】
強雨の中を合羽を着てバイクで画室に向うが、走り出して間もなく雨が染み込んで下着を濡らし始め、着いた時にはびしょ濡れであった。
久し振りに汗をかかずに仕事が出来るのがありがたい。
10日に展示する作品点数が、予定より遅れているので頑張らなければと精を出す。
4点目の下描きが終り、5点目に取り掛ったところでこの雨である。
季節の変り目にありがちな体調の崩れもないのだが、少し風邪気味なのか、くしゃみと鼻水が出て困る。
もしかしたらアレルギーかもしれない。とにかく、くしゃみしながら絵筆を使うのはかなり難しい。
面白いのは、暑さにうだっている時は意外にくしゃみは出ないのだが、何か理由はあるのだろうか。
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- 平成14年9月4日(水曜日)
【晴】
午前7時母屋に着くと、勝手口の前にナスやネギ、ミニトマトなどの苗木が山積みになっていた。
何事かと思い聞いてみると義姉が夕べ勤務先から貰ってきたのだと言う。
画室の庭に植えなければ、ネギの他は捨てるのだそうなので、大汗をかきながら庭に植えたのだが、果して根付いてくれるのだろうか。
本当は前の畑のオバさんに教えてもらおうと思ったのだが、あいにく今日は来ていない。
明日は来るだろうから、状況を見てもらってアドバイスを受けよう。
それにしても今日は暑い。朝から何度汗をかいて、その都度裸になり体を拭いたことだろう。
やはり、力仕事をした余韻が、いつまでも残っているようだ。
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- 平成14年9月3日(火曜日)
【晴】
足利と館林の堺を流れる矢場川を越えて南下し、生まれて初めての土地に足を踏込んでスケッチロケハンを行った。
バイクでほんの20分程の土地であるのに、そこは未知の魅力に満ちていて興味が尽きない。
その中でも広大なひまわり畑が、や〃遠くに霞む足尾山系をバックに、黄色の花を咲かせている情景は目を見張るものがあった。
田園の中に島のように点在する森を見付けてはその中に入って行くと、ひっそりとした辻や寺や神社などが静まっている。
多々良川という名の川が、広い瀞を作っている場所に出会った時、意外と近くに足利市の建物が見えるのに気付き、改めて今いる場所が自分の生活地域のすぐそばであるのに気付かされた。
しかし、実際の印象は遠い他国に足を踏み入れているという実感でいっぱいである。
なんのことはない。わずか二時間弱の短いライディングなのに、世界はまだこんなにも未知の冒険に満ちている。
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- 平成14年9月2日(月曜日)
【晴】
今朝画室の戸を開けてみたら、とんでもない物が土間に置いてあった。
病院などでよく見かける、ステンレス製のボックスで、幅が約50cm、高さと長さが、110cm程の大きさで、重さはどう控え目にみても80kgはあろうかという代物である。
昨日の夕方に、母屋の姉から「いらなくなった薬箱を使うか?」という電話をもらったのだが、その時には、大きさはせいぜい片手で持てる程度の物と勝手に思い込んで是非欲しいと返事をしていたことを思い出した。
それでも悪戦苦闘の末なんとか上にあげて、最適と思われる場所に置いたのだが、あまりに立派過ぎてどうも持て余しそうである。
何しろ収納部分が60ヶ所もあり、アトリエボックスとして使うには高さがあり過ぎで、側に座るとすごい威圧感で迫ってくる。
これが木製品なら、もう少し柔かな印象になるのだろうが、当分の間妙な違和感と同居することになるだろう。
しかし使いこなせればたいした物になるのは明らかなので、先がすごく楽しみでもあるのだ。
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- 平成14年9月1日(日曜日)
【晴】
足利を過ぎて、隣の佐野に入ってすぐというより、通りを隔てて向う側が佐野という、文字通りの国境で、地域では「十九夜の辻」と呼ばれている場所のスケッチを、炎天下で続けていたら、どうにも喉が乾いて仕方がないので、目の前の万屋に飛び込んだところ、大歓迎をうけた。
自分の店が作品に描かれているのが、よほど嬉しかったのだろう。
スケッチを終えた後、請われるままに奥に招かれ、冷たい麦茶と梨のもてなしを受けた。
築後100年というその家は、全体が自然のセピアトーンで統一されていて、驚く程幅広い梁や長押が、堂々たる風格を醸しているだけでなく、建具や調度の全てが、時の重さを受けてしっとりと落ち着いた雰囲気を醸している。
およそ300坪程の見事な庭を含む約1,400坪の敷地には、北側を店にしている母屋を入れて四棟の建物が立ち、土地の名家の証をさり気なくみせている。
店の前の通りは、今でこそひっそりとした佇まいで、おそらく地元以外の人が道を行くことなど、年に数える程に違いないが、聞けばなんとこの通りこそ旧例幣使街道なのだそうだ。昔はこの街道を、すぐ北を流れる旗川を越えた所にある寺岡のお大師様へ参詣する人達がひきも切らず行き来していたという。
始めてこの風景に出会った時、言えに言われぬ懐かしさを感じたのは、もしかしたら、そんな歴史の残像がこの辻には今も生きているのかもしれない。
■アトリエ雑記は平成12年12月15日からスタートしました。
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